では。
確かに、ただ流されて消えるだけだったろう自分を掬い上げてくれた人ではあった。生命以外の何一つ、彼は救ってはくれなかったが、恩があるのは間違いない。
貴様は生きている限り私に従えと、何時だったかノインに命令を下した主は、彼を見下ろして令呪を突き付けている。その歪んだ顔を見て、少年は眼を細めた。
主、ダーニック・プレストーン・ユグドミレニアはつまりここで令呪を使うつもりなのだろう。大聖杯を奪い返すために。その過程で、駒の一つは使い潰してでも。
そういうことなのだろうと予測できた。できたが、胸に広がったのは恐怖ではなく哀しみだった。
自分とこの人とは一生―――――喩えどちらかが死んだ後でも―――――同じ眼で世界を見ることなどないと、そう悟ってしまったからだ。
「―――――令呪を以て告げる。デミ・アーチャー、“赤”のサーヴァントを殺すまで止まるな」
一瞬で令呪の魔力が全身に絡み付いた。強制的に一部パラメータが引き上げられ、ノインは槍を構える。
しかし、予想していたほどの強制力では無かった。一画だけで終わりなのかと思う。
―――――当然、そんな訳はない。ダーニックは更に令呪を向ける。
彼が見下ろすのは、この戦争の中で奇妙に螺子曲がり、用を無さなくなりかけている使い魔だ。
それがヒトの形をしていることも、まだどこか幼さを残した少年であることも、ダーニックにとってはただの器の話でしかない。
器にも心があると、彼は終ぞ認めはしない。彼の世界の常識からすれば、認められる訳がないのだ。
ダーニックにとっては、彼の中に英霊がいること、一級品の使い魔であることにしか意味はないのだ。どの道、自分たちと同じ魔術師ですらない。使われるために造られた生命たちの一つなのだから。
故に、使い潰すには頃合いでこれ以上残しては、禍根を生むだけだと彼は判断した。
「重ねて告げる。
不穏に令呪が赤く輝き、そこで初めて少年が苦悶の声を上げた。槍を動かそうとする己の手を、己で押さえつけようと藻掻いている。
それすらダーニックには、不可解で不快だった。
あの使い魔は自分の意志で第二の宝具の展開を封印している。彼には制御不能であり、展開すれば無差別に人を殺し、加えて使う度自我を蝕むものであるからだ。
これまでいくら危機に陥っても、解放しようとしなかったのはそのためである。
その意志も、ダーニックには邪魔である。
聖杯への願いすら持たぬ使い魔が千界樹の悲願を阻むことなど、許されることでは無い。
「ダーニック、貴様。あの者に何をした?」
空中庭園内に移り領土を離れてしまったことで知名度の恩恵を失った“黒”のランサーは、“赤”のランサーに打ち込まれ、劣勢を強いられていた。
それでも“黒”のランサーは、一撃を加えて“赤”のランサーから距離を取ると冷え切った声でマスターの名を呼んだ。
彼の敗北もまた、ダーニックには許容できるものではない。自らの夢が潰えること―――――それだけは避けねばならないのだ。
「何をしたとは異なことを。勝つための手を打ったに過ぎません」
少年が槍の石突きを庭園に叩き付ける。そこから吹き上がるのは淀んだ瘴気だった。
生あるものを食らう黒い禍つ風が、庭園内を吹き抜けた。戦っていたサーヴァントたちも一瞬手を止めるほどの気配が漂ったのだ。
渦中の少年は、それを押さえつけようとまだ足掻いていた。
陸に引きずりあげられた魚のように喉を鳴らして喘ぐ少年の意志に反して、黒霧は押し留められない。霧は彼に纏わり付く。
ニ画の令呪には抗いようがないのだ。僅か数秒で抵抗は終わった。
少年は禍々しいそれを背負い、槍の切っ先を“赤”のアーチャーに突き付けた。
彼の眼は虚ろで、ただ空っぽの殺意だけが膨れ上がっている。なるほど正気を失わされたのか、と“赤”のアーチャーは矢を向ける。
“黒”のアーチャーは振り向いて痛ましげに眉をひそめ、彼と対峙している“赤”のライダーは鼻を鳴らした。
彼からすれば、
”赤”のライダーと同じく、”黒”のランサーもまた不愉快にダーニックを睨みつけた。
「王よ、貴方もお分かりでしょう。そのままでは“赤”のランサーには勝てない。ならば貴方も―――――宝具を解放すべきでしょう」
「……貴様、余に何と申した。あれは使わぬ。使わぬと言っただろう、忘れたか!喩えここで死すとも、決してな!」
忘れているのはお前の方だと、使い魔風情が何を抜かすのかと、ダーニックは手の甲に刻まれた令呪を憤怒に燃える“黒”のランサーに向けた。
「令呪を以て命ず。ランサー、『
「ダーニック――――――貴様ァァァァァァァッ!」
自らを化け物へと変える宝具の発動へのランサーの激怒もダーニックには問題ではない。
彼の王として貴族としての誇りが今を生きる我々一族の悲願よりも優先されて良い筈がないのだ。
所詮はサーヴァント、使い魔なのだから。
「余は吸血鬼などではない……無い……のだ!」
ランサーもまた苦悶の声を上げた。
『
「いいや、お前は吸血鬼、吸血鬼ドラキュラだ!貴様の誇りなど知るものか!」
だがそれこそダーニックの狙いだった。絶大な力を持つ吸血鬼こそを望む。誇り高い護国の鬼将はここに不要となった。
ダーニックは右手を掲げ、更に唱える。
「重ねて命ず、大聖杯を手に入れるまで―――――」
瞬間。
―――――虚空に、鮮血が散る。
刃物が肉を断つ鈍い音が響き、何かがダーニックの足元に落ちた。
それは、二画の刻印の刻まれた手首、そして一振りの短剣だった。
「な……に……?」
理解できない。何故、足元に自分の手首が転がっているのか。
あまりの事態にダーニックの動きが止まる。その瞬間、“黒”のランサーが動いた。
既に英雄としての面影はその面貌より消え去っている。彼は怒りの咆哮を上げて跳躍。そのままダーニックの心臓を穿った。
「貴様の……思い通りには……ならぬ!」
“黒”のランサーの腕がダーニックの胸から引き抜かれ、噴水のように胸の穴から血が吹き出す。倒れながらも、ダーニックは見た。
あの使い魔が、こちらを見上げている。何かを投げたばかりのように片手を上げ、腰には空の鞘がある。
そして、狂気で塗り潰されていたはずの赤い眼は、いっそ哀しげとすら言える光を宿してダーニックを見ていた。
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―――――頭が割れそうなほど軋んでいた。
殺せ、喰らえ、飲み込んでしまえと宝具を解放した途端に囁く声が頭に響く。
『殺せ、止まるな』
ノインがダーニックから与えられたのは、突き詰めればそのような単純な命令である。
主からかけられた二画の令呪は、ノインに中身のない殺意を掻き立てた。
それに従い、意識が吹き飛びかける。殺意に体を預けてしまいそうになる。その刹那に、主が王を嘲る声が聞こえた。
―――――所詮は使い魔。貴様の誇りなど知ったことか。
やはりそうだったのか、と思った。自分でも不思議なくらい、ノインは驚きはしなかった。
貴様の誇りに期待する、というもう遠くなった日の“黒”のランサーの声が過り、今しがた彼が上げた悲惨な絶叫が耳の奥に突き刺さった。
そこからのノインの動きには、ほぼ意識が働いていなかった。
滑らかな動きで鞘から短剣を引き抜く。振り被り、ダーニックの手首を切り落とすように短剣を投擲した。
狙いは過たない。英霊の力を借りれば容易い芸当だった。
令呪が刻まれたまま、ダーニックの手首が千切れ飛んで石ころのように落ちる。発動を妨げられた令呪が明滅するのが、跳躍した“黒”のランサーの手刀がダーニックの胸を貫くのが、見えた。
見上げれば、ダーニックと視線が合う。手刀が引き抜かれた反動で、彼の体はもんどりうって広間へと落下する。
ノインは、正面から彼の顔を見た。
驚愕で大きく見開かれたダーニックの眼がどす黒い憤怒に染まり、しかしそれを上回る速さで彼の眼から生命の光が消えていく。
それを見届けるまでがノインの限界だった。
ノイン・テーターという少年としての思考が消え、殺す為に最適化された生き物へと中身が上書きされる。
「面妖な……!」
“赤”のアーチャーが彼目掛けて矢を放つがそれは宙で掴まれ、無造作に投げ捨てられる。
虚ろになった血の色の眼が、アーチャーを捉えた。
そして彼女の眼の前から、ノインの姿が消える。
「ッ!?」
アーチャーは反射的に後ろへ跳んだ。それは幸いだった。突き出されたノインの槍が床を穿り、石の床を粉々に砕いていたのだ。
先程までとは違う。一撃が格段に重くなっていた。
「―――――」
明らかに正気を失くした眼でノインは敵を見る。“黒”のランサーのように叫びを上げることなく、ただ静かに少年の中身は壊れていた。
「それは、お前の器に過ぎた力だ」
“赤”のアーチャーが下がるのと入れ替わりに、静かに“赤”のランサーが少年へ槍を向けた。
通常ならば自分では決して敵わないとノインは判断し、撤退した敵だ。だが今の彼にその判断は下せない。
敵が変更されたと認識。ノインは絡繰人形のような動きで“赤”のランサーへと槍を向けた。
「……お前が戦うというならば是非も無い」
“赤”のランサーは槍を構え、ノインも同じく彼を見る。
だが踏み込んだ瞬間、ノインの方が動けなくなる。彼を止めたのは、“黒”のランサーの杭である。
吸血鬼になり英雄としての得物を失った彼は、杭で以てノインを閉じ込めた。手足を貫くのではなく杭で彼の周りを囲い込み、動きを止める。
杭に閉じ込められた中心で、戸惑うようにノインは辺りを見回した。その様子は、檻に入れられた獣の動きに近い。“黒”のランサーは、仔細構わずに近寄ると少年の首を掴み小柄な彼を持ち上げた。
「ランサー、何を……」
声を上げかけるのは“黒”のアーチャー。だが、ランサーはそちらを見ることなくノインの首を握り、意識を失わせる。
力の抜けた少年からランサーは手を離し、ノインは床に倒れ込む。彼の手から槍が落ちて転がる乾いた音が響き、同時にサーヴァントの姿が解れた。
「……」
サーヴァントたちは一様に動きを止めた。悲痛な顔をする“黒”のアーチャー、仮面で表情の見えない“黒”のキャスター、そして無表情なまま立つ“赤”のランサーへ、目を向けた。
誇り高いヴラド三世であるとは言い難い姿形の彼は、ただ重い息を吐いた。
奇妙な膠着状態になった広間に、そのとき足音を立てて駆け込んで来た人影が一つ。
聖旗を持ち、鎧を付けた金髪紫眼の少女である。ルーラー、ジャンヌ・ダルクだった。
広間には彼女を狙った“赤”のランサーにバーサーカーを押し付けたアーチャーもいたが、彼女は一切彼らを見ることなく、佇む“黒”のランサーのみを注視していた。
かつてルーラーがミレニア城塞で邂逅したときの誇り高い貴族の風貌は、最早彼にはなかった。隠し切れない牙が口元に生え、黒い外套はずたずたに切り裂かれたように無残なものになっている。
護国の英雄としての得物だった槍も消え失せ、ただ彼の影に不気味に揺らめく杭だけが宿っていた。
それでもルーラーは、彼を“黒”のランサーと即座に見抜いた。
彼女の眼は、心臓を抉られたランサーのマスターとその傍らに落ちている令呪の刻まれた手首と短剣。―――――そして床に倒れている少年を見た。
「これは……」
ここで何かがあった。
聖杯大戦にとって致命的な何かが生誕しかけ、しかし誰かに防がれて生まれ出ることはなかった。ルーラーはそれを察した。
「遅かったな、聖女よ」
「貴方はヴラド三世……。その姿は」
「裏切りの結果だ。生前と変わらん幕引きになるとはな」
ルーラーは痛ましげに眼を伏せる。彼女は察していた。この“黒”のランサーは伝説の吸血鬼である。
聖なるものを忌み嫌い、陽光を浴びれば塵となり、そして人を吸血する魔性のもの。それに堕ちてしまっては元には戻れない。
命令を下したマスターがすぐに命を落としたためか、ランサー本人の意思の強さゆえか、彼の英雄としての自我はまだ僅かながら残り、その部分はルーラーに死を望んでいた。
異教徒である”赤”のランサー、ライダー、アーチャーたちに怪物として滅せられるより、同じ神を信じる聖女による浄化を彼は望んでいた。
それにこのような吸血鬼の姿に堕ちた以上、心臓を貫かれ、首を落とされた程度で簡単に死ぬとは限らないのだ。
先ほどまで戦っていたランサーはそれを察したのか、何も言わずに槍を下げている。
“黒”のランサーは促すように頷き、ルーラーは前に出た。
聖女ジャンヌ・ダルクは、吸血鬼を詠唱により滅することはできる。”黒”のランサーの望まない怪物としての終わり方になるが、やむを得なかった。
「この、ような……結果に、なったこと、面目無い。アーチャー、そしてキャスターよ」
「……考えを変える気はないのか?ランサー、こう言っては何だが、その姿の君は強いだろうに」
稀代のゴーレム使いは、ただ事実だけを述べる。残った自我をかき集めて言葉を述べたランサーの瞳に、束の間激情の焔が灯り、しかしすぐに消え失せた。
彼は首を振った。その気はない。自分はここでこの世を去るのだと。
今はまだ、彼には英霊としての自我がある。だが、時が経てば確実に失われる。吸血鬼に完全に飲み込まれてしまうのだ。
「……後の戦いは引き受けましょう」
任せる、と言うようにランサーは”黒”のアーチャーに向けて頷いた。
ダーニックがここで倒れた以上、次のユグドミレニアの長は”黒”のアーチャーのマスターであるフィオレだろう。
アーチャーとてそれは分かっていた。
ルーラーが歩み出、ランサーに向けて右手を翳した。
”主の恵みは深く、慈しみは永久に絶えず”
ルーラーの澄んだ声で洗礼詠唱が響く。魔性のものを浄化し無に帰す聖句に、ランサーの体からしゅうしゅうと煙が上がり始めた。
魔のものとして浄化され、彼は昇天していく。吸血鬼の汚名を晴らしたいと望みながら、ここで彼は吸血鬼として滅びる。
”貴方は人なき荒野に住まい、生きるべき場所に至るべき道も知らず”
聖女の声はただただ朗々と空間に響き渡った。一つの一つの言葉が、吸血鬼をこの世から引き剥がしていく。
失意も無念も、胸が焦げ付きそうなほどにある。それでもこの敗北は受け入れなければならなかった。
”深い闇の中、苦しみと鉄に縛られし者に救いあれ”
足元で眼を閉じて倒れたままの少年を、ふと彼は見下ろした。いずれは切れるだろうが、令呪の縛りはまだ有効である。少年は、目覚めればまた自動で敵を殺す一個の機構のままだった。
何にせよ、この配下の目覚めより自分の消滅は早い。少年に何か言葉をかける機会は二度と訪れないだろう。
何を想い、何を以てこの痩せ犬のような眼をしていた少年が、ダーニックに叛逆したのか問うてみたい気もした。
”―――――
詠唱が完成する。
彼の意識はばらばらに分解され、無になっていく。
そうしてヴラド三世であったサーヴァントは、静かにこの世を去る。後には、ただ一掴みの灰だけが残った。
ほんの僅かな時間、誰もが沈黙する。
―――――静寂を打ち壊すように、広間に靴音が響いたのはそのときだった。
広間の奥の暗闇から、何者かが姿を現す。その気配をいち早く察したのはルーラーだった。
「何者です!」
旗の穂先を構えるルーラーに対し、暗闇から歩み出たのは銀にも似た白の髪と褐色の肌の穏やかな風貌の少年だった。
サーヴァントたちの視線を受け、彼はゆっくりと微笑んだのだった。
誇りが二つ。人間が二人。
彼にはどちらも遠く、尊い。けれど彼は片方を選び片方を殺した。
act-6で少しだけ出た第二宝具。不完全発動。