フォークダンスの時間も終わり、小学生達はキャンプファイヤーの炎を前に思い思いの時間を過ごしている。
俺が見た限りだとエアオクラホマミキサーは見当たらなかったので、最近の小学生の間では流行ってないのかな?とか思いもしたが、シンプルにいじめられっ子がいないだけだろう。
そう、いじめられっ子はもういない。
鶴見留美は班員の四人と楽しく談笑していた。
あの泣きそうな顔はもう見せず、本当の笑顔を見せていた。
さて、お分りいただけた通り、一色の考えた作戦は頗る上手くいった。もう上手くいきすぎて怖いくらいに。
予定通り迷子になった留美達を追いかけるように俺たちも移動。彼女らが迷子になったのを察した時点で、近くに小石を投げたり、周囲の草を揺らしたりして恐怖心を煽る。
そうこうしている内に留美以外の女の子達は耐えきれずに泣き出す子まで出た。一人冷静な留美はその子達を励ましながらも、動かずに助けを待とうと判断を下し、それから暫くしてから由比ヶ浜が探しに来たと言う体で留美達と合流。俺が行っちゃったらまたゾンビと勘違いされるかもしれないし。
留美に助けられた彼女達は先程留美に謝り和解したところだ。
一方の俺たちは小学校の教師達に平謝り。平塚先生も一緒に謝ってくれたお陰で大きな問題にならずに済みそうらしい。
全部が全部、上手くいった。
上手くいきすぎてこの後に何か特大の爆弾が落ちて来るんじゃないかと疑うくらいに。
「八幡」
「ん?」
キャンプファイヤーから撤収する小学生達の様子を一人眺めていると、いつの間にか留美が俺の前に歩いて来ていた。
「あれ、八幡の仕業でしょ」
「何のことだ?」
「カラーコーン。私たちの時だけ場所が変わるの普通おかしいもん」
「だったらどうしたよ。迷子にさせられたから俺を非難する為に来たか?」
小学生をわざと迷子にさせた挙句泣かせる高校生なんて常識的に考えて最低な奴だ。そのことで責められても文句は言えない。
「違う。お礼言いに来た」
「お礼?」
「うん。八幡と雪乃さんのお陰で、また仲良くなれそうだから。だから、ありがと」
それだけ言って、留美は去っていく。
歩いて行った先には同じ班の女子達。何処と無くギクシャクしてる感じは否めないが、それも時間が解決してくれるだろう。
なんて、こんな考えもかつての俺なら持たなかったんだろうな。
「お疲れ様」
「......葉山」
去っていった小学生達を見送ると、葉山がやって来た。その手にはマッカンが握られており、俺に差し出している。一応の礼は言ってそれを素直に受け取ると、葉山は隣に座って来た。
ちょっとちょっと、なんで自然に隣に座るんですか?友達だと思っちゃうでしょうが。
「結衣に聞いたよ」
「なにを?」
「全部だよ。......君は凄いな」
「なんだよそれ、嫌味か?全部聞いたんなら知ってるだろ。俺はなんもしてねぇよ」
そう、本当に何もしていない。
考えたのは一色だし、作戦の細部を詰めたのは雪ノ下だ。教師達に知らせたのは小町で、留美達を迎えに行ったのは由比ヶ浜。
俺は最後に謝っただけ。それも雪ノ下と由比ヶ浜と平塚先生が一緒に謝ってくれたし。俺のしたことなんて、本当に何もない。
「いや、凄いよ。俺には真似出来ない」
葉山の目は虚空を見つめていて、何を考えているのかなんて分からない。別に分かろうとも思わないが、一つだけ思ったことがある。
葉山隼人、きっとこいつも、目に見えな『みんな』とやらの被害者なんだろう。
みんなの期待に添える為に動くが故に、誰か一人を選べない。それで救える何かがあるのかもしれない。だから、それが間違っているとは俺には言えない。
「だからかな。だから、俺は......」
---比企谷の事が、嫌いなんだろうな。
苛烈さすら潜めた瞳で、葉山隼人ははっきりとそう口にした。
なるほど、俺はこの時から葉山に嫌われていたのか。悪い気分じゃない。寧ろこいつに好かれるなんてたまったもんじゃ無いし。
「そうかよ。俺も、お前のこと嫌いだわ」
「ふっ、ふふ、そうか」
「何笑ってんだよ」
「いや、面と向かってそう言われるのは初めてだからな」
腹を抱えて笑い出した葉山。人に嫌いって言われてここまで嬉しそうに笑えるというのもおかしな話だ。
でもちょっと笑いすぎじゃありません?
「君ならきっと、彼女を救えていたんだろうな......」
「あ?」
ボソッと呟いた言葉は、きっと俺に向けられたものじゃないだろう。
葉山の言う彼女が誰なのかなんて知らないし、俺が気にすることでもない。だから、それ以上問い詰めはしない。
「いや、何でもない。結衣達が花火の準備をしてたから、そろそろ行くよ」
結局、笑いを抑える事もなく葉山は立ち去って行った。
いや、あいつマジで笑いすぎだろ。そんなに俺に嫌われるのが嬉しかったの?
なんだか複雑な感情を抱きながらも葉山から受け取ったマッカンを口に入れる。
うん、美味い。
やはり一仕事終えた後のマッカンは格別だぜ。
なんなら全国の会社にマッカン専用自販機を設置しても良いのではなかろうか。もしそうなったら全国の社畜の皆さんに少しでも癒しを届ける事が出来る。
「また随分と気持ちの悪い笑みを浮かべているわね。気持ち悪い」
「ちょっと、気持ち悪いって二回言う必要あった?なんで一々オーバーキルを狙ってくるんだよ」
聞こえてきた声に、最早反射的に言葉を返す。振り向いた先に居たのは雪ノ下雪乃。
俺の好きな女の子で、今までずっと一人で戦ってきた強くて弱い女の子。
「比企谷くん、少し着いてきてくれるかしら?」
「別に良いけど、由比ヶ浜達は?」
「もう少しでここに来るわ。その前に、あなたと二人で話がしたいの」
いつになく真剣な表情でそう言われてしまっては、着いて行くしかなくなる。
よっこいせと重い腰を上げて辿り着いた先は、俺たちが寝泊まりしているバンガローだった。
どこからか鍵を入手していたのか、男子用のバンガローに迷いなく入る雪ノ下。
いや、マジでどうやって入手したんだよ。確か葉山が戸締りした後に平塚先生に渡してたと思うんだけど。
平塚先生の相変わらずな杜撰さにまた結婚出来ない理由を見つけてしまった。
「んで、話って......」
その言葉を最後まで告げる事は出来なかった。
ふわりと揺れる黒髪。全身を襲う柔らかい感触。
端的に言うと、雪ノ下に正面から抱きつかれていた。
「ちょ、雪ノ下⁉︎」
「比企谷くん......!」
あまりの急展開に脳が回らなかったが、俺に抱きついてきた雪ノ下は、よく聞くと嗚咽を漏らしている。
それを知覚した瞬間に、冷静になれた。
「突然こんな状況に陥って、あなたや由比ヶ浜さんはもうどこにもいなくて、その事が、その事だけがとても不安で、怖くて、寂しくて......」
雪ノ下雪乃は決して強い女の子なんかではない。怖い事だってあるし、嫌な事だってある。ただ、そう言ったものから逃げずに真っ向から立ち向かうから勘違いしてしまいそうになるだけ。雪ノ下はどこにでもいる普通の女の子と変わらない。
「だから、一人で頑張ろうって思ったのに、あなた達がいなくなっても、私なりに頑張っていこうって思ったのに、そんな時に思い出してくれるなんて、卑怯よ......」
雪ノ下の泣き声だけがバンガローの中に響く。
彼女は変わった。かつてのように誰かの影を追うような真似をしなくなって、自分で考えて行動する事が出来る。それは今この状況故にだとは思うけれど。
それでも、雪ノ下が変わったのは事実だ。
ならば俺は。比企谷八幡は。
「雪ノ下、聞いてくれ」
良い加減、変わらないといけないのかもしれない。
それはとても難しいことで、簡単に出来るような事ではないのかもしれないけど。
でも、あの日々を無かったことにしないように。
ここに一つ、誓いを立てよう。
「俺は、お前が好きだ」
「......え?」
顔を上げた雪ノ下は、酷く呆気に取られた表情をしている。それもそうか。雪ノ下が今までの不安や恐怖を吐露したのに比べて、俺は何故かこのタイミングで告白しているのだから。
「あぁ、返事が欲しいんじゃない。これは宣誓みたいなもんだ。もう勘違いしないために、お前達と向き合って行くために。その為の、身勝手な誓いだ」
本当、面倒くさい男だと思う。
こうでもしないと、他人の感情とやらと向き合うことさえ出来ないのだから。
それでも、これが俺と言う人間なのだから仕方がない。
「でも、私は......!」
「分かってる、て言うのは烏滸がましいかもしれない。でもな、まだ、今じゃダメなんだ。まだ、あいつと向き合っていない」
俺が誰のことを指して言ったのか、雪ノ下には伝わっただろう。ハッとなった彼女の表情を見れば一目瞭然だ。
俺はまだ、あいつと、由比ヶ浜と向き合っちゃいない。彼女が俺に対してどのような感情を抱いているのか、分からないなんて言えない。それが100%正しいのかと言われるとイエスとは答えられないが、それでも、分かる。分かってしまう。
もう分かっていないフリなんてしていられないんだ。
「......そう。あなたがそのつもりなら、私にも考えがあるわ」
バッと俺から離れた雪ノ下は、目元の涙を拭って、澄んだ空を思わせるその瞳で俺を捉える。
「私は、あなたが好き。あなたの事がとても好きよ、比企谷くん」
迷いのない一言。万感の思いを込めて、雪ノ下はそう口にした。
「あなたがそうやって自分のために誓いを立てるのは構わないわ。好きにしなさい。でも、私がそれに付き合う道理はどこにもないわよね」
「いや、それはそうだけど」
「もう通算で一年以上の付き合いになるのだから、あなただって知っているでしょう?私、待つのも待たされるのも性に合わないの。だから、こっちから行かせてもらうわ。確かに彼女達には抜け駆けみたいな真似をして申し訳ないとは思うけれど、恋は戦争なのよ」
だからこれは、その最初の一歩。
そう言った雪ノ下は再び俺へと近づいてきて、やがて、その距離をゼロにした。
「なっ......!おおおお前!」
「今のキスは私にとっての誓いのようなものよ。これから覚悟しておく事ね」
ウインクを一つしてから雪ノ下はそそくさとバンガローを出て行く。
俺はと言うといきなりすぎる展開に思考が追いついていなかった。
「マジか......」
未だ唇に残る感触を指で確かめるようになぞって、そう呟くことしか出来ない。
結局、俺がバンガローを出たのはそれから十分以上経ってからのことだった。
千葉村での全ての仕事が終了し、我が愛すべき千葉へと帰る車の中。
行きと同じで助手席に乗せられた俺。後部座席の女子達は疲れからか全員夢の世界に落ちている。
俺はと言うと、昨夜から一睡も出来ていないのにここでも睡魔が襲ってくる気配がないので、悶々と昨日のあの雪ノ下の行動に悩まされ続けていた。
「何か悩み事かね?」
そんな俺を見兼ねてか、平塚先生が優しく声をかけてくれる。
運転に集中してくださいね?
「ええ、まぁ......」
「私でよければ相談に乗るぞ?」
「いや、こればっかりは自分で考えないとダメなんで」
「ふむ、雪ノ下もそうだが、君ももう少し周りの人間を頼ったらどうだ?君達はあまりにも自分だけの世界に閉じこもり過ぎる節がある」
平塚先生の言うことは正しい。
俺も彼女も、常に自分の世界には自分一人しかいなくて、誰かに頼るなんてそもそも選択肢に存在していなかったのだから。
「だが、聞くところによると今回はそうではなかったみたいじゃないか」
「今回って言うと、留美の件ですか」
「ああ。まさか君がそう言う行動を取るとは思わなかったよ」
今回の俺の取った行動は、確かにかつての俺からは考えられない事だろう。
他人に意見を求め、更にはそれを採用する。
それが平塚先生の言うところの、誰かに頼ってる事になるのだろうか。
「君が何に悩んでいるのかは無理に聞き出さない。だが、それが何であるにせよ、大いに悩みたまえ。その結果出た答えが正しかろうが、間違っていようが、それは必ず君の財産になる」
「いや、間違ってちゃダメでしょ」
「そんな事はないさ。間違い続けるからこそ、得るものだってあるんだよ」
間違い続けるからこそ得るもの。
きっと俺は、その答えのようなものを一度目の世界で垣間見たんだ。
何度も間違って、何度も壊れそうになって、その度に誰かが必死に繋ぎ止めようとしたもの。それは果たして、俺の求める本物足り得るものなのだろうか。
「でも、失うものだってあるじゃないすか」
「当たり前だ馬鹿者。でも、正しい選択をしたって失うものが無いとは限らない。何かを失う時、それは失われるべくして失われる。選択をすると言うのはそう言うことさ」
何かを懐かしむかのように目を細める平塚先生。きっと、この人にも失ったものがあって、得たものがあったんだろう。いつか、この人の話も聞いてみたいものだ。
てか本当にちゃんと運転に集中してください。ちゃんと前見て。危ないから。
「君がしっかりと悩み、考え抜いた結論。これが大事なんだ」
「考えるときは、考えるべきポイントを間違わないこと、ですか」
「よく分かってるじゃないか」
あなたが教えてくれたんですよ、とは言わない。それは、暫く先の時間での事だから。
「選び取った選択が間違っていてもいい。だが、その考えるべきポイントを間違えていると、得るものは何もない。何もかもを失ってしまう事になるからな」
あの時の俺はそれを間違えていた。
だから、あの空間も、俺の持っていた信念も、何もかもを失いかけていた。そんな時にこの人がヒントをくれなければ、きっと失ったままで、俺はその事にすら気がつかなかったんだろう。
と言うならば、俺はこの人に感謝してもしきれない。
「む、そろそろ眠たくなってきたかね?」
「えぇ、正直言ってかなり」
本当、良く見てくれている。
「なら眠っていたまえ。着いた頃に起こすよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
俺たちの事を見守ってくれている平塚先生の為にも、俺はもっと考えて悩み続ければならないのだろう。
そんな事を思いつつ、夢の世界へと落ちていった。
平塚先生に起こされて目を覚ましてみると、既に総武高校の校門前についていた。夢のひとつもみなかったことからかなり深い眠りに落ちていたらしい。
軽く伸びをしてからシートベルトを外し、車から降りる。
「さて、家に帰るまでが合宿だ。各員事故のないよう気をつけて帰るように」
解散を告げた平塚先生は一服していくらしく、タバコを取り出して火をつける。
「お兄ちゃん、買い物して帰ろうよ」
「ん、いいぞ」
「雪乃さんも一緒にどうですか?」
ちょっとちょっと小町ちゃん?今雪ノ下を誘われると俺かなり困るんだけど。どんな顔して雪ノ下と話せばいいか分からないんだけど。
「いえ、私は......」
しかし、雪ノ下の返事は芳しくないものだった。あぁ、そう言えばこの後は......。
校門の前に颯爽と現れる一台のハイヤー。俺にも、由比ヶ浜にも見覚えのあるものだ。
そのハイヤーから出てくるのは白いワンピースを着たとても綺麗な女性。雪ノ下陽乃。
「ひゃっはろー!雪乃ちゃん、迎えに着たよー!」
「姉さん、やっぱり来るのね......」
「え、雪ノ下先輩のお姉さん⁉︎」
出て来た陽乃さんに、一色が驚愕の声を上げる。
凄い美人だー、なんて言ってるが、あれの中身は悪魔というか魔王というか、君の完全上位互換なんですけどね。
「帰るのはお盆だと言った筈だけれど」
「んー、そうなんだけどねー。お母さんが早く雪乃ちゃんに会いたいって言うから迎えに来ちゃった!それに、雪乃ちゃんだって特に予定があるわけでもないでしょ?あ、もしかして比企谷くんとデートの予定でもあったかな?」
「そんなわけないでしょう。寝言は寝て言いなさい」
このこのー、と雪ノ下に詰め寄る陽乃さん。
雪ノ下も途轍もなく嫌そうな顔をしている。
そう言えば、前回会った時はまだ何も思い出していない時だったから特に何も考えなかったが。今現在の雪ノ下雪乃を見て、雪ノ下陽乃は一体何を思ったのだろうか。
考えようとして、辞める。どうせ考えたところでこの人のことなんて分からない。それで分かってしまえば、今までこの人に振り回されたりしないだろう。
「あ、あの!ゆきのん嫌がってますから!」
陽乃さんを引き剥がすように、由比ヶ浜が雪ノ下の手を引く。
その行為で彼女の存在を認知した時、陽乃さんの表情が一瞬だけ変わった。あの、一切の感情を感じさせない、品定めをするようなものに。
「あなたは......」
「由比ヶ浜結衣です!ヒッキーのクラスメイトで、ゆきのんの友達です!」
「雪乃ちゃんの友達、ねぇ......。それは良かった!それにしても比企谷くん、ヒッキーなんて呼ばれてるんだー。私も呼んでいい?」
「勘弁してください」
「陽乃、その辺にしておけ」
平塚先生の一声で、陽乃さんの動きが止まる。これで止まってくれるならもう少し早く声をかけて欲しかったです。
「久しぶりー静ちゃん!」
「平塚先生、お知り合いなんですか?」
「昔の教え子だよ」
一色の問いに答えた平塚先生は心底呆れたかのような声色だ。陽乃さんが在学時にも苦労をかけられたのだろう。
「さ、雪乃ちゃん、行こっか。お母さん待ってるよ」
「分かってるわ。小町さん、折角お誘いしてくれたのにごめんなさい」
「いえいえ、そう言うことでしたらお構いなく!」
流石の小町もこの場面で強く言うことはできない。
雪ノ下は一つ大きく深呼吸をして、それから俺たちに向き直った。
「では、お先に失礼するわ。また会いましょう」
「はい、また学校で!」
「ゆきのん、またメールするね!」
彼女らに優しく微笑みかけてから、雪ノ下はハイヤーへと歩いて行く。
きっと、彼女は戦いに行くのだろう。姉と、母親と、なにより自分自身と。
「雪ノ下」
ならば一言くらい、声をかけておこう。
乗り込む寸前の彼女に、たった一言だけ。
「またな」
「......ええ、また」
声には出さず、言葉にはしなかったけれど。そんな無言のエールが、彼女に届く事を願って。
雪ノ下姉妹を乗せたハイヤーは、来た時と同じように颯爽と去っていった。
去り際に彼から届けられた無言のエール。
私の思い違い、勘違いかもしれないけれど。それでも、彼が『頑張れ』と言ってくれているような気がした。
それだけで、どれ程の力が湧いてくる事だろう。
今も母さんと話すことに些かの怖さはあるけれど、あの人と向き合わないことには何も始まらない。
千葉村で、一つの誓いを立てた。
私が、私であるための誓い。
自分勝手で傲慢なものであるそれは、きっとかつての私なら絶対にしなかったであろう行いだった。
でも、それも悪くない。
ああやって初めて自分の気持ちを彼に打ち明けるのは恥ずかしくて、今思い出すだけでも顔が真っ赤になってしまいそうになるけれど。それでも、どことなくスッキリしている自分もいる。
「雪乃ちゃん、着いたよ」
「ええ」
姉さんの後に着いて行くようにして車を降りて、久し振りの実家を歩く。
こうしてこの人の後ろを歩くのを、今までずっと続けていたわけだけれど。今の私はそんな事をしなくても自分の足で、自分だけの道を歩けているだろうか。
不安になるのも仕方ないと思う。でも、彼は、こんな私でもこの人には出来ない生き方をしていると言ってくれた。
たったそれだけの言葉でどれだけ救われただろうか。
余りにも単純な自分に嫌気がさすどころか、寧ろ心地いい。
彼が認めてくれた私だからこそ、ここまで頑張れるんだ。
「姉さん、ここからは一人で大丈夫よ」
「......ほんとに大丈夫?」
母さんの待つ部屋の前まで来て、姉さんに声をかける。
返ってきた言葉はある意味驚くべき言葉ではあったけれど、けど、今までのこの人の行動の意味を考えると当然の言葉のように聞こえた。
姉さんはいつだって私の味方をしてくれていた。それに気がつかなかったのは私の罪だ。
だから、もう大丈夫だと。あなたの力を借りなくても、一人で歩けると言うように、その手を離す。
「もう、誰かの手を借りて歩くのは卒業したいから」
「そっか......。雪乃ちゃん、本当に変わったね」
「私は何も変わってないわ。変わったつもりでいただけ。ただ、そうね。一つだけ、彼に誓いを立てたから。それを裏切らないようにしたいだけよ」
私は嘘をつきたくない。かつては虚言は吐かないなんて大それた事を言っていたけれど、人間なのだから生きている間に嘘の一つ吐くことだってある。だから、嘘を吐かないのではなくて、嘘は吐きたくない。
それは私自身のために、と言うのはある。でも、なによりも、私を信じてくれた彼のために。私は虚言を吐きたくない。
「なら、お姉ちゃんが出来るのはここまでだね」
「......姉さん。その、今はまだ上手く言うことが出来ないけれど、それでも、あなたには感謝しているわ」
「......うん、その言葉が聞けただけで十分だよ」
姉さんはそれだけ言ってこの場を去って行く。
その表情は、今までの得体の知れないものではなく、本当に姉としての笑顔だったように見えた。
さて、ここからは本当に私一人だけ。
正々堂々と一対一の勝負だ。
「失礼します」
「久しぶりね、雪乃」
その部屋の奥に座っている女性、私の母親に当たる人物は、娘との再会を心底嬉しく思っているように思えた。
いや、実際に嬉しく思っているのかもしれない。この人の真意は計り知れない。そもそも、私は今の今までこの人と本当に相対した事が一度もないのだから。この人の、母の真意なんて計れるわけがない。
ならば、私のやることはただ一つ。私の今の気持ちをこの人にはぶつけるだけだ。
「母さん、話があるの」
「雪乃からそう言ってくれるなんて嬉しいわ。あなたは中々自分の近況を教えてくれないから」
「そうね。それは悪かったと思っているわ。だからこそ、今までの高校生活で得たものを、母さんに話そうと思ってきたの。何から話せば良いのか悩むところなのだけれど、一つだけ明確に言える事があるとすれば」
さぁ、始めよう。私の戦いを。
他の誰のためでもない、私自身のための、私の戦いだ。
そこには嘘も偽りも入り込む余地のない、本心からの私の声を届けるために。
「私、好きな人が出来たの」
あの誓いを、嘘にしないために。
これにて千葉村編終了!