カワルミライ   作:れーるがん

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そうして彼は、その部室へ足を踏み入れる。


  自分の中の大切な何かがスッポリと抜け落ちた感覚。

  そう言われて理解できる人は一体何人いるだろうか。多分俺自身、そんな事を言われても理解出来ないだろう。

 でも、今俺が感じている妙な虚無感はそう言わないと説明が出来ない。

 何か、大切な何かを忘れているような。

 例えば、妹の小町の事を忘却してしまったと言うのならこの感覚にも納得が行く。

 だが俺は愛する小町の事をしかと覚えているし、俺が愛する小町の事を忘れるなど、俺がリア充になるのと同じくらいあり得ない事なのだ。

 

 同時に抱く懐古心。

 それは決まってある人物を視界に収めた時だった。

 例えば、クラスのトップカーストに所属するお団子頭だったり。

 例えば、一見不良のように見える青みがかった黒いポニテだったり。

 例えば、ジャージを着て少女のような容姿をした銀髪だったり。

 例えば、あざとらしく振る舞い男子を弄ぶ亜麻色の髪だったり。

 

 そして例えば、今目の前で、猫のブックカバーがされた文庫本に視線を落としている濡羽色の髪だったり。

 

 

 

 

 

 

 職員室で俺の作文を大きな声で読み上げた現国教師、平塚静に連れられて特別棟のとある一室に来ていた。

 巫山戯た作文の罰として奉仕活動を命じるとか言われたから、嫌々渋々不承不承とついて来てみると、その教室には見事に何もなかった。

 隅っこの方には机や椅子が無造作に積み上げられている。倉庫にでも使われているのだろうか。他の教室と違うのはそこだけで何も特殊な内装は無い。至って普通の教室。

 けれど、そこがあまりに異質に感じられたのは一人の少女がいたからだ。

 少女は斜陽の中で寂しげに本を読んでいた。

 世界が終わった後も、きっと彼女はここでこうしているんじゃないか、そう錯覚させるほどに、この光景は絵画じみていた。

 ---不覚にも、見惚れてしまった。

 

 ああ、まただ。

 また、妙な懐かしさに襲われる。初めて見た景色の筈なのに、彼女とは初対面の筈なのに。

 

「平塚先生、入るときはノックをとお願いした筈ですが」

 

 少女の声でハッと我に帰る。

 

「ノックをしても君は返事をした試しがないじゃないか」

「返事をする間も無く先生が入ってくるんですよ」

 

 はぁ、と呆れたようなため息を一つ落とし、その凛とした眼差しを俺に差し向けて来た。

 

「二年F組比企谷八幡くん、ね?」

「え、あ、はい」

 

 突然名前を言われて吃る俺。仕方がない。だって名前を知られてるとは思わなかったし。

 俺もこの少女を知っている。

 二年J組雪ノ下雪乃。

 普通科よりも二、三偏差値の高い国際教養科の中でも異彩を放つのが彼女だ。

 容姿端麗、成績優秀、校内で知る人ぞ知る超有名人。

 一方で俺は知る人ぞ知らないぼっち。何故そんな俺のことを彼女のような生徒が知っているのかは気になるところだが、今はさしたる問題ではない。

 

「なんだ、比企谷の事を知っていたのか。なら話は早い。彼は入部希望者だ」

「えっと、比企谷です。......って入部ってなんだよおい」

「彼は見た通り目と根性が腐っていてな。彼の更生が私の依頼だ。ここに置いてやってくれないか」

「ちょっと待って、俺の意思は?」

「そんなもん関係ないに決まっとろう。異論反論抗議質問口答えは一切認めない」

 

 ふえぇ、この教師横暴だよぉ......。

 つーか、俺の目ってそんなに腐ってる?目を見ただけで腐った根性も丸っとお見通しなくらい腐ってるの?

 

「......分かりました。彼の入部を認めましょう」

 

 少し考える素ぶりを見せた後、雪ノ下は先生の発言に肯定で返した。

 

「意外だな、君なら最初は反対するかと思ったのだが」

「その口振りから察するに、最終的にはその男をここに置いていくつもりだったのでしょう。それに、平塚先生からの依頼とあらば無碍には出来ません」

「そうか、ならよろしく頼んだ。私は仕事に戻る。あとは二人で上手くやりたまえ」

 

 そう言い残して、平塚先生は教室を出て行った。

 上手くやれ、か。雪ノ下はそのスペックから考えうる限り、リア充側の人間だと推測される。そんな俺がこいつと上手くやれるわけがない。

 

「突っ立ってないで座ったら?」

「あ、はい」

 

 思わず敬語で返してしまった。

 隅に積み上げられている椅子を一つ拝借し、置かれた長机の端っこ、雪ノ下と対角の位置に腰を下ろす。

 雪ノ下は文庫本に目を落とし、こちらに話しかける様子はない。まだここがなんの部活だとか聞いてないんだけど。

 

「何をソワソワしているのかしら?」

「いや、この部活がなんなのかまだ聞いていないと思ってな......」

「そう、ならゲームをしましょう。この部活の名前を当てて見なさい」

 

 と、言われても。ノーヒントである。

 そんな中で名前を当てろだなんてこいついい性格してやがるな。

 いや待て、ヒントならこの教室自体がヒントではないか。

 

「部員はいないのか?」

「いないわ。私一人だけよ」

 

 そう言った彼女の横顔はどこか物憂げで、ここではないどこかを見ているように見えた。

 いや、これは俺の勝手な勘違いかもしれないけど。

 

「文芸部、だろ」

「その心は?」

「特別な環境、特別な機材を必要とせず、部員がいなくても廃部にならない。つまり部費を必要としない部活だ。加えてあんたは本を読んでいた」

「残念、ハズレ」

 

 フッ、とこちらを小馬鹿にしたような笑い。

 今だけで俺の中のこいつの印象が更新された。

 こいつあれだ、絶対性格悪い。

 そして部の名前は分からない。

 

「....奉仕部」

「え?」

 

 分からない筈なのに、気がつけば口から言葉が漏れていた。

 なんだ奉仕部って。名前だけ聞くとイカガワシイ部活にしか聞こえないぞ。

 失言だったかと思い、チラリと雪ノ下の方を見てみると、彼女はその顔を驚愕の表情に染めていた。

 え、もしかして当たり?

 

「知っていたの?」

「あ、いや、勘で答えただけだ。以前部活紹介かなんかでその名前を見たことがあったからな。んで、平塚先生には奉仕活動を命じるって言われて連れて来られたし」

 

 早口で答えるが、そんなのは嘘だ。

 何故その名を答えたのか、俺にだって分かっていないのだから。

 

「そう......。あなたの言う通り、ここは奉仕部。途上国にはODAを、ホームレスには炊き出しを、持てない男子には女子との会話を。

 それがこの部の理念よ。

 これからよろしくね、比企谷くん」

 

 先ほど見せた物憂げな表情とは違い、とても柔らかな優しい笑顔で、雪ノ下雪乃は俺を歓迎した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、ぼーっと特に何を考える訳でもなく全ての授業をこなした放課後。

 教室を出ようとしたら平塚先生に捕まった。

 

「さぁ比企谷、部活の時間だぞ」

「言われなくても分かってますよ......」

「なんだ、拍子抜けだな。君なら一目散に家へと逃げ帰ると思ったのだが」

 

 平塚先生の言葉は何も間違っていない。

 いつもの俺なら、部活なんてやってられるか面倒クセェ!俺は家に帰らせてもらうぜ!と死亡フラグじみたことを言いながら逃げようとして、平塚先生のファーストブリットを食らわされているところだろう。

 結局帰れない上にやっぱり死亡フラグじゃねぇかよ。

 

 だが、上手く言えないのだが、あの部室へ足を運ぶことを何故か嫌にならない。

 寧ろ行きたいとさえ思ってる。

 

「ふむ、なるほど......遂に比企谷にも春が来たか。そうかそうか」

「いや、何を勘違いしてるのか分かりませんがそんなんじゃないですから」

 

 これだけはハッキリさせておかなければならないが、断じて雪ノ下雪乃に惚れているわけではない。

 確かに彼女は可愛い。これは覆しようのない事実だ。だが、昨日片鱗を見せた性格の悪さを俺は忘れていない。きっと俺を容赦無く罵倒してくるタイプだと確信を持って言えるね。

 

「そうかそうか、比企谷に春が来たか......。だと言うのに、私は......」

 

 ちょっと、一人で勝手に鬱モード入らないでくれます?しかも春が来たとかそんなんじゃないって言ったでしょうが。

 

「ま、精々励みたまえ」

 

 白衣を翻し去って行く平塚先生の後ろ姿は、昨日の雪ノ下の横顔の数倍寂しく見えた。

 誰か早く貰ってあげてくれ。

 

 

 

 

 奉仕部の部室を開き、まず目に飛び込んで来たのは、昨日はそこになかったはずのもの。

 窓側に置かれたティーセットだ。

 そしてそのティーセットの前では、雪ノ下が紅茶を淹れる準備をしていた。

 

「うす」

「こんにちは。どうやら逃げずに来たようね。今紅茶を淹れるから待っていて」

「......なんで紅茶?」

 

 素直に疑問をぶつけて見た所、返って来たのは意外な言葉だった。

 

「趣味なのよ。折角部員が増えたのだし、振る舞おうかと思って」

 

 趣味、と言うのは嘘ではないようで、雪ノ下は楽しそうに紅茶を二つのティーカップへと注ぐ。

 誰だよ雪ノ下の性格が悪いとか言ってたやつ!めっちゃいい子じゃねぇか!

 

「どうぞ。ゾンビのあなたに紅茶の美味しさが分かるとは思えないけれど」

 

 前言撤回。こいつやっぱりいい性格してやがるぜ。

 

「人をゾンビ扱いするのやめろ。腐ってるのは目だけだ」

「目が腐ってるのは否定しないのね......」

「つか、やっぱりお前性格悪いのな。普通会って二日目の男子をゾンビ呼ばわりとか無いぞ?」

「そう?てっきりあなたは言われ慣れていると思ったのだけれど」

「......お前、友達いねぇだろ」

 

 その質問に対する答えは直ぐに返って来なかった。

 つい、と雪ノ下は視線を窓の外にやると、昨日と同じあの表情で呟いた。

 

「一人、いたわ。とても大事な友達が」

 

 いた。

 過去形と言うことは、今はもう友達では無いと言うことか。それとも、もう会えない人物なのか。

 まぁ俺がそこを詮索しても意味のないことだ。

 答えに窮してしまったので、誤魔化すように手元のティーカップを口元へ運ぶ。

 美味い。

 紅茶のことはよく分からない俺でも美味いと分かる程には。

 

「あー、この紅茶美味いな」

「そう?なら良かったわ」

 

 自分の淹れた紅茶が褒められたのが嬉しかったのか、一転して柔和な笑みを見せてくる。

 やめろよお前見てくれは良いんだからそんな笑顔見せられるところっと惚れちゃって告白して振られるだろうが。って振られちゃうのかよ。

 しかし意外だ。

 俺の勝手なイメージだと、雪ノ下はもっとこう、鋭利な刃物を思わせるような雰囲気だと思ってたんだが......

 いや、手前勝手な幻想を押し付けてはいけない。勝手に期待して裏切られるのは中学時代でもう懲り懲りだ。

 

 基本性格は悪いが優しくて、紅茶を淹れるのが上手くて、時々毒を吐き、時々、凄く寂しげな笑みを浮かべる。

 昨日今日会ったばかりの俺が彼女について知っている事なんてこれだけ。

 知っているなんて言うのも烏滸がましい程だ。

 だから、雪ノ下のことをこれからもう少し知ってみよう。

 なんて、らしくも無いことを思ってしまった。


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