彼女の振る舞いに、提督は翻弄される。
「蟹はお好きですか」
唐突な問いかけに、思わずまじまじと見つめてしまった。
鎮守府の片隅に追いやられた喫煙所で配給の先折れ煙草をぼんやりふかしていた私に、据え付けの安っぽいベンチに膝を揃えてきちんと腰かけた朧は、何時もの生真面目そうな眼つきで蟹がどうのと聞いてきたのだった。
横を向いて紫煙を吐き出し、考える様に一吸い。ぽんぽんと頬を叩きながら煙の輪を作る。
蟹か。
別に蟹は嫌いではない。何しろ海辺の鎮守府だから、虫を見かけるより或いは多い頻度で蟹がうろついているのを見かける。何処から侵入してくるのかはわからないが、気付けばかさかさとうろついている。最初こそゴキブリか何かかと大いに恐れたものだったが、慣れてくるともはや景色の一部だ。
しかし何と答えたものか。
ちらりと目を遣った先の朧は、煙の輪を見上げたまま、別に笑うでもなくかといって気負う様子でもなく、恐らく部屋で一人でいるときと同じような自然体だ。
はてさていったいどんな意図の問いかけだったのか。
私にとって蟹は別に意識するようなものではない。
しかし朧モデルの艦娘はそうではない。
同モデルの艦娘全てが全く同じパーソナリティをもっている訳ではないけれど、しかしある程度共通したメンタリティを基底に置いているのは確かだ。それは大本となった原器のパターンが影響しているらしい。
一介の地方提督に過ぎない私にはよくわからない話だが、つまりどういう事かと言えば、朧モデルは蟹とかかわりが深いっていう話だ。
どういう事か知らないが、朧モデルは艤装に蟹を飼う事が多い。まあ飼っているのか勝手に住み着いているのかはわからないが、とにかく朧モデルを見たら大抵は蟹もそこにいる。そんな朧モデルが蟹は好きかなどと聞いてくるのだ。どうしたものだろうか。
私もかつては年頃の乙女だったころがあるはずなのだが、どうにもさっぱり若い娘の気持ちというものは分からない。
いや、艦娘というのは見かけは娘だが、その主体は電脳に宿る知性体なのだから、わからなくても仕方がないのかもしれない。いやでもそのメンタリティはやっぱり普通の人間であった原器から引き継がれているという話だからそこまで差異はないのか。いやしかし。
いろいろうだうだと悩んで煙草を一本吸ってしまったが、要するに私は年頃の娘さんとの会話に困っていたのだった。
「ええと。朧」
「はい」
「蟹だったか」
「はい」
「蟹ね。蟹。うん。蟹は、あー、まあ、好きだよ。可愛いしね」
「可愛いですか」
「うん。ちょこちょこしてて、可愛い。うん」
とりあえずと言った処方として、私は魔法のワード「可愛い」で誤魔化すことにした。
私の若い頃は、所謂若者の語彙力の低下とか言っていろいろ言われた、なんでもかわいいとかヤバいとかで表現してしまう魔法の呪文だ。年ごとの娘には可愛いというワードを使っていけば解決する、というと言い過ぎだが、しかしすっかり流行に疎くなってしまった私のような人間にはこれが精一杯だった。
「そうですか」
「ああ、うん。そうです」
朧はちいさくこくり、こくりと頷いて、そうですかともう一度言った。
納得してくれたのか、彼女の求めた答えだったのかはよくわからない。
朧は真面目で頑張り屋という、部下として扱う分には大層ありがたい性格なのだけれど、こうして改めて面と向かってしゃべってみると、何だか未知の生物を相手しているようで居心地が悪い。
他の駆逐艦の娘なんかだと、提督相手なんだからもうちょっとお行儀よくしようねと言いたくなるくらい元気で小生意気な連中や、年上を相手に緊張や気恥ずかしさを覚えてかたくなるような、そういう見ていてわかりやすい娘が多いのだが、朧はちょっと違う。背伸びしている訳ではないのだが、真面目な分大人びていて、自制が利いているし、体育会系なのか上下関係をきっちりとわきまえていて、中身が見えない。或いは同僚である他の駆逐艦達と一緒にいるときは気楽に話したり、一緒に甘いものでも食べて笑顔を見せたりするのかもしれないが、上司である私には部下としての顔しか見せてくれないのだ。
勿論、上司と部下というのが一番正しい関係だし管理も楽ではあるのだけれど、しかしこうして少女の容をしている相手にそういう態度を取られるのはあまり落ち着かないのだ。何しろ自分の娘でもおかしくないような姿だ。どうして兵器にこんな容を与えて、こんなやり取りができる様にしてしまったのか。
いっそこれがレトロな角ばったロボットで、合成音声でぎこちなく会話とダンスをするようなそんな見るからに異質なものであればよかったのに。
ああ、そうなったらそうなったで、今度は垣間見えるささやかなノイズに人間らしさを見出す様になるのかもしれない。近し過ぎれば不気味に思い、遠からば寂しがる。人間というのは面倒な生き物だ。
「それで」
「うん?」
きろきろと視線を寄越す朧に、私は新しくもう一本取り出そうとしていた手を止めた。
「味は」
「は?」
「味はお好きですか」
「味」
「蟹の味はお好きですか」
かさかさと朧の膝を這う蟹をちらりと見て、私は思わず頭を抱えた。
年頃の少女の考えは分からない、と嘆くべきなのか。年頃の少女の容をしているのに考えが分からない、と戦くべきなのか。人でも機械でもないあいのこに、私はすっかり疲れてきた。
「味も、まあ、好きだよ」
「まあ、ですか」
「毎日は飽きるかな。でもまあ、食卓に出たら、食べるかな」
「そうですか」
朧はちいさくこくり、こくりと頷いて、そうですかともう一度言った。
それから膝の上の蟹を自然に手に取って、ぱくりと頬張りぱきりぱきりと小気味よい音を立てて咀嚼した。
「要りますか?」
「……もらうよ」
社交辞令という訳ではないけれど、回らない頭は反射的に、差し出された小さな蟹を受け取っていた。手の中でもそもそと足を動かす蟹は、何だか哀れだった。じっと蟹と朧とに見つめられるもので、せめて片方でも視線をなくそうと、私は蟹をぱくりと一口に頬張った。
口の中でかさつく脚の感触が少し痛かった。
歯ごたえは思ったよりも脆く、強く噛めばぱきりぱきりと割れて、少しばかり口触りが悪いが、不味くはない。
「いかがですか」
「生は、きつい」
「そうですか」
朧はちいさくこくり、こくりと頷いて、そうですかともう一度言った。そうして、傍に置いた艤装から這い出る蟹をもう一匹手にとって、ぱくりと頬張りぱきりぱきりと小気味よい音を立てて咀嚼した。蟹の方でも逃げることなく、艤装の熱にしがみつき、艤装にこびりついた苔や汚れをさらっては食べているようだった。
あれは愛玩用ではなく、或いは養殖しているのかもしれなかった。
私は自動販売機で珈琲を一本買い、それから蟹をもう一匹貰う事にしたのだった。