「うっさいわね、今更何よ!」
正午を過ぎ、会社勤めの人間が昼休憩に入るような時間帯。
年齢は二十代前半。三白眼の鋭い目付きは猛禽類を思わせる。男受けするようなグラマラスな肉体をしているが、纏う空気はまるで裏社会に住まう荒くれ者のごとく殺気立ったものであり、並の男は声をかけようとも思わないだろう。
平日だというのに外に出かける様子もなく、その右腕にはビールの缶が握られている。格好も下着のままで、寝起きのまま梳かしていないのか、髪の毛もぐちゃぐちゃだった。
「あんたとはもう終わってんのよ! 二度と電話しないでちょうだい!」
ヒステリックな叫び声は、まるで吹き荒れる暴風雨のように鮮烈だった。灯音はそのまま一方的に通話を打ち切る。通話相手から再度電話が掛かってきたが、電源ボタンを押し込んで強制終了させた。
はぁぁ、と興奮覚めやらぬ様子で、灯音は怒気を孕んだ吐息を漏らす。
周囲をきょろきょろと見渡し――足元に落ちていたボロボロの兎のぬいぐるみを見つけると、耳の部分を緩慢な動作で掴み上げ――
勢い良く、床へと投げつけた。
「クソがっ!」
衝突と共にバウンドした人形を、今度は全身全霊の力を込めて踏みつける。
何度も、何度も。
己の全ての怒り、全ての憎しみをぶつけるかのように、罵詈雑言を浴びせながらひたすら人形を足蹴にし続ける灯音の姿は、ただひたすら狂気的であった。
「……ハァ――ハッ、ハッ」
やがて衝動が収まったのか、息切れを起こしながら灯音が後退る。
残されたのは、傷付いた兎の人形のみ。
元々半壊していたようなものだったので、原型を留めないほどの変化があったわけではない。それでも縫い目からはみ出る白い綿は数刻前より量を増し、片目のボタンが千切れて何処かへと吹き飛んでしまっていた。
「……クソが」
またやってしまった。
灯音はその場にしゃがみ込み、両腕で頭を抱えてうずくまってしまう。
先程までの騒々しさが嘘のように、静寂が部屋の中へと舞い戻った。
鏡宮灯音の人生において、暴力は切っても切り離せない要素の一つだ。
彼女は、『悪』が許せなかった。
常識に反したものを見たとき、誰かの嘆きを耳に届いたとき、彼女の中の『正義』が呼び覚まされた。
そして――理性で止める間もなく、彼女は反射的に暴力による解決策に乗り出してしまうのだ。
それはいけないことだと、頭ではきちんと理解はしている。
暴力は、悪だ。
行使するにしても、最終手段とするべき。まずは話し合いで解決を試みるべきなのだ。
それなのに――いつだって我に返った時には、彼女の拳は憎むべき悪を打ち据えた後だった。
灯音は、自分の中に悪魔が巣食っているのだと信じて疑わなかった。
悪魔が自分の身体を乗っ取り、こんな非道をさせているのだ。
彼女は怯え、嘆き、夜毎に涙を流した。
こんな有様では、当然、友達なんて出来やしない。
両親も、疎ましい者を見るような視線を向けてくる。
全て、悪魔のせいだ。
悪魔がいるから、悪いんだ。
いつの間にか、彼女の中で『悪』の定義が変わっていた。
私は悪くない。
なのに、私の中の悪魔ではなく、私自身が悪いかのように罵る連中がいる。
そして悪と認識した途端、彼女の中でスイッチが切り替わる。
激昂。
そして暴力。
然る後の後悔。
もはや両手の指では数え切れないほどの傷害事件を起こし、その度に灯音の心は荒み、切り裂かれた。
罪を背負うべきは私を非難する存在だ。
だというのに、何故私が咎を受けなければならないのか。
――嗚呼、また私は悪魔に魂を支配されている。
身勝手な理屈を振りかざし、自らの主張を正当化しようとする自分がいる。
そんな自分を、冷静な目で見つめる自分もいる。
悪魔の誘惑に抗えないのなら、私の自由意志も全て暗黒に染め上げてくれれば、楽になれるのに――
ついに在籍していた高校で退学処分が下され、灯音は逃げるように雲名島から姿を消した。
本土で訳あり外国人向けの格安アパートに転がり込み、アルバイトをして日銭を稼ぐ日々。
仕事を見つけては揉め事を起こしてクビになり、次の仕事を見つけては騒ぎを起こして職を失い――
そんな中で、一人の男と出会った。
恋をした。
今までにも、いいな、と思うような相手はいたが、すぐに手が出る彼女にとって、それらが身近な存在になることなど有り得ない出来事だった。
それだけに――灯音は、その男との関係に溺れた。
彼は滅多に自分を怒らせなかったし、例え怒らせたとしても、全てを受け止めてくれた。
最初は、同じ仕事先の同僚として事務的な会話しかしない仲で。
帰りの電車の時間を少し遅らせて、公園で他愛ない話をするようになり。
いつしか、彼と同棲生活を送るようになっていた。
なんて満ち足りた、幸福な日々だっただろう。
しかし、その蜜月の日々も
灯音は雲名島に戻ってきていた。
以前と同じように職を転々とし、過去から逃避するように酒に溺れ、鬱屈とした日々を無為に過ごし――
そして、二度と無いであろう機会を得た。
「いいわよ……やってやろうじゃない」
右手の甲に刻まれた令呪を左手の指でなぞりながら、ぞっとするほど低い声で灯音は呟く。
初めは酔いが回りすぎて幻覚を見ているだけかと思ったが、今ならこれが現実のものだとはっきり
この令呪が浮かび上がった意味。
即ち、『聖杯戦争』に参加する資格を得たという意味を。