明けない夜はない、と人は言う。
どんな嵐もいつかは過ぎ去る、と人は言う。
ならば、
それとも、たかだか十四年ぽっちの人生では、まだまだ艱難辛苦が足りないと運命は言っているのだろうか。
だと言うのならば――純麗は己が運命というものを、憎悪するしかない。
例えばこうして、自宅に帰宅した自分が居間の壁際に立たされている現状も、そうだ。
「そう。あんたも選ばれたのね」
「…………はい」
純麗の右手に刻まれた令呪を睨めつけて、頭一つ分背の高い彼女の姉が眉根を寄せて妹を見下ろしている。
姉の右手にも、聖杯戦争のマスターとして認められた三画の紋様が浮かび上がっていた。
それは即ち、二人が血を分けた実の姉妹同士で聖杯を巡り、戦いを――場合によっては、殺し合いを果たさねばならないことを示している。
だが、純麗の姉――鏡宮灯音は、顔を伏せた妹を相手に、ぞっとするほど優しげな声を紡いだ。
「純麗。あなた、聖杯が欲しい?」
「……欲しくない、です」
「どうして? どんな願いも叶うのよ、あなたにも何かしらの願望があるでしょう? 例えば……私に復讐したい、とか」
「そ、そんなの!」
びくりと肩を震わせて、純麗は首を千切れんばかりに横に振る。
「お、思ってない、です」
「そうなの?」
「だって、だって、……純麗が、お姉ちゃんに勝てるはず、ない」
そうだ。
いつだって、純麗の上には姉がいた。
自分が姉を押し退けて、勝利をもぎ取るビジョンなど、彼女には想像も付かない。
それ程までに、姉の存在は彼女に重くのしかかっている――押し潰してしまうくらいに。
「…………」
灯音は一瞬だけ申し訳なさそうな顔をして、首を振った衝撃でずれた彼女の眼鏡を元の位置に戻してやる。
姉は時に優しい。
機嫌の良い時――彼女が言うところの『悪魔が去っている状態』――は、勉強を教えてくれるし、お小遣いをくれたりもする。
だが――
(そんなのは、見せかけだけだ)
純麗は絆されない。
それが本性ではないと知っているから。
彼女の真実の姿は暴虐の化身。純麗を雁字搦めに縛り付け、苦痛と絶望で嬲り続ける暗黒の女帝。
その無慈悲なまでの非道に苛まれてきた純麗は思う。
何が、悪魔に取り憑かれている、だ。
自分にとって、彼女こそ悪魔そのものなのだ、と――
「なら純麗。私が何を言いたいか、わかるわよね?」
「……お姉ちゃんに、聖杯を譲る」
「その通りよ。手を貸してくれるわね、純麗?」
「……………うん」
誰が協力なんてするものか。
そう拒否出来たら、どれだけすかっとした気持ちになるだろう。
当然言えるはずがない。
幼い頃から、ちょっとした我儘を訴えるだけで、姉は簡単に機嫌を損ねた。
いや、純麗だけに限らず、鏡宮灯音は己を不快にさせる事象に対して、まったく我慢の効かない性質だったのだ。
例えば、前を行く歩行者が飲み干したジュースの缶をゴミ箱に入れずその場に投棄した瞬間を目撃した、とか。
例えば、外食先のレストランで隣に座った客の話し声が喧しかった、とか。
例えば、コンビニでレジの順番待ちをしていたら割り込まれた、とか。
たったそれだけのことで、彼女は目の前で親を嬲り殺しにされたかのごとく逆上した。
そして、ストレスを与えた相手への返礼として、暴力を行使する。
あまりに理不尽なその行いの、最前線にいたのが家族として同じ屋根の下で暮らしていた純麗だった。
何度殴られ、蹴られたか覚えていない。
痛いのは嫌だ。
嫌だから――痛くならないように、振る舞うしかない。
それが、幼い純麗が覚えた処世術。
もはや彼女が姉に従順な態度を取るのは、呪いに等しい条件反射なのだ。
今でも、誰かが腕を振り上げたりするたびに――当時の記憶が蘇り、身が竦んで動けなくなってしまう。
そのせいで、純麗は通っている中学校でも虐められていた。
味方となってくれる者は誰もいない。
誰も手を差し伸べてくれない。
ならば自分の力だけでどうにか――などと、そんな根性があるならここまで惨憺たる有様を晒していない。
何故、根性がないのか。勇気が芽吹かなかったのか。
決まっている。
全て、姉のせいだ。
姉さえいなければ、こんなことにはなっていなかった。
だから、令呪を与えられ、聖杯戦争に関する知識を得たとき――彼女は歓喜した。
彼女の願いはたった一つ。
どんな困難が待ち受けていようと、絶対に叶えなければ――
――そう、思っていたのに。
「相手がどんなサーヴァントだろうと、二対一に持ち込めるなら断然こちらが有利になる。もう、聖杯戦争は勝ったも当然ね」
「………」
何故、運命はかくも残酷なのだろう。
よりにもよって、この女も参加者として選んでしまうなんて。
姉が雲名島から行方をくらました時、純麗は心の内から狂喜乱舞した。
もう二度と帰ってくるなと、何度も神や仏に祈った。
なのに、そんな純麗を嘲笑うかのように、灯音は三年と経たないうちに雲名島へと戻り、純麗への凶悪な仕打ちを再開させた。
そして今、姉は当然のように純麗の最後の希望まで奪おうとしている。
(……許さない)
純麗は爪が食い込むくらい、両手をぎゅっと握り締める。
今はどうすれば姉に反逆出来るのか、分からない。
姉への恐怖は深層心理に刷り込まれたものだ。簡単に刃向かえるのなら、とっくの昔にそうしている。
だから、機会を待とう。
必ずどこかで千載一遇の
それまでは従順なフリをして、大人しく姉の指示通りに動くとしよう。
だが。
その時が来たのならば。
(純麗は必ず――勝つ!)
胸に秘めた決意。
それは、負け続けの人生を送る純麗が初めて強く抱いた、激しい感情の昂ぶりだった。