――歳を取った、と感じる瞬間が増えた。
例えば、それは足元に落としてしまったタオルを拾うときだったり、何の変哲もない階段を昇るときだったりと様々だ。
腰に、腕に、足先に、いつの間にか生じた違和感。
人間である以上、月日を重ねれば必ず老いる。
それが自然の流れであり、歯痒くはあったものの、逆らうことなど出来やしない。
雲名島で流れる時間は、都会に比べてゆっくりとしたものだった。
変化は遅々としていて、ただただ静かに、平穏なまま一日を終える。
それでも、着実に、時の流れは前へ前へと進んでいた。
いつの間にか子供は大人へ成長し、結婚して、子の親となっている。
島に存在する古流剣術の道場、
思い出せない。
思い出せないほど――それだけの数と、それに見合った歳月が過ぎ去ったのだ。
「結局。ワタシは貴方を追い越すことは出来ませんでした」
その日の鍛錬を終え、道場の縁側で茶を啜りながら、ルドウィグ・サザーランドは隣に腰掛けた老人に言った。
老人は皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑い声を上げる。
「応よ。この
「……他流試合で、何度か負けていたような」
「うっせぇ。あん時は調子が悪かった、ノーカンじゃノーカン」
「ははは。負けず嫌いなのが、強さの秘訣だったのですかね」
ルドウィグは苦笑し、澄み渡るような青空を仰ぎ見る。
カナダ人である自分が日本に移り住んで、どれほどの時間が過ぎたのだろう。もはや母国語よりも、日本語を発声するときのほうが自然な気すらしている。
日本の侍が大好きで、剣の道を求めてこの極東の地に足を踏み入れた。数々の道場で基礎を学び、極めるに足る真の剣術を探し求め――
そして、刀鋼館――古流剣術である
「負けず嫌いは、お前ぇさんも人のこと言えんじゃろうが。何度も何度も打ち負かしてやったのに、しつこく喰らいついてきやがって」
「兄弟子である貴方は、ワタシの目標でした。貴方に勝つこと、それこそが剣の道を極めることだと、確信したのです」
「野郎に執着されても嬉しかねえなぁ。儂より
「あの人は教え方がとても上手い。でも、純粋な剣の腕は貴方のほうが上だと思います」
「ったく、バトルマニアがよ」
ルドウィグ・サザーランドと輝瀬厳次郎。
年齢も近く、互いに切磋琢磨しあう二人は、正しく
厳次郎に追い付け、追い抜けともがくルドウィグ。
ルドウィグに追い越されるな、引き離せと己を鍛え続ける厳次郎。
いつまでも続くかと思われた競争は――もうすぐ、終わりを迎えようとしている。
「背中。そんなに痛むのですか?」
「今は落ち着いとるよ。でも本気で
「残念です。ずっと……永遠に、貴方と剣を交えていたかったのに」
「じゃから、男にそんなこと言われても気持ち悪ぃだけじゃっつうに」
「ワタシの妻は喜びそうですが」
「ありゃあ特殊じゃ」
口惜しい。
何故、人は衰えてしまうのか。
死ぬことは怖くない。
ただ、積み重ねてきた力量が日に日に目減りしてくのが、ひたすらに無念でならない。
「もしも――」
「ん?」
「もしも、何か奇跡が起きて、若さを取り戻せたのなら――」
「ああ、いいなぁ。たまに妄想すんよ、どっかの偉い研究者が若返りの薬を作ってくれたらなぁ、とかな」
でも、と厳次郎は首を振る。
「少なくとも、儂らが生きてる間に完成することはなさそうじゃ」
「……」
「お前ぇさんの気持ちも分かる。もう一度、全盛期の肉体を得られたら――なんて、益体のないこと考えんかったわけがなかろう? じゃが、そんなもんはただの幻に過ぎん。人は皆、後悔や心残りを抱えて朽ち果てていくしかないのさ」
ルドウィグは反論しようと口を開きかけ、しかし何も言えずに閉じた。
わかっているのだ。
自分も、厳次郎も、長年連れ添った剣の道を手放さねばならない時が来てしまっていることを。
「後進に道を譲るのも大切なことじゃよ。お前ぇさんも、後を託せる奴を早く見つけな」
「それは――例えば、お孫さんのような?」
「ミコトは儂より強くなるぞ。アレが大成するまでは、例え剣を置いたとしてもボケたり死んだりはしておられんの」
「そうですね。彼の才能は目を見張るものがあります」
自らも指導したことのある少年の顔を思い浮かべ、ルドウィグは微笑する。
だがすぐに、元の沈鬱な表情へと戻ってしまった。
「……そうなると。大成した彼と、全盛期の肉体を以て真剣勝負をしたかった」
「いい加減しつけぇぞ、おい」
「やっぱり、ワタシはずっと若いままでいたい」
「そりゃ、儂じゃって、世界各国の強者たちとまだまだ戦ってみたいわい!」
「起きませんかねえ、奇跡」
「起きればええのう」
――もしも。もしも本当に、奇跡が起きたのならば。
その時は、また一緒に戦り合おう。
あの、お互いの剣技を磨き合う、血と汗の滲む修練の日々へと舞い戻ろう。
もしも。
もしも本当に、奇跡が起きたのならば――