個室の中、握りしめたままの白紙の便箋が、じっとりと汗で湿っていく。
(ど、どうすれば良いんだ!?助けを呼ぶか、彰君を逃さなければならないのはわかっているが…)
わかっているのに、身体が動かない。
選択肢はあった。だが、そのどれもが「何かを捨てる」ことを意味していた。
仲間か、自分の尊厳か、あるいはー覚悟そのものか。
扇には選べなかった。どれも大切だったからだ。どれも捨てる覚悟が、なかった。
「なあ、扇さんよ。アンタのところに紙、あるか?」
そんな扇の耳に彰の声が、やけに軽く響く。
「い、いや……あると言えばあるが……」
「同じ状況か。わかるぜ。大切なものってのは、簡単に手放せねぇよな」
「彰君も……そうなのかい?」
「当たり前でしょうよ。俺だって人間だ」
(いや方向性!!)
マオは心の中で絶叫した。だがこの場で、まともなツッコミができる人間は他に存在しないので当然の如く流される。
「でもな」
彰は続ける。
「気づいた時にどうするかで決まるんだよ」
扇は静かに頷く。完全に人生の話だと思っている。彰はトイレットペーパーの話をしていた。
「じゃあ…彰君は、どうやって選んで—」
「勘違いしてんなぁ、扇さんよ」
彰は鼻で笑った。
「選ぶんじゃねぇ。もう選んだんだよ」
ガチャリ、と彰の入っていたトイレの扉が開く。
それが答えだった。
「アンタの迷いはわかる。だが、扇さん。俺は先に行く」
トイレから背を向ける彰。トイレの中にいる扇には見えないが、その背中は妙に大きく見えた。
選ぶべき時に素早く決断した男の強さを扇は感じた。
だが
ポタ…ポタ…
彰が歩いた床には赤い滴が落ちていた。
(こいつ、紙やすりで拭きやがったぁぁぁぁぁ!!??)
マオのツッコミが、心中で吹き荒れる。
この彰という男は経費のために尻を犠牲にしたのである。マオからすれば、信じられない選択だった。
その選択は別の個室に座っていたギルフォードにも伝わり、声を発する。
「敵ながら見事と言わざるを得ない…だが」
今度はガチャリ、とギルフォードのトイレの個室の扉が開く。
「戦姫コーネリア様の側近を……舐めないでもらおうか」
彰に続くようにギルフォードも個室から姿を現した。
だが
ポタ…ポタ…
ギルフォードが歩いた床にも赤い滴が落ちる。
(こいつも紙やすりで拭いたんかいぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!)
個室トイレ前でケツを紙やすりで拭いたアホ二人が対峙した。
「へぇ…ブリタニアにも骨があるやつが居たか」
彰は隠し持っていた刀を抜く。
「最後に名前を聞いてやるよ。お前の名は」
それに合わせてギルフォードも刀を抜く。
「ギルフォードだ。貴様も名前を聞いておこう。貴様の名は?」
「桐島彰だ」
「桐島彰…お前とは違う形で会いたかった」
「こちらこそ…な」
彰の言葉にギルフォードが答えると、互いに静かに構える。その瞬間は永遠のように長く感じた。
声しか聞こえていない扇は一人額に汗をかく。
(ど、どうすれば良いんだ!?このままでは彰君が危険だ!だ、だが、この状態の俺に何ができる…!?)
どうやって彰を助けることができるか考えていた扇を尻目に、マオは別の理由で汗をかいていた。
ギアスなど関係なく、二人の姿を見ていたマオには現状が正しく理解できていたからである。
「ギルフォード。武士の情けだ。一太刀目は譲ってやる。来いよ」
「余裕のつもりか?舐められたものだ。こちらこそ、一太刀目は譲ってやる。かかってこい」
指をくいっと動かして挑発しているように見える。だが、よく見ると違う光景が見えてくる。
「いや、お前が来いよ。俺の方が強いから」
「勘違いするな。私の方が強い。貴様が来い」
二人とも中腰の上に、戦う前から汗だくなのである。
(いや、お前ら動けないだけだろぉぉぉぉぉ!!紙やすりでケツ拭いたせいで痛みが抑えられないんだよ!戦う前から二人とも戦闘不能になってんだよ!)
しょうも無さ過ぎる理由にマオはツッコミを口に出すのをギリギリ堪えていた。
現状に加えて、二人の思考から継続して尻が痛いという思いが伝わってきているから余計である。
「何?ビビってんの?ブリタニアの騎士様がビビってんですかぁ?」(早く来いよ、コイツ、マジで!ケツが痛いんだよ!早く休みたいんだよ!)
「ビビってるのは貴様だろう?挑発だけして動く勇気も無い…か」(犯罪者の分際で何をチンタラしてるんだ、コイツは!早くしろ!私に何よりも必要なのは今はオロナインだ!)
(もうコイツらブリタニアもレジスタンスも関係ないよ!ケツのことしか考えてないよ!)
(凄い!…言葉だけで彰君はブリタニアの騎士を圧倒している…!)
(何も凄くねぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!現実を見ろ扇要ぇぇぇぇぇ!!痩せ我慢続けてるだけだぞ、コイツら!?)
若干、キャラ崩壊しながらマオはツッコミを続けているが、当然そんなことに気づかない彰とギルフォードはひたすら言い合いを続けている。
「大体なぁ…お前は大袈裟なんだよ。お、俺の紙やすりはマジで半端なかったから… ザラザラ通り越してほぼ岩肌なんだよ。お前の紙やすりとは摩擦の次元が違うんだよ!」
彰は額から滝のような汗を流し、中腰のまま自身の所にあった紙やすりをギルフォードに見せつける。
「ハッ、笑わせるな! 私が使用したのは鉄板すら削り取る一品! その破壊力、貴様の比ではない!」
ギルフォードも自身の所にあった紙やすりを彰に見せつける。最早、斬り合いではなく、どちらの紙やすりが痛かったかの話にシフトしていた。
(どうでも良いわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!そんなことで勝負するくらいならさっさと薬を買ってこい!)
マオのツッコミを他所に、彰とギルフォードはどちらの紙やすりが痛かったかを話し続けていたが、決着がつく気配がなかった。ケツは限界に達しようとしていた。
「そ、そうだ、こうしよう。他の第三者に俺たちの紙やすりのどちらが痛かったかを判定してもらうってのはどうだ?」
「ほ、ほう。悪くない提案だ。だが、どうする?そこの男はお前の知り合いだろう。判定者に相応しいとは言えん」
ギルフォードはチラリと扇の個室に目を向けるが、そんなことは彰もわかっていた。
「んなこた、わかってんだよ。だから、他のやつに頼むに決まってんだろ?」
「なるほど、そうか」
(…ん?…他の奴?)
その言葉にマオの全身に悪寒が走る。最悪の予感が頭をよぎったからだ。
(い、いやいや、まさか、そんな訳が)
だが、そう考えたマオの目をアホ二人の目がしっかりと捉えていた。
忘れているかもしれないが、このアホ二人は無駄にスペックが高い。素人の覗き見に気づかない訳などなかった。
逃げるしかない。そう考えたマオは逃亡の姿勢に入るが圧倒的に遅かった。
「まあまあ、待ちなよ、お兄さん。どこ行こうとしてんだ?」
出口へと忍び足で向かっていたマオの首根っこを、彰の手がガシッと掴む。
同時に、逆側の肩をギルフォードの手が押さえつけた。素人の逃亡術など、この二人の前には無力だった。
「どこへ行く気だ、不審者?まあ、良い。ちょうどいいところに現れてくれたな」
「な、何なんだよ急に! 離せ! 僕はただ……!」
「そう焦んなって。このお兄さんなら、俺の紙やすりの実力がどれだけやべぇか分かってくれるからね。ねぇ、お兄さん?」
急に距離を詰め、激痛に顔を歪ませながらも必死に爽やかな笑顔を作ってくる彰に、マオの全身に最悪の鳥肌が立った。
「何も分かっていないな貴様は。このお兄さんなら判るはずだ。私のやすりの『重み』の違いがな。さあ、遠慮せず客観的な第三者として判断してくれ」
ギルフォードまでが、冷汗をダラダラと流しながら恐ろしい圧迫感で意味不明なことを伝えてくる。最早、脅迫である。
(嫌だぁぁぁぁぁぁ!! 怖すぎるんだよバカどもが!! 捕まえるためだけに痛みを我慢して動いてんじゃねぇよ!!)
マオが必死で暴れ、逃げ出そうとするが、この二人を振り解ける訳がない。
抵抗虚しくケツを向けられると、二人は切り札を出すデュエリストのように懐から紙やすりを取り出す。
「これが俺の…紙やすりだぁぁぁ!」
「騎士の矜持、極荒やすりの威力を知るがいい!」
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアア!!???」
マオの絶叫を他所に、扇は一人個室で思案に耽っていた。
(そうか…彰君は俺に教えようとしてくれたんだ。第三者の犠牲や痛みを前にしても、なお退かず、自らの正義のために戦い続けるその覚悟を。
俺が手紙一枚の重みに悩んでいた間、彼はすでに次の戦いへと足を踏み出していたんだな)
あまりにも的外れで壮大な誤解を深めた扇は、ひとり深く頷くと、少しだけ清々しい表情で己の胸に誓いを立てた。
(ありがとう、彰君……! 俺も自分の矛盾から逃げない。自分の汚れを言い訳にせず、黒の騎士団で何ができるのか…俺は何がしたかったのか…もう一度考えてみるよ!)
(違う! 全然違う! 現実を見ろ扇要ぇぇぇぇぇ!! ただのアホ二人がケツの痛みに狂って暴れてるだけだぁぁぁぁぁ!!)
激痛に悶絶し、完全にノックアウトされたマオの魂の叫びだけが、血と惨劇のトイレに虚しく響き渡っていた。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
なお、全てが終わった後に入ってきたおっちゃんから投げ入れられたトイレットペーパーを使って扇はケツを拭いてます。