――蟻は、狼に勝てるのか。
――蟷螂は、馬に勝てるのか。
――野鼠は、猪に勝てるのか。
答えは、否だ。
人が神や精霊、魔術の助け無しに空を飛べないのと同様に、世の中にはどうしようもない『摂理』というものが存在する。
それを捻じ曲げられるのは、例えば強力な装備や神の寵愛による絶対的な幸運など、外部からの補助だけだろう。
そして、それはあくまでも補助。本人の力量が足りなければ、摂理に阻まれるのは道理なのだ。
サーヴァントにとっての補助とは、即ちスキルや宝具のことを指す。
本人の能力を百として、スキルで二百、宝具で三百の力を得たとしたら、六百の相手までなら勝てるかもしれない。
それでも、千の能力を持つ相手には届かない。
だから、つまり。
これは、そういう戦いだった。
火の粉を夜空に振り撒いて、巨大な拳が唸りを上げた。
手首や肘から放出される灼熱の焔を纏いながら、黒色の鉄拳が少年へと迫る。
「くっ……!」
慌てて飛び退いた少年が一瞬前まで立っていた場所に、巨人の一撃がぶち当たった。
雑草混じりの土砂が爆発したかのように四方八方へ吹き飛び、杉や松の木が容易く粉砕されて周囲に転がる。少年は着地と同時に直ぐ様跳躍、取って返して地面に突き刺さったスルトの右腕を斬り付けるが、それはほんの微かな疵跡を残しただけで、むしろ両腕にビリビリとした痺れだけが跳ね返る結果となった。
「畜生ッ!」
罵りの声を上げ、少年は再度後方へと身を投げ出した。刹那の差で、手刀へと変じたスルトの右腕は空を切る。
巻き起こる衝撃波。少年の矮躯は濁流に飲み込まれた枯れ葉のごとく、錐揉み回転しながら地面を幾度も転がった。
「――――ッ!」
痛みに悶絶する間もなく、大地を蹴って距離を取る。
間一髪、スルトの左腕から放出された炎の塊が虚空を通り過ぎた。魔力が変じた猛炎の弾丸は木々にぶつかり、周辺の雑木林を紅蓮へと染め上げる。
それをちらりと横目で眺めながら、ひたすら逃げの一手を打つ少年。必死になって足を動かしながら、悔しさにぎりぎりと歯噛みする。
(勝てる算段が……ねぇ!)
重量と体積が増えた分、動きが鈍重になることを微かに期待したものの、その希望はあっさりと打ち砕かれた。
あの巨体でありながら、スルトの動作は俊敏だ。少なくとも、生身の状態だったセイバーの敏速性そのままの
そして何より、こちらからの攻撃が一切通用していない。
巨人の身体を構成する漆黒の金属に、少年の持つ剣ではまったくダメージを与えられないのだ。あの装甲を切り裂くには莫大な魔力を込めた超常の兵器――高ランクの宝具で対抗するしかない。
しかし――
「…………あッ!?」
遠方のスルトがその場で蹴りを放つ。
ただの蹴りではない。十メートルを超える巨人の、地面を巻き込んだ強烈なキックだ。普通の人体ならばただの砂掛け、目潰しにしかならないそれが、激しい土石流となって少年に襲いかかる。
逃げ場はない。少年は意を決すると足を止め、握った剣を腕が千切れんばかりの速度で振り回す。飛来する岩石や大木、土砂の塊。常人ならば為す術なく飲み込まれる暴虐の嵐を、斬り伏せ、弾き飛ばし、受け流し続ける。
それは、時間にして僅か二秒にも満たない足止め。だが視界を塞ぐ土石流をようやく捌き切った少年の眼前に迫るのは、蹴りと同時に放たれていた炎弾だ。
白刃が閃く。
炎が二つに裂かれ、少年の両脇を通り過ぎて背後に着弾。だが炎弾は連射されていた。剣を切り返して切断。三発目。四発目。五発目――
「ぐ………おぉッ!!!」
炎弾の対処に追われている隙に、黒鉄の巨人が接近していた。振り下ろされたスルトの拳は、今度こそ避けられない。
少年はせめてもの抵抗にカウンターを狙い、衝突の瞬間に剣撃を合わせる。
甲高い金属音。
少年の身体が、群生林を薙ぎ倒して後方へ弾き飛ばされていく。両腕に伝わった衝撃に耐えきれず、ついに手放した剣がくるくると空中で回転し、少年から離れた場所に突き刺さった。
「――――
感情のない声は頭上から。
見上げれば、高速で迫る漆黒の巨大な拳。
容赦のない、間髪を入れない二連撃目。
回避は間に合わない。
受け止めるための剣もない。
残された道は、霊核ごとぐしゃぐしゃに潰された己の骸を無様に晒すことだけ――
「――――――」
終わり。
それで、終わり?
まだ、何も果たして無い。
何のために、聖杯の招きに応じたのか。
ここで死ぬためじゃない。
断じて、そんなことのためなんかじゃない。
俺は。
もう一度、
無意識に。
震える右手を、少年は前へと伸ばした。
(む……ぅ)
スルトの胸部にある制御室の中で、セイバーは微かな驚きの声を心の内で上げた。
彼女は現在、赤いジェル状の液体に全身を包まれている。液体――魔力の籠められた特殊な宝石を大量に溶解し、ルーン魔術を用いて錬成したもの――は
そうしてスルトそのものとなったセイバーの視界には、敵対するクラス不明のサーヴァントの姿が映し出されている。
スルトの圧倒的な力を前に、ただ逃げ惑うしかなかった、少年。
たった今、その巨大な拳に潰されたはずの、少年。
その少年が、今――
「――――」
立っている。
健在している。
スルトの拳は、狙いからやや外れた場所に突き刺さっていた。
外した?
いや、違う。
剣を手放し、絶体絶命の危機に陥ってた、死の運命を待ち構えるだけだった少年に。
その証拠に――
セイバーは左腕の親指の付け根に、小さな痛みを感じ取っていた。
彼女の肉体そのものは、ジェル状の液体の中で健在のまま。
だから、これは彼女の操る巨人の感覚。
「それが」
セイバーは左腕を引き戻し、低い声で呟いた。
「それが、お前の宝具か――
「…………」
無言のまま立ち尽くす少年の右手には、槍が握られていた。
濃密な魔力を宿し、鮮血のような朱色に染まった、禍々しくも美しい長柄の刃。
真名は開帳せずとも、視界に入れただけで本能が理解する。
あれこそは、宝具。
そして、あれだけ見事な槍を己の手足のごとく操り、あの一瞬で窮地を脱するほどの俊敏さを誇るクラスなど、槍兵以外に考えられない。
「………」
少年――ランサーは動かない。
ずっと同じ姿勢のまま、口を噤んで相対するスルトを見据え――
否。
ランサーは、
彼の視線は先程から、己の宝具にだけ向けられている。
あどけない幼童の相貌を歪め、何か辛く、哀しさの満ちた瞳で。
(何を――)
意味がわからず、セイバーもまた、その場に立ち尽くす。
何故、ランサーは反撃に移らないのか。
今の今まで温存していた武器を取り出し、セイバーの虚を突いて反撃を決めてみせた。セイバーは一瞬とはいえ混乱し、冷静さを取り戻すまでに空白の隙間が生まれた。
その絶好の機会を、ランサーはみすみす見逃したことになる。
困惑するセイバーの眼前で、突如――
「くっ……!」
「――ッ!?」
ランサーの持つ朱色の槍が、霞のように薄れた。
積雪に熱湯を浴びせたがごとく、周囲に湯気の代わりに魔力を散らせながら、形を紐解いて霧散していく。
数秒の後には――まるで最初から存在しなかったかのように、少年の右手には、何も残されていなかった。
「……さっぱり意味がわからないが、どうやら、その槍……時間制限があると見た」
セイバーがスルトの身体で一歩踏み出す。
ランサーはやっと巨人がそこにいたことを思い出したかのように、後退った。
もう、遅い。
勘でしかないが、先程の槍を再び手元に呼び戻すことは、少なくとも即座には不可能なようにセイバーには思えた。
それがどのような逸話による制限なのかはわからない。
わからないが、今こそランサーを葬る好機であることは、例え戦場に身を置く戦士でなくても理解出来るだろう。
「さらばだ、ランサー」
今まで以上の灼熱を噴出しながら、スルトの右腕が持ち上がる。
天をも焦がすかのような赤炎に煌々と照らし出され、黒鉄の巨腕が今度こそ目標を外すまいと振り被られる。
だが、次の瞬間。
「……………まあ、そうなるか」
ランサーの姿が、忽然と掻き消えた。
それこそランサー自身が現出させた槍のごとく、その場には影も形もない。
何故か?
そんなもの、問うまでもない。
「令呪による緊急転移――見事な采配」
独りごちるセイバーの胸中には、しかしながらしてやられたという焦りや怒りは欠片もなく、至って平静そのものである。
理由は簡単。
彼我の戦力差を、はっきりと認識したから。
あのランサーは、オレには勝てない。
制御室の中で、セイバーはほんの僅か、誰にも気付かれない程度に、唇の端を釣り上げる。
満天の星空に彩られた月夜の下。
灼熱の巨人は、初戦の勝利を祝うかのごとく、高々と炎を夜空に舞い散らせた。
一方で――
慌てて急発進し、ここに来るまでの道を逆走し始めた車両の中は、沈鬱な空気が流れていた。
「なあっ、おい、返事しろって」
「……」
「だ、大丈夫かって聞いてんだよ!」
「…………」
運転席でハンドルにしがみ付くような姿勢を取りながら問いかける王貴に、しかし少年――ランサーは答えない。
無理矢理に押し込まれた助手席で自身の膝を抱え込むように顔を伏せ、無言を貫いている。
そうしていると、ついさっきまで鎧姿の騎士と互角に渡り合っていた戦士には到底見えず、触れたら傷付けてしまいそうな年相応の幼子にしか見えなかった。
「ちぇっ。なんだよ、もう……」
ぶつくさ小声で文句を垂れる王貴の右手には、ランサーとの繋がりを示す令呪が刻まれている。
太陽に手を伸ばす掌のような図柄のそれは、三画のうち一画が消失し、僅かに痕跡を残す程度になっていた。
令呪は己のサーヴァントに対する絶対の命令行使権。時には時空すら超越し、そのサーヴァント単体の力では不可能な事象すら成立させてしまう。
ランサーが危機に陥った瞬間、王貴は咄嗟の判断で令呪に願い、この少年を自らの側に転移させたのだった。
(三回しか使えない貴重な切り札を、もう一回使っちまったなぁ……)
あの時はああするしかなかった、とは思うものの、やはりどうしても勿体無い、という気持ちも心の片隅に引っかかってしまう。
己の貧乏性を倦厭しつつ、王貴は努めて明るい声を出した。
「まあ、でも、ありゃあ反則だよな。あんなでっかいの相手に、よくやったよ、お前は」
王貴がドローン越しに見た限りでも、あの炎の巨人の威圧感は並大抵のものではなかった。
こうして逃亡中の今でも、後ろから追いかけてきているのではないか……という不安で、何度もサイドミラーをちらちら確認してしまう。
(ていうか……あの巨体なら、こんなライト付けてる車なんて、すぐ発見出来るはずだよな……)
何故、追撃してこないのか?
首を傾げる王貴の耳に、傍らのランサーの呟きが届いた。
「…………った」
「え?」
「負けちゃった……」
「あ、ああ……いや、だから、あれと真正面から戦うのは無茶だよ。無理もないって」
「でも……あの人なら、あんなヤツ……」
「あの人?」
王貴の疑問の声は聞こえていないのか、ランサーは構わずに言葉を続ける。
「ごめんなさい、マスター……」
「な、なんで謝るんだよ」
「僕は、弱い……あんなに大口叩いたのに……」
「い、いや……ていうかお前、なんか、口調が……?」
あの獰猛で、傲岸不遜な態度だった少年は何処へ行ってしまったのか。
急に弱々しく、本当にただの子供のようになってしまったランサーの姿に狼狽しながら、王貴はとにかく車を走らせ続けるのだった。