聖杯戦争と呼ばれるものがある。
その名の通り、聖杯と呼ばれる物品を巡る争奪戦のことだ。
七人の参加者――マスターが、七騎の英霊――サーヴァントを使役し、最後の一組となるまで戦い抜く。
そして勝利者には、あらゆる願望を成就させる器、聖杯が授与される。
「御伽噺の世界だな、こりゃ」
伸ばしっぱなしの縮れ毛に、口の周囲を覆う無精髭。シミや擦り傷だらけの服装と相まって、非常に小汚い印象を与える男だ。
うっすら額に滲んだ汗を服の裾で拭いながら、吟は己に降り掛かった奇跡について、思い返す。
「世の中には人知の及ばないものがまだまだたくさんあるとは思ってた。が……が、が、がっ! まさか、本当にあるなんてなぁ!」
つい先刻、火傷したかのような痛みと共に謎の紋様が浮かんだときには、夢でも見ているのかと混乱したものだ。
しかし、次の瞬間、吟は更なる不可思議な体験をすることになる。
令呪を発信源として、脳に向かって電流パルスが流れ込むかのようなイメージで――
聖杯戦争。
マスター
サーヴァント。
令呪。
そして聖杯。
過去の伝説、あるいは神話などに語られる偉人、英雄を召喚。使い魔として使役するサーヴァント・システム。
呼び出された英霊たちは、それぞれの適正に応じた、七つのクラスへと振り分けられる。
そして、それらのサーヴァントを従える権利を持つ者がマスターと呼ばれ、その証として令呪と呼ばれる紋様を与えられる。
令呪はサーヴァントに対する絶対の命令権であり、三画――つまり、三回分の行使が可能だ。
マスターたちはそれぞれ一騎のサーヴァントを率いて、残りの六人六騎のマスターとサーヴァントを相手取らなくてはならない。
何故ならば、壮絶なバトルロワイアルの末、最後まで勝ち抜いた一組だけが、聖杯を手にする資格を得られるからだ。
「聖杯……本当にどんな願いでも叶うってんなら、その聖杯戦争とやら、参加しない理由がねぇ!」
あまりにも現実離れした事態。
普段の吟ならば漫画の読みすぎ、あるいはアニメの見すぎだと一笑に付していただろう展開に、しかし吟は真実味を感じていた。
令呪から受け取った、謎の知識の影響もある。
だが――それ以上に、今の吟には不確かだろうと奇跡を求めなければ――藁にもすがらなければならない事情があるのだ。
「おい、こっちからあの野郎の声が聞こえなかったか!?」
(――ゲェッ!?)
突如聞こえた大声に、吟は思わず身を縮こませた。
眼下を覗けば、黒いスーツ姿の男が三人、憤怒の表情を浮かべて小走りに近づいてくる。
(も、もう勘付かれたのか! 気付くなよ、絶対こっちに気付くなよ……!)
先程までの機嫌の良さは何処へやら。吟は今にも世界が終わってしまうかのような表情で、自らの呼吸音と気配を抹消することに注力する。
吟の現在位置は、雲名島運動公園。その周囲に立ち並ぶ木々の一つ、樹高十メートルを越す桜の天辺だ。
生い茂る葉と葉の間に身を潜め、どうか見つかりませんようにと心の中で神に祈りを捧げる。別に特定の宗教の信者というわけではないが、困った時の神頼みというやつだ。助けてくれるなら、神だろうが悪魔だろうがなんだっていい。
その一心不乱の願いが通じたのかどうかは定かではないが、頭上の吟に気付いた様子もなく、スーツの男たちは口汚い言葉をブツブツと吐き捨てながらどこかへと去ってしまった。
一秒、二秒。
まだ油断は出来ない。
一分、二分。
やがて五分が経過したところで、ようやく吟は安堵の息をついた。
「ったく。こんなところまで追いかけてくるか、普通……」
吐き捨てる言葉に力はない。
やはり、自分は聖杯を手に入れるしかないようだ。
この逃亡生活を、終わらせるためにも。
淵壕吟は雲名島の出身ではない。
彼は本土で、親元を離れて自由気ままに暮らしていたアルバイターだった。
決して裕福ではないが、その日の糧に困るほど困窮しているわけでもない。たまの贅沢も許されるような、充実した日々。
しかし――突然訪れた二つの不幸が、吟の日常を一変させた。
一つは、実家が火の不始末で家財全てを飲み込んで焼け落ち、両親も巻き込まれて死んだこと。
もう一つは、連帯保証人になってあげた友人が行方をくらまし、彼の借金を抱え込まなければならなくなったこと。
頼れる親戚縁者もいない吟は、隙を見て一目散に逃げ出した。
かつての安閑とした日常は失われ、全国津々浦々を彷徨い、その度に債権回収会社の取り立て屋たちと追いかけっこする日々。
そうした心休まらぬ生活を半年以上続けた末、こんなド田舎の離島にまで辿り着いたのだが――
「どう考えても、費用対効果が割に合わねえだろ。意地とか、面子ってやつは、まったく……」
まさか、ここまで足取りを嗅ぎ付けられるとは思わなかった。
吟は驚嘆すると同時に、取り立て屋たちの執念に戦慄する。
特に、先程の捜索隊の中でも先頭に立って自分を探していた男――
見た目は大柄な体躯のスキンヘッドで、感情的になりやすいくせに妙な所で勘が冴える。
ただ事態の好転を祈るだけでうだうだと時間を過ごせば、発見されてしまうのは時間の問題だろう。
「……港も押さえられてるだろうな。一発逆転を狙うなら、やっぱりコレに賭けるしかねぇ……!」
もはや逃げ場はない。
再び自由を得るためには、どれだけ胡散臭かろうが、非現実的だろうが、聖杯戦争に参加するしかないのだ。
「絶対に聖杯を手に入れてやる。どんな卑怯な手を使おうが、他の連中がどうなろうがな!」
剣呑な光が宿るぎらついた瞳で、吟は令呪の刻まれた右手を握り締める。
まるで勇ましい言葉や態度で、その裏に隠された不安や恐怖を取り除こうとするかのように。