今日も今日とて日常が過ぎていく鎮守府だったが、提督はあることに思い悩んでいて……

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艦が先か艦娘が先か

 鶏が先か、卵が先かという有名な問いかけがある。鶏は卵から生まれるが、その卵は鶏が産む。では、先に現れたのは鶏が先か、卵が先か――。

 

 「同時にでしょう」

 

 古今東西のあらゆる問答を無視した回答が目の前から返ってきた。はふはふもふもふと喋っていないのに喧しい美人の返答である。赤城と書いて、正規食う母やら大食艦やらと読む娘であった。

 

 「その心は?」

 

 「親子丼美味しいです」

 

 言いながら、赤城は丼をまた一つ、提督の目前へと重ねてみせた。最近のトレンドは丼物らしい。

 提督が嘆息した。どだい、食堂で振るべき話ではなかったのだ。いやいや、たしかに親子丼を美味しそうに吸い込む赤城を見ていてふとそんなことを思い浮かべてしまったのだから、ある意味食堂だからこそ催した話題だったのだが、返ってくるのがこれではいけない。お陰で先程シェフの気まぐれメニューと書いて、発注ミスっちゃった間宮さんのてへぺろ料理と読む日替わり定食を平らげた提督の腹が鳴った。

 

 「そもそも」いつの間にやらおかわりを頼んだらしく、大盛りの親子丼が盛られた丼を持ち上げながら赤城が続けた。「鶏が先だろうが卵が先だろうが人生にあまり意味はありません。どっちも美味しいんですから、それで終わりです」

 

 およそ哲学というものを信奉する人間を怒り狂わせるようなことを言いながら、赤城は丼に取り掛かった。提督ならば浅ましく犬食いするところだが、赤城はこういうマナーだけは完璧で、はふはふもふもふと丁寧に親子丼を口に運んでいく。これで大食い兼早食いなんだから反則だよなぁ、と提督がお茶をすすった。一緒に、先程まで抱いていた馬鹿馬鹿しい不安も飲み込めたようだった。

 

 「なるほど、参考になったよ」提督が何か納得するように頷いた。

 

 「参考になったんですか?」口の中のものを飲み込んでから、赤城が驚いたように言った。

 

 「おい。まさか上官の問いに適当に返したわけじゃあるまいな?」

 

 「失敬な。早く話を切り上げて親子丼に集中しようと必死に考えた回答です」

 

 「なお悪いわ」

 

 提督が赤城を小突くと、てへという笑いが飛び出てきた。その反応のほうが遥かに不敬だったが、提督に気にする風はない。赤城は艦隊最先任正規空母であり、南西海域からの付き合いである。それだけで十分な説明だった。

 

 「まぁ、その、なんだ。飯食ってるお前は見てると楽しいからな。不安も吹き飛ぶってわけだ」

 

 「何の不安だったかもわからないのはさておいて、取り敢えずマスコット扱いは不服です」

 

 「今日は俺のおごりなんだから良いだろう。給料分だ」

 

 「女性に食事をおごって悦に浸るんなら、銀座で寿司をおごるくらいしてからにしてください」

 

 「絶対にしないだろうな。何しろ店を買ったほうが早い」

 

 「人を何だと思ってるんですか!」

 

 「まずその空の丼の数を数えて、それを嘘偽り無く俺に教えてから、胸に手を当てて深呼吸を数回し、それからもう一度言ってみてくれ」

 

 赤城が頬を膨らませながら丼を数え始めた。提督がお茶をすすりながら気怠げに椅子に身を預ける。赤城のカウントが二桁になったあたりでその姿を見るのに飽きたのか、くてんと首を横に倒した。

 

 「お行儀悪いですよ、司令官さん」

 

 苦笑いが視界に飛び込んできたのはその瞬間である。んああ、と気の抜けた声が漏れ出した。艦隊最先任重巡にして秘書艦でもある、羽黒だった。手に湯呑みを2つもっている。

 

 「おかわり。そろそろかと思いまして」

 

 「良くわかったな。一緒に食べていたわけでも無いだろうに」

 

 「司令官さんは時間に正確すぎるんです」羽黒が得意げにした。「食べ始めてからお茶の一杯目を飲み干すの、基本的にこのくらいの時間ですから」

 

 提督が黙って手に持っていた湯呑みを傾けた。緑色の液体はごく少量しか残っていなかった。

 

 「ありがとう」

 

 提督は湯呑みを受け取り、机においた。流れるように、自分の隣の椅子を引く。「座ってくれ。午後の始業まで、まだ間がある」

 

 「い、いえ、私はあちらで」慌てたように羽黒が言った。だが、ちらちらと提督を見る羽黒の瞳を見逃すほど、彼は付き合いが短いわけでも鈍感でもなかった。破顔してみせる。

 

 「そう連れんことを言わない。ほら、そこのマスコットが頬袋膨らますのを見物しようじゃないか」

 

 「マスコットじゃありません」丼を数え終えたらしい赤城が不貞腐れた。「というか、ここは目配せなりなんなりで『気を利かせろ』と私に主張するべきなんじゃないですか、ダメ男さん?」

 

 「気を利かせて食物を亜空間に消し去るマジックをもう少しだな」

 

 「誰が底なし沼ですかっ!」

 

 「自覚あるんなら少しは自重しような?」

 

 「あ、あのっ。私は、別に気になりませんし」羽黒がわたわたと手を動かした。危なげに揺れるお茶が湯呑みを飛び出さないのはもはや芸術の域である。

 

 「はぁ。羽黒さん?」赤城が嫌そうな声を出した。が、顔にはニンマリとした笑みを浮かべている。「私は羽黒さんと提督を見てると、自分がお邪魔じゃないかと思ってしまうし、お砂糖吐き出したくなるくらいには胸焼けするんですからね?」

 

 羽黒が音を立てて赤くなった。眼福眼福、と提督が口の中でつぶやく。ちらと眺めれば、赤城がサムズアップしていた。余計なお世話とはこのことである。いや、真っ赤になった羽黒はとても愛おしかったが。

 

 「さて、存分にごちそうになりましたし、存分に楽しませて頂きました」赤城がハンカチで口を拭いた。「おじゃま虫は退散します。どうぞ、ごゆっく――」

 

 赤城の言葉はそこで止まった。提督が目配せしたのだった。あ、そう言えば午後の演習で質問がと赤城が声に出して椅子に座り直した。提督が帽子のつばに手を当てた。赤城が腑に落ちなそうに目礼した。

 そうして続いた会話も、赤城の怪訝な表情を取り除けるようなものではなかった。ちょっとした任務関連の話を除けばどこにでもある雑談だけであったし、その任務にしたってただの演習のちょっとした事務上の問題がどうこう、という話であった。とてもではないが、わざわざ第三者が居て欲しい、と懇願される内容ではありえなかった。

 

 「では、練習用の弓矢は施錠なしの部屋へ、ということで」羽黒が取り出していたメモへ書き込んだ。

 

 「今日日、ただの弓道用の弓矢じゃ提督くらいしか殺傷できませんからね」

 

 「赤城。今日の昼飯代、やっぱり自分の分はお前がだな」

 

 「高度に鍛えられた提督の肌を貫くだなんて、私にはとても」

 

 「よろしい」

 

 「あ、あはは……。ともかく、明日中にはそうなるように手配しておきますね」

 

 「よろしくおねがいしますね」赤城が言い、ふと頬をほころばせた。「それにしても、慣れましたよね? 秘書艦業務」

 

 「? はい、まだまだダメダメですけどね」

 

 羽黒が真理を告げるように応じた。「いい加減、このくらいなら何とか。なんなら、赤城さんの部屋にボーキサイトを備蓄しておくような手配もできますよ?」

 

 「いえ、遠慮しておきます」赤城が笑った。「加賀さんと折半になっちゃいますから。結局その倍は用意してもらわないと」

 

 「う……幾らなんでも、部屋の容積を超える量を供給するのはちょっと勘弁を……」

 

 「人を何だと思ってるんですか!」

 

 「ご、ごめんなさいー!」

 

 はぐぅ、と羽黒が縮こまる。赤城と顔を見合わせ、次の瞬間にはお互いに笑いだした。

 

 「ほんっと、逞しくなちゃって……」赤城の頬のあたりが、一瞬だけひくついた。

 

 「皆さんに鍛えられましたから」ふんす、と羽黒が腕まくりした。鐘が放送用のスピーカーを通して鳴ったのはその瞬間だった。

 

 「あ、いけない」急にわたわたとし始めた羽黒が、ぐいとお茶を一気にあおった。「ご、ごめんなさい。午後の遠征の娘たちのブリーフィングとお見送りに行ってきます!」

 

 「ああ、お願いするよ」提督がぽん、と羽黒の頭に手を載せた。

 

 「はい!」

 

 羽黒が一瞬だけ目を細め、時間が惜しいとばかりに駆け出した。遠征艦隊は五分前行動が原則だから、そうでもしないと執務室まで間に合わないはずであった。

 

 「さて、赤城。お前も確か、もう少しで演習開始時間だったな」提督がとぼけたように告げた。

 

 「女々しいと」赤城が穏やかな笑みを浮かべたまま呟いた。「罵倒して差し上げるべきなんでしょうか、私は?」

 

 「俺にそういう趣味はないんだがな」

 

 「では、墓場まで持っていってあげましょうか?」

 

 「任せる。だが、できればそうしてもらえるとありがたい」

 

 「では、そのように」

 

 「ありがとう。一つ不安を取り除けた気がするよ」提督は赤城に目を合わせなかった。人間誰しも、照れた時の癖というものがあることを赤城は知っていた。もちろん無礼な行いには違いなかったけれども、赤城としてはむしろ自分にそういう振る舞いをしてくれることが好ましかった。

 

 「どういたしまして」赤城が笑った。「ここからはサービスですけど――やっぱり、どちらが先、なんて話はないと思います。説明は難しいですが、分けて考える事自体がおかしな話だと思いますし。せいぜい、成長というものでしょう」

 

 「どんなに逞しく、強くなっても?」自分で確認するように提督が口を開いた。

 

 「そうです。例えばペナン沖のように」

 

 「<羽黒>は、きっと何時でもそうだったのだろうよ」

 

 「そこまで言いきれるのであれば」

 

 「感情は論理的思考で必ずしも覆い隠せないよ。俺は凡人で、しかも人類史上初とかいう称号をそれなりに持ってる。前に言った気がするが、別に望んでいたわけではない。結局必要にはなったが」

 

 提督がありがとう、と続けた。どこか吹っ切れたような笑みだった。赤城の頬が、本人にしか分らぬ程度に膨らんだ。

 

 「提督」

 

 「おう」

 

 「34杯です」

 

 「……おう?」

 

 「34杯だった、と言っているのです」

 

 赤城が胸当て越しに左手を胸に当てた。深呼吸する。知らず、薬指の装飾具を撫でていた。

 

 「人を何だと思ってるんですか!」

 

 「頼りにしているよ」提督が、赤城に視線を合わせずに、しかし間髪をいれずに続けた。赤城が破顔した。甘い声で囁いた。

 

 「甲斐性なし」

 

 

 

 *** *** ***

 

 

 

 

 艦娘。もっと言えば、彼女たちに加えて鎮守府や提督、そして深海棲艦とそれとの戦争という一連の行為は、好むと好まざると社会全体に大きな影響を与えていた。

 例えば、有史以来初めて発生した人類種の生存戦争下で肥大化の一途を辿っていた軍部の政治権力は、文字通り降って湧いた艦娘と彼女たちが唯一その指揮下に入った提督――今や「提督」の単語と諸外国におけるその訳語を軒並み固有名詞化してしまった彼によってズタボロにされてしまったし、滅亡へのカウントダウンを読み上げ始めていた残存人類社会は、深海棲艦への徹底的な追撃戦を主張するまでに心理状況が転換していた。何れも、一組織――もっと言えば一個人が、人類史でも稀に見る武力を保有した結果であった。

 そして、社会が変容した以上、そこによって立つ各学問も変容せざるを得ない。

 趣味人の玩具であった歴史学、もっと言えば近現代軍事史は、もはや深海棲艦の特性と今後現れるだろう艦娘を予測するもっとも実践的なツールとなりはてていたし、社会学と政治学は単純な軍部独裁に行き着くと予想できなくなった現状にむしろ狂喜乱舞し、あるべき体制論を語っては政治家への理論武装と一般市民への失笑を提供した。

 しかしそんな中、艦娘そのものを対象とする学問は遅々として進まなかった。生物学は、DNA的に人間とまったく同種の生命体があれほど過酷な環境で戦闘に耐えうるという現実を肯定する例外法則をついに発見できなかったし、化学・物理学・工学のトリニティは伸縮自在にして軽量化と強度に優れ、かつ軍艦並みの威力と能力を発揮する各種艤装の解析にさじを投げて久しかった。要するに、人類は久しぶりに神代の奇跡を覗き見ていたというわけだ。

 そんな中、唯一気を吐く学問があった。心理学である。

 DNA的に人間と同等である、ということは、すなわち艦娘たちも知性を持ち、人間と同じく感情をもっているということにほかならない。つまり、艦娘であるということと鎮守府に住んでおり戦争に従事していること。この特殊な状況を十分に勘案した上で分析すれば、艦娘たちが何を考えて人類の戦争に首を突っ込んできたのか分かるかもしれない――以上が、心理学の言い分であり、大勢に支持されている主張でも有った。

 何しろ艦娘の出現当初はともかく、鎮守府単体で深海棲艦へと対抗できるようになった頃には、艦娘への脅威論が言論の自由の旗のもと横行していたのだ。「優れた艦娘」論――すなわち、「優れた人類」たる艦娘たちが、いつか身体能力や判断力で下位に立つ「劣った人類」、つまり既存人類、もっと言えば自分たちを排除し、新世界を築きあげるのではないか、という鎮守府と艦娘たちからしてみれば被害妄想も良いところな主張はそれなりの社会勢力を得ていたし、であれば将来的に敵対する可能性のある存在の行動原理を研究することは全く人類社会の利益と言えた。また、そこまでいかなくとも、艦娘たちの思考回路を知るということは、雲霞の如く世に溢れた艦娘脅威論でそこはかとなく不安になった一般大衆へと、根拠はあっても意味のない安心を与える藁に違いなかったのだ。

 こうして始まった心理学的研究は、当然極めて政治的意図の強い期待を受けるものであった。政治家・官僚・軍部を問わず、艦娘は維持されるべきというその一点については同意されていたから、あとは国民へのパフォーマンスだけというわけである。或いは鎮守府、もっと言えば提督自身も実を言えば歓迎していた一人である。艦娘たちの過去やプライヴァシー(という概念そのものを艦娘へ認めることにさえ議論が有ったが)を侵害しない限りにおいて、国民を安心させてやることは、彼の大切な娘達の安全と平穏へと直結するからだ。結局、提督がわざわざ艦娘心理学と名付けられた研究部門へ連絡を取り、成果を逐一受け取ることができるように要請したのは、巷に言われるような不利益な情報の検閲というより、むしろ利益になる情報をどうアピールしていくか先手を打ちたかったからという理由が主だった。そして、であるからこそ、現実というものはいつだって期待している方向とは別に動いていくという事実を目の当たりにする羽目になったのである。

 一般とは別に、艦娘心理学は政府上層部において次のように理解されている。すなわち、艦娘とはいったい何だったのか。その本質に限りなく近づくための推論を与えてくれる学問である、と。

 

 

 

 

 

 *** *** ***

 

 

 

 

 「ただいま」

 

 「おかえりなさい」

 

 提督が執務室に戻ると、朗らかな笑顔になって羽黒が出迎えた。もちろん、羽黒が一人きりで作業している時の顔を見ることなどできないから、「なって」というのは提督の想像にすぎないのだが、自惚れではないと確信する程度には彼と羽黒の付き合いは長かった。

 

 「艦隊は?」

 

 「ニから四艦隊は遠征に出ました。高速修復材(バケツ)メインの運用です。一艦隊はい号状況――想定大規模攻勢時演習に出師準備を完了しています。立ち会いますか?」

 

 「いや、いい。作戦参謀(おおよど)に任せよう」

 

 上等な革の椅子に座りながら手を振って応えると、羽黒が苦笑しながら資源の備蓄推移表を執務机へと置いた。グラフが右肩上がりを描いているのがすぐ分かる。典型的な、大規模攻勢(イベント)直前の光景だ。

 

 「安定的な右肩上がりだな」提督が頷いた。「控えていた通常出撃を一部再開させるか? 余裕ができそうだが」

 

 「大淀ちゃんとも相談がいりますけど」羽黒がうーんと顎に手を当てた。「止めるべきじゃないかと」

 

 「なぜ?」

 

 「直前になって遠征効率が落ちたことが何度かあります。深海棲艦の動きも現状活発とは言えませんし、大規模攻勢に全力を投じるべきです。資源の少なくなった攻勢は悲惨ですから」

 

 「例えば、初めての春季攻勢(2013はるイベント)のように?」提督が笑った。

 

 「はい」羽黒がつられて苦笑いした。あの時の混乱と失態を思い出したらしい。誤魔化すように続けた。「もしくは、あの戦争のときのように」

 

 「そうか」提督が一瞬だけ顔をひきつらせたが、羽黒は気づかなかった。「お前さんは生き字引のようなものだからな」

 

 「はい。最近、記憶も鮮明になってきた気もしますし」なんでも聞いてくださいと羽黒が胸を張った。頼もしさより愛おしさのほうが強かった。であるからこそ、危機感が高まる。

 

 「はは、頼りにしているよ。それじゃあ、参謀殿の言葉に従って、俺は大人しく椅子を温める仕事に戻るか」

 

 「居眠りはしないでくださいね?」羽黒がジト目で睨んできた。提督には前科がある。

 

 「しないよ。ほら、書類がこんなに」

 

 提督がいやいやといったふうに書類に手を置いた。ほとんど叩くように手をおいたからだろう。山となっていた決済済みの書類束、その頂上に置かれていた一括りのものが机から転がり落ちた。情けない声をあげる提督を尻目に、バサリと床に広がる。

 

 「ああ、もぅ。あわてないでください」羽黒が笑った。書類をまとめ、執務机の端でトントンと整えた。

 

 「む、すまんすまん。手が滑ったようだ」提督が気持ち早口になって詫びた。気分の焦燥がそこにしか出ていないのは教育の賜物だった。

 

 「はい。えぇと、『艦娘心理学 7月報告』ですか?」羽黒が書類のタイトルを読み上げた。「……プロパガンダ、まだやる気なんですか?」

 

 「なんだ、不満か」出来る限る鷹揚に書類を受け取りつつ提督が訊いた。

 

 「その。嫌な思い出しかないもので……」

 

 「日に日に反対が大きくなっているな、たしかに」

 

 「えぇ。ちょっと前までは、ここまで嫌な気持ちにはならなかったんですけど」羽黒が唇を尖らせた。

 

 「実感がなかったんだろう、きっと」提督が自分に言い聞かせるように言った。「何にせよ、そこまで心配するつもりはない。何も艦娘を神と崇めよ、とか言い出す訳じゃないんだ。そもそも、有効活用するかどうかもまだ何も決定していない。現状じゃただの資料だ」

 

 「だと良いんですが……」

 

 「なんだ、俺のことは信用出来ないか?」提督が膨れた。

 

 「まさか」羽黒が言った。冗談のじょの字も何も含まれていない、真剣そのものの声だった。「司令官さんですよ?」

 

 「ありがとう。だがな、羽黒」

 

 「はい」

 

 「その、だ。そうとう照れくさい言葉だからな、それ」

 

 羽黒がきょとんと提督を見つめた。次の瞬間、目が見開かれ、口が輪郭を失ってわなわなと震えだし、瞬間湯沸し器の如く真っ赤になった。ニヤニヤしながら提督が眺めた。

 

 「え、演習!」羽黒が大きな声を挙げて、更に恥ずかしくなったのか肌の赤み具合を増した。「演習、私も気になるので見てきます!」

 

 「どうぞ。頬が落ち着いたら戻っておいで」

 

 「し、失礼しますっ!」

 

 ドタバタと羽黒が出ていった。提督は、録画しときゃ良かった、と笑いながら見送り――長く大きなため息を漏らした。先程ある程度は払底されたはずの不安が、また少し大きくなったのだった。その理由となったものをまた意識してしまったからである。

提督が、先程落っことし、羽黒に拾ってもらった書類を手に取った。ぱら、とプリントをめくる。心理学の報告書を自称するだけあって、中身の文章は難解で、駆逐艦娘あたりなら読むのを投げ出すような代物であった。だがよくできた学術文書ではあるので、論旨だけは明快であった。

 

 『調査D:全艦娘と日本人平均の心理的差異について。結果:僅かに艦娘側の方が戦闘的なるも、特異値も含め誤差の範囲内と思われる。今後は国連軍及び旧自衛隊内調査との照合が必要か』

 

 『事象A:軽巡洋艦<那珂>の事例についての追加調査。結果:前回洗い出した追加質問について、概ね正答。ただし、前回調査時と同一質問に関して正答率に僅かな下降あり。自然忘却の範囲内かは現在不明。また、大戦時系の質問に対する正答率上昇中。因果関係不明』

 

 はぁ、とため息が聞こえて、提督は慌てて口元を抑えた。安堵する。羽黒が出ていってから侵入された気配はなかったが、それでも誰かに見られたらという可能性はゼロに押さえつけたかったのだった。

 赤城の言葉ではないが、たしかに女々しかった。こんな紙切れのお陰で揺れている自分が心底情けなかった。誰かに見られたくなど無いが、不安だけは募る。柄にもなく赤城に甘えたのもそのせいだった。そして、そんな醜態を他の艦娘に見られるわけにはいかないのだ。

 男は、もう一度だけ、今度はあたりにだれもいないのを確認してからもう一度ため息をつくと、書類を執務机にある鍵付きの引き出しへと放り込み、施錠した。そのまま、仕事に取り掛かる。異変を察知されたくなかったし、何より、仕事に集中すれば煩わしい思いは何処かへ消えてくれる、そう信じていたのだ。

 もっとも結論から言えば、後者に関しては遠征部隊が帰投するまでそんなことは無かったのだけれども。

 

 

 

 

 

 *** *** ***

 

 

 

 

 

 艦娘心理学が暗礁に乗り上げたのは、大方の予想通り極めて早い段階であった。

 生物学が解き明かした通りヒトと同定できたDNAによって構成された有機生命体は、まず間違いなく常人と同じ心理状態であり、また状況によっては一般的な精神病を患う可能性すらある。そんな仮説が大勢を占めたのは、驚くなかれ学会の発足から二月程度のことであった。当然ほくそ笑んだ艦娘維持派の政財軍の人間は積極的な情報公開を指示し、指示を受けた提督は提督で普段彼らからあれこれと言われる数多くの庶務よりも迅速にことを進めたのであった。不本意な形で国連上層部のあれやこれやといった政治劇に巻き込まれていた提督の、ちょっとした意趣返しというやつである。本人は当然否定していたが、実務を仰せつかった広報担当の重巡青葉がちょっとプロパガンダがすぎると泣きついてくるまでその事実に気づかなかったあたり、たぶん確実であろう。

 そうして完成した、意図して「残酷な状況における耐性は強い」とか「意思決定能力が平均より少し上」とかいう不利益な情報を排除して作られた、「優れた人類」などこの地上水上の何処にも存在しないという主張は、本来であれば今頃は日本列島から連絡の取れる全人類領域へと可及的速やかにばらまかれる手はずとなっていた。というか、当初はこの輸送のために艦隊の全力出動まで計画されていたくらいなのだから提督の本気が伺える話である。艦娘たちも特に否応はなく、まぁプロパガンダには嫌悪感を抱かれたけれども、とにかく私たちは怖がられるような存在ではないということを周知するのには軒並み賛成であった。

 そんな情勢だったからこそ、提督の驚きと焦燥はあまりにも大きなものになってしまったのだが。

 いや、タイミングは関係なかった。計画の無期延期を伝える封筒を開けてみて、いの一番に目にしたのが地下アイドルがどうしたとかいう意味を上手く取れない文書だったのだから、彼が真っ先に反艦娘派の怪文書を疑ったのも止むを得ない話である。

 

 

 

 

 *** *** ***

 

 

 

 

 「では、また明日。解散」

 

 遠征部隊のデブリーフィングを終え、提督の掛け声一過駆逐艦たちがぞろぞろと退席していった。執務室に残ろうという数奇なものは、まぁ実はそれなりに居るのだが、今日はそういうこともなし。何しろイベント直前のかき入れ時でも有ったから、提督の無い袖から補充される間宮券が遠征部隊にはばらまかれるようになっているのだ。贔屓のスイーツが消えることに比べれば、提督との語らいなど児戯に等しいのだ。一人の例外を除いて、だったが。

 

 「……解散、と言ったはずだが、那珂」

 

 「追い出そうたってそうはいきませんよーだ」

 

 軽巡洋艦・那珂がイヒヒと明るく笑った。「提督、今日は『早く帰れ!』ってオーラがビンビンに出てたからねー?」

 

 「……抑えていたつもりだったんだが」

 

 「あ、ならそれ成功してるから気にしないで。カマかけただけだしね」

 

 ギロリと睨むと那珂があらぬ方向を向いて口笛を吹き始めた。どいつもこいつも上官をなんだと思って、と提督が肩の力を抜く。であるからだろうか。那珂が真剣な表情に変わっているのに気づくのが一寸遅れた。

 

 「この前の」那珂がゆっくりと言った。「回答結果というか、調査結果、さ。戻ってきたんでしょう?」

 

 「どうしてそう思う?」

 

 「提督の立ち居振る舞い?」

 

 提督が顔を抑えた。那珂が軽く吹き出した。

 

 「おい」

 

 「ごめんごめん。まぁ、ホントのところはね、調査の時、担当してくれたあの人に何時くらいになるって教えてもらったから。まぁ、調査云々バラしてるんだから、回答がどうなるか教えるのに不都合もない、って判断じゃないかな」

 

 「そうか。というか、またカマを――」

 

 「けどね」提督の発言がピシャリと遮られた。「提督の立ち居振る舞いがおかしいっていうのも、本当だからね?」

 

 「……そんなにか」

 

 「そんなにではない、けど、事情を知ってる人間には気づかれてると思うよ? 大淀ちゃんとか。赤城さんは怪しいかも。あとは、ながながも感づいてはいるけど、よっぽどひどくならない限り口に出すつもりはないってところかな? 当人たちの問題だーが口癖だし」

 

 「そうか。いや、たしかにそうなんだろうな。気苦労をかける」

 

 「ほんとにね」那珂が苦笑した。「那珂ちゃんが気にしてないんだから、正直それでグチグチグチグチ暗くなられても困ります! というか、皆気にしてないのに、提督だけ悩みすぎ」

 

 「気にしてない、は言い過ぎじゃないか? 無理を――」

 

 「だーかーら! してないってば!」那珂が大声をあげた。「というかそれでも心配なんだったらもうちょっと強く言ってあげる? 多少なりとも不安があっても、それで提督とはぐはぐの関係が妙な方向にこじれるほうがよっっっぽど! 気になって夜も眠れないんだからね!?」

 

 「そ、そんなに心配されるほどか?」

 

 「……遠征部隊の出迎えってさ。基本秘書艦業務であって、提督っていたり居なかったりする程度じゃん? なのに、今日に限ってはぐはぐが居ないのって、もしかして提督が追い出して」

 

 「ありえない。断じてそんなことはしない」提督が強い調子で身を乗り出した。言ってから自分で驚いたくらいであった。「羽黒から、任務が立て込んでいると頼まれただけだ」

 

 「普通ならねー」那珂が演技ではないかと見まごうほどの大きなため息を吐いた。「言っちゃうとさ。提督のはぐはぐに対するもろもろが、今言った疑念を呼んじゃうくらいには信頼なくしてるから」

 

 「相当に深刻な心配を受けていることはよくわかった」

 

 「憮然としたってだめだよー」

 

 提督が押し黙った。ありとあらゆる反撃を封じられたと判断したらしい。気分としては、蛸壺にでも潜っているつもりなのだろうな、と那珂は思った。

 

 「それで、提督の不安がぶり返しちゃった那珂ちゃんの結果は? はぐはぐのこともあるし、見てみたいなー」

 

 那珂の言葉に、提督は無言で引き出しを開け、書類を差し出した。施錠されていたはずだが、そんなことは微塵も感じさせないような素早さだった。そこに慣れているのは突っ込むべきかせざるべきか、という問題を悩みつつ、那珂は書類を手に取った。

 

 「うわぁ、相変わらず文章硬い……。提督、那珂ちゃん、噛み砕いた説明が聞きたいな?」

 

 「俺の羽黒に対する態度に影響をもたらすような結論だ」ふくれっ面のままそっぽを向いて提督が答えた。

 

 「それ、大の大人がやっても可愛くないからね」まぁ、価値観の違う娘はここに大勢居るけど、と自分のことは棚上げしながら那珂が笑った。そのまま書類に目を通し、うーんと唸った。

 

 「異議があるのか?」

 

 「割と一杯」那珂が即答した。

 

 「まずさ、悲観的に書きすぎ。自然忘却の範囲内か不明って」

 

 「脳の専門家との調整がうまく行ってないらしい。もとは心理学発だからな。役所の仕事だ」

 

 「でもだからって、数問飛ばしただけだよ?」

 

 「それが、何か特殊な事例で無いとは誰も断言できない。前回答えている以上は尚更に」

 

 「そうかもだけどさぁ」那珂が唇を尖らせた。「単に忘れただけだと思うんだけどなぁ」

 

 「代わりに、戦時の記憶が鮮明になってきたのは? お前もプロパガンダ反対だったろう?」

 

 「まぁ、たしかにクリアになってきたところは、あるよ。でもねー」那珂が顔を思い切り顰めた。

 

 「何が言いたい?」

 

 「やっぱ過剰反応だと思うよ、那珂ちゃんはさ」那珂がまたため息を吐いた。

 

 「根拠は?」

 

 「そりゃ、那珂ちゃんは那珂ちゃんだもん」それで十分、と那珂が提督を見つめた。無言で続きを促される。解説役はキャラじゃないのになぁ、と唇が尖った。

 

 「私たちは艦娘。艦娘は艦娘であって他の何物でも無い。それだけの話なんだけどねぇ」

 

 「軍艦時代はどうした、軍艦時代は」

 

 「あの頃は艦だった。今は艦娘。そもそもあり方が違うもん」

 

 こいつはまた煙に巻こうとして、と提督がジト目で睨みつけ――そのまま止まった。真摯な顔で提督を見つめる那珂と目があったからである。

 

 「まぁ、色々と上手く説明できない話だし、はぐはぐが本当にそうかもわかんないからしょうがないけどね。那珂ちゃんだってぼんやりとしか説明できないし。いっそ、はぐはぐに直接聞いちゃえば? 秘書艦やってるだけあって、最近その手の説明ごとうまくなってきてるし、ね」

 

 「それができれば」

 

 「はいはい。怖いのはわかったから。まったく、こんだけ説明してるのに」

 

 那珂が応接用のソファに座り込んだ。足をバタバタとさせる。

 

 「まぁ、ね。忘れる方はそんな曖昧なことになっちゃうけど、でも思い出す方なら何でかってはなんとなくわかるよ?」

 

 提督が腕組みした。無言で続きを促す。

 

 「あの戦争の記憶が、なんだかはっきりしてきたって言うのは確かにあるよ」那珂が苦笑いしながら続けた。「単純にさ。一から十までなんか皆覚えてなかっただけ。軍艦だもん。戦うのは日常茶飯事で、茶飯事なんかおぼろげにしか覚えないよ」 

 

 「なら、何で鮮明になんかなる」

 

 「今は艦娘だから」

 

 那珂がそれだけ言って終わろうとしたので、睨みつける。首をすくめてから続きが出てきた。「例えば古い友人と一緒に暮らせばさ。ちょっとした思い出話は弾むし、そうしたらあああの時はこんなこともあったね、そう言えばあんな感じだったね、なんて芋づる式に思い出せるでしょ? ……うん、今がまさにそうかも。軍艦のとき、思い出話した記憶なんか無いもんね」

 

 「つまり、皆で一緒に思い出したから鮮明になり始めた、と?」

 

 「うーん、ニュアンス的に正しいような、外してるような」那珂が落第点を見つけた教師のように頭を抱えた。

 

 「他にどう受け取れというのだ。まさか、皆が皆イマジナリーフレンドを持っていて、絶えずそれと会話しているとでも?」

 

 「それもちょっと違う、か。いや、当たってるのかな?」那珂がうんうんと唸った。提督が続きを促す。

 

 「とにかく、今は一人であって一人じゃないから。教えたり教えられたり。それで、昔の記憶だってはっきりとしてきてる。結局、そこに軍艦の記憶と前世の記憶がかち合ってるからなんて要素は何もなくて、ただ全部ひっくるめて艦娘は艦娘なの。そこに、やれ自然忘却がどうこうとか皆が皆して難しく考えすぎて、余計わけが分からなくなってるっていうか、偶然と相関を見誤ってるというか、話がこんがらがってるというか」

 

 「つまり、何が言いたいんだ」返ってきた解答用紙を眺める子供のように提督が呟いた。本当に余裕ないんだなぁと那珂が何度めかのため息を吐いた。

 

 「何を忘れようが思い出そうが、那珂ちゃんは那珂ちゃん。はぐはぐははぐはぐ。提督の心配事は、ただの誇大妄想。今起きてることは人畜無害のよくある現象。――悲観的に考え過ぎるの、良くないかんね」

 

 提督が那珂を真っ直ぐに見つめた。けれども那珂はたじろがない。たじろいではいけなかったし――何より、たじろぐ必要もなかった。何しろ、那珂は事実を延べているのだ。後ろめたい思いをする必要なんて存在しない。

 しばし見つめ合ってから、提督が嘆息してうつむいた。どうやら、那珂が提督を鎮めようと嘘を口にしたのではないか、と疑っていたらしい。もちろん、その疑いは晴れたわけだが、だからといって提督の気が晴れるわけではない。気まずそうに机を人差し指で小突く。本当の意味で落ち着くまで、たっぷり1分ほどは追加で必要だった。

 

 「そんなものなのか」提督が机を叩いた痕を見つめながら呟いた。「そんなものだと、本当にみなして大丈夫なのか」

 

 「提督」気づけば、那珂は提督に近づき、その帽子越しに頭へと手をやっていた。「女々しいよ?」

 

 「知っている。昼頃に赤城にも言われた」

 

 「じゃあ、なおさら女々しいじゃん」

 

 「否定しない、いやできないか。ともかく、わかっている。わかっては、いるんだ」

 

 提督がうだうだとやったので、はぁと息を漏らしながら那珂がぽんぽんと帽子を叩いた。ここまで弱々しい提督を見たのも初めてである。そうさせる羽黒を妬めば良いのか、自分にも甘えてくれることを喜べば良いのか、那珂自身もわからなかった。一つ言えるのは、これを赤城さん相手にもやらかしたのかこの重婚野郎、という感想だけである。

 

 「まぁ、提督にこの言葉を言うのは心苦しいけどさ。何事も時間が解決してくれると思うよ?」ちら、と部屋の外に視線を動かしてから那珂が慰めた。

 

 「……思いっきり時間経過に依る症状なんだが」

 

 「あーもう、だからわかってるってば! ただ、いきなりだったし、ことと場合によっては重要な可能性もあったから、柄にも無く混乱してるだけでしょう?」

 

 「敵がよくわからないと言うのは堪える。知識では知ってたんだが」

 

 「はいはい」果たして敵なのやら、という言葉を飲み込んで那珂が笑った。苦味が多い。混乱、という二文字に関しては、以前の自分も人のことを言えないのを思い出したのだった。

 

 「まー、たしかに、良くわからない状況ではあるよね」那珂が疲れたように回想した。「青い顔して呼び出されてさ、なんだろーって思ってたら、いきなり『お前の前世は地下アイドルだった可能性が高い』だもんね。ほんと参っちゃったよ」

 

 地下って何さ地下って。那珂ちゃん有名人なのに、と那珂が力なく笑った。

 

 

 

 

 *** *** ***

 

 

 

 

 発端は、ほんの些細かつ馬鹿馬鹿しいものだった。

 今日日の研究職は必死な人間が多い。一般の生活では良くて困窮悪くて野垂れ死にという二択がそれなりの現実性をもって高待遇を探させるのに加え、非体育会系にとっては悪夢とも言える「徴兵」なる制度が復活して久しいのだ。今の若手の最前線を張る人間たちの多くは、理系研究職として徴兵対象外へ逃げ出そうとした第一人者たちであったから、成果至上主義者の反面、今や絶滅へと舵を切りつつあるサブカルチャーの最後の擁護者たちでもあった。

 その中の、それも艦娘心理学に携わっていた人間の一人にアイドル好きが一人いた。正直言って下心以外の何物も見えない動機で研究に携わった彼が、ふとある軽巡洋艦娘の写真を見たときに、記憶の片隅を刺激したらしい。大慌てで帰宅した彼は、秘藏されていた大量の荷物を一から十までひっくり返し――見つけたのである。川内型軽巡洋艦三番艦<那珂>にそっくりな顔と声をした地下アイドルの映像を。

 那珂と瓜二つなアイドルがいる。その事実になぜ件の研究員しか気づかなかったと言えば、それはある意味とても説得力があり、また関係者に頭を抱えさせる要因でもあった。もはや本名すら不明という扱いになってしまったそのアイドルは、ちょっとした紹介映像を撮った後、デビュー直前によりにもよってフェリー移動を選択してしまったらしい。悲しむべきことにそれは深海棲艦の襲撃が日本近郊で初めて確認された日であり――当時洋上を飛行あるいは航行していた航空機や船舶が一斉に消息を絶った日でもあった。憐れむべきことに、彼女はデビュー直前にして、深海棲艦の初撃で犠牲になった不幸な数千柱の末席を占めることになってしまったのだった。

 事態をしった関係者の行動は、「お役所仕事」という言葉の意味を書き換えねばならないほどに迅速だった。

 まず、例の研究員へは可及的速やかに極めて国家権力的な「お願い」が出され、即日「了承」ののちお宝品とともに「保護」されることに相成った。幸いにして、動画はネットへのアップロードすらされておらず、また那珂に酷似した彼女の情報は訃報欄の名前くらいしか存在し得ないと断定されたので、混乱が国民へと広がるのを阻止することには成功した。もっとも、言う人に言わせれば、国家が混乱しているだけでも問題であったが。

 泡を食った鎮守府を始めとする関係各所の調査は、混乱を助長するだけであった。確かに、那珂以外に生前似たような人物が実在していた例は、艦娘全体の二割に満たない数でしか無い。しかし、二割程度は確実に居たわけだし、その二割の人物の詳細を尽く検めた結果、かえって安心できない状態へと陥ってしまった。何れの人物も、本人及び親しい親族や知人友人まとめて深海棲艦の餌食になっていたのである。例の最初撃に巻き込まれた人間の他に、住民が全滅した離島部や、大混乱で一漁港がまとめて滅んだ片田舎など、偶然にも卒業アルバムや何らかのメディア写真の片隅に写っていて記録が残る人物が居た艦娘をすべてカウントして二割である。記録ごと消滅した可能性を考慮に入れれば、二割だって大変な量であり――艦娘と深海棲艦の関係は、思わぬところからも見直しが入ることとなってしまった。

 艦娘とは一体何なのか。漠然かつ情報不足すぎ、しかも人類の安寧のために必要不可欠とくれば、もはや一部の宗教家や例の「優れた艦娘」論者くらいしかまともに論じていない議論がそれであった。けれども、事態はことを過去形にせざるを得ない要素へと発展した。彼らは久しぶりに神代の奇跡を眺めていたのだ。そして創生・創造といった類のものもまた、神代の奇跡の産物である。それだけで十分であった。

半ば皆が努めて無視していたけれども、艦娘とは深海棲艦由来であるという仮説が巨大な状況証拠と共に提出されたのだ。端的に言って、「悪い」深海棲艦に「良い」深海棲艦を当てて戦っているという可能性は人類領域の士気を極端に下げる危険性があったし、最も悲観的な仮説としては、深海棲艦内部の内部抗争こそがこの戦争の本質であり、人類はそれに巻き込まれ被害を受けながらもなお一方へ援助を続ける道化、ということにもなりかねなかった。

 極秘裏に、艦娘心理学が最重要研究として資源配分を受け始めたのがこのタイミングだった。生物学的に人間である以上、その方面から艦娘が深海棲艦である可能性は否定できる。であれば後の問題は――精神的な汚染、すなわち洗脳の有無であろう。

 関係各方面の、余裕を失った圧力に晒された艦娘心理学の研究員たちは、しかし優秀さでは傑物としか言いようがなかった。或いは、それこそ対深海棲艦戦の前からこの方、基本的に有益扱いされてこなかった学問領域の人間としては、降って湧いた無尽蔵の予算(鎮守府からも機密費が流れていた)に狂喜乱舞せざるを得なかったか。この2,3ヶ月ほどで、艦娘心理学は様々な成果を挙げていた。もちろん、その大半は「常人と同じ」ということを証明したことだったけれども、政府上層部としてみれば取り敢えず深海棲艦とは別物である、ということが証明されただけで大きな政治的、そして何よりも当人たちの心理的安堵感を醸成するものであったから、大戦果といえる。当初全く期待されずに始まった研究としては、大躍進も良いところだった。

 問題は。

 そのいくらかでた例外的な成果が、提督の精神状態に多大な影響を与えていることだけである。

 

 

 

 

 *** *** ***

 

 

 

 

 自分は今まで何を忘れてきたのか。或いはそれさえわかれば苦労しないんだろうか、と提督が思った。

 あの後、那珂を追い返して仕事を片付けてから、提督は夕食も取らずに岸壁を歩いていた。本日はもう演習部隊や遠征部隊の帰還は無いから、誰にも会うことは無いはずだった。おそらく、食堂で自分の席を取ってくれているだろう秘書艦――羽黒のことだけが気がかりだったが、それについては忘れることにしていた。申し訳無さはある。先程あれだけ否定したわけでもあるし、知られれば那珂にはっ倒されそうだな、とも思う。だが、顔を合わせた方が申し訳ないことをしそうで仕方なかった。今日だけは、という言い訳を見つけてしまう程度には、その危惧の方が大きかった。

 ぼんやりと、月の薄い明かりを反射する水面を眺める。母なる大洋は、その懐に人類への悪意しか無い存在を湛えていようと、全くかつてと変わらず波しぶきを立てるだけであった。少なくとも、提督にはそう思えた。その雄大さ、広大さの前には、果たして大洋は本当に艦娘たちの母と呼べるのか、という深刻な疑問など、ほんの些細なものかもしれない。だが、提督は人間であり、一個人であり、自他共に認める些細な一人であった。

 お陰さまで、些細な苛立ちが増大しきったらしい。不機嫌そうに蹴り上げた足が、岸壁のコンクリート片を蹴り上げた。きれいな、とはいえない放物線を描いたそれは、気の抜けたような音とともに着水した。刹那、波紋が広がり、次の瞬間には何事もなかったかのような穏やかな波間が戻ってくる。提督が顔を顰めた。結局、ならばやりようが無いじゃないか、とかえって怒りが膨れた。

 那珂に、おそらく地下アイドルだった名も知れぬ少女らしき記憶がある、という情報を提督が知ったのは、一月ほど前のことであった。もって回った言い方なのには理由がある。名も知れぬ以上、家族構成やその名前、知人友人の名前などは調べようがなく、また当人も詳しくは思い出せなかったからだ。けれども、例の秘蔵品に記された極小の情報から芋づる式に発掘された、おそらく彼女の居住地域のあれやこれやに答えられたことは、まず間違いなく少女の知識とみなして良いことだった。いや、そもそもライブ会場の名前を答えられた時点で自明だったかもしれない。艦娘になってからそのようなことを知る機会が無いことは明白だったし――許可を得て見たネットの閲覧履歴からもそのようなものは見られなかった。一応、検索履歴に痕跡は有ったが、騒動が起こっていることを知った後だったから影響はまずなかろう、というのが提督を始めとするものたちの意見である。

 もちろん、こと大戦略の地平に置いて、それら全ての問題は不確定事項という但し書きがつけられて存在しており、しかもその優先順位は関係各所の努力のお陰で極めて低い。深海棲艦との関係さえ現実的なものでなければ、艦娘を使わざるを得ないのが今の人類であったから当然である。今までさえ摩訶不思議な存在だったのだ。そこに不気味が加わったところでなんだというのか。深海棲艦の如く、人を殺すわけでもあるまいに。滅びの際まで行った存在は図太くなるという普遍定理が導き出せそうな感覚である。

 その意味で言えば、なるほど提督は繊細であった。

 実を言えば彼は、騒動の極初期に、那珂を始めとした彼女たちに瓜二つの人物――提督は絶対に「生前」の二文字だけは使う気がない――について、メディア記録や映像を見ていた。それが義務感からだったのか私情からだったのかは彼にもわからなかった。ただ、気づいたときにはすでに見てしまっていたし――気づいたときには、もはや私情でしか動けないような状態だった。

 象徴的だったのは、そもそもことの発端となった那珂のそっくりさんのビデオであった。時間にしてカップ麺を調理できるかできないかの時間しかない動画である。にも関わらず、提督はその動画を無視できなかった。出来るわけがなかった。そこで緊張しながらも朗らかにアイドルとしての活躍を誓う彼女は、明らかに那珂であった。声や姿形だけの話ではない。口ぶり、身振り手振り、表情。見まごうはずがない。あれは提督の知る那珂が、記憶だけを取り替えて喋っているだけだ。何かしらの設定を受けて演技していると、何も知らない頃の提督に説明してからこの動画を見せれば、提督はきっと演技が下手なアイドルだなとからかい気味に罵ってやったことだろう。

 同じことは、写真媒体や文字媒体ならともかく、映像か音声が残っている艦娘に関してはすべて同じと言えた。もちろん、那珂を除けばそんな例は極少なく、あっても数秒程度のものであったから、果たして本当に判別がつくのかと冷静に問われれば首をひねるべきなのだろう。実際、提督も何度かそう言われている。しかし、無理だった。間違いなく、あれは提督の知る彼女たちだったのだ。

 提督が、岸壁に座り込んだ。穏やかになったとは言え、深海棲艦による沿岸部襲撃の記憶が生々しい鎮守府以外では決してできない行為だったが、気にはしない。いや、例えここが鎮守府の外であったとしても、提督は躊躇どころか喜んでそうしたであろう。もしかすれば真相に達せるかもしれないのだ。

 立ち居振る舞い、言葉遣い、姿形。人間、他人を認識するときに必要なのはおおよそこの3つであろう。であれば、その3つが兼ね備わった別人を、これは生物学的並びに常識的な見地からして云々であるから同一人物ではないし関係性もまずありえないですね、と言われて、はいそうですか別人ですね、と素直に納得できようはずがなかった。これは空気を肺へと取り入れる機能と胃に栄養素を送り込む役割をもった穴で、その2つは周囲の光を映像として捉えて脳みそへ送る器官で、などと一々説明されなくても、丸に点を3つ穿てば顔だと認識できる程度には要領が良いのが人間である。丸に点を3つ穿てば、斯く斯く然々と説明を受ける前に顔と認識してしまう程度には雑然としているのが人間である。愛しい娘御たちと同じ姿形で、同じように振る舞い、同じように喋る存在を、どうして別人だと思えるだろうか。

 水面にコンクリート片を投げつける。先ほどと以下同文。提督が大きくため息を吐いた。くてん、と不夜城のごとく光り続ける彼の鎮守府へ首を傾ける。声がかかったのはそんなときだった。

 

 「司令官さん。風邪ひいちゃいますよ」

 

 提督が慌てて居住まいを正した。彼の秘書艦が岸壁を歩いているのが見えたからだった。

 

 「羽黒。お前、こんなところで何して」

 

 「行方不明の司令官さんを探しに来ました。食堂、そのうち閉まっちゃいますよ?」

 

 「今日は、食わんでいい。さぁ、建物に戻ろう。羽黒の言うとおり、少し冷えて――」

 

 「隣!」早口でまくし立てる提督を、羽黒が遮った。「隣、座っても良いですか?」

 

 良いも悪いもなかった。提督がうんとかすんとか言う以前に、羽黒が提督の横に座り込む。流石艦娘、というべき速さであった。

 

 「お前、な」

 

 「こ、これで少しは暖かくなりますから」羽黒が言ったこととは別の要因で赤くなった。

 

 「まぁ、そうだが」

 

 提督が押し黙った。強引に押し切ろうという気は、座り込んだ瞬間に失せていた。調査結果が齎した写真媒体には、全島避難訓練に参加し、岸壁で座り込む一人の少女が写っていたのだった。今や忘れ去られた離島でのある風景であった。

 

 「何してらしたんですか?」羽黒が微笑んだ。このまま何もかも喚き散らしたくなるような笑みだった。

 

 「昔のことを、な」提督が言葉を選んだ。「考えていた」

 

 「思い出話ですか?」

 

 「そんなところだ」提督が渡りに船とばかりに便乗した。

 

 「一緒につるんでいた連中を、な。今はもう連絡すら取っていないが、つい昨日のことみたいに思い出せる」だから辛いのだ、とは言えなかった。

 

 「羨ましいです」羽黒が目を細めた。「私、姉さんたちや鎮守府のみんな以外に、そういう方はいませんから」

 

 果たしてそれは本当か、と喉元まで出てきてから、必死になって提督は言葉を飲み込んだ。本当に、何も思い出せないのか。何も思い出せないままなのか。それとも――思いだせなくなったのか。

 

 「羽黒は」提督が絞り出すように言った。「逞しく、なったな」

 

 「皆さんのおかげです」

 

 「そういうところがな、逞しくなった」

 

 「司令官さん?」

 

 羽黒が不思議そうにこちらを見つめてきた。立て続けに褒められたからか、こころなしか頬が赤くなっている。だが、夜にも映える真っ赤ではない。以前はそうだったと言うのに。そうならなくなったのは、大変好ましいことだと言うのに。

 

 「初めて会ったときを覚えているか?」提督が聞く気もない質問をぶつけた。「海の上で保護されて、何も分らず慌てているのを皆にフォローされていて。俺の前に来たときなんか、恐縮しきってて、見てるこっちが緊張したよ」

 

 「ちょ、司令官さんっ。あ、あれはまだ慣れてなかったからですからっ!」

 

 羽黒があわあわと赤くなった。思わず提督がぶっと吹き出す。どう言葉を交わせばいいのか混乱しきった羽黒が言葉尻にいきなりごめんなさいっと付けてきた時と同じ反応であった。

 

 「もう。羽黒、これでも気にしてるんですよ?」むすっと羽黒が膨れる。提督が笑みを消した。感情表現が素直になったのも、思えば最近のことである。

 

 「羽黒」

 

 「なんですか、司令官さん? 謝っても知りませんよ?」

 

 「変わったな。本当に」

 

 羽黒がきょとん、と提督を見つめた。はぁ、と体の奥底から思い息が出てきて出てきて辛かった。

 

 「逞しくなったとか変わったとか」羽黒が困ったような笑みを浮かべた。「そんなに言うほどですか?」

 

 「ああ」

 

 「即答されると反応に困るといいますか、何と言いますか」羽黒があははと小さく笑った。

 

 「本当に」提督が口を開いた。言葉がここまで重くなれるものだとは、今の今まで知らなかった。「初めて会ったときとは別人のようだ」

 

 羽黒から穏やかな笑みが消え去った。冗談の延長のような言葉だった。提督がそれを狙っていたのだから当然である。それがこうなるということは、もはや本人にはわからないほどに取り繕え無くなっているのだな、と提督はぼんやりと思った。現実に押しつぶされつつある今では、そのくらいしか思考が回らなかった。

 

 「司令官、さん?」

 

 「なぁ、羽黒」

 

 提督が羽黒に向き合った。意を決した、と本人でも言えないことがたまらなく苦痛であった。けれども、苦痛でもなんでも仕方なかった。そうしなければならない、と思っているのは彼自身なのだから。

 

 「お前、軍艦だったころからそうだったのか?」

 

 提督の声は震えていた。羽黒がただただ提督を見つめた。

 

 「司令官さん?」

 

 「人見知りする軍艦っていうのも珍しいからな」提督が茶化した。「進水の後、乗り込む一人ひとりに一々ごめんなさいごめんなさい言ってるのを想像すると」

 

 「正直、あまり覚えていないんです」

 

 提督が作り笑いを浮かべたまま固まった。羽黒の真摯な表情から逃れられないのだった。心臓が、嫌な音を立て始める。

 

 「記憶は確かにあるんです。いろんな人達が居て、いろんな港に寄って、姉さんや、皆さんと身を休めて、それから――皆で戦って」

 

 羽黒が自分の袖を握りしめているのに、提督はようやく気づいた。混乱で迂闊なことを言うべきじゃない、と今更ながらに思うが、後悔先に立たずである。

 

 「羽黒。辛い記憶ならば」

 

 提督が慌てて口に出す。だが、他ならぬ羽黒が、寂しげな顔で頭を振った。

 

 「正直、どう思ってたかはわかりません。もしかすると、そもそも思ってすら居なかったのかもしれません。そういうものだと。何をするときもそんな感じがあったのかも。皆さんとも話したはずなのに、話した内容も覚えているのに、人となりをどう感じたとか、そういうことは何も覚えていないんです」

 

 羽黒が海の向こうを見つめた。提督が誘われるように同じ方向を向く。提督の記憶と肌感覚が正しければ、水平線の彼方、提督の視線のはるか先には、深海棲艦との戦争以降避難船が到着することもなく「放棄」された島々が存在しているはずだった。ここ最近、漸く思い出したのだった。

 

 「だから、那珂ちゃんが言ってたみたいに、最近になってから思い出すようになったんですよ。人としての心があれば、違った見方が出来るようになりますから」

 

 提督が慌てて羽黒に向き直した。困ったような笑みを浮かべて自分を見つめる秘書艦がそこにはいた。その様があんまりにも平静としていたから、提督は口をただただ開けたり閉めたりするだけで丸々一分は使ってしまった。

 

 「お前、話を聞いていたのか?」

 

 「遠征部隊の出迎えは秘書艦の職務ですから。例え、那珂ちゃんに部屋には入るなと言われたとしても」

 

 提督が、先程那珂がわざとらしく自分を詰っていたのを思い出した。なるほど、わざとか。

 

 「してやられたわけか。全く」

 

 「那珂ちゃんなりに、司令官さんを心配してくれた結果ですから」

 

 提督が項垂れた。それでいて羽黒が全く平然としていることが特に提督を苛んだ。自分が女々しいだけというのを羽黒自身に指摘されるのは、流石に堪える。

 

 「羽黒は」提督がほとんど八つ当たりのように言った。「いや、他の皆もか。自信があるんだな」

 

 「何の、でしょうか?」

 

 「自分が変わらんという自信、さ」

 

 提督がコンクリート片をみたび投げ捨てた。波紋が海原に飲み込まれていくのをじっと眺める。

 

 「場合によっては、どちらかがどちらかを塗り上げてしまうことだってありえるんだ。事が記憶ならまだ良いさ。だが、記憶に留まっていなければ、どうなる?」

 

 「どうもなりませんよ」羽黒が穏やかに断定した。「ただ、羽黒は羽黒のままですから」

 

 「それを」

 

 「司令官さん」

 

  羽黒が意を決したように提督に身を寄せた。寒空のもとで、温もりと呼ぶ他無い感触が服越しに感じられた。

 

 「怖がらなくて、大丈夫ですよ?」

 

 羽黒が提督を覗き込んだ。言葉とは裏腹に、瞳にはどことなく不安げなものが浮かんでいる。なるほど、自分がこうさせたわけだ、とある種爽やかさすら感じられる罪悪感が満ちてきた。

 

 「わかっている」提督が吐き出すように言った。気持ち、羽黒の側へ重心を動かすと、温もりは提督をすっぽりと覆うかのようだった。

 

 「だがな。俺が見てきたのは、何処かおどおどしていた、臆病な羽黒だったんだ。それが羽黒だと信じ切ってきたんだ。それに変化があるとしても、好ましい成長のはずだったんだ」

 

 言い切った頃には、提督は羽黒に背中を撫で擦られていた。これが単なる成長だと、核心を持って言えるのならばどれほど楽だったんだろうか、と思ってからすぐに頭を振った。自分で前々から結論を出していたことを思い出したのだった。論理的思考で感情を押しのけることは誰でも出来ることではないのだ。そして安心とは、いつだって感情の上に片足立ちで立っているものである。凪でさえ揺れるものを、況んやとしか言えない。客観的に見て変化と成長に区別がないのであれば、変化は変化としかみなせないのだから。

 

 「それでも」提督の体が押し返された。「それでも、私たちは、私達なんです。どちらが、ということもなく」

 

 提督に無言で続きを促され、羽黒がまた海の向こうを見やった。

 

 「<羽黒>が沈んだ時」羽黒が目を細めた。「痛いとか、苦しいとか、その時は全く思っていませんでした。ただ、もう少し浮かんでいたかったなぁって。その時は、きっとそれしか」

 

 「今は、違うと?」

 

 「はい」羽黒は海の向こうから目をそらさずに頷いた。

 

 「たぶん、痛いとも思っていたんだと思います。苦しいとも思っていたのかも。もう少し、っていうのは、未練と悔しさがごちゃまぜになってたからだって」

 

 「腑に落ちないな」提督が空を見上げた。「誰かに教わったからわかったわけでもあるまいに」

 

 「教わったんですよ」羽黒の目が細まった。「私に」

 

 提督がぼんやりと羽黒を見つめ、ハッとしたように羽黒の視線を再び追った。暗い水平線しか見えない。しかし、羽黒はその一点から決して目をそらしていなかった。

 

 「私は軍艦です。そうなったわけでも、そうなりたかったわけでも、そうなりたくなかったわけでも無いんです。ただ、私は軍艦で――大切なものだけは、守れたし、守りたかったし、守れるべきだった」

 

 「守るも攻むるも黒鉄の」提督が口に出した。「浮かべる城ぞ頼みなる」

 

 「その詩を認めちゃうと少し気恥ずかしいですけど」羽黒がはにかんだ。「そういうもの、でしたから」

 

 「<羽黒>は」提督が海の向こうを眺めた。万里と続く海原が厳然としている。「羽黒から何を教わったんだ?」

 

 「教わった、っていうわけでも無いんです」羽黒が首を振った。

 

 「ただ、思い出そうとすると、思い出せるんです。その時、どういう風に感じていたのかって」

 

 羽黒が頬を掻いた。上手く説明できないらしい。無言で頷いてやると、困ったように笑いながら、ぽつりぽつりと言葉が出てきた。

 

 「いろんな人に会って話を聞くのは楽しかったんです。身を休めるのは、気持ちよかったんです。親しい人と話せるのは、嬉しかったんです。そして」羽黒が一瞬口をつぐみ、意を決したように呟いた。「死ぬのは怖いし、悔しかった」

 

 提督が海の向こう側を眺めた。相変わらず、島々は影も形も見えないが、なぜだか羽黒の言葉でかつての島々が明確にイメージできた。いいところだったんだろうな、とぼんやりと力が抜ける。

 

 「沈んだときのこと、時々思い出すんです」羽黒が、口に出している内容からは想像できないほど呆気なく言った。顔は、困ったように笑っている。

 

 「水底に沈んでいった時、女の子の悲鳴が聞こえた気がしたんです。息が出来なくなった時、鋼鉄が軋む音が聞こえた気がしたんです。笑っちゃうくらい全然違う音だったんですけど、でも同じにしか聞こえなかった」

 

 「悔しい、かい?」

 

 提督が何かを察したように尋ねた。羽黒が首を横に振った。

 

 「怖い、もですよ」

 

 提督が海原を眺めた。見れば、岸壁に波濤が当たっていた。予定調和のごとく砕けたそれは、中空を控えめに舞い、そのまま海原へと落着した。当然、それ自体がまた波紋を広げた。水滴もまた、同じくらいとまでは行かないけれども、あたりへと撒き散らされながら、その光景を縮小再生産する。けれども、海原は揺らがないし、水滴もまた揺らがなかった。水滴はコンクリート片とは違ったからである。水滴は海から生まれ、海に帰り、そうしてまた海になっただけなのだ。波が起きようが飛沫が飛ぼうが、それは海であったし、海から変わることもなかった。つまりは、そういうことだった。

 

 「なるほど」提督が薄く笑った。羽黒には見覚えがある笑みだった。明石まで修理に駆り出される時、よく提督が浮かべる表情だ。「つまり、何から何まで俺のから騒ぎだったわけか」

 

 「でも、嬉しかったですよ?」羽黒がいたずらっぽく笑った。

 

 「よしてくれ。消えてなくなりたくなる」提督が羽黒から顔を遠ざけた。

 

 「それは困ります」

 

 誂いやがって、と文句を言おうとした提督の口が止まった。穏やかな笑みを湛えてはいたが、羽黒の顔は真剣そのものだった。

 

 「さっき口ずさんでくれた歌の対象。今は、司令官さんもなんですから」

 

 提督が黙って海を見つめ続けた。傍目に、平静さを保とうとしていた羽黒が徐々に真っ赤になっていくのが見えた。色々と琴線に触れる言い方をしていた自覚はあったらしい。こう、自信満々にしたあとで墓穴を掘っている様を見るとこう――ああ、なんだ。提督が嘆息した。やっぱり、わかってはいたんじゃないか。

 

 「変わらないな、羽黒は」提督が吹き出すように笑った。何かを吹っ切るような笑い方だった。

 

 「それはそうですよ」羽黒がふいと頬を膨らませた。

 

 「いろんな無念が有って、いろんな無念が会って。そうして、私と私は羽黒に成れたんです。私は私ですし、私でもあるんです」

 

 だから、と提督の秘書艦は続けた。海原をどこまでも進んで行きそうな勢いであった。

 

 「だから、私はずっと私のままです。どちらが先でどちらが後、なんて話はありませんから」

 

 羽黒が、提督に腕を絡ませた。

 

 

 

 

 

 *** *** ***

 

 

 

 

 

 

 鶏が先か、卵が先かという有名な問いかけがある。鶏は卵から生まれるが、その卵は鶏が産む。では、先に現れたのは鶏が先か、卵が先か――

 

 「卵が先です」

 

 赤城が丼を空にしながら断定した。提督が財布を見つめながらため息を吐いた。

 

 「その心は?」

 

 「カツ丼美味しいです」

 

 赤城が次のカツ丼に取り掛かりながらそう宣うた。そろそろ20では聞かない空き丼がテーブル周りへうず高く積まれている。赤城のトレンドは急転直下で転進を遂げていたのだった。もちろん、それは大規模攻勢(イベント)が想像以上にすんなりと進み、間宮さんと鳳翔さんがカツカレー用に揚げすぎたとんかつをどう処理するか迷った結果でもあったけれども、それだけで10も20も消えていく方がおかしいのだから、やはり赤城の趣味趣向の与件も大きかろう。

 

 「といいますか」赤城がごくんと口の中のものを飲み込んでから言った。「まさか、まだうじうじしているわけでは無いでしょうね?」

 

 「根に持つね」

 

 「墓場まで持っていくつもりですので」

 

 「墓標に茎と葉っぱが絡まってきそうだ」

 

 提督がおちゃらけたように言ってから、こほんと咳払いをひとつした。赤城の顔に、半分ほど真剣なものが混じっているのに気がついたのだった。

 

 「案ずるな。本当に、吹っ切れたんだ」

 

 「なら、良いんですが」赤城がカツ丼に意識を戻さずに言った。「結局、どう結論づけたのです?」

 

 「うん」提督が笑みを浮かべた。「鶏も卵も、その後先に意味は無いよ」

 

 「でしょう?」赤城が苦笑いしながら箸を取り直した。「やっぱり、私が言った通り無意味な問答だったんです」

 

 「いや、問答自体は無意味じゃないさ」

 

 赤城がはむはむとカツを食みながら提督を見つめた。行儀が悪いぞ、と注意してから提督が続けた。

 

 「人類が鶏を飼い始めたのは、一説によれば約8000年前。仮にこれが誇張的な発想だとしても、4000年くらい前には家畜として人と共に有った、という話らしい。まぁ、人類史的なタイムスケールはともかく、一般論としてどちらにせよ古馴染みには変わるまい」 

 

 何やら語り始めた提督を尻目に、赤城はカツ丼を口に運んだ。8000年だか4000年だか以来のお友達になる予定だった有機物が、カツとご飯に絡まり合って胃袋の中へと突入していった。

 

 「挙句、今の中国か東南アジアで発祥した家畜としての鶏は、あれよあれよと人の手で世界中へと広まった。新大陸になんて、もともと鶏なんぞいなかったのに、例の括弧書き付きの発見のあとに持ち込まれて戦争前じゃ最大の産地だ。もちろん、日本にだって大陸経由の伝播だ」

 

 「……あの、話が見えないんですが」赤城が面倒くさそうに続きを促した。

 

 「つまり、だ。人類がこれだけ鶏だ卵だといい始めたのもその辺というわけだ」

 

 「はぁ?」

 

 「司令官さーん!」

 

 唐突に提督が呼ばれた。昼休憩に入った羽黒だった。嬉しそうに手をブンブンと振っている。昼食を取ったらすぐにこちらに来るつもりらしい。

 

 「いわゆる四大文明が出来上がったころから、鶏は常に人類とともに有った」提督が羽黒を見つめながら続けた。「当然、文明がある程度成熟し始めたころにはこう思うはずだ。こいつら一体なんだっけと」

 

 「つまり、あの問いかけは美味しいごはんが何処からやってきたかを思い出そうとする高尚な試みだったと?」

 

 「外れてはいないが、当たっているということでもないな」

 

 提督に釣られたように赤城もまた羽黒を見つめた。わたわたと、しかししっかりと昼食を選び取り、盆に載せる。当然のごとく、湯呑みも2つ置かれていた。

 

 「つまりだ」

 

 早足でこちらにやってくる羽黒に微笑みかけながら、提督が要約してやった。

 

 「大切に思ってるからこそ、くだらないことでも真剣に考え始めるし、考えるからこそ悩み始めるし、悩むからこそ何か答えを出したくなるのさ」

 

 「司令官さん。ご一緒しますね」

 

 「おぅ」

 

 羽黒が提督の隣の席へと座った。自然な動作で湯呑みを提督の目の前へと置く。ありがとう、と断ってから茶を啜る音とそれを楽しそうに見つめる羽黒が視界に映った。だが、赤城はそれどころではなかった。

 

 「……? 赤城さん? どうしたんですか?」

 

 羽黒が不意に問いかけた、無理もない。若干顔を青くした赤城が、胸とお腹のあたりをしきりにさすっていた。しばし、半分以上残った丼の中身と見つめ合う。が、赤城とて引き際をわきまえないわけではないのだ。

赤城がまず丼を机においた。箸をその上に揃えて置く。その一挙手一投足をぼけっと見つめる提督と秘書艦を尻目に、赤城は両手を合わせ、言った。

 

 「ごちそうさまです。いやもう、本当にごちそうさまです」 

 

 一拍置いてから、天変地異だ何かと騒ぎ始める目の前のコンビを視界の隅に追いやりながら、赤城は天を仰いだ。鶏と卵、或いは艦と艦娘。どちらが先かはわからなかったけれども、一つだけ確信したことが有った。

 

 絶対、惚気が一番先だ、と。

 

 

 

 

 









羽黒といちゃいちゃする話を書く予定がどうしてこうなった

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