目を覚まして知らない天井を見た時、人はどの様な反応をするか。
少なくとも「知らない天井だ......」なんてことは呟かないだろう。そもそも寝起きの頭でそれを判断出来るのかも怪しい。
そして俺の脳は常よりも稼働状態が悪いようで、天井はおろか現在寝ている部屋を見渡してもここが何処なのかはイマイチ判断が付かなかった。ただ、なんとなく見たことあるなー程度である。
この場所が俺の知らない何処かである事を確認出来たのは、ベッドの隣に置いてある椅子に腰かけた金髪を視界に捉えたからだろう。
「目が覚めたみたいだな」
「......葉山?」
葉山隼人である。
成績優秀、スポーツ万能、イケメンの三拍子が揃うだけでなく可愛い幼馴染までいやがると言う漫画の中から出て来たとしか思えないような奴。まぁこの可愛い幼馴染の片割れも今や俺の彼女なんですけどね!
......よし、だいぶ脳が動くようになって来た。少なくとも脳内でこんな茶番が出来るほどには。
て言うか、ここは普通可愛い彼女が心配そうに俺の目覚めを待ってる所じゃないの?なんで男なの?
「ここは、病院か?」
周囲の景色に見覚えがあるのは、一年前にも同じような場所を見た事があるから。最もあの時は雪ノ下家の計らいで個室だったのだが。
「君が倒れたところに俺が偶々会議室に到着してね。平塚先生の車でここまで送ってもらったんだ。あまりに酷い熱だったから今日はここで安静にしておくように、との事だよ」
段々と思い出して来た。
自分の体の調子が悪化していた事。俺を心配そうに見ながら声をかけてくれた雪ノ下と一色。倒れた時に散らばった書類。そして、彼女の悲痛な叫び声と涙。
「はっ......」
思わず乾いた笑いが出る。
一体お前は何度同じことを繰り返すつもりだ、比企谷八幡。
これでは何も変わっていない。それで良いのだと、それが最も効率的なのだと思い行動した結果が彼女達を悲しませる。変わらない事を良しとし、変わらない事こそが俺だとあの頃ならばそう思っていただろう。寧ろそんな俺が誇らしくも有ったはずだ。心地よさすら感じていたのかもしれない。
けれど、今は只管に苦痛でしかない。
俺の取った行動が、雪ノ下を泣かせる結果へと繋がってしまったのは紛れもない事実だ。
「やっぱり、君は凄いやつだよ」
そんな思考が頭を過った直後の言葉だった。
葉山隼人は、まるで尊敬の念を抱いているかの表情で俺を見つめる。
「何処がだよ。自分の出来ることの範囲を見違えて、あいつらに余計な心配を増やして、挙句倒れて病院に搬送。ダメダメもいい所じゃねぇか」
「違うよ、そうじゃない。俺には、誰かにああまで想って貰うことはできない。そんな資格もないからな」
それでも、と言葉を繋いで。葉山の表情は一転した。
「救われた気がした。今日、彼女にああやって頼られて。初めて彼女を、誰かを助ける事が出来た気がしたんだ」
まるで長い旅を終えた後の人間のような声だった。人生の終焉に立った老人のようでもあったかもしれない。
それ程までに、この男に取って今日という一日は価値があったのだろう。
「それも君が倒れてくれたお陰かもな」
「随分と嫌味な言葉だな」
「千葉村で言っただろ?俺は君が嫌いだって」
らしからぬ皮肉な笑みを浮かべる葉山。そんな顔ですら様になってるのだからイケメンはマジで死ぬべきだと思う。
「んで、なんでお前残ってんの?平塚先生は?」
「平塚先生なら用事があるとかでここを任されたんだよ。それに、雪ノ下さんからも君の事を頼まれたからね。もう少ししたら彼女も来るんじゃないか?」
「いや、それはねぇよ」
俺の返しが予想外だったのか、葉山はキョトンと小首を傾げる。本来男がやっても気持ち悪いだけのその行動も様になるとかマジでイケメンは(ry
とまぁそんな事を考えながらも、よく分かっていらっしゃらないご様子の葉山さんに、俺はドヤ顔で教えてやった。
「あいつにはやるべき事があるからな。それを放り出して俺のところに来るなんてことは無い。雪ノ下雪乃ってのはそう言うやつだ」
『千葉の名物、祭と踊り!同じアホなら踊らにゃsing a song!』
文化祭のスローガンが決まった。
やはりと言うかなんと言うか、一度目と同じもの。いえ、別に文句があるわけでは無いのだけど。千葉音頭、嫌いではないし。
委員長の席に座った相模さんは昨日までとはまるで違っていた。
未だ一色さんのフォローが抜けきれていないとは言え、自ら積極的に会議を動かしている。まあそれでも進め方に粗があるのも否めないのだけれど。これまでに比べると天と地の差があるだろう。
そんな相模さんのやる気に当てられたのか、会議室内は騒然としている。相模さん本人も会議室を右往左往と慌ただしく働いている。
さて、私も手を動かさないと。今まで溜めていた書類のお陰でかなり余裕を持つ事が出来たとは言え、スローガンの変更一つでも全部署に影響が出て来る。私の所属している記録雑務も例外ではない。
......比企谷くんはちゃんとお薬を飲んで安静にしているかしら。今日一日は検査入院との事だったけれど、病院で寂しがっていないかしら。葉山君は元気そうだったと言っていたし、小町さんからもメールで大事には至っていないと聞かされているけれど、やはり心配になってしまう。
「雪ノ下せんぱーい。手が止まってますよー?」
「......あ、ごめんなさい」
一色さんの声で我に帰る。今は仕事を片さなくては。幾ら心配に思っても私のやるべき事をやらなければ、彼に会いに行けない。
「もしかして、先輩のことでも考えてました?」
「一色さんの方こそ手が止まっているようね。良ければ少し書類を分けてあげましょうか?」
「冗談じゃないですか、冗談!」
全く、困った後輩だわ。一色さんこそ副委員長としての自覚が足りないのではないかしら。決して図星とかではないのだけど。
改めて手元の書類に視線を落とし、ペンを走らせキーボードを叩く。今はそこまで急ぎの仕事が割り振られている訳でもないので、今までよりもペースを落として。
そうやって暫く仕事に没頭していたが、ひと段落ついた所で手を止める。流石に目が疲れて来た。
そう言えば、と思い出して少しカバンの中を漁ってみる。目の疲れを抑制するのにうってつけのアイテムを私は持っている。いや、正確には持っていた。今も手首に巻いているピンクのシュシュを見つけた時にまさかと思いそれも探してみたのだけれど、家のどこにも見当たることは無く結局諦めたもの。勿論このカバンの中だって探しているし、この中にない事もその時に確認済み。
だと言うのに、私の宝物であるブルーライトカットのメガネは当たり前のようにそこにあった。
何故今になって出て来たのかと疑問に思いつつもメガネを手に取る。
それは間違いなく冬休み明けの部室で、比企谷くんが私にくれた誕生日プレゼントだった。いえ、私のカバンに入っていて私のじゃないだなんてことはあり得ないのだけれど。
疑問は止まないが、今すぐに答えが出る筈もなく。そもそもどうして時間が戻っているのか、その理由すらも不明なのだから追求した所で無意味だろう。
「雪ノ下さん、お疲れ様」
一先ずメガネを机の上に置いて改めて休憩しようと思ったら城廻先輩が声をかけて来た。両手に持っていた紙コップの内の片方を差し出されたので素直に受け取ってお礼を言う。
「お疲れ様です、城廻先輩。お茶ありがとうございます」
「気にしなくていいよー」
この人はいつもおっとりとマイペースだ。姉さんや葉山君とはまた別種のカリスマを持っている。現生徒会役員の方達が彼女に忠実とも言える働きを見せるのも納得してしまう。
「今回はご迷惑をお掛けしました」
「いいんだよ。相模さんのためにやってた事なんでしょ?」
今日の会議が始まる前、城廻先輩には比企谷くんの作戦を全て詳らかに話した。普通ならあんな作戦を聞かされたら怒られたりするものなのだが、城廻先輩は笑って受け入れてくれた。
でも先輩の言う事には一つ間違いがある。
私達は別に相模さんのためにやっていた訳ではない。私も、比企谷くんも、一色さんも、自分のために動いていた。それぞれがそれぞれ思惑を持っていた。ただ文化祭を成功させようと思索を重ね、更に先の未来を見据えて思案を巡らせ、かつての間違いを問い直すために思考を続けた。
その結果として相模さんのためになっているだけであり、事実として私達は彼女をいつでも見限るつもりだった。
ただ、それをわざわざ城廻先輩に話す必要はない。完全に自分本位の考えなのだから、私だけがそれを知っていたらいい。
「本当は私も後悔してたんだ。あの時相模さんをちゃんと止められてたらなって。そうしたら比企谷くんもあんな事には......」
「城廻先輩が責任を感じる必要はありません。そもそも、誰も悪い訳ではないですから」
この話は先日そう言うことで落ち着いている。勿論納得した訳ではないが、城廻先輩に関して言えば本当に責任を感じる必要なんて無い。そもそも今の二度目の世界で比企谷くんと先輩にまともな接点があった様には思えない。そんな殆ど話した事もない様な彼のことを案じてくれているだけでも充分ではなかろうか。
「それでも、今度彼のお見舞いに行った時に城廻先輩が心配していたと伝えておきます」
「うん!ありがと!」
こんな可愛い先輩にまで心配をかけるなんて、比企谷くんも罪な人ね。城廻先輩だけではない。由比ヶ浜さん、一色さん、平塚先生に姉さん、それから葉山君。由比ヶ浜さんに聞いた話だと、三浦さんや海老名さん達も。
それだけの人達に心配されている。これではもうぼっちなどとは言えないのでは無いかしら。
その後も暫く城廻先輩と談笑してから再び仕事に手をつける。この後の予定の事を考えると仕事のペースは今の遅いスピードを保っていたいのだけど、どうも私の性分がそうはさせないようで気がつけば片付けられた書類の山が出来上がっていた。
「相模さん、こちらに決裁印をお願いしてもいいかしら?」
「うん、分かった」
真面目に自分の仕事に取り組んでいた相模さんがこちらを見上げて返事をするが、私を見て直ぐにギョッとした表情になった。
「雪ノ下さん、まさかこの短時間でそれ全部やったの......?」
「? えぇ。なにかおかしかったかしら?」
「いや、幾ら何でも早すぎるって言うか......」
別に早いに越したことは無いと思うのだけれど。何か不都合でも生じるのだろうか。
相模さんの言葉の意図するところが分からず小首を傾げていると、会議室の扉が勢い良く開かれた。文実メンバーであそこまで勢いをつけて扉を開く人なんていないし、来客ならばノックをする筈なのでついそちらへと視線を向けると。
「雪乃ちゃーん!ひゃっはろー!」
「姉さん......」
恥ずかしげもなく恥ずかしい挨拶を大きな声で叫ぶ姉さんがいた。名前を呼ばれた私はもっと恥ずかしい。と言うかこの人は何しに来たのかしら。
「あ、はるさんだー!」
「やーやー、めぐり。久し振りだね。元気にしてた?」
「勿論ですよー。ところで今日はどうして総武に?」
「実は雪乃ちゃん達と有志に参加する事になってね。だからついでに可愛い妹と可愛い後輩の様子を見に行こうかなって」
「そうだったんですか〜」
そう言えば城廻先輩には有志について詳しく話していなかったかしら。もう申請書類は通してあるから一応把握はしていると思ったのだけれど、直接言うべきだったわね。
「そう言えば雪乃ちゃんは委員長じゃないんだよね?誰が委員長?もしかしていろはちゃん?」
「わたしじゃないですよー」
「あ、うちが委員長の相模南です!」
サッと立ち上がって自己紹介。相模さんは少し萎縮しているようにも見える。
そんな彼女を見つめる姉さん。まるで全てを見透かすかのようなその瞳は、相模さんでなくてもつい後退りしてしまうだろう。
「成る程、これが雪乃ちゃん達が頑張った成果ってわけね」
とても小さな呟きだったが、直ぐ隣に立っていた私の耳にはなんとか届いた。
とても透明な声色。そこから姉さんの感情を読み取ることなんて出来ない。一体姉さんが相模さんを見て何を思ったのかなんてのは本人にしか分からない。分かったところで私がどうこう言えることでもない。
だが、その表情は一転して笑顔へと変わる。
「うんうん。いいんじゃなあい?委員長に相応しい顔と目付きだよ!」
言葉だけを捉えたなら、それは適当な褒め言葉に聞こえたかもしれない。しかし、姉さんのそれには聞いたものに自信を与える不思議な力を持っていたようで。相模さんは嬉しそうにはにかんでお礼を言う。
「あ、ありがとうございます!」
「楽しい文化祭にしてよ〜?期待してるからね、相模委員長♪」
「はい!」
きっとこれこそ、雪ノ下陽乃が雪ノ下陽乃たる所以。あらゆる人間に一言で自信を与えてしまう圧倒的カリスマ。
私には無いものだけど、それを欲しいとは思わない。
「それじゃ、そろそろ帰るね。雪乃ちゃん、いろはちゃん、また後で」
「ええ」
「はい」
まるで台風の様に会議室を去っていく姉さん。本当に何をしに来たのかしら。
その姉さんの後ろ姿を見送っていた相模さんが徐に口を開いた。
「雪ノ下さんのお姉さんの代ってさ、確か総武の伝説になるくらい文化祭が盛り上がってたんだよね?」
「その様に伝え聞いているけど」
最も、私は当時見に行っていたのだが。それに伝説と言ってもあれからまだ二、三年しか経っていないのだから。良くて歴史に残る、くらいでしょう。余り変わらないかしら?
「今年の文化祭、その時よりも盛り上がるようにしたいね」
「......そうね」
文化祭なんて元々過去のものと比べられがちだ。それが類を見ないほどに賞賛されたものなのならば尚更。だからこそ、彼女のプライドから来る発言だったのだろうけど、それは相模さんが委員長としての自覚をしっかりと持てている何よりの証拠だ。
それに文化祭を成功させようと比企谷くんと約束した。これは違えたくない。
それに何より
「姉さんに負けたくないもの」