カワルミライ   作:れーるがん

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いつだって、雪ノ下雪乃の手料理は最高である。

 一色が助っ人にメールを送ってから約十分後。紅茶を飲んだり本を読んだり携帯をぽちぽち弄ったりで時間を潰してた俺たちの前に現れたのは二人の人物。

 

「と言うわけで、助っ人として来てもらいました。小町ちゃんとはるさん先輩でーす!」

「小町ちゃんでーす!」

「はるさん先輩でーす!」

 

 三人揃って敬礼とかしなくていいから。

 てかレスポンス早過ぎだろこの二人。なんなの? サラマンダーよりずっと速いの?

 

「なんでこの二人呼んじゃったんだよ」

「だって捻くれ者のお二人の面倒を十年以上見て来てるんですよ? これ以上ないくらいに適任じゃないですかー?」

「一色さん? 捻くれ者二人とは具体的に誰のことを指しているのかしら?」

「ひいっ⁉︎ 冗談じゃないですか冗談!」

 

 雪ノ下の冷たい視線から逃げるようにして陽乃さんの影に隠れる一色。こいつも本当学習しないな。いや、寧ろ雪ノ下のあの反応を見て楽しんでる節すらある。

 

「それでー? 雪乃ちゃん達は何に困ってるのかな?」

「別に姉さんの手は借りなくても問題ないわ」

 

 睨み合う雪ノ下姉妹。君達仲直りしたんじゃなかったの? 文化祭の時のあれは表面上だけだったの? なにそれ怖い。

 

「まあまあ雪乃さん。取り敢えず例のアンケートとやらを見せてください」

 

 小町が二人をとりなすように間に入る。流石は俺の妹。あの姉妹の間に入るとか俺じゃ絶対に無理。ほら、由比ヶ浜なんてさっきから苦笑いしか浮かべてないぞ。

 陽乃さんから視線を外した雪ノ下が小町にアンケート用紙を渡す。それを受け取った小町に覆い被るように背後から抱きついて一緒に用紙を見る陽乃さん。首元に当てられた膨よかな感触に小町は感嘆の声を上げている。

 あの、うちの妹が変な趣味に目覚めそうなので辞めてもらっていいですか。

 

「なるほどねー。みんな結構しっかり考えてるじゃん。それで、雪乃ちゃんは何か悩み事とか無いのかな? お姉ちゃんが相談に乗るよ?」

「別にそんなものは無いわ。そもそも、私達はまだ学生なのだから、しっかりと考えている人の方が少ないでしょう」

 

 一々突っかかる姉を素気無く遇らう妹。

 どうやら先程の自分のアンケート用紙は既に処分済みのようですね。

 まあしっかり考えてくれてても八幡的には問題ないと言うか。いや本当にそうだったとしたら逆に困るんだけどね。

 

「はっ! 小町閃き!」

 

 さっきから陽乃さんのお胸に埋まっていた小町がいきなり声を上げて手を打った。

 こいつちゃんとアンケート用紙読んでた?

 

「このアンケートを見る限り、みなさんには絶望的に嫁度が足りません!」

「嫁度ってなに......」

「細かいことは気にしない。つまり、どうすれば嫁度が上がるかに企画をシフトチェンジ!」

 

 やはりそうなってしまいますか......。

 陽乃さんと一色はノリノリで拍手なんかしているが、その他の俺たちは訝しげな視線を小町に投げかける。

 

「小町さん、折角提案してくれて悪いのだけれど、もう少し他に無いのかしら?」

 

 雪ノ下が小町の巫山戯た企画を阻止しようと抗議の声を上げるが、それに対抗するのは勿論姉。

 

「あれれ〜? いいのかな雪乃ちゃん。そんなこと言っちゃって」

「......どう言う意味かしら?」

「私的にはこの中で一番嫁度が低いのって雪乃ちゃんだと思うんだよね」

「私が? バカも休み休み言いなさい。少なくともそこの二人よりかは家事全般は得意だと自負しているわ」

 

 そこの二人こと由比ヶ浜と平塚先生は何か言いたげだったが、否定出来るほどの材料を揃えられないのか言葉に詰まっている。

 

「じゃあそれを証明して貰わないとね。もしかして、そこの二人に負けるのが怖いだなんて言わないでしょ?」

「良いでしょう。その安い挑発に乗って上げるわ」

 

 チョロい! ゆきのんチョロ過ぎるよ! 即落ち2コマかよってくらいチョロい。

 まぁ相手が陽乃さんの時点でこうなる事は最早必然だよね。

 

「まあ良いんじゃないのか? さしずめ、花嫁修行特集といったところか」

「お、良いですねそのフレーズ! 小町いただき!」

 

 特に平塚先生には必要な修行ですよね。

 

「ヒッキー、あたしもう諦めたよ......」

「奇遇だな由比ヶ浜。俺もだ......」

 

 疲れたような表情の由比ヶ浜と俺。小町と陽乃さんと一色が手を組んだ時点で俺たちに出来ることなんて最早無いに等しいのである。

 

「それでは、今日から始める花嫁修行! ドキドキ☆嫁度対決!ドンドンパフパフー!」

 

 イェーイと盛り上がるその三人を見て、俺は溜息と共に呟きを漏らしたのだった。

 

「だから、嫁度ってなに......」

 

 

 

 

 

 

 

 小町企画の嫁度対決は日を改めて行われることになった。

 前回の記憶があるので、大体何をさせられるかは予想出来るのだが、どんな展開になってしまうのかは全く予想出来ない。

 何せ今回は陽乃さんと一色がいるからだ。まず間違いなく120%俺と雪ノ下を揶揄うような何かを仕組んでくること間違いなしだろう。

 由比ヶ浜がそれをどうにか止めてくれればいいのだが、多分彼女も色々と諦めてるから悪ノリしてくる可能性も大。

 この後に巻き起こるであろうあれやこれやを想像して一人ため息を吐く。

 現在は部室で一人悲しく待ちぼうけ。俺の得意なお留守番中だ。普段なら一人でいることに苦痛など感じないのだが、先も述べた通りにこの後の事があるので心の中ではドキドキが止まらない。悪い意味で。

 

 内心そんな感じで手元のラノベの文字列を追っていたのだが、ポケットの中の携帯が着信を知らせた。

 どうやら小町からのようだ。そこには家庭科室まで来いと書いてある。

 行きたく無いなぁ、なんて思いながらもここで行かなかったら後が怖いので渋々重い腰を上げて嫌々ながらも部室を出て家庭科室へ。

 その扉の前まで来ると、中から声が聞こえる。多分前と同じで料理でもしてるんだろうが、だからなんで叫び声が聞こえるんだよ......。なに、もしかしてガハマさんがまた何か錬成しちゃった?

 意を決して家庭科室の扉を開くと、案の定そこにはエプロンをつけた女性陣の姿が。

 

「あ、お兄ちゃんやっと来た。さっそく始めるよ」

「始めるってなにを......」

 

 俺のそんな質問なんぞ聞く耳持たず、小町は手に持ったお玉をマイクに見立てて高らかに宣言した。

 

「今から始める花嫁修行!ドキドキ☆嫁度対決〜!まず最初の対決は料理です!」

 

 料理対決ってなに。食戟でもするの? 俺のおはだけとか誰得だよ。

 

「審査員の皆さん、よろしくお願いしまーす!」

 

 家庭科室の奥には審査員として呼ばれたであろう人物が二人。その片方は言わずと知れた嫁度MAX(俺調べ)の戸塚だった。

 

「なんで呼ばれたのかは全然分からないけど、みんな頑張ってね!」

「ふむぅ、説明をしなければしないほど深いのが最近の設定。良かろう、この剣豪将軍、甘んじて受け入れようではないか!」

 

 なんか材木座もいた。

 この二人は小町が呼んだのだろう。なんかこんな茶番に付き合わせて戸塚には申し訳ない。

 

「じゃあお兄ちゃんもあっちの審査員席に座ってね」

「なぁ、戸塚ってこっちの席でいいの?」

 

 取り敢えず疑問に思った事を口に出したのだが小町には無視された。辛い。

 因みにエプロンをしているのは雪ノ下、由比ヶ浜、小町、一色、平塚先生の五人だ。陽乃さんはエプロンしてない。なにしに来たんだこの人。

 

「ではトップバッターは結衣さん! お題は男子が求めるお袋の味です!」

 

 なんか高級レストランでありそうな銀色のアレを持って自信満々に前に出て来る由比ヶ浜。

 が、俺は忘れていない。この中に入っていたのは和風ハンバーグとは名ばかりの木炭じみた何かである事を。

 

「ふふーん。前までのあたしだと思わない事だよ、ヒッキー!」

「その自信はどこから来るんだ......」

「では結衣さん、どうぞ!」

 

 かくして開かれた蓋の先にあったのは

 

「じゃじゃーん!ミートソーススパゲッティ!」

「え」

 

 思わず絶句してしまうほどの代物だった。

 ソースが黒い。イカスミパスタかと見間違えてしまいそうなくらい黒い。お陰でそこに入っているであろうミートの要素がどこにも見当たらない。

 マジであの自信はどこから来てたんだ。

 

「えー......」

 

 ご覧の通り小町も思わずドン引きしてる。

 こんな有様になるまでどうして放ったらかしにしておいたのかと、由比ヶ浜の後ろに立っている面々に非難の視線を向ける。

 

「ごめんなさい、私は自分の料理に手一杯で......」

「いや、お前はいい。問題は恐らくなにもしていなかったであろう雪ノ下さんだ。参戦しないならせめて由比ヶ浜の状況を見てて欲しかったのですが」

「んー? 私はちゃんと見てたよ? でもガハマちゃんが余りにも一生懸命だったから邪魔するのもどうかなーって」

「マジで見てただけなのかよ......」

 

 せめて止めて欲しかった。

 いや、逆説的に言うと陽乃さんが止めなかったと言うことは命に関わるような調理法ではなかったと言うことだ。よし、これでまず最初のハードルがだいぶ下がったぞ。

 俺がそんな風に決意していると隣から鬱陶しい咳払いが聞こえて来た。

 

「ごらむごらむ! 昔から言うであろう。我を見た目で判断してはいけないと。おそらくこの料理もその姿の奥に輝きを秘めて......」

 

 材木座がなんかかっこいいこと言ってる風だったけど全然そんなこと無かった。こいつ女子の手料理に浮かれてるだけだ。

 由比ヶ浜のミートスパゲティ(仮)に颯爽と手を伸ばした材木座はそれを口に運び、咀嚼して嚥下した。

 

「こ、これは......!」

 

 そして目を見開き

 

「ぶべらっ!」

 

 沈黙した。

 小町も隣で絶句している。

 順番的にも次は俺が食べるべきなのだろうが......。目の前のこの真っ黒な麺類と材木座の惨状を見てしまったら躊躇してしまうのは仕方のない事だろう。

 だが、ここで俺が食べなければ戸塚がこれを食う事になってしまう。

 橋を持ち上げた右手を皿の前でプルプルと震わせていると、横から白い腕がニュッと伸びて来た。

 その腕で持たれた箸はミートスパゲティもどきを掴むと、可愛らしく開かれた小さな口まで運ばれ、咀嚼したのちに飲み込まれる。

 

「......んっ、んんっ......」

 

 戸塚は、少し苦しそうにしながらも由比ヶ浜の作ったミートソーススパゲティをしっかりと食べた。

 

「と、戸塚? 大丈夫なのか? どこかおかしな所とかないか?」

「もう、失礼だよ八幡。折角女の子が作ってくれたんだから、男の子はちゃんと食べてあげなきゃ」

「さ、さいちゃん......。別に無理しなくても」

「大丈夫だよ由比ヶ浜さん。確かにちょっと独特でミートソースの味は全然しないけど、まぁ、食べられないってわけじゃないと思うから」

 

 天使や、天使がおるで......。

 戸塚の額には薄っすらと汗が滲んでおり、由比ヶ浜製スパゲティを一口食べるごとに苦しそうに飲み込んでいる。

 無理して食べているのは目に見えて分かったのだが、何故か手伝うのは躊躇われた。

 おそらく口内では味覚の地獄甲子園が開催されているであろうに、戸塚は嫌な顔一つせず、そのスパゲティを完食してしまった。

 

「うん、ご馳走様、由比ヶ浜さん」

 

 にっこりと微笑んで言う戸塚の勇姿にこの場の誰もが感動した。小町なんか横で超涙ぐんでるし。

 

「戸塚さん......、婿度高い......」

「婿度ってなに......」

 

 嫁度の次は婿度かよ。確かに嫁が作ったけど失敗してしまった料理を文句も言わずに食べるのは旦那としてと言うか男としてかっこいいとは思うけど。

 でも戸塚は嫁度の方が高いと思うな!

 

 

 

 

 

 

 

「では次はいろはさんどうぞ!」

 

 小町に呼ばれた一色が若干ドヤ顔で一歩進みでる。こいつは確かお菓子作りが得意だった筈だから、由比ヶ浜のような心配もいらないだろう。

 

「ふふふ、先輩の中のわたしのイメージを払拭させるようなものを見せてあげますよ!」

「はいはい。そう言うの良いからさっさと出して」

「なんでそんな適当なんですかー!」

 

 態とらしく頬を膨らませてもダメ。こいつが出して来そうな料理なんて粗方予想が出来る。どうせ男ウケのいい肉じゃがとかそんなんだろ。

 

「そんな事を言っていられるのも今のうちですからね!」

 

 机の上に置かれた銀パカが開かれると、嗅ぎ慣れた香りが家庭科室内を蹂躙した。まさかと思い、恐る恐る銀パカの上に乗った料理を覗き込んでみる。

 

「こ、これは......⁉︎」

「ふふーん、どうですか! 一色いろは特性こってりギタギタラーメン!」

 

 そう、ラーメンである。

 それを見た雪ノ下と由比ヶ浜は軽く引いてる。

 嗅ぎ慣れているのもそのはず。この俺がこよなく愛するなりたけととても酷似したラーメンなのだ。

 強烈なまでの匂いはこれでもかと言うほどに味覚中枢を刺激し、思わずゴクリと喉を鳴らしてしまう。

 

「お前、もしかしてなりたけハマっちゃった......?」

 

 今にもがっついてしまいそうになるのを誤魔化すようの質問すると、一色はつーっと視線を横へとずらしていった。

 

「せ、先輩には関係ないですよ......」

 

 おっとこれは正解を引いたようですね。

 愛想笑いを浮かべなが呟いた一色の表情はどこか悔しそうだ。

 

「取り敢えず、食べてみてください!」

 

 料理である以上見た目だけで判断するのも作り手に失礼というものであろう。ここは千葉のラーメンマスターことこの俺が直々に食べて採点してやろうではないか。

 ではまず一口。パクリ。

 

「なん......だと......⁉︎」

「は、八幡? どうしたの?」

 

 驚愕した。あまりにも驚きすぎて目を見開いてしまった。俺の腐った目が見開いているから戸塚を驚かせてしまった。許すまじ一色。

 いや、冗談はこれくらいにしておこう。俺が一色の作ったラーメンに驚愕して目を見開いた理由はただ一つ。

 

「な、なりたけのラーメンだ......」

「そうでしょうそうでしょう!」

 

 俺のコメントに満足したのか、一色は喜びながら飛び跳ねている。なんだよそれ可愛いなおい。

 しかし、本当になりたけのラーメンそのままなのである。

 麺に絡まったギタギタのスープをここまで再現してしまうとは。恐るべし、一色いろは。

 

「ふむ、比企谷を唸らせるほどとは興味があるな。私にも一口貰えるかな?」

「で、出たー! ラーメン界の生き字引! いや、生き遅れ!」

「言い方が間違ってるぞ、比企谷♪」

 

 可愛らしく軽快な口調とは裏腹に、ごすっと地味な音を立てて平塚先生の拳が俺の腹を抉る。

 事実を言っただけなのにこの仕打ちとは酷い。しかしそれを口に出した所で撃滅のセカンドブリッド以上が飛んでくるのは明白である。

 

「さて、では頂くとしよう」

 

 俺の隣に椅子を持って来た平塚先生は、胸の前で手を合わせてからまずは蓮華でスープを掬った。それを淑やかな態度で口元に運んでいく。

 おそらくリップが塗られてるであろう鮮やかな唇を見るのがなんだかイケナイコトな気がして思わず目を逸らしてしまった。

 どこかから冷ややかな視線を注がれてる気がするが、八幡君は鈍感なのでそんなの気がついていない。

 

「こ、これは......⁉︎」

 

 カッとペルソナばりに目を見開いた平塚先生は、それきり何を言うでもなく一色作のラーメンをガツガツ食い始めた。

 あの、俺まだ一口しか食べてないんですけど......。戸塚に至っては一口も食べてないんですけど......。

 

「一色」

「は、はい?」

 

 結局ラーメンを完食しやがった平塚先生が一色の肩を優しく叩くと、更に優しい表情でこう言った。

 

「君には歩くなりたけの称号を与えよう」

「なんですかその微妙に嬉しくない称号⁉︎」

 

 不満だったのかギャースカ喚き出す一色。

 微妙の嬉しくないとは失礼なやつだ。なりたけはパリにも進出している千葉が誇る世界のラーメンだと言うのに。

 いや、この称号は貰っても嬉しくないな。

 

「てかお前、あれからまたなりたけ行ったの?」

「行ってないですよ。女の子一人で行くわけないじゃないですか。仮に女子一人でラーメン食べにいく人とかいたらあれですよ、あれ。超ドン引きですよ」

「ごはっ!」

 

 おっと流れ弾がラーメン界の生き遅れさんに直撃してしまったようですね。でも大丈夫! 平塚先生は女子って歳じゃないから一色の言葉のうちには含まれないよ!

 うわっ今背中がゾクってした、

 

「だ・か・ら......」

 

 ふわりと柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。気がつけば見慣れた亜麻色の髪が目の前まで来ており、それが首筋にサラリと触れてゾワッと妙な感覚が背筋を駆け巡る。

 

「先輩だけ、特別ですよ......?」

 

 甘ったるい声音が脳髄を刺激した。

 視界がクラリと揺れそうになって、刹那の間に正気に戻る。いや、正気に戻らざるを得なかった。

 あの、正面に立っている般若のような表情をした我が恋人を見てしまっては。

 

「一色さん?」

 

 恐怖を感じる、なんて言葉では表せられないような感情が全身を撫でる。まるで酷く冷え切った手に首根っこを掴まれ、自分の命の行く先を握られたような。

 これまでもその声音に恐怖を感じたことはあれど、ここまでのものだっただろうか?

 否、断じて否。

 氷の女王、雪ノ下雪乃はその背に黒い炎を燃やして己の後輩の名を呼んだのだ。

 呼ばれた一色は俺と同じように感じたのだろう。恐怖のあまり、と言うよりも恐怖を通り越した何かを感じて声も出せずにいる。

 

「私、猫は大好きだけど、一つだけどうしても嫌いな猫がいるのよ」

 

 薄く微笑んだその顔に思わず見惚れそうになるが、静かに響くその声がそれを許しはしない。

 一色は口を魚のようにパクパクさせて、目尻に涙を溜めている。

 

「泥棒猫って言うのだけれど、知っているかしら?」

「存じ上げております!」

 

 漸く絞り出したであろう声は上擦っており、その言葉は普段の一色が発するようなものとはかけ離れたものになっている

 

「そう、知っているのなら良かったわ。一色さんは、違うわよね?」

 

 ゆっくり。ゆっくりと。冷淡な声で紡がれた言葉が耳朶を打つ。

 コクコクと全力で首を縦に振る一色。それを見て満足したのか、雪ノ下は長い髪を払いのけた。

 

「雪乃ちゃんは可愛いなぁ〜」

 

 息が詰まりそうなその空間を切り裂くように陽気な声が鳴る。陽乃さんは雪ノ下の頬をツンツン突きながら滅茶苦茶笑顔で妹に構い出した。

 

「嫉妬かな? 嫉妬なのかな?」

「姉さん黙って。彼は私のなのだから所有権を主張したまでよ」

「またまた〜。照れなくてもいいんだぞ?」

 

 正直助かった。陽乃さんがここで声を出してくれなかったら俺と一色が死んでた。

 一色は主に恐怖で。あのまま続けてたらいろはす心臓麻痺起こしてもおかしくなかったよ?

 俺はまあ、羞恥心とか嬉しさとか色々なものに押し潰されて。

 だってあの雪ノ下が独占欲を持ってくれてたんだぞ? さっきまで確かに怖かったのを通り越してもうちびりそうになってたけど、今となっては気を抜いたら頬が緩みそうだ。

 

「結衣先輩......。怖かったです......」

「あー、よしよしいろはちゃん。確かにさっきのゆきのんは怖かったね......」

 

 抱きついてくる一色を苦笑いを浮かべながらも優しく受け止める由比ヶ浜。

 ガハマさんのダブルメロンに埋もれた顔は隙間から見る限りにへらと歪んでいた。

 ちょっと? あなたさっきまで泣きそうになってましたよね?

 この場合一色の強かさを恐るべきなのか、恐怖を一瞬で和らげるダブルメロンを褒めるべきなのか非常に悩ましい。

 

 

 

 

 

「で、では気を取り直して、雪乃さんの料理を見てみましょう!」

 

 段々と百合百合しい空気に包まれてきた家庭科室だったが、小町の一声で嫁度対決が再開される。

 個人的にはこのまま流れてしまった方が嬉しかったんですけどね。

 

「私は秋刀魚の塩焼きを......」

 

 机に乗せた銀パカが開かれると、なんだかんだよく見たことのあるお魚さんが。

 八月下旬あたりから市場に出回る今が旬の魚、秋刀魚だ。

 皿の端っこに盛り付けてある大根おろしも合わせて、テンプレートのような秋刀魚の塩焼きだった。

 

「んじゃ先ずは一口」

「待ちなさい」

 

 早速身をほぐして一口頂こうとしたのだが、これを作った雪ノ下から待ったがかかった。

 え、なに? もしかして秋刀魚食べる時の作法とか存在する感じ?

 

「比企谷くん、お箸を貸しなさい」

「お、おう」

 

 有無を言わせぬ謎の迫力に負けてしまって思わず言われるがままに箸を渡す。

 一体何をするのかと思いきや、俺から箸を受け取った雪ノ下は、先程平塚先生が座っていた椅子に座り、秋刀魚の身をほじくり出した。

 暫くその様子をジッと見ているとあら不思議。秋刀魚の骨が綺麗に根こそぎ取り出されたではありませんか!

 いや、これまじで綺麗に取れてるぞ。もう残ってるの身だけだぞ。文字通り骨抜きにされてるぞこの秋刀魚。

 やっぱりネコ科の雪ノ下さん的にはお魚の骨好きなのかな? とかふざけたことを考えてると、抜き取った骨を別の皿に置き、一口分の身を箸で摘んでこちらに差し出してきた。

 

「はい、あーん」

 

 

 ......................................................。

 

 はっ! ヤバイ思わずトリップしてしまった。

 危ない危ない。雪ノ下との老後の人生まで妄想しちまったぜ。もう少し遅ければ手遅れになってるところだった。

 いやこれもう手遅れだわ。

 頬を染めて若干恥じらいつつも幸せそうに微笑みながら箸をこちらに差しむける雪ノ下。どうなら魚の骨を抜いただけに飽き足らず、俺すらも骨抜きにしてしまうらしい。

 もうこいつが優勝でいいんじゃないかな。

 ではなくて。

 

「あの、雪ノ下さん? みんな見てるんだけど?」

「ええ、それがなにか?」

 

 あ、これあかんやつや。何言っても無意味な時のゆきのんや。

 持ち前の負けず嫌いを発揮させちゃったのかな?

 取り敢えず後ろでカメラを構えている大魔王とあざと小悪魔は無視するとして。今なんかカシャってシャッター音鳴った気がするけどそれも無視するとして。

 

 元来ぼっちの俺には取れる選択肢と言うものが少ない。今までもその少ない選択肢を更に取捨選択し、最も効率のいい方法を取ってきた。

 今回もそれに漏れず、俺に与えられた選択肢はただの一つだけ。

 それ即ち、強情になってしまった雪ノ下の前では諦める以外にないと言うことである。

 

「さあ比企谷くん、あーん」

「あー......」

 

 ん、と一口。

 普通に美味い。由比ヶ浜のようなインパクトがあるわけでもなく、一色のような眼を見張る完成度を誇る訳でもない。

 しかし、その二つ以上に美味しく感じられたのはどう言った理由からか。問わずとも分かりそうなものだが。

 しかしその理由の内の一つには、素材の良さがあるだろう。

 脂がしっかり乗った旬の魚は、雪ノ下の目利きだろうか。そこらの店で出るものよりもいい秋刀魚を使ってるかもしれない。

 

「もう一口どうぞ」

「おう」

 

 最早恥じらいなんてどこへやら。雪ノ下が差し出してくる箸にパクリと食らいつく。

 塩気がよく効いていて白飯が欲しくなるが、ここでガッツリ食べてしまえば晩飯を食えなくなるので我慢。

 なにより雪ノ下があーんしてくれていると言う事実だけでもうお腹一杯だ。

 

「戸塚くんも是非どうぞ」

「あ、うん。じゃあ遠慮なく」

 

 やっぱり戸塚にはあーんしないのね。そりゃそうか。もししたらしたで俺が複雑な気持ちになってしまう。

 いや、俺が戸塚にあーんすれば万事解決なのでは?

 

「凄い美味しいよ。雪ノ下さん料理上手なんだね!」

「これくらい当然よ。ミートソースがイカスミのようになってしまったり、嫁度を測るのにラーメンを作るような人達とは違うもの」

「うっ......」

「ぐぬぬ......」

 

 後ろで悔しそうにしてる由比ヶ浜と一色だが、雪ノ下は正論を言っただけですよ?

 特に一色。お前完全に勝負の趣旨を理解してなかっただろ。

 

「はーい! ではお兄ちゃんと雪乃さんのイチャイチャも見れたことで、大トリの平塚先生!」

 

 大トリと言うか大オチと言うか。

 つか今回は小町ちゃん参戦しないのね。小町の肉じゃが久しぶりに食べたかったんだけど。

 

「私の料理は、これだ!」

 

 銀パカが開かれた先に現れたのは、夥しい数の肉、肉、肉。先程一色のラーメンの時にもあったあの感覚、味覚中枢が強く刺激される感覚が蘇る。

 そう、皆さん御察しの通り一度目と同じ。

 適当に焼いた肉ともやしに焼きタレぶっかけただけである。

 

「どうだ比企谷? 私も中々やるもんだろ?」

「いや、確かに男子的には大好物の一品ですけど。嫁にこれ出されるのはちょっと......」

 

 いつだったか、奉仕部の部室で男受けする料理はなにかと言うメールに対して『適当に焼いた肉と白飯』なんて答えた気もするが、実際これを妻から出されたらなんかちょっとアレだよね。

 取り敢えず採点の手順的に食べなければならないので肉を一枚摘み、口へと運ぶ。

 

「焼きタレうめぇ......」

「私を褒めろ、私を」

「でも確かにお嫁さんっぽくはないよねー。静ちゃんもうちょっと他に無かったの? こんなのばっか作ってるから彼氏逃げていくんだよ?」

「ぐはっ!」

 

 陽乃さんがトドメを刺して先生はついに膝から崩れ落ちた。超正論なだけに何も言えない。

 て言うか、陽乃さんはマジで何しに来たの? 今のところ雪ノ下にちょっかいかけた以外何もしてないけど、暇なんですか?

 何もしないなら帰ってくれないかなぁ......。

 

 

 


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