『雪風』は沈みません。
絶対に絶対に沈みません。

『絶対に沈まない雪風bot』 https://twitter.com/y_unsinkable の鎮守府のお話です。
このbotを見なくてもお楽しみいただけます。

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絶対に沈まない雪風のお話

 雪風の見つめる先で、混じりあった夜と水面とが、遥か水平線でじわりじわりと滲んできた朝日にゆっくりと分かたれていきました。深い夏色の夜が寝起きの瞼の様にゆっくりと押し広げられ、濃い紫から鮮やかな橙へ、その橙から眩い白へと移ろいながら、朝日がすっかりと顔を出すまで、雪風は執務室の窓から海を見つめていました。

 双眼鏡を取り上げて、ピカピカに磨き上げた鏡面の様に朝日を映して輝く水面に向け、雪風は影を探します。最初はきらりきらりと白兎が跳ね上がっては隠れていく姿ばかりが見えましたが、辛抱強く待っていると、やがてそのきらきらの中に、すっと真っ直ぐに伸びる白い航戦が見て取れました。六条のそれの先端には、軽快に海を駆ける六隻がどれもみな欠けることなく、一様に眠たげな眼で不機嫌に鎮守府を睨みつけ、まだかまだつかないのかとやきもきしているようでした。

 長時間の遠征に出ていた第三艦隊の皆さんです。良く慣れた艦娘は航行中でも立ったまま仮眠をとれますが、やはりそれは横になって眠るような十分な睡眠ではなく、帰り着くころにはとにかく疲れてくたくたなのです。それでも資源はいくらあっても足りないし、大事な任務だということは良く良くわかってくれているので、ああして海の上では不平不満に顔を歪ませても、だからやらないというようなことは言わないのです。本当に皆さん良い娘たちです。

 雪風は第三艦隊の面子の休暇申請書類を作り、自分でそれに許可の印を捺しました。司令はご多忙で不在がちですが、雪風はこういう印鑑もすべて任されていますので、全て滞りなく鎮守府は回るのです。本当は秘書艦にやらせちゃいけない書類とかもあるのですが、どうせ誰も気にかけない規則です。

 執務机に腰を下ろし、細々とした書類を片付けるうちに、じーしゃわしゃわしゃわしゃわじー、とクマゼミが鳴きはじめ、大きめにとった窓から朝の日差しが差し込んできました。雪風には大きすぎる椅子にすっかり背を預けて、蝉時雨に耳を傾けますと、シャワシャワと鳴く蝉の声に交じって、戸が開かれ、窓が開かれ、声をかけ合い、廊下に足音を響かせ、鎮守府が目覚めていく音がします。雪風はこの音が大好きでした。

 据え付けの電気珈琲沸機で珈琲を淹れ、カップから立ち上る香りを楽しみます。雪風は最初、珈琲の香りは好きでしたけれど、苦いので飲むのはあまり好きではありませんでした。でもお砂糖を入れれば甘くなりますし、牛乳を入れれば丸くもなるので、少しずつ慣れることが出来ました。いまでは飛び切り濃く淹れたブラックの珈琲が朝の始まりです。

 ふうふうと冷ましながら珈琲を飲んでいると、どかどかと威勢の良い足音が廊下を渡ってきて、どんどんと乱暴なノックの音がして、どうぞと声をかける前に元気よくドアが開きました。第三艦隊の旗艦を務める天龍さんです。

「おう、帰ったぞ」

「はい、お帰りなさい」

 同じ艦隊の第六駆逐隊の皆が見えないあたり、荷卸しした後は現地解散にしたのでしょう。

「資源はどうでした?」

「一応ノルマは達成したけど、どこもカツカツだな。夏は連中も活発になるし、輸送艇狩りの方が稼げるかもしれねえな」

「わかりました。司令に打診しておきます」

「司令、ね。まあいいさ。俺たちゃお上の采配に従うさ」

 報告書を乱雑に置いて、天龍さんは一言、寝る、とだけ言い残してまたどかどかと威勢の良い足音を響かせて去っていきました。以前は前線勤務を強く希望して、資源の調達なんかやってられるか、戦わせろと喰ってかかってきましたが、最近は遠征任務の大切さ、資源の重要性をわかってきてくれたのか、あまり強くは言ってこないようになりました。天龍さんはベテランで遠征先での指揮も信頼できますので、専念してくれるとありがたいです。資源がないばかりに苦しむのは、前線の皆ですから。

 珈琲をちびりちびりとやりながら報告書に目を通していると、今度は足音もなくノックもなく、がちゃりと無造作にドアを開けて叢雲さんが顔を出しました。

「あ、おはようございます、叢雲さん」

「おやすみ」

「へ?」

 噛み合わない挨拶をしてくる叢雲さんは杖をごつごつ言わせながらずんずんこちらに迫ってくると、報告書を読んでいた雪風の手を容赦なく杖でひっぱたきました。

「あいたぁッ!?」

「どうせまた寝てないんでしょ」

「や、やだなあ、ちゃんと寝てますよぅ」

「同室の島風に気づかれないように?」

「え、えうー」

「あんたの悪い癖よ。あんたが寝こけてても天龍は帰ってくるし、あんたが徹夜してまで片付ける程うちに仕事はないの」

「で、でもですね」

「デモもストもないわ。………一度ストライキでも起こせばわかるのかしら?」

「わわわ、困ります困ります!」

 叢雲さんは溜息を吐いて、銀色の義足で執務机を蹴りつけました。

「なら、さっさと一眠りして……その前に朝御飯ね。どうせまた何も食べてないんでしょ」

「うーん。でもあんまりお腹すいてないですし」

「空きっ腹に珈琲なんか流し込んで、また胃が荒れるわよ」

「艦娘はそんなにやわじゃないですよぉ」

「…………繰り返せば、誰だって身体壊すわよ」

「むぅ……」

「ちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝なさい。あんたで出来る仕事は私でもできるんだから」

「でもでも、叢雲さんは別にお仕事しなくてでもですね」

「やることなくて暇なのよ。事務屋雇うより安上がりでしょ。それよりとっとと食堂行きなさい。ご飯抜いて徹夜なんて繰り返してたら倒れるわよ。沈まないんでしょあんた」

「は、はいっ! 雪風は沈みません!」

「ならさっさと行けッ!」

「はひぃっ!」

 杖を振り上げる叢雲さんに、雪風はわたわた退散します。雪風、これでも秘書艦なんですけど、でも叢雲さんには頭が上がりません。叢雲さんは鎮守府が出来た頃からの古参で、前線で左足を失ってもまだ鎮守府に残ってくれている艦娘なのです。本当なら、傷痍艦娘として俸給を貰って内地で暮らせるのに、不在がちな司令と無理しがちな雪風を放っておけないからと、事務仕事を始めとして色々と鎮守府の面倒を見てくれています。

 ああして執務室にこもられてしまっては、雪風も戻れません。大人しくご飯を頂いて、それから問題がないか鎮守府を見て回ることにしました。

 食堂はもう沢山の艦娘でにぎわっていました。射場で一汗流してきた朝の早い航空母艦の皆さん、食事量が多いので時間のかかる戦艦の皆さん、ラジオ体操を済ませてきた駆逐艦の皆さん、今日の予定を話しながらのんびり語らう巡洋艦の皆さん、眠たげに目元をこする潜水艦の皆さん。うん、今日もみんな元気です。

 雪風も鳳翔さんに朝御飯のお膳を受けとり、隅っこの方の適当な席を取ります。雪風は秘書艦で、同じ艦娘ではあっても、立場上皆さんの上に立っていることになるので、雪風が皆さんの輪に入っていくと、表面上は気にしていない風でも、やはり少しぎこちなくなります。それに秘書艦でなくても、雪風は幸運艦なんて二つ名があります。どんな激戦でも雪風だけは帰ってきてしまう、他の艦の幸運を吸い上げる死神。だから、今も、こうして皆さんから離れて座っていても、視線を感じたり、会話が途切れたりするのを感じます。だから、皆さんの邪魔にならないよう、あんまり食堂にはきたくありません。だから朝御飯食べたくないんですって言ったら叢雲さん許してくれるでしょうか。駄目な気がします。鳳翔さんには少し迷惑おかけしますけど、今度からお弁当作ってもらいましょうか。

 そんなことを考えながら合成焼き鮭の身をもそもそとむしっていると、ことん、と雪風の隣に朝食のお盆が置かれて、私服姿の艦娘がするりと座りました。少しサイズの大きなだぼっとしたパーカーとハーフパンツで、足元は態々お給金をはたいて内地から取り寄せたという、なんか格好いい横文字の名前をしたスニーカーでした。

「おはよう」

「うん、おはよう島風」

 非番の島風は、任務の時と違って実に物静かで、というより物憂げで、全身から面倒くさそうな空気を醸し出しています。トレードマークのカチューシャは部屋に放り投げられていて、髪は緩く束ね、やぼったい太縁の眼鏡をかけた目は常時眠たげな三白眼です。いつも元気すぎる位に元気なのに非番となると急に猫背になるしやることなすことのったりしてますし、最初見たときは別人かと思いました。

 本人からすれば、非日常である戦場にしらふで突っ込むとか正気じゃないのだそうで、ああしてキャラを作ってはじめて戦場と言う命のかかった非日常に適応できるのだとか。そう考えると、ある意味常在戦場といっていい、常にアイドル足らんと振る舞う那珂ちゃんさんはどうなのかなと冗談交じりで言ってみたら、実際そうだよねと真顔で返されて困りました。更に、島風経由で伝わったのか、後日本人から実際そうだよと笑顔で返されて本当に困りました。闇が深すぎる。

 そんな島風は、雪風が秘書艦でも、死神なんて陰で言われていても、あまり気にせず付き合ってくれる数少ない艦娘です。非番の時は大抵雪風に付き合ってくれます。まあ、面倒臭がりの島風の事だから、遠巻きにされている雪風の傍にいた方が面倒がなくていいとでも思っているのでしょうけれど。でもその、あんまり熱のない距離がとても心地よいのは確かなのでした。

 印刷野菜のお漬物をぱりぱりと齧り、転化味噌のお味噌汁を飲み干し、ご馳走様と手を合わせる頃には、後から来たはずの島風もすっかり食べ終えていました。面倒臭がりで動きたがらない島風ですが、それは効率的なのを好むからで、食事も効率的に早々と終らせてしまって、五分もかかりません。以前味わっているのかと聞いたら黙って首を傾げられたので、重症です。

 食器を返して食堂を後にすると、島風ものっそりとその後をついてきます。

 食堂を出て喧騒から離れると、窓を開け放たれた廊下には、しゃわしゃわちーじーしゃわしゃわしゃわと煩い位の蝉時雨が響いていました。頭が痛くなるような喧しさです。そしてそれに紛れるように、きゃいきゃいと可愛らしい声が聞えてきました。誘われるように窓から外を覗いてみれば、非番の駆逐艦の皆さんが、涼しげな格好で外へと向かっている所でした。頭の中に整理された書類を思い出すに、確か外出届に書かれた理由は虫取りに行くとかだったように思います。龍田さんが引率してくれるのだそうで、可愛らしいものだと気軽に押印した覚えがあります。

 以前は雪風も、夏になる度に外出届を出して、ああしてみんなで遊びに行ったものです。あの日も蝉時雨が五月蠅い暑い日のことでした。じーわじーわじーちーしゃわしゃわ。雪風は一番大きなカブトムシを捕まえて、虫かごに入れて司令に見せに行ったのでした。運良く捕まえられたのだと言って、じーつくつくつくじゃわじゃわじゃわみあみあみあつくつく、指令に貰った麦藁帽の下でにっかり笑って、自慢するように見せたのでした。ああ、でも、あのカブトムシはどうしたのだったでしょうか。一緒に行ったみんなは何を採ったんでしたっけ。しゃわしゃわしゃわしゃわしゃわじーちーしゃわつくつくつくしゃわ。皆って誰でしたっけ。誰と行ったんでしたっけ。雪風はみんなから避けられているのに。でもあの雪風の笑顔は本物で。じゃわじゃわじゃわじゃわじゃわじーじーつくつくつくしゃわしゃわみあみあみあじゃーじゃわあわあわあわあじゃわじゃわじゃわじゃわじーつくつくつ「ねえ」くしゃわしゃわぼーしっじゃわじゃわじじじりじりじじじりじりじゃわじゃわああそうだあの時の雪風は確かに雪風だったのだじゃわじゃわじゃわじーわじーわつくつくつくつみあみあみあみあじゃーじじじじりりじりじりじり、

「ねえッ!」

「えっ……あっ……」

「暑い。行こう」

 島風が強く肩を掴んできて、雪風の頭の中の蝉時雨を追い出してくれました。雪風はどれぐらい蝉時雨の見せる白昼夢に囚われていたのでしょうか。島風が黙って寄越してくれたタオル地のハンカチを不思議そうに眺めると、そこにぼたりと大粒の滴が落ちました。それでようやく、雪風は自分が暑さにやられて髪の毛が濡れる位に汗だくになっていることに気づいて、慌ててハンカチでぬぐいました。そんなに暑いとは思わなかったのですけれど、それだけぼんやりしていたって事でしょうか。

 ありがとうと告げると、島風は短くうんと頷いて、雪風の手を取って歩きはじめました。島風の手はひんやりとして、暑さに火照った体には心地よく感じられました。

 島風が連れて行った先は、鎮守府に何か所か設置された談話室でした。部屋と言っても大したものではなくて、通路の一部を拡張して、安普請のドアで区切ったもので、テレビにカウチ、飲み物やお菓子、軽食の自動販売機が置かれています。最近まで喫煙室が分けられていなかったので、壁はちょっと煙草のヤニで黄ばんでいますけれど、なかなか悪くない内装です。でも一番素晴らしいのは、この談話室、クーラーがついているのです! 中古のものや、ゴミ捨て場で見つけて修理したものなどですが、何とか全ての談話室に設置できました。環境の変化に強い艦娘ですが、やっぱり熱いよりは涼しい方がいいので、談話室に入り浸る艦娘も多いのだそうです。

 まだ朝早い事もあって談話室には誰もおらず、島風がクーラーのスイッチを入れて、初めて冷風が吐き出され始めました。ぼんやりとその風を受け止めて、自分の体が結構熱を持っていることに気づかされました。しばらくは汗も止まらず、なんどかハンカチで拭かなければなりませんでした。

 そうしてぼんやりしていた雪風の手を取って、島風はテレビの前のカウチに座らせて、自動販売機で購入したスポーツドリンクのペットボトルの蓋を開けて、寄越してくれました。

「水分摂らないと死ぬから」

「死ぬ!?」

 かなり極端な一言でした。しかし気遣いは嬉しいので、素直に受け取って、こくこくと喉を鳴らして飲みます。冷たいスポーツドリンクが、火照った体に嬉しい。

 少しずつ飲みながら、火照った体が落ち着くのを待っていると、島風はテレビをつけてなんとかいう特撮番組にチャンネルを合わせ、カウチにもそりと横になって、雪風の膝を勝手に枕にしてばりばりとお菓子の袋を開けました。自動販売機で買ったものでしょう。カウチポテト族を決めこむつもりです。こうなってしまうともう猫と一緒で手が付けられません。さらさらした髪を手櫛で梳きながら、良く知らない特撮番組を一緒に見ることしかできません。困るのは島風自身さえこの特撮番組の熱心な視聴者ではないので、どういう粗筋なのか、どういう展開なのか、そういった基本的な質問についてさえ満足な答えを返してくれないので、必然的に雪風もぼんやりテレビを眺めるカウチポテト族にならざるを得ないという事です。

 こうなれば頭の中をじゃがいもにしてしまうしかない。そう決意して、良く知らない登場人物が理由の定かではない何かしら悲壮な覚悟の元、多分元仲間とか友達と戦う決意を固めて、大仰なポーズと掛け声とともに変身するのを眺めてみましたが、なるほど筋がわからなくても何となくは面白いものです。夏休みの時期に入るたびにテレビでアニメスペシャルとかやっているのを途中から見始めても何となく楽しめるのと一緒でしょう。暇潰ししたいだけであって、真剣に見ようと思っているのではないのです。それがカウチポテト族なのです。

 そうして雪風が1.1ボルトのジャガイモ電池になりきろうとしていると、ふいに島風がこちらを見上げてきました。

「寝なくていいの」

「へ?」

「寝てないんでしょ。寝れば」

 同室である島風には徹夜がばれているのは当然です。そして大抵、島風の非番とかぶって、こうして雪風を休ませようとして来るのでした。思えばいつもいつものことですし、島風の方で雪風の行動を読んで非番を入れているのかもしれません。面倒を回避するために面倒な事をするのが島風です。司令の代行をしている雪風が倒れる面倒を回避するために、態々そんなことをしてくれているのかもしれません。

「うん……でもいいよ。眠れないんです」

「珈琲止めたら?」

「珈琲ないと口寂しくて」

「でも今は珈琲ないよ」

「…………そうですね」

「寝たら?」

 じっと島風の目が見上げてきます。確かに今はカフェインも切れています。ご飯も食べた後で血糖値が下がっていますし、カウチポテトスタイルと言う眠気を誘う絶好のシチュエーションです。でもやっぱり雪風は眠れません。1.1ボルトしかないジャガイモ電池みたいになった脳みそでも、眠れません。眠ると夢を見るから。夢を見たくないから。それが、0.5ボルトの電圧を生み出して、ポテトヘッドの目を覚まさせるのです。

「そう」

 島風は雪風に眠る気がないのを察したのか、また画面に目を戻しました。

「島風は勝手に寝るかもしれないから」

「うん」

 そうしてまた、膝の上の熱のない温度と、テレビだけが音を立てる心地よい静けさが、雪風を安らがせました。外界から隔離された環境は、何も考えなくていいと島風に提供された小さなカウチポテト国は、眠れない雪風を、それでも幾らか休ませてくれました。しばらくぶりに、雪風は安らげている気がしました。ここには蝉時雨も聞えないから。

 しかしそんな静寂も、そう長くは続きませんでした。

 がちゃりとドアが開いて、振り向いた先には、初風が立っていました。

「げ」

 気だるげにドアを開いた初風は、雪風を見るなり顔をしかめ、無言で自販機に近寄り清涼飲料水を買って、やっぱり無言で足早に立ち去って行きました。

「…………」

「初風?」

「うん」

 島風は興味なさそうにテレビに視線を向けて、ああそうとだけ呟きました。

 以前は、初風は雪風と仲良くしてくれていました。幸運を吸う死神なんて言われる雪風とも、仲良くしてくれていました。でも何時からでしょう。初風は雪風を嫌うようになり、近付かなくなりました。何をしたという覚えもないのですけれど、仕方がありません。雪風だって、どうして初風と仲が良かったのか、思い出せないのですから。島風が雪風と仲良くしてくれるようになったのは、その後のことでした。

「…………島風」

「なに」

「ごめんね」

「なにが」

「……なんでも」

「そう」

 別に、島風が、初風の代わりだという訳ではないのです。その筈なのです。でもこうして、島風にあれこれと気を遣って貰って、雪風自身、島風に頼ってしまう気持ちを自覚すると、なんだか、酷く申し訳なくなるのでした。何もかもが食い違って、噛み合わなくて、何もかも何もかも、間違えてしまっている様な、そんな気持ちにさせられるのです。

 こうして吐き出してしまった一言も、島風は気にした風もなく受け流してくれます。その熱のない温度がどこまでも嬉しくて、どこまでも悲しくて、雪風はなんだかわからなくなってしまう。時折、こうなるのでした。胸の中で重石をして、閉じ込めているものが、わっと溢れそうになるのです。でも雪風はそれが何かわからなくて、どうしたらいいのかわからなくて、ただただ、いつも途方に暮れるのでした。

「カウチポテトは」

 島風がポテトチップをぱりぱりと齧りながら、つまらなそうに言いました。

「1.1ボルトで考えられる以上のことは考えない。考えすぎるとフライドポテトになるから」

「なにそれ」

「カウチポテト族の格言」

 なんとも怠惰な格言があったものです。何だかすっかり気が抜けてしまって、雪風はくったりとカウチに身を預け、敬虔なカウチポテト族として、信仰篤くテレビを眺めるのでした。

 そうして、名も知らぬ特撮番組が終わり、スポーツドリンクをすっかり飲み干してしまい、切りがよくなったので雪風は仕事に戻ることにしました。島風は素直に起き上がって雪風を解放すると、猫のようにひとつ伸びをしました。島風が雪風の膝の上で零した食べかすを払って、雪風は立ち上がります。

「仮眠取っていたことにしてくれますか?」

「うん」

 島風が再びカウチに寝そべり、古き良きカウチポテト族としての営みを再開したのを見届けて、雪風はクーラーの良く利いた談話室を出て、執務室に向かいました。沢山の仕事が雪風を待っています。雪風は完璧に仕事をこなさなくてはならないのです。完璧な仕事の下にのみ、みんなが安心して戦える鎮守府があるのです。誰も沈まない鎮守府が。

 じーしゃわしゃわしゃわしゃわじー、蝉時雨が再び雪風を包みます。

 質量をもって覆い被さる音の雨の中を、雪風は胸を張って背筋を伸ばして、真っ直ぐに歩いて行きます。そうです。雪風は沈みません。絶対に、絶対に沈みません。

 

 

 

 

 

 

 かなかなかなかなかなかな。

 ひぐらしの鳴く声が、橙の夕日に照らされた鎮守府に響いていた。けれど、それも防音壁で包まれた談話室にまでは響かない。防音設備が整っているのは、鎮守府でも談話室だけだ。鎮守府の改装の折に、発注書に紛れ込ませた仕様だ。ここにだけは蝉時雨も届かない。

 島風はカウチに寝そべって、愚にも付かないドラマを眺めながら、時折寝返りを打つだけで、至極敬虔なカウチポテト族として有意義な一日を送っていた。

「島風」

 そんな島風の宗教的儀式を邪魔するのは、叢雲だった。それに天龍。連れだって扉を抜けてくるその間隙に、ひぐらしの声が聞こえて、僅かだけ夏の匂いがした。しかしそれも扉が閉まれば完全に締め出される。そうだ。この部屋は夏を殺すためにあるのだから。

「あいつはどうだった?」

「相変わらず」

 わかっているだろうに繰り返される質問には、島風も毎度おなじみの返答をするしかない。

 疲れたように溜息を吐いて、どっかりとカウチに腰を下ろす叢雲。その向かいに腰を下ろす天龍。二人とも暑い外から来たのに、汗の一すじも流していない。当然だ。優れた排熱機構を持つ艦娘は汗など流さない。

「ここ禁煙」

「ヤニじゃねえよ。健康に悪いんで止めた」

「健康が煙草に悪いんじゃなかったの」

「ガキどもの健康に悪いんでな」

 棒付きの飴を咥えて、天龍は勝手にテレビを消す。やれやれ。カウチポテト族には信仰の自由は適用されないらしい。島風は体を起こして、二人の面倒な客の相手をすることにした。

「すっかり夏に入ったし、また眠れなくなってる。睡眠不足は深刻だわ」

「島風が部屋に引き摺りこみゃいいだろ」

「島風が眠れなくなるんだけど」

 彼女の寝言、というかうなされ方は激しい。あれの横で寝ろと言うのはいくらなんでも無理だ。煩いだけならばまだしも、魂を削るような叫びをあげる子供を放って安眠しろと言うのは、幾ら艦娘でも不可能だ。さしもの島風でも、人間ではなくてもそこまで人でなしじゃあない。

「とりあえず睡眠薬は飲ませたけど」

「ええ、執務室で寝入ったから、部屋に運んでおいたわ」

 先程、スポーツドリンクに混ぜた薬はきちんと効いてくれたようだ。そろそろ効きが悪くなってくるだろうから、量を増やすか、新しい薬を探すかしないといけない。内地への申請書に書く理由も考えないといけない。体には悪いだろうが、ああでもしないと彼女は眠れないのだ。眠る度に、夢を見てしまうから。あの夏の悲劇を、思い出してしまうから。

「治らないのか、ありゃ」

「悪夢を見ないように、なんて」

「違う。司令が雪風の真似すんのだよ」

 天龍の投遣りな言葉に、談話室しばし静寂に包まれた。クーラーの音だけが、無感情に響く。

「そりゃショックだったろうよ。自分の指揮で、一等大事にしてた艦が沈んだんだ。だからって……自分が雪風になろうとするか?(、、、、、、、、、、、、、、)

「多分そうでもしないと耐えられなかったんでしょうね。雪風が自分のせいで沈んだことを受け止める位なら、そんな無能な司令が生きている現実より、雪風が生きている幻想を選んだって事かしら」

「人間ってのはよくわからん」

「当たり前よ。同じ艦娘の事だってわからないんだから」

「まァ、そりゃそうかもしらんが」

「どっちにしろ」

 島風は新しいポテトチップの袋を開けて、一枚を頬張った。

「治すなんてできないよ。カウンセラーなんて呼んだら、艦隊指揮官なんてやってられなくなる。適正なしってことで、内地の病院行きだよ」

「……いっそその方がいいのかもしれないわ」

「傷付いたあいつを内地に放り出して、代わりを入れるってのか?」

「そういう訳じゃないわ。でも、このまま続けるのが本当にあいつのためになるの? 私達がしてるのは、傷の上に覆いをかけて、誤魔化してるだけだわ、治ったわけでも、落ち着いたわけでもない。放っておいたら出血は多くなるし、もしかしたら腐ってしまうかもしれない」

「だったらどうしろってんだ。わかってるんだろ?」

「…………」

 黙り込む叢雲の気持ちはわかる。叢雲からすれば、提督が治ることが一番大事なんだ。でもそういう訳にもいかない事情が鎮守府にはある。

「島風たちは、もう長い事提督をあのままにしてる。睡眠薬を盛って休ませて、現状を維持しようとさえしている。勿論内地への報告もしてない。精神を壊した提督を縛りつけて、外に漏らさないように隠蔽工作までしてる。これってさ、立派な不祥事だよ」

「くっ……仕方ないじゃない!」

「仕方ないよ。そうするしかなかった。でも、今更そんな言い訳は通用しない。続けるしかないんだよ叢雲」

 苦悩する叢雲と、溜息を吐きながらも受け入れている天龍。付き合いの長さから提督への情から苦しめられる叢雲と、艦隊の事を考えて鎮守府を守ろうとしている天龍。どちらも正しいから、どちらも責められないんだ。ご立派な事で。

「仕方なかったんだよ、叢雲。あの夏の日、ひぐらしの鳴くあの夕暮れ、雪風が沈まなければ、提督がミスをしなければ、或いはみんなが提督を上手いこと慰めて、雪風を思い出に出来れば、もしかしたら鎮守府はもっといい形で続いていたかもしれない。でもそうならなかった。そうならなかったんだよ叢雲」

「わ、私は、私たちは……ッ」

「仕方なかったんだよ、叢雲。少なくとも今は、最善じゃなくても、次善ではあっても、何とかうまいこと回っている。最高じゃなくても、最悪じゃあない。提督は壊れてしまったかもしれない、でも死んでしまった訳じゃない。ゆっくりやってこうよ」

「そうだぜ。少なくとも、今の所不味いことにはなってない。鎮守府はうまく回ってる。あいつも辛くはあるだろうが、持病みたいなもんだと思えば、付き合い方もある。内地に治療にやるにしても、現実を見せつけて荒療治するにも、これ以上苦しませなくたっていいだろ?」

「…………そう。そうね。結局、私たちに出来るのは、それだけだもの」

 何時もの流れだ。結局はそこに落ち着くんだ。出来ることなんてないんだから。

 二人を見送って、島風は再びテレビをつける。内容は何でもいい。ただ、怠惰に過ごせればそれでいい。過去も未来もない。大事なのは今だ。

 炭酸飲料を呷り、ポテトチップをかじる。チープな幸福が味覚を満たす。そうだ。幸福はチープでいい。多くを望めば多くを失う。安っぽく、小さな幸福でいいのだ。怠惰にそれを消費するだけでいい。1.1ボルトのじゃがいも電池で脳みそを回し、感情を高ぶらせず、深く考えず、状況をうまく受け止め、最低限の労力で最大限の成果を得るのだ。

 島風は何もしなかった。ただ待った。そしてようやく。ようやく提督は雪風を見なくなった。提督自身が雪風になってしまったのは困ったけれど、でもこれでようやく提督は島風を見てくれるようになった。もしも提督の中の雪風が沈んでしまえば、提督は沈んだ雪風を思い続けるだろう。でも提督が雪風になったいま、提督が雪風を見ることはない。雪風を見てしまえば、あの蝉時雨の中、沈み往く姿を思い出してしまうから。だから雪風には健在でいて貰わないと。

「くふ。くふふふふ」

 そうだ。提督が島風の可愛い子猫でいる為には、雪風が要るのだ。0.5ボルトの愛情が、フライドポテトみたいに熱くなった脳みそに、幸福に満ちた笑みを浮かべさせた。そうだ。雪風よ、永遠なれ。島風と提督の為に。島風の提督の為に。

 

「そう、『雪風は沈みません!』」

 

 

 


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