「……――以上を持ちまして、新入生代表のご挨拶とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました」
イイハナシダナー。
カンドウシタナー。
はい。すみません。嘘です。ごめんなさい。きれいさっぱり聞いていませんでした。
なんとなく周囲の連中が呆けている様子を見てそう思っただけだ。俺自身は、まったく別のことに思考を取られていたから、壇上の彼女が何を言ったのかは微塵も耳に入ってこなかった。
それでも彼女の答辞がいい話なのかもしれないとわずかにでも思ったのは、周りの視線が一つも動くことなく彼女に集中していたからだ。顔を動かさずに確認できるだけでも、相当数の生徒が感動に瞳を潤ませている。思わず引いてしまったほどに。
本当、なんだこれと言いたい。宗教家の演説でもこうはならないに違いない。いや、知らんけど。
中学の入学式とは違うということか? 集会になる度に耳にした「はい。皆さんが静かになるまで五分かかりました」って説教はもう聞くことはないのか。寂しいようなどうでもいいような。まぁ、後者なんだが。
果たして三年という月日は、少年少女が言われるまでもなく人の話を聞ける大人になるに十分な時間だったのです? いやいや、中学の卒業式だってここまで静寂に包まれていたりはしなかった。先生の話も、送辞も答辞も、ほとんどの連中が意識もそぞろだったはずだ。少なくとも自分はそうだった。今もそうだ。変わっていない。あれ? 成長していないのは俺だけってこと? 泣きたい。
高等学校入学式の新入生総代を務める、壇上の彼女(名前は知らない)を見つめる新一年生達(俺除く)。
彼らがそうなっている原因は彼女の言葉に感銘を受けたから、などということはない。それくらいは話を聞いていなかった俺でもわかる。
その並外れて可憐で神秘的な容姿と、透明感のある声。堂々とした立ち振る舞いの中にある、新入生らしい初々しさ。新入生に限った話ではなく、男女すらも関係なく、壁際に位置する教師陣まで感嘆を息を吐く。その場にいるだけで注目を集める稀有な美少女を目の当たりにして、抱くのは敬意か憧憬か。
とにもかくにも、講堂に集った入学式参列者全員が、たった一人の十五歳の少女に目を奪われていた。呑まれていたのだ。天は二物を与えずなんて諺は、ただ綺麗ごとだといういい見本だった。
この世に平等も公平もない、なんてことは今更な話だ。
そうして高等学校入学式は、俺がドン引きするほどの雰囲気に包まれながら、規律正しい進行によって、何一つ淀みなく終了と相まったのである。
新入生総代の名前は、確か、し……し……なんとか、さん。今後、彼女に関わることはないだろうし、関わってもいいことあるはずもない。だから覚えておく必要もない。エリートの俺は、エリートらしく、孤高に生きるのである。何故ならエリートは理解されないからこそエリートであり、誰とも相いれないからこそエリートだからだ。
孤独っていうな。ぼっちっていうな。
知ってるわ。
だがこの時、俺は気づくべきだったのだ。
気づけなかったのは、少なからずこれからの高校生活に浮かれていたからか。我ながら性懲りもないとは思うが、新生活に一切の期待を持たずにいられる人間はそうそういないと思う。思いたい。だとしても、己の迂闊さに呆れるしかないわけだが。
中学同様にぼっちであることを目指すのであれば、そもそも彼女のことを思考してはならなかった。関わることはないという結論は俺が勝手に抱いた希望的観測であり、意思表示であり、高校生活を穏やかに過ごすための目標だ。
だがそういう思考に至ってしまった時点で、逆説的に彼女を意識しているのと同義だったのだ。
眠りたいと思えば思うほど眠ることが出来なくなる感覚といえばいいのか。
別段、彼女に惚れたというようなことはない。美人を見るだけで惚れるなんてこと、エリートの俺がするはずもない。もう懲りたもの。
だから入学式で彼女には関わるまいとした俺の決意は、ただのフラグでしかなく。
そしてフラグというものは、得てしてポキポキ折られるものなのだということをもっと早く気付くべきだったのだ。
「司波深雪と申します。よろしくお願いいたします」
「お、おう…………」
同じクラスの隣の席でした。
無視しても、応答しても注目される位置である。勝つことも負けることも許されない。さすがは「高等」学校。ぼっちになるにもハードル高いということか(意味が違う)。
「同じクラスになれて光栄です、司波さん!」
而して俺が名乗るよりも先に、彼女と繋がりを持ちたい、つまりは校内トップカーストに入りたい連中に押しやられ、哀れぼっちエリートの俺は、自分の席にすら座れなくなったのでしたとさ。まる。
いや、自己紹介苦手だし、関わらないっていう意味ではよかったのかもしれないけどね。
ただ彼女に近寄ることに夢中で俺に気づかず蹴りを入れてくれやがった
***
国立魔法大学付属第一高等学校。
現代における魔法使い「魔法師」の育成を目的とした国立の高等専門教育機関のうちの一つだ。国策で設立された魔法科高等学校は日本全国に九つあり、そのうち、俺が入学した関東・東京にある第一高校、通称・一高の定員は一学年二百名で構成されている。さらに成績優秀者から一科、そして二科と別れ、明確に区別されているわけだが。
「…………」
入学式開始前に、校内をうろつきまわって見つけたベストプレイスで昼食のパンをかじりながら、俺は遠く食堂から聞こえてくる騒動に耳を澄ましていた。別段、聞こうと思って聞いているわけじゃない。聞こえてくるだけだ。盗み聞きなんてしてないよ、うん。
「二科は一科のただの補欠だ!」
「そうだ自重しろよ! 二科は所詮スペアだ! 一科と二科のけじめはつけるべきだ!」
まぁいろいろとツッコミどころの多いセリフではあるのだが、彼ら――おそらくは一科生――の言葉を聞いた時の感想は「あぁ、やっぱりか」でしかなかった。
補欠だなんだと彼らは言うが、一科と二科の学校の制度上の違いは指導員の有無であり、教員の個人指導を受けられることだけだったりする。カリキュラムは同じだ。しかし現実には校舎は別れ、制服にもわかりやすい区別が設けられている。
それを区別と取るか、差別と取るかは個人の裁量次第だが、まぁ前者と取るやつはいないだろうな。それは二科をウィードと蔑称することからも明らかだ。一科生を、制服のエンブレムに八枚花弁が刺繍されていることからブルームと呼ぶのに対して、刺繍のない二科生のことを花の咲かない雑草と揶揄してウィードと呼ぶ。それらは表向きは禁句とされる表現であるが、半ば公然の事実として誰もが意識する呼称でもある。
そして成績優秀者しか一科には入れない現実を鑑みれば、一科生が優れているのは事実なのだ。
だからこそ先ほどの言葉にも繋がる。
入試一回こっきりの成績順で何を威張るというのかは甚だ疑問だが、自信を持つこと自体は悪いことではないはずだ。けれどそれが、何をどう拗らせれば成績が劣る二科生をスペアと見下す方向へ向かうのか。
いや、わからないでもない。
彼らは不安なのだ。恐怖しているのだ。正しい意味で自信を持ってなどいないのだ。期待はされていても将来を約束されているわけでもない。魔法師として花開く未来を夢見ていながら、その夢が、ふとしたことで儚く消えるものだと知っているのだ。
そうして、自分達の誇りとしている土台が絶対盤石なものではないことに気づいているからこそ、自分たちより下の者を見て安心したいのである。
自分は彼らとは違うと、思いたいのだ。
そしてそれはとても恐ろしい考えだ。
何故ならそこにあるのは、理屈ではなく感情でしかない。
故に、中学時代からカースト底辺に位置している俺の感性が告げている。強く、警告を発している。
彼らは傲慢であることをやめないだろう。
何故なら優れていることを誇りにしているからではない。自分より下がいて、見下せる存在がいることが誇りになるからだ。
だからこそ思う。
勉強、死ぬほど頑張って一科に入ってよかったと。
そしてやはり彼らと関わり合いになるのはやめようと。
「…………」
そう、思っていた時期が俺にもありました。つい昼休みのことだけどね。てへぺろ。
「…………」
自己ツッコミを入れて、その内容の痛さに自己嫌悪をしながら前方を見やる。
「魔法科高校は実力主義なんだ。その実力において、ウィードであるキミらはブルームの僕たちに劣っている。つまり、存在自体が劣っているってことだ」
誰かは知らないが、一科生らしき男子のセリフである。その堂々とした物言いを向けらえた二科生の反応は、怒りと呆れが半々のようだった。さもありなん。
だって痛い。あれは痛い。
ずっと後ろのほうで、無関係に聞いているだけなのに俺も痛い。中二病は卒業したはずだ。なのに腕がじくじくと痛むぜ、何故だ。
っていうか、なんで校門に陣取っているんだ。もっと端っこでやってくれ。帰れないじゃないか。
「優秀な魔法師は優秀な魔法師と繋がってこそ、能力を伸ばせるというものです。そう思いませんか? 司波さん」
「そうだ、二科生風情が思い上がるな!」
「身の程をわきまえろよ、劣等生!」
改めて思う……本当に、あの連中は高校生なのか。
思春期特有の暴走っていう意味では、完全に病である。魔法師は力を持っているが故に、変な万能感に侵されやすいとはよく聞くが、しかしその自覚がないとこんな形で衆目にさらされることになるわけだ。
よかった。俺はぼっちで。だってばれてないし。
しかし困ったことになった。彼らがどかないと帰れない。いくら何でも自分は関係ないからと言って脇をすり抜けてさようならが出来るほど神経図太くないつもりである。むしろ繊細なのだ。ぼっちは傷つきやすいのである。ホントよ?
どうしたものかと思っていたら、何やら危険信号が灯り始めた。一科生の先頭に立っていた男がCADを抜き魔法を行使しようとしたのだ。攻撃魔法? いくらなんでも犯罪だ。何考えているんだ。中二病。
CAD。魔法行使のための電子デバイス。現代版魔法使いの杖と言えばいいか。それを抜き、人に向けるということは、対人の攻撃魔法を行使しようとしたと同義だ。だからこそ信じられない。そんな短慮を起こす馬鹿が一科生として入学し、自分を優秀な存在として宣っているとか何の冗談だ。
一高の校則として、自衛を目的とした魔法行使以外は禁止されている。それを知らないはずはない。それ以前に犯罪行為だ。頭に血が上っているに違いないが、そのことに思い至らない時点で魔法師としては失格だ。
「お?」
だが魔法が発動するよりも、二科生の女子が一科生の手にあるCADをはたき飛ばすほうが早かった。踏み込むのは一瞬。ふるった伸縮警棒を手に「この距離なら自分のほうが早い」と言葉通り実現して見せた女生徒の挑発に、一科生のほぼ大半が切れる。
あり得ないくらいにぷちっと切れた。
いやいや、君たちちょっと沸点低すぎでしょう。あらやだ、最近の高校生は怖いのねー、とか言っている場合じゃない。
「もう、本当に勘弁してください」
漏れ出た言葉は誰に向けたものでもない。強いて言うなら神様だ。いるとは思ってないが、関わらないと決めた途端に出会うトラブルに関しては、もう確実にフラグ回収しに来ているとしか思えないのである。
くそう。ぼっちにハードル高い事させるなよ。
念のため繰り返すが俺は無関係である。まったくもってノータッチ。連中だって、これっぽっちもお呼びじゃないはずだ。
だが見て見ぬふりをして、後でいちゃもんを付けられることの面倒くささと比較した場合、今ここで止めておかないと後が大変になるのも自明なのである。
いきなりだが、とある不良男子にクラスメイトが絡まれている場面を見てしまった友達の友達の話をしよう。彼はクラスメイトのピンチを救うでもなく、自分に火の粉が降りかかるのを恐れてその場を走り去ってしまった。ところが見捨てられたことに気づいていたクラスメイトが、翌日彼をクラスで責めた。なぜ助けなかったのかと。それはクラス全般に広がり、教師すら巻き込んでの処刑の場へと変貌した。
クラスメイト達が彼を非難する。土下座しろ! この人でなし! 謝れ! 最低! 死ねばいいのに! キモイ! 八幡! いや待て、八幡は悪口じゃねぇ! と反論したけど聞いてくれる人は誰もいなかった――って、見捨てたのは俺です。ぼっちに友達なんていません。ごめんなさい。
つまりソースは俺。うん、今思い返しても、確かにクラスメイトを見捨てた俺は最低だ。だから暴力行為を見て見ぬふりをする行為が倫理にもとる行為だ、なんて正義感ぶったことを言う気なんて毛頭ない。
ただ見捨てた後にやってくる連中が面倒なだけなのだ。そして面倒を避けることは、ぼっちがぼっちであるために必須な能力なのである。
CADは使えない。使えば気づかれる。気づかれる前に連中を鎮静化させなければならない。ならば俺が出来ることは一つしかない。魔法を行使しようとした連中も、それを迎えようとした二科生も。すまん。二科生の諸君。喧嘩両成敗ということでよろしく(何を?)
「頼む、
告げた言葉は彼らの誰よりも早く世界に浸透し、瞬きよりも早い刹那の瞬間に魔法が発動する。
現代において高速化されたはずの魔法発動など比較にならない速度で空間を支配下に置く、俺が『雪乃』と呼んだ、彼女こそが俺の魔法。
比企谷八幡の
あらゆる事象は雪乃の吐息で凍り付く。
絶対零度の女神が織りなす白一色の空間。それは世界の終わりをシミュレートした概念魔法だ。その閉ざされた空間では、女神の許しなく何者をも自由を得ることは適わない。
すべてを拒絶し、すべてを否定する。
「…………」
なお、俺は断じて中二病ではないのであしからず。
***
大層なこと言ってはみたものの、雪乃が凍らせて否定したのはその場にいた連中の『怒気』であり、そこから生み出された『暴走行為』である。それが系統外魔法と呼ばれるかどうかなんて講釈的なことは現時点ではどうでもいいのだ。
重要なのは、彼らが今の俺の横やりで落ち着きを取り戻したという一点に尽きる。結果がすべてだ。手段は問わない。目的を達成すること優先せよ。
いい言葉だ。いつか言ってみたいリストに追加しておこう。
さて。その結果としてどうなったかというと。誰も彼もが怒気を抜かれ、自分たちが何を騒いでいたのか理解できないような顔で戸惑っているようだった。それは攻撃しようとしていた一科生側だけでなく、応戦しようとしていた二科生も変わらない。
唯一、司波深雪の隣にいた二科の男子だけが、一科生を通り越し、その後方に関係ない顔して位置していた俺のほうに視線をやっていたのが気になった。
何? あいつ。もしかして俺が魔法を遣ったことに気づいた? まさか。
だがその考察は、別の方向からの第三者によって遮られた。
「貴方たち、何をしているの!」
「風紀委員長の渡辺摩利だ。魔法不正使用の疑いで双方に事情を聴きます。全員、付いてきなさい」
冷たい声色で告げた上級生に、呆然としていた一科生が言葉もなく硬直した。それは二科生も変わらない。
足早にこの場に現れたのは、上級生と思われる二人の女生徒だ。
一人はショートヘアの、男装すればさぞかし同性に持てそうな出で立ちの、風紀委員と名乗った彼女。凛とした立ち振る舞いはいかにも風紀委員然としていて、取り締まりのためのCADを構える姿は実に様になっている。
もう一人はふんわりとしたロングの小柄な少女である。渡辺と名乗った先輩が女子としてはそれなりの身長を有しているからか、対比で余計に小柄に見える。整った容貌に均整の取れたプロポーションは、美少女という表現の代名詞と言ってもいいのではないだろうか。
どちらも綺麗なお姉さま、という意味では目の保養になる二人だが、今は一年生の暴走にきつい視線をくれていた。
これはあれだ。説教コースだな。ざまぁ。
「…………」
あれ? もしかして俺も? 違うよね? 誰か違うって言って。関係ないよ、俺。
でも怖くて聞けない。どうしょう。
と内心であたふたしていたら、例の二科生男子が前に進み出て、いろいろと言い訳を始めた。
やれ悪ふざけだったとか。やれ森崎一門(誰のことだ?)のクイックドローを見てみたかったとか。
すごいなあいつ。俺も屁理屈にかけては右に出る者はいないと自負してはいるが、こうまで説得力に欠ける言い訳は初めて聞いた。しかし信じられないことに先輩方はその言い訳を――正しくは、あまり大事にせずに収束したいとする彼の思惑に乗っかったようだった。
ゆるふわお姉さんのほうは、彼のことを「達也くん」と名前で呼んでいたから、どうも既知の間柄のようだ。その関係は俺には知る由もないが、彼の言い訳を言葉の通り呑み込めるだけの背景があるようだった。
もしくは、彼の言った「起動式を読み取れる」という言葉に、何かしら含むところを感じたのかもしれない。
「そちらの君は? 魔法を使ったように見えたのだけど?」
「ふぇひゃっ?」
まったくもって不意打ちでこちらに会話が投げかけられたせいで、俺の心が飛び跳ねた。
身体も飛び跳ねた。顔が引きつった。八幡はダメージを受けた。ライフが0になった。弱さこそ八幡クオリティ。
メンタルが豆腐でごめんなさい。
「あ、ああ、いや、驚かせたなら謝る、すまない」
声をかけたほうまで驚き慌てた様子に申し訳なくなる。コミュ障の俺に会話するときは用法・用量を守って正しい手続きを踏まないとダメなんですよ、と言いたい。引かれるだけだから言わないけど。
「い、いえ……大丈夫です」
「そうか。で? 君はどうなんだ?」
「は? え? 俺は無関係ですよ? たまたま偶然居合わせただけの赤の他人です」
「いやいや、それはちょっと苦しいだろう」
案の定、渡辺風紀委員長殿は信じていないようだった。くそ、やっぱり俺も同類に見られていた。俺の目は確かに腐ってはいるが、心は綺麗なのである。あそこの連中と同一視しないでいただきたい。
問題は、それを証明する手段が何一つなく、あったとしてもそれを説明できるだけの手腕があるはずもなく、言葉にする行為のハードルの高さに打ちのめされるしかない状況だということだ。
ところが。
「いえ。渡辺先輩。実際、彼はさっきここへ到着したばかりですので、本当に無関係かと……」
「……そうなのか?」
おいマテ。何故、彼の言葉は信じて俺の言葉は疑うのだ。
あれか? 美男子だからか? 顔が整っていることが正義なのか? 俺みたいな濁った眼をした男の言葉なぞ聞くも堪えられないとでもいうのか。
いやいや、冷静になれ。彼は俺を擁護してくれているのだ。それに乗っかるべきだなのだ。がんばれ達也君とやら。俺の平和な放課後は君の手にかかっている。いや、しかし、イケメン爆ぜろと思ってしまう心に嘘はつけない。俺は正直者でいたいのだ。
「そ、そうか。わかった。疑って済まない」
俺の内心の葛藤は、普段の淀んだ目をさらに深く暗く沈み込んでしまったらしく、その濁り具合に若干引きつりながら渡辺先輩は不承不承うなずいたのだった。
「まぁ、そういうことなら不問とするが、騒ぎを見ていたなら止めるか、風紀委員を呼ぶかしたらどうだ」
「どっちにしても間に合いませんでしたよ。気づいた時にはもう騒ぎになってましたし。俺、今日はCAD持ってきてないですし」
たとえ持っていても、魔法を不正使用すれば今度は俺がしょっ引かれる図式になる。
止めろというのは無茶ぶりではないか。
「そ、そうなのか? え? CAD持ってない? 授業はどうした?」
「見学しました」
「見学って……」
多分に呆れの含んだ渡辺先輩を引き継ぐように、もう一人の先輩が顔をのぞかせる。
あ、そういえばこちらの名前知らないや。別にいいけど。
「その手にある鞄は?」
「昼食時に読む文庫本をいくつか」
「……本?」
「情報端末ではなく?」
「は、はい……」
驚くことだろうか。という気持ちは隠して、俺は鞄のチャックを開く。特に問題のある物は入っていないから、見せても何の支障もない。鞄の中には、朝、読もうと思って選別した文庫本が三冊入れてあった。
「うわぁ、本当に紙の本ですね。珍しいです」
「そうですか? 結構出回ってますよ?」
「重くないですか? 電子データが主流になったのであまり見かけなくなりましたし」
「学術書ならそのほうがいいですが、娯楽としての小説とかは紙のほうがいいので」
一体、俺は先輩相手に何を語っているのか。
「……も、もういいですか?」
「そうだな。問題ないよ。ああ、いや、問題はあるのか?」
え? 何かある?
「明日はCADは忘れずに持ってきなさい」
「はい。すみませんでした」
これはもう何一つ反論出来ない俺のミスだ。が、今日の騒ぎを思えば、逆に良かったのではないかという気もする。変に疑いをかけられずに済んだのだから。
「話が脱線してしまったな。今回のことは大目に見るが、以後このようなことはないように。さて、我々はもう退散するとしよう。君たちも帰りなさい」
そう言えば、と立ち去る寸前に渡辺先輩が顔をこちらに向けた。正しくは、達也とやらのほうに。
「君の名前は?」
「1-E、司波達也です」
「ふむ…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「おい、聞かれているぞ?」
「え? 俺のこと? なんで?」
本当になんで? 俺何かした? いや、実はしたけど。ばれてないはずじゃ? もしかしてお前の嘘なんてわかっているんだぞアピールなのか。
それとも実は俺のこと? ……ないな。絶対。
渡辺先輩の切れ長の瞳が、無言のままこちらを射貫く。やっぱり、怖いよこの人。
「1-A、比企谷ひゃ……八幡です」
噛んだ。恥ずかしい。死にたい。帰りたい。
「……そうか。覚えておくよ」
いや、本当になんでだよ。忘れてください。お願いします、って言えたらいいな。言えるかな。言いたいけれど、言えないな。年も力も足りないなぁ、でも今すぐ言いたい――って、やめよう、不毛だ。
帰って寝よう。それがいい。
「はぁ……」
先輩たちが立ち去った後、ため息が出てしまった俺は悪くないはずだ。そのはずだ。うん。俺は悪くない。世界が悪い。
「司波達也!」
せっかく先輩が流れを断ち切ってくれたのだから、さっさと立ち去ればいいものを、それを台無しにした奴がいた。
「借りだなんて思ってないからな」
最初にCADを抜いた一科生だ。喧嘩腰で何を言っているんだ、こいつ。
「貸してるなんて思ってないから安心しろ」
いや、今のはどう見ても貸しじゃないか、とはおそらくこの場の誰もが思ったに違いない。しかし空気を読んで誰も何も言わなかった。賢明な判断だと思う。
司波達也もまた眉一つ動かすことなく応じるあたり、図太いというよりはさっさと彼らと別れたがっているように見えた。激しく同意である。
「司波さんは、僕たちと一緒にいるべきなんだ。お前など、認めるものか!」
文字通り捨て台詞を残して去っていく一科生たち。彼らが司波深雪に拘るのは、自身がトップカーストに入れるか否かの瀬戸際だからだろうか。自分たちグループの中心に、学年主席を置いておきたいだけのではないのか?
それはもうただブランド品で自分を飾りたいのと同じだ。ただの自己愛だ。俺が言うのもなんだが、大分気持ち悪い。
俺が言うのもなんだが。
ま、もう関わり合いになることもないか。帰って寝よう。
「……んじゃ、俺もこれで。お疲れさん」
「あ、いや、ちょっと待ってくれ。比企谷、だったか」
おそらくこの騒動で最も気苦労を負った司波達也にだけ軽く頭を下げて横を通り過ぎようとした俺を、当人が呼び止めた。
「……何だ?」
もういい加減にして開放されたい。そんな感情が渦巻いていたせいか、声がいつもより低くなった。きょどらなかっただけましかもしれないが。相手にはあまりいい印象を与えなかったに違いない。
案の定、司波達也の表情が少しだけ曇った。
「少し聞きたいことがあるんだが」
「……だから、何?」
「お兄様。せっかくでしたら帰りながらお話されてはいかがですか? ここで立ち話もなんですし」
司波深雪の声かけで、司波達也が軽くうなずいた。そう言えばお兄様? 司波? 同じ苗字? 兄妹か、この二人。あまり似てないが、それを言うとウチの兄妹にブーメランが返ってくるので言うのはやめておこう。もっとも、俺に妹がいることを知るやつがいるとも思えないので杞憂に過ぎないのだが。
「それもそうだな」
「お、んじゃ、みんなで帰りますか?」
仕切り始めたのは大柄な二科生男子。眼鏡女子も、警棒女子も異論はないらしく肩の力を抜きながら頷いている。と、そんな一同に近づく影があった。
「あ、あの! お兄さん、司波さん、私たちもご一緒してもいいですか?」
「……えっと?」
司波達也に声をかけたのは一科生の少女二人組だ。そのうち一人は、先ほど暴走しかけた一科生たちの後方で閃光魔法――起動式を読み取ったらしい司波達也曰く――を起動しようとしていた女子だ。
「光井ほのかって言います」
「北山雫」
「先ほどはかばっていただいてありがとうございました。それと、不快な思いをさせてしまったみたいでごめんなさい」
「いや、大したことはしていないよ。それよりもお兄さんはやめてほしい。同じ一年生なんだし」
「わかりました。あの、では達也さんとお呼びしてもいいですか?」
自分の失敗をすぐに反省して素直に頭を下げることが出来る。その美徳に兄妹もこの二人が先ほどの連中とは毛色が違うらしいことに気づいたようだ。司波達也が会釈で返すと、二人は下げた頭をもう一度軽く下げて「ありがとう、よろしく」と告げた。
「じゃあ、帰ろうか。レオ、千葉さん、柴田さんも」
「オッケー。あ、そうそう。あたしのこともエリカでいいよ、達也くん」
「私も美月と――」
「了解した。エリカ、美月」
え? もしかしてお前ら、それで友達になれちゃうの? 名前呼びが出来ちゃうの?
すげぇな。俺には真似出来ない高等テクだ。さすが高校。レベルが違う。
っていうか、そもそもみんなで帰るのは決定ですか。そうですか。誰も俺の意見聞いてないよね、さっきから。
「……………」
「比企谷?」
「あれ? 帰らねぇの?」
………いや、帰るけど。
電車に乗るから、結局駅まで帰り道は同じなんだけども。
なんだか釈然としないのは、やはり俺がぼっちでコミュ障で、ひねくれているからか。
一緒に帰ったら友達になる? まさか、そんなことはあり得ない。
小学生の頃、家の方向が同じだからとクラスメイトと一緒に歩いていたら、不意に隣を歩いているそいつに言われたことがある。「そういや最近お前なんで俺たちが帰るときにそばにいんの?」って。たまたま同じ方向だからと勇気を出して裏声になりながら呟いた俺に対してさらにそいつは告げたのだ。「え? マジで? やべぇ。明日から俺ら別の道で帰るか」って。
同じ方向だから一緒に帰ろうという言外に込めた期待はあっさりと砕け散った。話しかけてくれないと思っていたら、向こうは俺と帰っているつもりなかったっていうオチだ。
泣いていいですか?
だから知っている。友達とは同じ方向に帰るとかでは決して出来たりしない。ソースは俺。
そもそも彼らと友達になるつもりもないのだが、それでも思うのだ。
歩き出す彼らの背中を追うのではなく、いつか横に並ぶ日が来るのか。
彼らがそれを許し、俺がそれを望むのだろうか。
わからない。わからないから、問い続け、考え続けるしかないのだ。人の心がわからない俺には、結局それしかできないのだから。
勢いで書き始めましたが、入学編くらいは完結させたいと思います。。。。