結局話し合いは纏まらず。
いや、逆にあれで纏まってたら凄いんだけど、そんな事有り得るはずもなく、そのまま解散、明日に持ち越しとなってしまった。
その後は男女で別れて入浴し、寝泊まりするバンガローへと戻ってきている。
「はーやとくん!何読んでんの?エロ本?」
「違うよ。教材のPDFファイルだ」
「隼人君っべーわー。こんな所でも勉強とかマジっべーわー」
凄くいづらい。戸塚が今日来ててくれればこのアウェー感も無かった筈だが、今更そんな事を言っても仕方がないだろう。
......戸塚とお風呂入りたかった。
「てか、隼人君頭いいのにこれ以上良くなってどうすんべ?国語とかめっちゃ順位上じゃん」
「そんなことはないよ。まだ上に雪ノ下さんがいるからな」
はい、分かりましたー。分かっちゃいましたー。俺がどうして万年三位なのか。そりゃ上二人が常にその順位をキープしてたら万年三位になっちゃうよな。
しかし、イケメンでスポーツ万能の成績優秀とか、俺に可愛い妹がいなければ負けてる所だったぜ。
「そんな事よりも、折角なんだし恋バナしようぜ!」
そんな事ってお前が葉山に勉強の話振ったんだろうに。
クソ、本格的に居場所が無くなってきたぞ。戸部の事だからこっちにも話振ってきそうだし、そうなったらキョドッて碌に返事も出来なさそうだし。
ここは戦略的撤退しかあるまい。
「俺ちょっと外で涼んでくるから。勝手に消灯しといてくれ」
「あ、ああ分かった」
一応一言断りを入れてからバンガローを出る。よし、これで戸部の追求は免れた。いや、あのままあそこにいても何も話しかけられない可能性もあるんだけどね?その考えは悲しいので持たないことにしている。だからと言って話しかけてくれるかも、と期待しているわけでも無いが。
千葉村の夜は涼しい風が吹いている。遠くでは鈴虫の鳴き声が聞こえ、空には満天の星空。
こう言えば聞こえはいいが、実際は月と星の明かり以外にこの山の中を照らすものはなく、暗闇が広がっていて超怖い。
そんな中、とても微かな歌声が聞こえてくる。静寂に包まれた夜だからこそ、俺の耳に届いたのだろう。
雪ノ下雪乃は、空を見上げながら歌っていた。
それはとても美しい一枚の絵のようで。何ものにも犯されない神聖さを感じさせる。
だと言うのに、その瞳は悲しみの感情に塗れていて。彼女一人で完成させられているはずの絵は不完全なままだ。
俺はその理由を知っている気がする。でも、どうしても思い出せない。
俺は一体、何を忘れて
「森の中でゾンビに襲われる美少女。まるでB級ホラーね」
唐突に聞こえた言葉でハッと我に帰る。
雪ノ下は未だ空を見上げたままだが、今の言葉が俺に向けられたものだと言うのはなんとなく分かった。
「居場所が無くて部屋に居づらくなった?」
顔をこちらに向けた雪ノ下はクスリと笑った。その笑顔にまた心を奪われてしまう。
「元から居場所の少ない可哀想な子なんでな。て言うか、自分のこと自分で美少女とか言っちゃうのかよ」
「あら、美的感覚は主観でしか無いのだから。ここでは私の言うことが正しいのよ?」
「無茶苦茶な理論だが筋は通ってる気がする......」
言いながら雪ノ下の前に躍り出て、近くに生えている木に寄りかかるようにして腰を下ろす。すると、雪ノ下はムッとした様子でこちらに歩いてくる。
え、なに?俺なんかした?怖い怖い怖い。
「そんなに離れる必要もないでしょう」
「いや、そんなに近づく必要もないよね?」
俺の隣に腰を下ろす雪ノ下。なんか凄い近い。風呂上がりなのか、シャンプーのいい匂いが鼻腔を擽り意識が持って行かれそうになる。木が太いものだったから良かったが、もう少し細かったらヤバかった。
「で、お前はこんな所で何してたの?」
「お風呂から上がったら三浦さんがまた突っかかって来て......」
なんだまた三浦か。シュンと肩を落とすのを見るあたり、まさか丸め込まれたのだろうか。流石は炎の女王様。本気を出したら氷の女王に勝てるとかやるじゃん。
「三十分かけて完全論破して泣かせてしまったわ。大人気ないことをした......」
氷の女王強すぎだろ。
「さしもの雪ノ下雪乃も涙には弱い、か」
「まさか泣くとは思ってなかったのよ」
「それで居づらくなって出て来たってわけか?」
「ええ。今は由比ヶ浜さんが宥めてくれているわ」
「居場所が無いのはお互い様じゃねぇか」
「本当ね」
顔を見合わせて、自然と笑みが零れる。
距離の近さなんて気にならないほどに、今この瞬間がとても心地良い。
そのはずなのに、脳の片隅では嫌な考えが過ぎる。
雪ノ下雪乃は、明らかに俺と由比ヶ浜に隠し事をしている。
嘘は吐きたくないと宣言した彼女だが、雪ノ下だって俺たちと変わらない人間だ。言いたくないことがあったらはぐらかすし、間違えたことを言うときだってあるかもしれない。
変な幻想は押し付けるな。身勝手に相手の気持ちを決めつけるな。でないと、決定的な勘違いをしてしまう。
「あの子のこと、何とかしてやらねぇとな」
「......あなたからそう言うなんて、珍しい事もあるのね」
暗い思考をぶった切るように口を開く。
雪ノ下は本当に意外そうに目を丸くしていた。
「でも、そうね。何とかしなければならないわ。きっと、彼もあの時のことを気にしてる」
彼、とは葉山のことだろう。とすれば、昼間のあの行動についてだろうか?
昼のあの時、雪ノ下は留美には一瞥するだけで、その後は葉山へと視線をやっていた。一体どのような心持ちで葉山を見ていたのかは彼女のみぞ知るところだが。
「なぁ、お前葉山となんかあんの?」
「小学校が同じなだけよ。うちの会社の顧問弁護士が彼の父親なの」
所謂幼馴染ってやつか。
ふむ、イケメンでスポーツ万能の成績優秀おまけに可愛い幼馴染がいると来た。
こう、上手く言葉に出来ないんだが、死なないかな。
一方の俺はと言うと顔はそこそこで文系教科が得意で国語が学年三位おまけに可愛い妹がいる。
......よし、互角だ!可愛い妹がいなければ危なかったぜ。負けを知りたい。
「あなたは何か、策を思いついてるの?」
「無いってわけじゃないが、今の状況だと何とも言えないな。せめて明日の予定さえ分かればそれに沿うようにしてある程度組み立てが出来るんだが......」
それに、一色の言った通りに留美の意思もしっかり確認していない。そんな状況で動いて良いものかどうかも判断しかねる。
「明日は小学生は昼に自由行動。私達は夜にやるキャンプファイヤーと肝試しの準備。それが終われば自由行動よ。その上で、あなたの考え、聞かせてくれるかしら?」
肝試しか。それは使えるな。
だが、話してしまっても良いのだろうか。今俺の頭の中にある解決方法は我ながら最悪の一言に尽きると思う。だが、俺にはそれしか取れる選択肢がない。最も効率的に、合理的判断を下すならば何も間違ってはいないはずだ。
「......やる事は至極簡単だ。鶴見留美を取り巻く人間関係を一度徹底的にぶち壊す。みんながぼっちになれば争い事も起きずに万事解決だ」
「それは、誰が手を下すの......?」
俯いて、こちらの顔を覗き込むように目だけで俺を見る雪ノ下。その表情からは彼女の心理は読み取れない。ただ、その声色は、口に出した言葉とは全く違うものを問うてるように聞こえた。
「出来るやつがやるしかないだろ。葉山達はそもそも認めないかもしれないし、お前や由比ヶ浜にやらせる訳にもいかない。一色なんかはそう言う腹芸に向いてそうだが、生徒会長になりたいって言うあいつの本来の目的から考えるとやるべきじゃない。小町は言わずもがな。なら、残った俺しかいないだろ」
考えなくてもわかる事だ。今のメンバーの中で、俺の策を誰が実行するかなんて。そもそも立案者が俺だと言うなら、俺がやるのが筋ってもんだろ。
雪ノ下は何も答えない。ただ立ち上がって、俺の前に立つ。俺も自然と腰を上げていた。
もしかしたら呆れられたかもしれない。こんな最悪な考えしか思い浮かばないんだ。それも当然っちゃ当然か。
「あの修学旅行の時の焼き直しね......」
「は?」
修学旅行?焼き直し?こいつは一体何を言ってるんだ?
その言葉はまるで理解できないのに、次に言われる言葉が何となく分かってしまう。
「あなたのやり方、嫌いだわ」
「......っ!」
冷たい目で、冷たい声で、雪ノ下雪乃は俺のやり方を否定した。
今までも何度かそれを向けられて来たが、そのどれとも違う。敵意すらも滲ませる明確な否定の言葉。
「あの時はちゃんと言葉に出来なかったけれど、今なら出来る」
瞬間、周囲の景色が一変する。森の中に居たはずなのに、そこは灯篭の置かれている竹林になっていて、雪ノ下も俺も制服を着ていて。
いや、これは錯覚だ。そもそもこんな場所、見覚えが......、ない、のか?本当に?
いや、違う。確かに俺はここに来たことがある。思い出せ。忘れてはならない記憶の筈だ。
「自分を傷つけてまで、周囲を救おうとするそのやり方が嫌い。あなたはそんなものなんともないって言うかもしれないけれど。でも、嫌なの」
たどたどしくも言葉を紡ぐ雪ノ下。ともすれば余計なことまでスラスラと口にする彼女が、自分の気持ちを言葉にしようと必死に口を動かす。
「比企谷くん一人が傷ついて、他の人はハッピーエンドだなんて、私は認めない。効率的だとか、合理的だとか、そんなものはどうだっていい。あなたがそのやり方しか知らないのも、あなたに与えられた選択肢がそれしか無いのも知っている」
そう、同じ言葉を、あの竹林で投げかけられた。今とは違って、否定ではなく拒絶の意思を持って。
「でも、それでも、嫌なのよ!あなたが一人で傷を負う事が、あなたが周囲から貶される事が!」
叫びが木霊する。これが、雪ノ下雪乃の本音。偽らざる本物の心。
---そうか、こいつはあの時、そんなことを言おうとしてたのか。
漠然とそんな思考が脳裏をよぎる。
あとは芋づる式に、あの時の雪ノ下の言動の真意を図る事が出来てしまった。
修学旅行での俺の行動を必死に拒絶して、だから自分の思う最も正しいやり方で生徒会選挙に立候補して、生徒会長になれれば、俺にも陽乃さんにも持てないものを持てれば、彼女が本当に救いたい何かが救えると思っていた。
でも、それではダメなんだと彼女は気がついたんだ。きっと、彼女が救いたいと思っていたのはそんな事をしなくても救えるもので。
ただ、拒絶せずに受け入れて、否定するだけで良かったんだと。それを、この
「雪ノ下」
なら、俺が返すべき言葉は一つのみだ。
「ありがとう」
あの日々を経て、あるいは今の日々があって、俺だって少しは素直になった。なら、これはちゃんと伝えなければならない。捻くれた言葉なんていらない。飾らずに、ただ自分の気持ちを口にすればいい。
「俺を否定してくれて、俺を受け入れてくれて、俺を知ってくれて、ありがとう」
一瞬、驚きから目を見開いていたが、雪ノ下はクスリと笑って穏やかな表情へと戻っている。
きっと、この世界でずっと独りきりで怖かっただろうに、寂しかっただろうに。それでも、あの部室で俺たちに向けていたあの笑顔だ。
「私の方こそ、ありがとう。私を、知ろうとしてくれて。だから、これからもっと私を知ってね。私も、比企谷くんのこと、もっと知りたいから」
月明かりに照らされた彼女の笑顔は、まるで憑き物が落ちたかのように見えた。