相模が奉仕部へと来た翌日である今日。
結論から言うと、一色は部室へ来なかった。
由比ヶ浜には部活に行く、とのメールがあったらしいが、こうまでして俺たちとの接触を避けるとなると、いよいよきな臭くなって来た。俺の馬鹿みたいな予想が当たってる可能性も高くなってしまっている。
まさかとは思うが、一色は生徒会長になりたくなんてないんじゃないのか。
その考えは他の誰でもない一色自身に対して非常に失礼なものだろう。
俺たちが修学旅行に行く前、彼女は確かに言っていた。一色が、一色自身の意思で生徒会長になりたいと。本人の口から確かに聞いたことだ。
一色が来ないとの報せを聞き、奉仕部部室内は若干重たい雰囲気に包まれていた。
由比ヶ浜は携帯の、恐らくは一色からのメールを見つめて浮かない表情をしているし、雪乃はさっきからなにやら考え事をしているようで、紅茶のカップを見つめている。
「......八幡、悪いのだけれど、今日は一人で帰ってくれるかしら。少し、やる事が出来たわ」
顔を上げた雪乃の瞳は、いつもの強い光を携えたものだった。その目をした彼女なら、なにも問題は無いだろう。
「了解だ」
「由比ヶ浜さんは一緒に来てくれるかしら?」
「うん! ......うん? ゆきのん、今ヒッキーのこと名前で呼んだ⁉︎」
「別に騒ぐようなことでもないでしょう」
そうそう、別に騒ぐようなことでもない。曰く、名前で呼び合うのが普通の恋人らしいからね。つーか、俺今日雪乃のこと名前で呼んだっけ? 呼んでない気がする。
「んじゃ俺は先帰るから、そっちは任せたぞ雪乃」
「ええ」
「ヒッキーも名前で呼んだ! ねえゆきのんいつから? いつから名前で呼び合ってるの?」
「由比ヶ浜さん、近いわ......」
今日も仲良くゆるゆりしてる二人を背に部室を出る。
さて、雪乃からは特になにもしなくてもいいと昨日言われてしまった。だからと言って一色のことが心配なのは変わりない。なにかしてやりたくなるのは、俺のお兄ちゃんスキルの為すものなのか。
「どうすっかなぁ......」
久しぶりに放課後の時間を持て余してしまった。と言っても、今日も今日とて雪乃と登校したから自転車はない。どの道駅まで向かわないといけないし、ミスドにでも行こうかな。ついでにちょっと考えたいこともあるし。
学校を出てから駅まで歩く。そろそろ通い慣れてきたとは言え、隣にはいつも雪乃がいた。彼女がいないと言うだけて一抹の寂しさを覚えてしまうのは、仕方のないことだろう。うん、ほら、手とかいつもよりちょっと寒いし。
この時期になると日が落ちるのも早くなる。未だ夕方の5時になる手前とは言え、空は橙色に包まれていた。
あいつら、暗くなる前に帰ってくれればいいんだけど、あの様子だと長引きそうだしなぁ。
恐らく、雪乃は今から一色のやつを捕まえて話を聞きに行くのだろう。由比ヶ浜を連れて行ったのは、雪乃自身が自分の足りないものを自覚しているからか。
俺が人のことを言えた義理ではないが、雪乃もあれで物事を理性的に処理するところがある。その雪乃が気付けない部分に、由比ヶ浜が上手いこと気づいてくれればいいのだが。
そんな風に考えながら歩いていると、駅前のミスドへと辿り着いた。
早速店内へ入ろうとして自動扉が開くが、その足が店内へ向かうことは無かった。
「げっ......」
「ん? おぉ!」
店内でつまらなさそうにコーヒーカップのマドラーをぐるぐると回していた魔王を発見してしまったからだ。
しかも完全に目が合っちゃったし。これでもう逃げられない。逃げようとするだけ無駄。
「ひゃっはろー比企谷くん!」
「......どうも」
魔王、雪ノ下陽乃は俺を見た途端にパァッと顔を輝かせ、大きな声で俺を呼びこちらに歩いてくる。恥ずかしいんでデカイ声出さないでくれませんかね。
ここで回れ右したくて本当に仕方ないのだが、そうしたらしたで後が怖いので、大人しく店内に入る。
「奇遇だねぇ。今日は雪乃ちゃんと一緒じゃないの?」
「雪乃のやつは用事があるそうなんで」
そう言ってから気づく。が、時すでに遅し。
なんでこの人の前で雪乃呼びしちゃったんだ俺!
「ん? いつの間に雪乃ちゃんのこと名前で呼ぶことにしたの? もしかして修学旅行? 修学旅行で二人の距離が急接近した感じ?」
「説明するのめんどくさいんでそういう事にしといてください」
「つまんないなー」
あざとく頬を膨らませる陽乃さんを適当にあしらいつつもドーナツを選ぶ。
まずエンゼルクリームは必須。あとはポン・デ・ストロベリーにオールドファッション。トドメにエンゼルフレンチで完璧だ。それから気分によって二つほど追加するのだが、今日はハニーファッションとポン・デ・ショコラを追加しよう。
「そんなに食べるの......?」
「えぇ、まぁ」
隣の陽乃さんがなんかドン引きしてるが関係ない。今から魔王と戦わねばならないのだなら、糖分補充は欠かせないのだ。
まあ、とうの魔王が横でドン引きしてるわけだが。
レジにドーナツを通し、ついでにカフェオレも頼んで、大人しく陽乃さんの隣の席についた。
「あら、随分と素直」
「俺が素直とか、雪ノ下さんの目も俺と同じで腐ってるんじゃないすか?」
「ははは、言ったなこいつー」
「ごめんなさい俺が悪かったですだから関節キメないで!」
ちょっと軽口言ったら腕を掴まれて関節キメられたでござる。解せぬ。いや、目が腐ってるとか言われたら誰でも怒るか。陽乃さんの場合目以外は笑ってるけど。
「ねえ比企谷くん」
「なんすか」
「なにか面白い話してー?」
腕を解放されたと思ったら最悪な話の振り方をされた。て言うか、そういえば一度目の時もこんなことあったな。あの時は駅前のミスドじゃなくて別のミスドだったけど。しかも日付も違うし。
つーことはなに、この人二日連続でドーナツ食いに来てんの? あんまり甘いもの食べすぎると太りますよ。
「面白い話なんてなにもないですよ」
「えー。修学旅行で雪乃ちゃんとなにか進展あったんでしょー? ほらほら、お姉ちゃんに話してみなってー」
うぜぇ......。しかもなんか妙に距離が近いからいい匂いするし......。
そもそも、修学旅行で起きたことなんて説明のしようがない。葉山の話でもしてやろうかと思ったが、あれは二度目云々が絡んでくるのでNGだし。
「それにしても、修学旅行が終わったらもう行事なんてないよね?」
「いや、まだ生徒会選挙が残ってますね」
「あれ、選挙? この時期ってもう終わってなかった?」
「なんか候補者が揃わないとかで、長引いてるみたいです」
そう、候補者が出揃わない。本来二度目の世界においてはあり得ないと思っていたことだ。一色なら、問題なく立候補して問題なく当選すると思っていた。
けれど、現実にそうならないでいる。
果たしてそれは何故なのか。
ああそう言えば、陽乃さんには一応あの事を聞いておくか。
「あの、雪ノ下さんが総武にいた頃って裏サイトとかありました?」
「んー? 裏サイト? また随分と唐突だね」
「いえ、まあ......」
「あったのはあったんじゃないかな。興味ないからよく知らないけど。なにかあったの?」
「ちょっと仕事でして......」
部外者のこの人にはあまり話すわけにもいかない。と言うか話したら最後ややこしい事になるに違いない。
俺は言葉を濁して答えたが、陽乃さん的にはそれで納得いかないらしく、その瞳で俺を見つめる。どこまでも深く、どこまでも冷たい瞳は、吸い込まれてしまいそうに錯覚してしまう。
知らず、背筋に嫌な汗を掻く。
近頃は鳴りを潜めていたと思っていたが、やはりこの人は魔王に違いない。
「生徒会選挙ってことは、いろはちゃんかな?」
「っ......」
「差し詰め、その裏サイトにいろはちゃんについて書き込みがあった。比企谷くん達はそれをどうにかしたいって感じなのかな?」
この人は本当に、どこまでお見通しなのだろうか。
ゴクリと唾を飲んだところで、陽乃さんはクスリと蠱惑的に微笑み、その視線から解放された。
「......別に、どうこうしようってわけじゃありませんよ。特に俺はなにもしなくていいって雪乃に言われてますからね」
「そうなの? じゃあ雪乃ちゃんとガハマちゃんがなにかしてるのかな?」
「そうじゃないっすかね」
「ふーん」
口元に浮かべるのは笑み。しかし、それはかつての様な妖しげなものではなく。喜ばしいものに直面した時の様な、偉く好意的な印象を俺に与えた。
「雪乃ちゃん、やっぱり成長したんだね。それは君のお陰なのかな?」
「さて、それはどうですかね」
一度目と二度目における雪ノ下陽乃の差。そこにはやはり、雪ノ下雪乃の存在が大きく関わっているのだろう。雪乃と家族との関係は良好なものになったらしいし、その過程で、姉妹同士なにか会話を交わしたのかもしれない。
少なくとも、今の陽乃さんは、どこにでもいる妹のことを大切にする姉に見える。
「俺のお陰でなにか変わったってんなら、それは雪乃自身じゃなくて雪乃を取り巻く世界が変わったんでしょう。あいつ自身が変われたのは、他の誰でもないあいつが頑張ったからですよ」
「......そう言う比企谷くんも、初めて会った時と比べると随分変わった様に見えるけどね」
「そりゃどーも」
それはそうだ。この人と初めて会った時の俺は、まだなにも思い出していない、なにも変わっていない、変わるべきだとも思っていなかった頃の俺。今の俺と違うのは当たり前だ。
それきり会話は途切れ、俺はドーナツを食い、陽乃さんは何か話しかけてくるでも無くコーヒーカップをチビチビと傾けている。
どれくらいの時間そうして無言が続いていただろう。俺がドーナツを全て食べ終わったから、それなりの時間が経っていた筈だ。あまり長居する理由もなし、そろそろ帰ろうかと思うと、別方向から声が掛けられた。
「あれ、比企谷?」
振り向いた先にいたその人物を見た時、予想していた程の衝撃はなかった。
予めその可能性を疑っていたこともある。陽乃さんとここで出会った時点で、この展開は予想できたものだ。
そこにいたのは二人の少女。そのうちの一人を俺はよく知っている。海浜総合の制服に身を包み、緩いパーマの当てられた髪と、そのキョトンとした表情からもわかる快活そうな顔。
一度目の時に、互いの間の始まってすらなかった何かに終わりを見た、折本かおりがそこにいた。
「折本......」
「うっわ久しぶりー! 比企谷とか超レアキャラなんだけど!」
折本は俺との距離を詰めてきて、バシバシと肩を叩いて来る。相変わらず距離感の近いやつだ。
ただ、その顔を見て特になにも思うことがないのは、何故だろうか。などと、改めて自身に問うのも白々しい。
「もしかして、比企谷くんのお友達?」
その言い方だと「友達なんていたんだ?」に聞こえるのは気のせいですかそうですか。
て言うか、今の俺には友達いるし。戸塚とか戸塚とか戸塚とか、あと由比ヶ浜とか。材木座? 知らない子ですね。
そしてこの場合の最も無難な返答はこれ。
「中学の時の同級生です」
ここで変に「中学の時の友達です」とか言って、実は向こうは友達だなんて思ってなかったとか言うパターンを何度も経験してきたからな。
「折本かおりです」
「わたしは雪ノ下陽乃。比企谷くんの......、義理の姉ってところかな?」
「いや、まだ違うでしょ......」
「まだってことはそのつもりがあるってことじゃーん」
折本が叩いてきた方とは逆の肩を叩かれる。
なんで君達すぐに人の肩を叩くのん? 別に俺の肩、叩いたらご利益あるとかじゃないよ?
俺が陽乃さんにバシバシ叩かれてる間に、折本はお連れの友達となにやらキャイキャイと会話しており、それが止んだと思ったらこちらに話を振ってきた。
「比企谷って総武なんだよね? だったら葉山君とか知ってたりしない?」
「まあ、一応知ってるけど」
「あーやっぱり! ほら千佳、紹介してもらいなってー」
「えー、私はいいよー」
あぁ、思い出した。この折本の友達、仲町千佳って名前だったか。思い出せたことに八幡ビックリ。
その仲町とやらは言葉の上では否定しているが、実際はそうではないのだろう。そしてそれを見逃すはずのない快楽主義者がここには一人。
「はーい! お姉さん紹介しちゃうぞ!」
「え?」
折本達からすると意外なところから声が上がったからか、二人は呆気にとられているが、陽乃さんはそれに構う間も無く葉山へと電話をかける。
「あ、もしもし隼人? 今から来れる? て言うか来て」
あぁもう、一度目と殆ど同じ展開じゃねぇかよこれ。まあ、俺が昔折本に告ったことを陽乃さんに知られなかっただけ、マシと言えるか。
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待つこと十数分。その間折本達は陽乃さんとあれやこれやと歓談しており、俺は努めて空気になるよう徹していた。ついでにその時、折本から中学の頃のあれやこれやも口に出された。告った云々も。
まあ、だからなんだと言う話ではあるけれど。
雪乃だって折本の存在は知っているし、陽乃さんから雪乃にこの話が行ったところでさしたる影響もない。
そうして暫く俺が空気になっていると、自動ドアが開いて漸く待ち人がやって来た。
葉山隼人は、奥の席を陣取った俺たちを見て、より正確に言うならば陽乃さんを見て、気付かれない程度の小さな溜息を吐いていた。非常に癪だがその気持ちは痛いほど分かってしまう。
「やあ、こんにちは」
「初めましてー」
いつもの爽やか笑顔を戻した葉山が折本達へと向き直る。いつも見ている、『みんなの葉山隼人』だ。折本達も先程までよりも、自分を可愛らしくみせようと声のトーンがちょっと上がってたりして、はたから見るとその姿は少し滑稽にすら見えてしまう。
葉山が来たところで俺のやることなんて変わらない。只管空気に徹すること。て言うかそろそろ帰りたい。
折本と仲町の二人はキャイキャイと葉山に話を振り、話を振られた葉山は完璧な笑顔でそれに受け答えをし、なにが面白いのかは知らんが陽乃さんはニヤニヤとそれを眺めている。
これ、俺マジでいらなくない? もう帰っていい?
「あ、そうだ葉山君、今度みんなで遊びに行こうよー」
「ああ、いいね。でも、俺も部活があるからな。中々時間が取れないかもしれない」
遠回しに折本の提案を断る葉山。以前ならここは軽く流して、否定も肯定もしていなかったはずだ。
そして折本達も今の一言で葉山の真意は伝わったはず。伊達にイマドキJKやってないだろう。
だがしかし。この場には残念なことに全く関係ない癖して、物事を面白おかしな方向へと進めて行ってしまう魔王がいる。
「おー、いいじゃんいいじゃん。みんなで遊びに行きなよ。勿論比企谷くんも、ね」
「いや俺は......」
「そうだよ、折角だし比企谷も来なって」
折本が陽乃さんの言葉に乗っかる。
こいつが俺を誘う理由は分からないが、どうせ葉山の引き立て役とかそんなんだろう。伊達に昔、雪乃から引き立て谷くんと呼ばれていない。
「じゃあ決まりだねー。私はそろそろ帰るね」
「私達もそろそろ行こっか」
「そうだね」
いや、あの、なんも決まってないと言うかそもそも俺行くなんて一言も言ってないんですけど......。
「あ、そうだ比企谷くん。父さんが近いうちに会いたいって言ってたから、覚悟しておいた方がいいよ。じゃあねー」
「えっ、ちょっ、雪ノ下さん⁉︎」
最後になにやら超重大なことを言い残して、雪ノ下陽乃は帰って行った。
折本達もそれに続き、また連絡するねー、みたいなことを言って店を出る。
正直、遊びに行くだとかどうだとか今この瞬間にどうでもよくなってしまった。
なんだよ、雪ノ下父が会いたがってるって。まさか俺消されるのん? 東京湾に沈められちゃうのん?
「厄介な人を義姉に持ったな」
隣に座る葉山はコーヒーカップを傾けながら乾いた笑みを漏らす。えらく他人事のように言ってくれるが、事実こいつからしたら全くの他人事なのだからそれも当たり前だ。
「と言うか、なんで君はまた陽乃さんに捕まってるんだ」
「知るか。日付も店も違うのになんかいたんだよ。これは不可効力ってやつだ。俺は悪くない」
「別に誰が悪いとかの話はしてないだろ。まあ、強いて言うなら断りきれなかった俺が悪いのかもしれないけどな」
「まさしくその通りだ」
しかし、断りきれなかったとは言え、葉山がああして拒絶の姿勢を見せると言うのは確かな変化なのだろう。
「取り敢えず、金曜日は付き合ってもらうから、そのつもりでいてくれよ」
「マジかよ......」
「また陽乃さんから直接催促されたくはないだろう?」
「その通りなんだけどよ......。て言うか、雪乃になんて言えばいいんだよこれ......」
「そのまま伝えればいいじゃないか。彼女も、一度目の時のことは知っているんだし。取り敢えず向こうから連絡があったらそっちにも教えるよ」
「へいへい......」
コーヒーカップの残りを飲み干した葉山は立ち上がり、俺に別れの挨拶を寄越すこともなく店を出ていった。
はぁ、マジで雪乃になんて説明すればいいんだよ。一色の件もあるってのに......。
つーかなんで俺は葉山と仲良くミスドで会話してたんだ?