先に帰宅した八幡を見送り、由比ヶ浜さんからの追求をなんとか逃れ、私達は一つ寄り道をしてからグラウンドまで出て来ていた。
やる事はただ一つ。
一色さんの意思を改めて確認する。
本来ならば必要のないことだ。話の流れからすると、相模さんに昨日見せてもらった裏サイトの書き込みをどうにかするために考えを巡らせた方が正しいのかもしれない。
けれど、少しでもその可能性があるのなら。
私の推測は間違っていると思いたい。一色さんの口から、私達は確かに彼女の意思を一度聞いたのだから。
完全下校時刻まではまだ時間もあるので、サッカー部は勿論練習中。校舎の方からそれを眺めていたのだが、部員達にゲキを飛ばす部長殿がこちらに気づいて歩み寄って来た。
「やあ二人とも。どうかしたかい?」
「こんにちは葉山君」
「やっはろー」
「練習中で悪いのだけれど、一色さんを少し借りてもいいかしら?」
「いろはを? ......あぁ、そう言うことか」
何かを納得したかのように、葉山君は一つ頷く。きっと、一色さんの現状をある程度は把握しているのだろう。裏サイトのこと、立候補していないこと。
把握していると言うのになんの動きも見せないことに意見するのは少し酷と言うものだろう。彼自身も、あの修学旅行があった故に今は自分のことでいっぱいだろうし。寧ろこれで一色さんを優先するのであれば、何も変わっていないと張っ倒すまである。だって私達の努力が全て水泡に帰すじゃない。
「彼がいないのは少し意外だが、直ぐ呼んでくるよ。ちょっと待っていてくれ」
そう言って葉山君はどこかへ小走りで向かう。多分、部室の方へ行くのだろう。
数分もしないうちに戻って来た葉山君の隣には、目的の人物が。
私達二人を見て一瞬目を丸くするも、直ぐにいつも通りの表情へと戻る。その顔は、どこか既視感を感じさせるものだった。
「待たせたね」
「どうもです、お二人とも」
「こんにちは」
「やっはろー、いろはちゃん」
心なしか、由比ヶ浜さんの挨拶の声もどこか元気のないものに聞こえてしまう。かく言う私の声色も常日頃一色さんに向けているものからはかけ離れていただろう。
「少し話がしたいのだけれど、いいかしら?」
「わたしは大丈夫ですけど......」
そう言ってから確認するように隣を向くと、葉山君は一色さんに頷きを返す。
「行ってきたらいいよ、いろは。今日はもう大丈夫だから。ちゃんと、話して来い」
「......分かりました、じゃあお先に失礼しますねー」
あぁ、まただ。また、一色さんのその笑顔に既視感を覚える。その正体を、私は知っている。だって、恐らくは、同じ顔をした女性を、私はいつも見ていたのだから。
「じゃあ、一回部室に戻ろっか」
「......そうね。一色さん、着替えが終わったら部室へ来てくれるかしら?」
「はい」
サッカー部の部室へと向かう一色さんを見送り、私達も奉仕部の部室へ向かう。
道中、隣を歩く由比ヶ浜さんと会話は無かった。彼女はなにか思い詰めたかのように俯いていて、その表情も上手く見えない。
こんな時、なんて声を掛けたらいいのか分からない自分が嫌になる。大切な友達と後輩がこうも思い詰めているのに、私にはその力となれるだけのものがなにもない。
けれど、自分が無力なんてのはもう承知済みだ。私に出来ることはなにもないと知ってしまったけれど。
だからこそ、そのままの自分で終わるつもりなんて毛頭無かった。
部室に辿り着き、会話もないまま数分待っていると、扉が開かれる。
「お待たせしましたー」
制服に着替えた一色さんは、貼り付けたような笑顔で、長机の依頼者側へと座った。
いつも座っていた定位置と化した席。八幡と由比ヶ浜さんの間の席には腰を下ろさない。
たったそれだけの事なのに、彼女との間に大きな壁を感じてしまう。
「それで、お話ってなんですか?」
「取り敢えず、お茶を淹れるわ。話はそれからにしましょう」
立ち上がった紅茶の用意をするために、電気ケトルの置いてある机まで数歩進む。
出来ることがなにもない、なんてのは言い訳にはならない。だって、そんな状況にありながらも、自分のやり方を貫いた人を知っている。
ケトルがシュッと音を立て、お湯が沸いたことを知らせる。
使い慣れたティーカップと紙コップに紅茶を注いで、それぞれの席へと運んだ。
八幡は八幡のやり方で、斜め下から壁のぶつかることもせず、プライドなんてかなぐり捨てて、それでいて実力をフルに発揮出来るやり方を貫いていた。
ならば私は。
私のやり方を貫くしかないのだろう。
正々堂々、真っ正面から気高く清廉で尊大に。
途上国にはODAを、ホームレスには炊き出しを。迷っている後輩がいるのなら、それを払拭するために問いかけを。それがこの部の、私の理念だ。
一色さんの考えてることなんて、結局のところ一色さん本人にしか分かり得ない。当たり前だ。私達は一色さんではないのだから。けれど、それを分からないままで終わらせたくない。知りたいと、そう願ってしまったから。彼のことも、彼女のことも、この後輩のことも。だから。
「話をしましょうか、一色さん」
まずは、その継ぎ接ぎだらけの仮面を剥ぎ取るところから始めよう。
一色さんには悪いのだけれど、そんな出来損ないの仮面を剥がすなんてのは造作もないことだ。なにせ、その上位互換を何年も見続け、その背を追ってきたのだから。
「まずは一つ確認しておきたいのだけれど」
「なんですか?」
「あなた、本当に生徒会長になりたいと思っているの?」
笑顔の仮面に、ヒビが入った。
一瞬だけ表情を硬直させた後、取り繕うようにまた笑顔を貼り付ける。
「当たり前じゃないですか。私は生徒会長になるために、今まで奉仕部に来て一緒に依頼を解決してたんですから」
「なら、何故まだ正式な立候補が出来ていないのかしら?」
「それは、推薦人が全然集まらなくて」
「嘘ね」
一色さんの言葉をピシャリと断ち、カバンの中から紙束を取り出す。
グラウンドに行く前の寄り道、生徒会室で城廻先輩から受け取ったものだ。
一色いろはの推薦人名簿。
正直本当に渡してくれるとは思わなかったけれど、これがあるのと無いのとでは大きく違う。なにせ、動かぬ証拠なのだから。
「30人まで記入できる用紙が5枚と半分まで、総武高の生徒の名前で埋まってるわね。約150人からの推薦を受けておきながらまだ立候補に踏み切らない。ざっと目を通したところ、葉山君のグループや相模さんに戸塚君、果ては材木座君まで署名しているみたいね。さて、一色さん。もう一度聞くわ。あなたは、本当に生徒会長になりたいと思っているの?」
彼女の表情からは既に笑みが消え、まるで迷い子のように視線をあちらこちらへ泳がせていた。
「わた、しは......」
唇はわなわなと震え、続く言葉は紡がれない。やがて顔を俯かせてしまい、その表情も読み取れなくなってしまった。
誰も言葉を発せようとはせず、部室には重たい沈黙がおりる。
「いろはちゃんはさ......」
その沈黙を破ったのは、今まで一言も発していなかった由比ヶ浜さんだった。
彼女は、いつもの優しい声色で、けれどその顔にどこか悲しさを滲ませながら続ける。
「いろはちゃんは、生徒会長になりたいんだよね?」
「......はい」
「じゃあ、さ。どうして......。どうして、私達三人に、最初に推薦人をお願いしてくれなかったの?」
「ぁ......」
その言葉に、一色さんがハッとして顔を上げた。対面にいる由比ヶ浜さんの濡れた瞳に縫い付けられたように、小さく震えている。
「それ、は......」
そう。そうだ。私達は誰一人として、この推薦者名簿に名前を載せていない。
私自身、何故かそのことを、今の今まですっかり失念していた。
由比ヶ浜さんがいてくれて助かった。八幡ほどではないにせよ、私は人の感情というものを慮ることが苦手だ。理屈や理論で説明できないそれに気がつくことが出来ない。
けれど、由比ヶ浜さんはそれが出来る。私に足りない部分を補ってくれる。
「ねえ、いろはちゃん。いろはちゃんは、本当はどうしたいの?」
私のものとは全く違う、暖かさに包まれた声が耳を撫ぜる。
一色さんのその表情に作られたものは既になく、泣きそうな顔でポツリと話し出した。
「欲しいものが、あるんです......」
思わず、由比ヶ浜さんと目を合わせてしまった。
あぁ、知っている。似たような表情で、似たような声の調子で、欲するものを語る。それは、なにがあっても忘れられない大切な記憶だから。
「ずっと、わたしには到底手の届かないものだと思ってました。そこにわたしの入る場所は無くて、三人で完成してしまっている、暖かくて、紅茶の香りに満ちた部屋。そこに、自分の居場所が欲しかったんです」
一拍置いて紅茶を喉に通す。
カップを置いた時の金属音が、何故か妙に耳に響く。
一色さん本人は気付いているだろうか。その目に、今にも溢れそうな程の涙が浮かんでいることを。
「手段と目的が逆転してたんですね。出来れば、そこにずっと居たかった。生徒会長になんてなれなくてもいい。ただ、わたしは、先輩たちの特別に、本物になりたかった......!」
膝の上で握り締めた拳が、とうとう涙で濡れた。しゃくり上げて絞り出した悲痛な声は、普段の彼女からは想像できない。
そんな一色さんに掛けるべき言葉は、考えずとも口から出て来た。
「信実、あるいは真実。それが、空虚な妄想でないと、どうして言い切れるのかしらね」
一色さんに取っては予想外の言葉だったのだろうか。上げられた顔は不安に満ちている。
その不安を払拭させてあげるために、私は口を動かす。
「一色さん、私はあなたが好きよ」
「へっ?」
あら、今度は随分と間抜けな顔になってしまっているわね。言葉を間違えたかしら? いえ、私が一色さんに対して抱いている素直な気持ちを口にするには、これ以上の言葉はない。
猪突猛進。いいじゃない。そうやって脇目も振らずに駆け抜ける方が、私には性に合ってる。
「今の言葉で分からない? なら言い方を変えようかしら。あなたのことを愛してる、とか?」
「ゆきのんそれ変わってないよ⁉︎」
思わず、と言った風に由比ヶ浜さんからツッコミが入った。
やはり、この感情を言語化するのは難しいわね。
「あ、あの、雪ノ下先輩......?」
「そうね、正直に言おうかしら。私はね、一色さんが会長になろうがなるまいが、どっちでもいいのよ」
「それは、なん、で......」
「だって、どちらにしても、私があなたのことを好きなことに変わりはないもの」
「......」
「私達が『生徒会長の一色いろは』としてあなたと接していると思った? ならばそれは大きな間違いね。自惚れないで頂戴、あなたの働きでは生徒会長としてはまだまだ不十分よ。あれなら私に任せてもらっと方がいいわね」
「突然の罵倒⁉︎ なんで今わたしバカにされたんですか⁉︎」
「最後まで聞きなさい。私は、私達は、一色いろはと言う一人の人間に触れて、接して、その上であなたのことを好きだと言っているの。生徒会長や後輩だなんて肩書きはそこに必要ないわ。あなたは、もうこの部室になくてはならない特別な存在。私にとっての本物に、あなたはもう含まれてしまっているのよ」
「あっ......」
「分かってもらえたかしら?」
「うっ......ぐすっ......ゆぎのじだぜんばい......!」
「ちょ、一色さん⁉︎」
涙で化粧は剥がれ落ち、みっともなく鼻水まで垂らしてしまって、弾かれたように立ち上がった一色さんは突進する勢いで抱きついて来た。
危うく椅子から落ちそうになったけれど、なんとか耐える。
なんとか胸で抱き止めたと思ったら、後頭部に柔らかい感触が。見上げると、いつの間にか立ち上がっていた由比ヶ浜さんが私と一色さんを纏めて抱き締めていた。
「言いたいことは大体ゆきのんが言ってくれたけどさ。それでも、言わせてもらうね。私も、いろはちゃんの事が好きだよ。ゆきのんみたいに難しい言葉で纏められないんだけどさ。でも、いろはちゃんの事が大好きって気持ちは、ずっと変わらないの。これからも、ずっと」
「ゆいぜんばいぃぃ......」
ついに大きな声を上げて号泣しだしてしまった。
そんな可愛い”友達”の頭を撫でながら、由比ヶ浜さんと二人、目を合わせて微笑みあった。
一色さんは十分かけてたっぷりと大号泣してくれた。そのお陰で私の制服が一色さんの涙やら鼻水やらで濡れてしまったけれど、まあ、今回に限り不問としましょう。
一旦紅茶を淹れ直し、全員が同時に口をつけて息を吐き出したので、目を合わせて笑い合ってしまった。先程まであんな空気だったの言うのに、それも全て霧散している。
「わたし、生徒会長になります」
暫くの間があった後、一色さんが言葉を発する。
「先輩たちなら既にご存知かもしれませんけど、わたし、裏サイトに結構書き込まれてるんですよ。それも立候補してなかった理由の一つだったんですけど......。でも、雪乃先輩と結衣先輩がいてくれるなら、頑張れますから」
私に対する呼び名に、一瞬違和感を感じたけれど、今それはさて置き。
由比ヶ浜さんは一色さんを心配するように見つめて問う。
「いろはちゃん、大丈夫?」
「はい。だって、生徒会長になってその人たちを見返してやればいいだけじゃないですか。それに」
私のことを見て、不敵に笑う一色さん。
その目はどこまでも挑戦的で、その声色はどこまでも甘い、彼の言葉を借りるならあざといもので。
「わたしだって、結構負けず嫌いですから。言われたままじゃ終わりませんよ、雪乃先輩?」
実に一色いろはらしく、そんな宣言を残した。
『あー、もしもし雪乃? 取り敢えずそっちの報告は後で聞くわ。それより俺からも一応報告しとかなきゃならんことがあるんだけど......。折本っていただろ? 海浜総合のやつ。あのなんか煩いの。端的に言うとだな、雪ノ下さんの仕業でそいつと、そいつの友達と、葉山と、金曜日に何故かデートすることになった』
「は?」