では。
ジャンヌ・ダルクという少女は平凡な村娘だった。
フランス、ドンレミ村のダルク家の子どもとして生まれて信心深く育ち、神の声を聞いて戦場へ向かい、故国を救い、すべてに裏切られながらも誰をも恨むことなく火刑に処され、聖女となった。
啓示を受けたとは言え、村の少女だった彼女がそのようなことを本来ならできるはずがない。
できるはずがないことを成したから、彼女は奇跡の
彼女の逸話を始めて聞いたときは、そこそこに衝撃を受けたと思う。
人々のために、幸せな生活を捨てる。故国を救うために、人が異常になる戦場に自ら飛び込む。
ノインにしてみれば、彼女は自分たちからは最も縁遠い人だなと、そう思った。
自分は顔も知らない人々のために戦えない。幸せな生活と家族があるなら、絶対に捨てたくない。
ルーラーとして顕現したジャンヌ・ダルクを見て、一層そう思った。聖女にして奇跡の乙女なのに、ジャンヌ・ダルクという少女はそんな仰々しさを一片も感じ取れないほど、愛に満ちて親しみやすかった。
その少女は、今、ノインの目の前で蒼い顔で立ち竦んでいた。
今表に出ている彼女はレティシアではないと、勘で分かる。
青い顔になる理由は何かと考えて、すぐに思い当たる。十中八九、トゥールとの会話を聞かれていたのだ。
ロシェのことがあり、トゥールとの会話に集中して、周りの気配を感じ取る感覚が鈍くなっていたとは言え、ルーラーが近くにいたことに気づかなかったのは不味かった。
「さっきの話……聞いてたのか?」
「……はい」
やっぱりか、とノインは頭をかいた。ルーラーが聞いていたなら、当然レティシアも聞いていたのだろう。
彼女が表に出てきていなくて良かったと不意に思った。
ルーラーは青褪めたまま口を開いた。
「他に、このことを知っている人はいるのですか?」
「……トゥール以外なら、元マスターとアーチャーだけだ」
他は誰も知らない。ライダーも、ジークも。
手の中でゴーレムを弄びながら、ノインはともかくも歩こうとルーラーを促した。
城を出るまでも出た後もルーラーは無言で、それがノインには痛かった。知られるつもりはなかったのに、あんなところにいるなんて巡り合わせの運が悪いとしか言いようがない。
「本当に、どうにもならないのですか?」
固い足音が響く石畳の上を歩き始めて、どれくらいたったろうか。
ルーラーが尋ね、ノインはトゥールに答えたときと同じ声で答えた。
「戦うのをやめても変わらない」
少しでも良いと言えることがあるとすれば、ゆっくりと体が弱っていくような最期では無いことくらいだろうか。
多分死ぬ直前まで、体は変わらないのだろう。ある日突然電池が切れたように動けなくなって、終わるのだ。
「そんな……」
ルーラーは口元を手で覆った。
「戦いが始まる前から終わりは決まっていて、最初からこうなるんだ。……だから、あまりあなたたちには嘆いてほしくない……かな」
「……」
歩きながら、ノインはルーラーを振り返った。聖女は黙って唇を噛み締めていた。
彼女は多分、分かって納得してくれるとノインは思っていた。ルーラーであるジャンヌ・ダルクは兵を死地へと送り出し自分も共に死地を征く指揮官でもあったからだ。
ただ彼女の見聞きしたものはレティシアにも伝わるから、言いたくなかったのだ。
「……何となく、気づいていました。ノイン君の状態は、謂わば人の手による奇跡です。けれどこの世に無償の奇跡など存在しません」
「……まぁ、元々不自然だものな」
隠しておきたかったことなのに何となく察していたという面々が多すぎるなと、ノインはため息をついた。
「そもそも人間に英霊を降ろそうなんて考えた時点で、不自然で馬鹿な計画だからな。真っ白で無垢になるよう育てた子どもたちなら、成功するとでも思ったんだか」
珍しい乱暴な口調で言って、ノインは暗い空を仰いだ。
完全に無垢な存在など、無理に決まっている。
英霊を降霊するための子どもらにだって、何かをしたいという望みはあった。
外で遊んでみたいとか、風を感じてみたいとか、青空を見てみたいとか、そんな他人から見ればささやか過ぎるものだったけれど、子どもらにとってあれらは確固とした欲望で純粋な願いだった。
子どもらがそう望むようになった時点で、真に無垢なものが欲しかった研究者たちの思惑など破綻していたのだ。
それでも研究者たちは無理をして、実験を強行して、生まれたのは精神が子どものままのデミ・サーヴァントが一体だけ。
精神も強化された人造英霊を目指した者たちにしてみればそれは失敗で、おまけに派手に実験をやり過ぎて自分たちは一族の当主に粛清されたのだ。
愚かだなとしか言えないお粗末さ。その粗忽さから自分たちが生まれたのだから笑う気にもなれないが。
英霊を人為的に創り出し、人類繁栄のための生命をこの世に生誕させる、という肩書だけはまともに聞こえた試みは、そうやってたち消えた。
「貴方が受け入れていることは分かりました。でも、レティシアやジーク君たちは哀しみ、怒ります」
「そう言われてもな。ここを切り抜けないと駄目なのは分かってるだろう?俺もレティシアもジークも生きている人間である以上、天草四郎の人類救済とやらが成就したら、必ず巻き込まれる。でも聖杯による人類救済なんて、俺は信用できないよ」
人類繁栄のためにと創られたデミ・サーヴァントだからこそ、天草四郎の願いは何とも信じ難かった。
「それは……でも……」
「俺たちにはセイバーもいない。ランサーやキャスターもだ。皆消えてしまった。戦力差をこれ以上広げたらどうしようもなくなる。ジャンヌ・ダルクならば分かるはずだ」
ルーラーが瞳を見開く。
レティシアと同じ顔でそういう表情をされると、ノインにはざくりと胸が痛かった。
慈悲深い聖女の面影がずれて、下から普通の少女が見えた気がした。
しかし、それは一瞬でルーラーはノインを真っ直ぐに見た。
「決心は変わりませんか?」
「変わらない。俺のために俺は戦うよ。やっとそうしたいと言えるようになったから」
天草四郎の思惑を恐ろしいと思う心、ルーラーの依代として戦場へ赴くレティシアと、ライダーに、彼のマスターとなったジークを案じる心。
それらすべてを引っ括めて、ノインは自分の意志で戦う道を取った。
ルーラーは目を伏せる。
最も好いたきょうだいたちと永遠に別れ、冷たい世界にいたことで壊れていた精神を、この数日の触れ合いと戦いの中で、驚異的な速さで組み直し取り戻した。
それは、生命の残り少なさに急き立てられてこその速さなのだ。
残り時間のないことを骨身に沁みて理解しつつ、その中で少年は精一杯に生きようとしている。
けれど己が己として生きるために、戦いの中へ進むというのは余りに矛盾している。その矛盾に、多分当人も薄々勘付いている。
それでも、ノインには自分で自分の選択した道を進みたいと願う思いのほうが、死を恐れる心より強いのだ。
夕焼け色から紅へと変わった眼を見て、ルーラーはふと思う。
―――――レティシアではないけれど。
どうしてもっと優しい世界に、この少年は生まれてくることができなかったのだろう。少女に出会うことができなかったのだろう。
無駄と知りつつ、ルーラーは問いを思い浮かべずにはいられなかった。
しかしそれも、一体誰に向けた問いになっているのか。
ノインにか、或いは彼らを生んだ研究者たちか、それとも何も悪いことなどしていなかった子どもらに、そういう定めを背負わせた世界、そのものにだろうか。
ルーラーの目の前のこの少年はこうやって生まれて、火花のような速さの一生しか知らないで駆け抜けなければならない。
それでも火花として輝けただけ幸せなんだと、少年は言うのだろう。
彼の魂を慮って目を伏せはしても、彼を憐れむことを彼女は絶対にしない。それは何よりの侮辱になるからだ。
ルーラーは目を瞑る。
彼女の中の少女は、黙していた。静かにそこにいて、ルーラーを通して目を逸らさないで少年を見て、考えていた。
その一途さはルーラーの胸に重く響いていた。
「……では、ノイン君。ジーク君とライダーのところに行きましょうか」
「あ、ああ」
少し意外そうに、ノインは目を見開いていた。恐らく、まだルーラーに追求されると思っていたのだろう。
「貴方の意志を私もレティシアも尊重します。城で聞いたことをライダーたちには言いません」
「……ありがとう」
「それより、貴方の方こそ隠し事に向いていないのに大丈夫なのですか?」
貴方は隠し事が下手だと、ルーラーは人差し指をぴんと立てて言った。
無表情だからこれまでは隠し事をするのもどうにかなったのだろうが、表情が柔らかくなった分、見破られやすくなっているのだ。
「む……」
根が素直なのだろう。半ば冗談めかして言ったルーラーの言葉に、ノインは真剣に困り顔になった。
その彼を誘って、再びルーラーは歩き出す。
変化していると、ルーラーは隣で首を捻りながら歩む少年を見て思った。そんな表情を、数日前に牢で会ったときの彼ならば浮かべることはできなかっただろう。
この少年も、ジークも、それにレティシアも、皆変わっていくのだ。生きている限り、彼らは変わり続ける。
彼らの一人ひとりは弱くて、世界を恐れている。それでも彼らはその中を生きていくのだ。決して変わらぬものと変わらないものを心に懐きながら。
不変の英霊となった少女には、彼らは眩しく愛おしかった。
それだけに、ルーラーの胸の底はじりじりと炙られていた。
ルーラーは彼らの力に頼っている。
レティシアの身体を借りねばルーラーは現界できず、“黒”と“赤”の戦力差はノインの言うように歴然で強さに貪欲にならざるを得なくなっている。
“赤”の彼らを撥ね退けるだけの力がないことに、ルーラーは横を歩くノインに見られないよう唇を血が出るほどに噛み締めた。
「ルーラー、あんまりあんたも思い詰めすぎないほうが良いよ」
急にノインはルーラーを見ずに軽い調子で言った。似つかわしくない気楽な雰囲気が一瞬面に出た。
しかしルーラーが確かめる前に、ノインの雰囲気は元に戻っていた。ルーラーが目を見開いているのを、彼は不思議そうに紅い眼を瞬かせている。
「どうかしたのか?」
「……いえ。でも今、眠っていませんでしたか?疲れているんじゃありませんか、ノイン君?」
咄嗟に言ったルーラーの言葉をノインは疑った様子もなく、鼻の頭をかいた。
「居眠りなんて、したことないんだが」
「色々ありましたから、疲れているのでは?拠点についたら睡眠をたくさん取って下さい」
「そうさせてもらう。ベッドがあると良い。床で寝るのにも慣れたけど、やっぱり普通の寝床のほうが良いから。あと、ライダーに蹴られたくないし。あいつの寝相、凄く悪いんだ。よくジークのところに潜り込んでるし」
「そんなことしてたんですか、彼は……!」
頭を抱えてから、ルーラーはこほんと咳払いをする。それからベッドくらいありますよ、と明るく言った。
そのまま、二つの人影が街を進んで行く。
ルーラーもノインも互いに特に口を利くこともない。かと言って気づまりな沈黙かと言えばそういうこともない。街を歩くということそのものを、ノインは楽しんでいる風だった。
しかし、どうもすんなりとは拠点へは辿り着けないらしい。
人気のない道に差し掛かったとき、ばらばらと数人の男たちが飛び出してきて二人の行く手を塞いだ。
全員にやにやと笑みをこぼしている。それを見て、何とも嫌な笑い方だと呟きながらノインは眉をひそめていた。
「ここらのごろつきか」
「そのようですね」
ルーラーは嘆息した。
中身はともかく、ルーラーは華奢な少女でノインは細っこい少年に見える。言ってしまえば、二人とも与し易い外見なのだ。
だから想定内と言えばそうなのだが、こうも直接的に絡まれてはため息をつきたくなった。
ノインも似たような感じなのか、ひたすら面倒そうに眼を細めていた。しかし今にも飛びかかりそうに左脚をわずかに下げている。
「ノイン君、あの……」
「分かってるさ」
言った端から、軽く石畳を蹴る音が響いたかと思うとノインの姿が男たちの前から消え失せる。
そのまま何が起こったか分かる間もなく、彼らは一人残らず地に倒れた。
その背後にノインは降り立つ。やったことは至極単純で彼らの後ろに回って、手刀で首を軽く叩くのを五回ばかり繰り返しただけだった。
何の問題も無く無力化できたのに、ノインの表情はあまり明るくなかった。
「ノイン君?」
「あ、すまない。何でもない。……でもあんまりこういうことはやりたくないからさ、屋根の上を行きたいんだが良いか?」
屋根の上を歩いていればまさか絡まれないだろうから、と三角屋根の連なる街の空を指差して、ノインは言った。足元に倒れている男らを見る眼は複雑な光を宿している。
ルーラーは頷いた。
「そうですね、気配を消していけば街の皆さんにも見つからないでしょう」
「足音もな」
二人は軽々と跳んで屋根の上へ跳び乗る。
地面からはかなりの高さだが、彼らにはどうということもない。
道を横切るのは猫くらいなもので、彼らもかなりの速さで向かってくる人間二人を見れば、驚いて脱兎の如く姿を隠した。
そのまま進めば、ユグドミレニアが用意した拠点に着く。庭園に向かう三日後にはここから旅立つことになるのだ。
一見、他の家屋と何の違いもないように見える。地面に飛び降りて、ルーラーは窓の灯りがまだ点いているのに気がついた。
ノインが叩くより前に、内側から勢い良く扉が開いた。
「やぁやぁ待ってたよ!ちょっと遅いからさぁ、迎えに行こうかってジークと言ってたところなんだ」
「そんなに子どもじゃないぞ、問題ない。ライダーこそ何事もなく着けたのか?」
「……まぁ、少し絡まれた程度だから許容範囲だ」
扉で鼻の頭を打たれそうになったのを避けたノインが問う。
ライダーの後ろからジークがひょっこり現れて答えれば、彼はたははと視線を明後日の方向に逃した。
「うん。だけどそれもボクが何とかしたからね!問題ない問題ない!さぁ入ろうよ。ルーラーもおいで」
手招きするライダーとジークに導かれ、ルーラーとノインも明かりの溢れる玄関に足を踏み入れる。
彼らの背後で扉がぱたんと音を立てて閉じたのだった。
コミュ回は後数話。それが終われば飛びます。
最近リアルが立て込みだしたので、更新速度が落ちます。感想返信も遅れていてすみません。全て読ませていただいています。