カワルミライ   作:れーるがん

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とうの昔から、比企谷八幡は雪ノ下雪乃に。

 千葉有数の高級ホテルであるホテル・ロイヤルオークラ、その最上階にあるバー『エンジェルラダー』

 そこが川崎沙希が働いているかもしれないと言われる場所だ。どうもドレスコードが存在するらしく、それを突破できる服装を持ち合わせているのが俺と雪ノ下しかいなかったため、他は自宅で待機してもらっている。

 俺は親父のスーツを借りて小町に髪の毛とか色々セットしてもらった。その時に、カフェで何があったのか聞こうとしたら

 

『お兄ちゃん、世の中には知らない方が幸せな事ってあるんだよ......』

 

 とどこか遠い目をして言われたので、もうその件に関しては詮索しない事にする。

 

 さて、俺は現在待ち合わせ場所である雪ノ下の家の真下に来ているわけだが、なんかめっちゃ高級マンションだった。

 しかも一人暮らしらしいのだが、俺に家の場所教えちゃっていいの?いや、部屋番号までは聞いちゃいないからまだ良いんだけどさ、もう少し警戒心と言うのを持って欲しい。

 そんなマンションのロビーで待つこと数分。

 下に着いたら連絡をくれと言われていたので先ほどメールしたのだが、これ冷静に考えると雪ノ下と二人きりだよな?

 やばいどうしよう。昼間は周りに他の奴らがいたからなんとかなっていたものの、二人きりになってしまうとどうなるか分かったもんじゃない。

 

「比企谷くん」

 

 透き通るような綺麗な声が聞こえた。

 振り返らずとも誰か分かる。どうやらタイムリミットのようだ。うだうだと悩んでないで、出たとこ勝負で行くしかないか。

 覚悟を決めて振り向いた瞬間、まるで時が止まったかのような錯覚に陥った。

 雪のように白い肌を際立たせる漆黒のドレス。髪の毛はあのピンクのシュシュで纏めて胸の前に垂らしている。

 まるで完成された一つの芸術品のように、雪ノ下雪乃は立っていた。

 普段見慣れた制服とはまた違った服装だからだろうか、胸の動悸が収まらない。

 完全に雪ノ下のその姿に心を鷲掴みにされているのを自覚する。

 

「その......どう、かしら?」

 

 控えめに上げられた雪ノ下の声でハッと我に帰る。目の前に佇む絶世の美少女は、恥ずかしそうにこちらの顔を覗き込む。

 どうやら化粧をしているらしく、いつもよりも大人びた雰囲気のその顔に、またどきりと胸が鳴る。

 何か言わなければと思うが、言葉が上手く出ない。それどころか、脳みそも上手く回っていないのではなかろうか。

 

「あー、なんて言うか、そのだな......めちゃくちゃ似合ってる」

「そう、ありがとう......」

 

 そう言って、雪ノ下は花のような笑顔を浮かべた。

 そんな顔されたらまた心臓が煩くなっちゃうでしょうが。

 

「と、取り敢えず行こうぜ。確かロイヤルオークラだろ?」

「え、ええ。タクシーを呼んであるから。それを使いましょう」

 

 なんだかおかしな空気が漂って来たのでそれを無理矢理霧散させるべく、早速目的地へと向かう。

 雪ノ下が呼んでおいたと言うタクシーに乗り込むも、車内では終始無言。

 いつもの心地いい静寂ではなく、ただ、話すべき言葉が見つからない。

 結局互いに一言も喋らないままタクシーは目的地に到着した。

 

「でけぇ......」

 

 千葉を愛する千葉県民である所の俺だが、流石にこのホテルをここまで間近で見たのは初めてだった。そもそも縁が無かったのだし当たり前だ。

 そんな俺はその高級さとでかさに圧倒されていたが、隣の彼女はそうでもないらしい。

 

「あまりキョロキョロしていたら不自然よ。堂々としなさい」

 

 車内で色々と切り替えたのか、雪ノ下はいつもの凜とした表情で、堂々とホテルの中に入っていった。なんか場慣れしてる感じがする。

 

「すげぇなお前。よくこんな所に来て気後れしないな」

「父が県議会議員と建設会社の社長なの。だからこう言う所は慣れているのよ」

「イイトコのお嬢様だったのかよ......」

 

 普段の所作から滲み出る上品さや、高級マンションに一人暮らし、さらには入学式の日の黒塗りハイヤーなどから実家はそれなりに金持ちなのだろうとは思っていたが、まさかそこまでデカイ家だとは。

 かたや俺はごくごく一般的な庶民である。こいつと一緒にこんな所来て良かったのかと今更ながら思ってしまう。

 

「ほら、エレベーター来たわよ」

「お、おう」

 

 促されてエレベーターに乗る。他に人はおらず、またしても雪ノ下と二人きり。

 そう言えば、彼女に言っておかなければならない事が一つあった。

 

「昨日、悪かったな」

「え?」

「その、一緒に帰れなくて......」

 

 なんか凄い恥ずかしいことを言ってる気がするが気のせいだ。別にそう言うのじゃない。ただ、素直に申し訳ないと思ったからそれを口に出してるだけ。

 一瞬驚いたような顔をした雪ノ下だったが、直ぐに笑みへと変わる。

 

「謝らなくてもいいわ」

「いや、でもだな......」

「大丈夫、分かっているから」

 

 まるで癇癪を起こす子供を宥めるような、そんな優しい声色だった。雪ノ下はそっと俺の手を取り、握りしめてくる。

 

「ちょ、雪ノ下さん⁉︎」

「あなたは人の好意を素直に受け取れないものね。何か裏があるんじゃないかって、直ぐに疑ってしまう。信頼して欲しいとは言ったけれど、それは仕方のないことよ」

 

 繋がった掌から温もりが感じられる。その温もりを離したくなくて、つい握り返してしまう。

 雪ノ下の顔に少し赤が混じるが、また一つ微笑んでから更に握り返してくれる。

 

「分かって欲しいのではなくて、知っていたいのよね。知らないことは怖くて不安になるから。知って安心したい。だから偽物は必要なくて、いつまでも本物を求め続ける」

 

 ガラス張りのエレベーターから一望出来る千葉の夜景を見下ろしながら、雪ノ下は言った。

 俺が最も嫌うもの。

 欺瞞、猜疑、偽物。そんなものは求めない。本物と呼べる関係を、ただそれだけを求めて。

 そんな俺の考えを、雪ノ下は言い当てた。いや、言い当てたのではないのだろう。雪ノ下自身の言葉でもない。それは彼女が話している時の雰囲気で察せられた。

 

「もしかして、そのシュシュをくれた奴の言葉か?」

「ええ。よく分かったわね」

「何となくだよ」

「あの男は、もしかしたら私達がそうかもしれないって、私達がそうだったら良いって、そう思ってくれていた。私も、彼と彼女がそうだったらいいと思っていたのだけれどね」

 

 あんなに人を好きになったのは初めてだったわ、と。

 以前、由比ヶ浜の依頼の時に少しだけ聞いた。

 その男のことを、少なくとも雪ノ下は好いていたと。

 それを思い出した途端に胸の内にモヤモヤしたものが広がる。ここ最近毎日のように感じるものだ。言葉では形容できないような。よく分からない感覚。

 いや、本当は俺もわかってるのかもしれない。分かっていて、分かっていないフリをしているだけなのかもしれない。

 だって、これは今までに何度も抱いてきた感情で、そのどれとも一線を画すような想いで。

 

「人を好きになるって、どう言うことなんだろうな......」

「さぁ、どうなのかしらね。そんなもの、個人によって違うのではないかしら」

 

 エレベーターの扉が開き、最上階へと到着した。

 俺の手を握ったまま歩き出す雪ノ下の顔を見て確信に至る。

 

「お話はおしまいね。仕事の時間の比企谷くん」

「おう」

 

 とっくの昔に、比企谷八幡は雪ノ下雪乃に恋しているのだ。

 

 

 

 

 

 

 さて、それを自覚したところで俺が今やるべきことは変わらない。

 幸いにと言うかなんと言うか、この手の感情からくる胸の昂りへの対処法は心得ている。伊達に黒歴史を積み重ねていないのだ。

 

「背筋が曲がってるわよ。しゃんとしなさい。それと顎は引いて」

「お、おう......」

 

 俺の手を握る隣のお嬢様が怖い。

 エレベーターで見せていた笑顔は既に引っ込んでしまい、いつも部室の外で見せている冷たい雰囲気とキリッとした目つきで、雪ノ下は店内にいる一人のバーテンダーを睨んでいた。

 ウェイターが案内してくれた席は幸いにもそのバーテンダーの前の席。

 

「川崎沙希さん」

 

 そのバーテンダーの名前を、雪ノ下は絶対零度の声色で呼んだ。

 なんでそんな無駄に喧嘩腰になるのん?

 

「......雪ノ下雪乃」

 

 川崎沙希は驚きの表情を浮かべて名前を呼び返す。雪ノ下は川崎のことを知っていると言っていたが、川崎も雪ノ下のことを知っていたらしい。

 まあ、こいつ有名人だもんな。知られてて当然か。

 

「ここはあんたの年齢で来るような場所じゃないと思うけど。まさかそんなのとデート?」

 

 声には必要以上に敵意が混じっている。嘲笑するように、侮蔑するように。

 俺のことをそんなの呼ばわりの時点で喧嘩売ってるようにしか聞こえない。

 いやまあクラスメイトに覚えられていないのは今に始まった事じゃないけどね。

 

「川崎さん、口には気をつけなさい。それ以上比企谷くんの事を嘲笑うのなら」

 

 潰すわよ、と。

 雪ノ下雪乃は最早殺意さえ込めた声と目で言い返す。

 流石の川崎もそれに気圧されたのか、ウッと言葉が詰まる。

 ぼくのおもいびとがこわいです

 

「......ご注文は」

「私はペリエで。彼にはジンジャエールを」

「かしこまりました」

 

 一旦会話は中断。川崎はドリンクを準備する。因みにペリエとはヨーロッパではポピュラーな炭酸水で、それを置いていない飲食店は無いと言われるほどだ。フランス語の俗語ではペリエのボトルの事を胸が小さく尻の大きい女の意味があると言う。別にここでその説明を挟んだのに他意はない。

 はぁ、と隣から溜息が聞こえて来たのでそちらを向くと、雪ノ下はこめかみに指を当てていた。そのポーズ好きですね。

 

「どうした?」

「いえ、なんでもないわ。前と違うようにと心掛けていたのだけれど、難しいものね......」

 

 前とはいつの事を言っているのかを問おうとした時、俺たち二人の前にグラスが置かれる。先ほど雪ノ下が注文したやつだろう。

 

「その様子じゃ私に話があって来たんでしょ?いいよ、聞くだけ聞いたげる」

「あら、随分と素直なのね」

「何しに来たのか、気になるところではあるからね」

「では単刀直入に。あなたの弟の川崎大志君から依頼があったの」

「大志から?」

 

 川崎の目に再び敵意が宿る。どうやらこいつも相当なブラコンのようだ。

 しかし雪ノ下はそれを意にも介さず、話を続ける。

 

「姉の帰りが遅くて心配だ、だからその理由を知りたいとね」

「......そう。大志が迷惑を掛けたみたいだね。一応姉として謝っておくよ。

 それで?私の帰りが遅いのはアルバイトをしてるから、それが分かったわけだけど、それを知ったあんた達はどうすんの?」

 

 言外に、これ以上うちの家族の事情に首を突っ込むなと、そう告げているようだった。

 昼間にも懸念していたことだ。川崎家の事情に、俺たちがどこまで首を突っ込むべきか。

 だが甘いぞ川崎沙希。お前が相対しているのは誰だと思っている?

 お前の目の前にいるのは、過剰な正しさと鮮烈な優しさを併せ持った雪ノ下雪乃だぞ。

 

「アルバイトをしていることはご両親に話しているのかしら」

「それって答える必要ある?」

「ではアルバイトをしている理由は?ただお金が欲しい、それだけの理由ならわざわざ年齢を詐称してまでここで働くことはしないでしょう」

「それだけだよ。私は私のためにお金が欲しい。アルバイトをする理由としては何も間違っちゃいないじゃん」

「......そう言うことか」

 

 合点がいった。川崎沙希が年齢を詐称してまでこうして深夜にアルバイトをしている理由。恐らく、雪ノ下は既にその答えに辿り着いているのだろう。

 

「なに?」

 

 ギロリと睨まれた。

 怖い。

 

「いや、千葉の兄弟姉妹は素晴らしいなと改めて思っただけだ」

「意味わかんない。バカじゃないの?」

「川崎さん?」

 

 ニコリと微笑む雪ノ下。

 こっちも怖い。

 

「なぁ川崎、お前がどうして金を欲しがってるのか、親や大志に何も言わないのか、当ててやろうか?」

「は?」

「確か、大志は四月から塾に通うようになったんだってな。最初はその学費の為かと思ったんだが、現時点で塾に通えてる時点でそこは既にクリアしている」

 

 川崎は黙って聞いている。

 雪ノ下も口出ししてくる様子は無い。

 

「だが、学費が必要になるのは何も大志だけじゃない。総武は進学校だからな。殆どの生徒の進路は進学希望だろう。それはお前も例外じゃない。違うか?」

「......はぁ。だから、大志には関係ないって言ってたのよ」

 

 俺の推理を認めるように大きくため息をついた川崎は、ボリボリと青みがかった黒髪を掻く。

 そう、川崎家に置いて学費の問題がクリアされたのは大志だけだった。大志は高校受験を控えた中学三年。川崎は進路を意識しだした程度の高校二年。どちらを優先すべきかは各家庭によりけりかもしれないが、川崎はブラコンである。ならば自分から固辞したのだろう。自分に金を使うくらいなら、大志に使ってやってくれと。

 しかし、仮にも進路を意識しだしたと言うのであれば塾にも通おうと言う考えにも至る。その学費を賄う為に、川崎はこうして深夜から早朝にかけてまでアルバイトをしている。もしかしたら進学用の資金まで見越してるのかもしれない。

 

「家族に迷惑を掛けたくないから、だから何も説明しなかったってことか?」

「そ。私の勝手な都合なんだから、私自身でどうにかするしかないじゃん」

 

 川崎のその考えは嫌いじゃない。

 人間、自分のことは基本的に自分一人で解決すべきなのである。そこに余人の介入は許されない。人は皆常に一人で生きている。ぼっちだろうがリア充だろうが同じ事だ。だから、誰にも頼らず自分だけで事を済ませようとした川崎のそのやり方は間違いではない。

 

「それは違うわよ川崎さん」

 

 だが、しかし。雪ノ下はそれを否定する。

 

「家族に迷惑を掛けたくなかったら心配を掛けてもいいのかしら?いいえ、答えは否よ。対話もせず、ただ一方的に決めつけて一人で行動を起こす。それは愚かな選択だわ」

「あんたに、うちの家族のなにが分かるっての?あぁ、そう言えばあんたの家、父親が県議会議員なんだってね。そりゃ私たちみたいな家庭の苦労なんて分からないだろうさ」

「そんなもの分かるわけないでしょう。あなたが私の家族の問題を理解できないように、私にはあなたの家族の問題なんて理解出来ないわ。でも、一つだけ言えるとしたら」

 

 一拍おいて、目を瞑る雪ノ下。何かを思い出しているのだろうか。かつての後悔を、かつての間違いを。

 その刹那の沈黙で、俺は手前勝手にもそう感じた。

 そして、再び開かれた目はいつもの強い光を携えており、しかし奏でる言葉は柔らかな声色だった。

 

「家族というのは迷惑を掛けて、心配も掛けて、それでもどうしても離れられないような人達なの。いえ、もしかしたらあの人達にとっては迷惑でも何でもないかもしれないわ。

 無条件に私たちの味方になってくれる。それが家族。だから、あなたもしっかりと対話することね。でないと、お互いにとんでもないすれ違いをする羽目になるわ」

 

 ソースは私、と最後に茶化すように付け加える。

 雪ノ下の家のことも、川崎の家のことも俺は知らない。きっとそれを理解するのはそれぞれの家族だけで十分なのだろう。寧ろ他人が下手に干渉してはいけない。

 だから俺たちは今回、川崎が両親や大志と少しでも対話できるようにと後押しする為にやってきた。

 そのための魔法の道具を、授けてやらなければなるまい。

 

「川崎さん、スカラシップって知ってるかしら?」


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