―――駆ける。
両腕を振り子のように一定の間隔で動かし、両足で交互に地面を踏みつける。
呼吸のリズムも安定。口から息を吐き出し、鼻で空気を吸い込む。その繰り返し。
律動する筋肉。エネルギーが全身をくまなく循環し、肉体に活力を与える感覚。時折頬を撫でるそよ風が心地良い。気温は少し高めだが、この時間のこの場所は木陰となるので気にはならない。
完璧だ。何も問題はない。
後は、この調子を維持し続けるだけ。
それだけでいい。
それだけで、全て元通りに――
――ギシッ。
「ッ……!」
左の膝が軋んだ。
いや、そんなはずはない。ただの思い込みだ。
もう怪我は完治している。担当医からのお墨付きだ。
だから大丈夫。左の膝に異常なんてない。
――ギシッ。
なのに。
なのに、左の膝が絶えず不調を訴えてくる。
万全のはずなのに。
全て、元通りになったはずなのに。
――ギシッ。
吐き気がする。
一度気になりだすと、もう止まらなかった。
膝だけではなく、足首も、爪先も、踵も、全てが本調子じゃないように思えてならない。
本当は、まだ治っていないのではないか。
ここで無理をしたら、余計に走れなくなってしまうのではないか。
理屈のない不安や懸念が、ぐるぐると頭の中で踊り狂う。
――ギシッ。
「………………」
ついに、
肩に掛けたタオルで汗を拭い、乱れた呼吸を整える。
肩先まで伸ばした髪に、勝ち気そうな瞳。若さに溢れながらも引き締まった肉体は、野生の獣を連想させた。
少女はじっと自らの左膝を睨みつける。
そこに、親の仇でも住み着いているかのごとく。
誰からも忘れ去られてしまったかのような日本海の孤島、雲名島にある一人の少女が誕生した。
彼女の名は古城メイ。
父と母は、取り立てて特徴のないサラリーマンと公務員であり、先祖にも何かしらの功績を遺した人物がいるわけではない。
しかし、突然変異とは起きるもの。彼女はある一つの特別な才能を天から授かってこの世に生を受けた。
それは、走ること。
長距離ランナーとしての素質を見出されたメイは、その類まれなる持久力や不屈の闘争心で、その名を島外にまで轟かせていった。
十年に一人の逸材。雲名島の風雲児。
日本国内はおろか、時には海外からも記者団が取材に訪れ、多くのスカウトが設備の優れた高校への進学を推薦した。
しかし、メイが入学したのは島内の高校だった。
あくまでも"雲名島の古城メイ"として、地元に貢献する――それが彼女の選んだ道だったのだ。
それでも、彼女の才能があれば、それは何の障害にもならなかっただろう。
――交通事故にさえ、遭わなければ。
その才能を妬んだ存在の計画的な反抗、というわけではない。
本当に、ただの偶然だった。
日々の仕事で疲弊していた車の運転手が、たまたまとある横断歩道の直前で耐えきれない睡魔に襲われ、丁度その時間にメイが渡ろうとしていた――それだけの話。
幸いにも、命に別状はなかった。
重傷だった左脚の怪我も切断を考えなければならないレベルには至らず、リハビリさえ乗り越えれば以前と同じ状態に戻れるという話だった。
当然、メイはカムバックに向けて不断の努力を惜しまなかった。
辛くなかったわけがない。苦しくなかったはずがない。
それでも、彼女は復帰のために全力を尽くした。
時には医者や看護師たちにやりすぎだと叱られてしまうほどに。
あたしから走ることを奪わないで。
そう、心の内で叫んでいるかのように、彼女のリハビリへの意思は苛烈だった。
それは、己の持つ才能への自負からか。
それとも、周囲のライバルたちに追い抜かされてしまうかもしれないという焦りからか。
あるいは――何か、別の理由が存在したのだろうか。
結果だけを言えば、彼女の脚は元通りに完治した。
さあ、ならば後は遅れた分を取り戻すだけ。
ここから、古城メイの再起の物語が始まるのだ――
――左膝が、軋んだ。
医者は言った。身体はもう元通りになっている。
ならば、原因として考えられるのは、精神的なものだと。
何度も何度も、メイは自分に言い聞かせる。
あなたにおかしなところなんてない。
怪我はもう治ったのだ。
だから、あなたの感じているものはただの幻。
弱い心が招く妄想でしかないんだから――
――ギシッ。
どれだけ集中しても、左膝から違和感は拭えなかった。
触っても、どこも痛くないのに。
傷跡が少し残ったとはいえ、今まで見てきた自分の脚のはずなのに。
血の気が引いた。
次いで、言い訳がぼろぼろと零れ落ちた。
ブランクがあるせいだ。
本調子じゃないせいだ。
次は大丈夫。
明日にはなんとかする。
今度の大会までには。
だから。
だからそんな目で見ないで。
あたしはやれる。
あたしは走れる。
あたしが走れなくなるなんて、そんなことあってはならない。
見るな。
やめろ。
見るな。
やめろ。
見るな。
見るな。
見るな。
あたしを見るな!!!
そして――彼女は、どんどんタイムを落としていった。
天才少女の零落。
付き纏うマスコミ。部活仲間の同情的な視線。教師たちの空回りする激励。
全てが鬱陶しかった。
何より――今の落ちぶれた姿を、
メイは引きこもった。
もう何ヶ月も学校に通っていない。
たまにこうして、人気のない山道で脚の状態を確認し、幾度となく絶望に苛まれるだけの日々。
脚さえ治れば。
この左脚さえどうにかなれば、何もかも元通りになるのに――!
「――そうね。脚が治るのならば、悪魔にだって魂を売ってやるわ――」
メイは感情の抜けた声で呟く。
自宅への帰り道。
突如痛みと共に右手の甲に出現した、赤色の紋様――"令呪"をじっと見つめながら。