世界は綺麗だって分かってくれる時まで。
もしくは俺が居なくても大丈夫になる時まで。
もしくは俺が間違えてしまう時まで。
もしくは俺が感情移入しすぎる時まで。
もしくは――――。
「なあ、エンタープライズ! 次はあそこだ、観覧車は高いぞ!」
彼は彼女の手を取った。
――――そのまま帰るなんて柄ではなかった。彼は本来外出一つにも許可のいる彼女を無許可に、無理矢理に連れ出した。
まずは、遊園地。彼自身が来るのも何年――――いや何十年ぶりか、という有様だったが。彼は彼女を楽しませるために出来るだけ笑った。
「わ、分かりました…………しき」
「違うぞ。俺まだ指揮官じゃないし――――そうだな、小野って呼んでくれ」
彼の少し冷めたような一言に瞳を揺らす。
「分かりました――――小野さん」
無機質ながら少しだけ困ったような色で返事をするエンタープライズに、彼は満足気に笑って手を少し強く引く。
「高い所は良いぞ! 高いと何でも見えるからな!」
次に、ショッピングモール。
「え、男物見るのか? 変わってるんだな――――」
彼が少し不思議そうな目で彼女を見る。
――――すると彼女はおずおずと店から後ずさって、違う所へと歩いていこうとする。
彼が察したように手を握って引き戻す。
「あぁ――――悪い悪い、別に見てもいいんだぞ? 変わってても良いんだから、俺達は」
「ですが――――――」
良いって良いって。彼はまた作り笑いをして彼女を店に引き込んだ。
「俺は変だから嫌だって言ったんじゃなくて、人間らしくて良いって言いたかったんだよ!」
次に飲食店。
「おいおい、どうせならハンバーガーとか食えよ。食いたいものは無いのか?」
彼は困ったような顔を隠すように炭酸を煽る。
ちょこんと座り込んで彼を見るばかりで、何も食べようとはしなかった。
「いえ、ですが注文というのに慣れていなくて…………」
人が怖かったのだろうか。彼女は、普通の人間とは喋ったことが殆どなかった。
怖いというより、未知か。
「じゃあ俺に何か欲しいもの言ってくれよ、注文はしてやるからさ」
顔を近づけて囁くようなフリをしながら、また作り笑いをした。
「やっちまった…………ユニオンの最高傑作を無断で連れ帰ってくるなんて場合によらずとも絞首刑まっしぐらだ…………いやでも軍相手に逃げるなんて時間の無駄だし開き直るしかねえか――――?」
彼は順当に彼女を連れ回して、結局戻ってきて鎮守府の執務室まで案内してから漸く、その後悔をし始めた。頭を抱えるにはとうに手遅れだった。
どうやら執務机を見て、自分の身分だとか、彼女の素性についてドライに省みてしまったようだった。
「待て待て俺執務服のまま外出してんじゃん――――状況証拠揃いまくりじゃん俺阿呆? 阿呆だろもう墓の下にランナウェイだな…………」
――――動揺を隠せずに周りを眺めても、何処か埃っぽい隙間だらけの本棚は何も答えないし、油汚れのこびり着く執務机は彼を見てニヤついているように夕陽を反射させるだけだった。
揺らめく黄昏だけが彼を暖かく照らしている。
「あの、小野さん。戻ってもよろしいでしょうか」
エンタープライズが脳の中心に真っ直ぐ届くような、澄んだ抑揚のない声で彼に尋ねる。
思わず垂れていた頭を振り上げて彼女の方を見る。
――――その眼には何の感情も上手く読み取れないのが、彼の苛立ちを加速させる。
ようやっと現実的な問題に苛まされてきていた彼の脳は、また向けようのない怒りで一杯になる。
「…………なあ、エンタープライズ」
「何でしょうか」
言葉のどれもが何処か機械的で、魂を感じさせなかった。
「例えばあそこに戻ってどうなるのか、分かってるか――――?」
彼は一瞬だけ、知らないと答えることを期待した。彼等は戻ってくる従順な自分達を、あっさりと実験体にする人間であると知らないと思っていたかった。
――――だってそれを知って戻るのは。あまりにも――――。
「はい。きっとユニオンの次の建造を少しでも改善するための犠牲となるでしょう」
その当然のように返されてしまった言葉に、少し彼は目をギラつかせる。
どうにも人間が染み付かせた理不尽の象徴のような発言に見えて、嫌悪感が生まれた。
「そんな良いもんじゃねえ、君は奴等に理不尽に殺される。理不尽に怒って良いんだ」
何処か怒りすら有るのを彼女は感じ取ることは出来たが、それが何故なのかはイマイチ分かっていない。
そんな僅かに困惑したような表情で彼の目を見据えた。
――――ぼうっと立っている彼女の手を握って彼は息を吐く。
「君達はただの道具じゃない、心を持ってる。だから自分にある記憶が軍艦で、元が人に使われるだけの存在だったとして――――そんな過去は、今の君に関係ない」
「本当に死にたいか? 見世物のように体を弄ばれて、研究者共に『良いサンプルだった』なんて呟かれながら?」
彼は彼女をじっと見据えて少し間を置く。
――――少しだけ瞳は潤んだような、揺れたように見えた。
「俺だったら嫌だぞ、世界を敵にしたって逃げると思う――――君はどうだ? それも運命、なんて思えるほど行儀が良いか?」
「なあ、エンタープライズ。俺は君の名前を齧った程度だが、知ってるぞ」
言ってみて、彼はこの数年見せたことのないような柔らかい表情で微笑む。
彼女には彼の後ろに射している夕陽が、何処と無く揺れたように見えた。
「かつての戦争で最も壊し、壊されるのを見てきた
艦の一人、という言葉が彼女の心に残響し続ける。
――――艦なのに一人、不思議なものだった。一隻と誰もが呼んできた自分達を、彼は一人と呼んだ。
些細なようで、初めての経験だった。
今迄、誰もが自身の非人道性から目を背けざるを得なかった。だから自分の事を一人だなんて呼ぶことは無かった――――いや出来なかった。
彼は指揮官だと聞いていた。なら彼は――――自分達、「意思ある艦」を背負う覚悟を持っているということを、彼女に如実に示していた。
「多分、君は『誰かを守りたい』と思っているんじゃないか?」
ピクリと眉が震えた。
それが全てであるなんて彼女は言えなかったが、それも少しは有ったように思う。
自分が次に活かされて、次の誰かの為になれるなら。
もう誰かが消えていくのを見ているだけの無力なままでなくて良いのなら。
そうは思ったかもしれなかった。
「だからこそもう一回だけ聞くぞ――――――君はその行動を高尚な自己犠牲でやっているつもりかもしれないが、もし君が此処で感情を手に出来たなら」
「
目が見開かれた。
その様子を見た彼は、目を逸らした後。「ごめん、これは嘘だ」と訂正する。続く言葉が、その前言の印象にそぐわないものだったからだろう。
「アイツラに殺されずとも、もしかすると戦争で死ぬかもしれない――――でも、それでも一秒でも長く彼女達は生きられる」
「それは戦場に投げ込むとも言えるし、だから酷いことでも有るかもしれないが――――それでもあそこで廃棄、投棄、実験体――――そんなものよりは生命としての、『艦』としての尊厳は守られるはずだ」
だから、彼は手を放し、背筋を伸ばす。
――――放された手が、彼女には少しだけ名残惜しくて其れを自然と体が追ってしまう。
「これを強く踏まえてもらって聞きたい――――君は、あそこに本当に戻りたいか?
「俺が聞いているのは君の意思で、強要なんかとても出来る立場じゃないが――――」
彼はハンカチを彼女に差し出す。
――――頬から涙が流れていた。気づかぬ内に、だけど其れは当然なんだと知った。
泣き方を知った。
「涙が流れるような時点で、結論は出ていると俺は思うぞ」
「――――っ。す、すみません…………違うんです」
ハンカチを受け取りながら、生まれて初めての涙をぽろぽろと流した。
流れる度に心に溜まり淀んでいた何かも一緒に流れ去っていって、そしてその現実はよりクリアに写った。
錆びていた心は磨かれて、そして目の前の男の現実を見つめる。
――――彼女が涙を流したのは彼の言葉に納得したからだ、最初は彼女自身がそう思った。
「どういうことだ?」
彼は予想外の言葉に頭を掻いて視線を右往左往させる。
「あなたはきっと良い人なのに――――どうして人を信じられなくなってしまったんだろうって」
エンタープライズはひとしきり嗚咽も上げ終えたのか、少し赤く腫れた目をハンカチで擦って続ける。
「あなたが私にとても優しく、暖かく接してくれているのはわかります――――だけど其の優しさも、暖かさも、人に――――『あなた自身』にさえも、これっぽっちだって向いていないではないですか」
まさか俺が考えさせられるとは、彼は脳裏にそんな言葉をポツリと残して少しだけ脳が余白だらけになってしまった。
「あなたは私達の事ばかりで、まるで人間が『悪者』のように話しています」
彼女が俯く。
――――それを誰もが何処かで気づいていた。彼を薦めた提督も、ユガミも――――恐らく彼が出会ってきた大半の人間は、言葉に出来ずとも勘付いてはいた。
彼はとっくに人が嫌いだった。何なら憎しみすら抱いていた。
人が追いつめられた時のその抗いようのない意地汚さを、他物を捨ててしまえるその醜い姿ばかりを彼は直視し続けてしまっていた。
敢えてそんなことを続けていた。
それは彼が目的を見失わない為にはきっと必要だったのだろうが、そんな事をしては――――人間で居ることすら辛くなる。
結局のところ。
それが彼女には透けて見えて、その優しさすらも触れる度に刃物のように感じられていた。
――――だってそうするごとに、彼は自分を蔑ろにしているのと同じだから。
自分さえも大事にできない自分を見て、また大事にできなくなっていくのだから。
「今の私に感情は殆ど無くて、あなたがどうしてそんな苦しい事ばかりに向かってしまうのかは分かりません――――」
「でも、これは分かります――――あなたは、きっと逃げて良かった」
彼女は傷だらけの兵士でも見つめるように、心から慈しむような表情をした。
感情がないなんて言った奴はどいつだ、彼は内心呟く。
逃げてよかった、彼女は告げた。
それは誰かを捨てる罪悪感から、また其れを止めるべきだという義務感から、またそれをしているべきだという自分の理想から、また約束を果たすべきという使命感から――――。それはあまりに増えすぎて、とうに数えることすら意味のないことだ。
もう彼自身、体に残った生傷の数など数える気がない。今更治そうとも、それを誰かに評価してもらおうと思わないからだ。
正しくないのは知っている。見捨ることが出来るのも強さであるのも分かっている。
それでも、其れを何度思い知らされても――――――諦められない自分が愚かなだけなのも、彼はよく知っている。
「確かにどうしようもない悪を誰もが抱えています、しかも目を瞑ります、挙句逃げようと足掻きます――――ですが其れ以上に美しいものをあなた方は持っているはずです」
エンタープライズは彼の固まってしまった瞳に少しでも何かを届けようと言葉を重ねる。
――――道具は使う相手の利益を生み出さなくてはならない。彼女は彼の為に利益を与えようと思ったのだ。
一歩一歩と彼に詰め、逃げられないようにその心に言葉をぶつける。
人の言葉では届かせられなくとも。彼女ならば其れが出来るかもしれなかったから。
「私はあの培養液から産み落とされて、それからずっと彼等の言葉を記録しました――――誰もが、悪意なんて有りませんでした」
それは事実だった。
――――彼等は間違っている側面を持っていたのに違いないが、それでもそれは私利私欲の為だけに行われた間違いなどではない。
世界の窮地に立ち上がった誇るべき側面は有っただろう。
「私達の扱いが正解かなんて分かりません」
「ですが、彼等は誰もが『知らない他人の為』にただ、ひたむきに努力をしていたのは間違いありません」
これもそうだった。
――――ただ無為に命を使い潰したことなんて無かった。
それがコストの為か、彼女達の為かなんて分かりようもないことだったが――――彼等は決して彼女から汲み取れうる其れを捨てようとなんてすることはなかった。
確かに命を侮ったが、尊重していないわけではなかった。
「全て正解でなくてはいけませんか? 彼等は私にとっては、使い潰されても構わない正義を持つ人々に写りました」
「それでも、あなたの敵が本当は居ないと分かっても――――それでも、あなたは自分を好きになれないのですか?」
彼女の涙はまた流れ始めた。誰かの為の涙だった。
――――彼は微動だにせずにその言葉を耳に入れていた。心に奇しくも届かないはずだった其れを、無理矢理に心に押し付けながら。
だってそれは彼女が――――エンタープライズという、感情がないとすら言われた少女が。
正義ですら無かった彼に向けた、初めての「哀れみ」だったから。
――――だが。
「…………ああ、俺は人間なんて誰も好きになれそうにない」
淡々と答えた。
彼は予想外だった。
――――彼女が自分のような歪な人間のために涙を流すとは。ましてそれが初めての感情となるなんて。
世界の残酷さを甘く見ていた。
「それが今の私の、数少ない人間らしい願いだと言っても――――ですか?」
彼の顔に詰め寄って、その瞳を見透かして彼女は問いかける。
――――彼の顔は、とうに動かなくなっていた。
だって、それで動かしていてはキリがない。そんな調子では、自分は何時か止まってしまう。
「ああ。一生無理かもしれない」
油断していた、人間の愚かさばかりを見つめすぎた彼には、この展開は予想できるはずもなかった。
――――彼女達が、こんなにも他人を想う純粋なモノだとは。
自分の有り様を変えてやることが欲望だなんて、そんな事を言ってのけるほど――――正しいとは思ってもみなかったのだ。
「俺に君の願いは果たせない、俺は君達の為以外に生きる方法なんて忘れた」
だが自分の生なんて、彼にとっては目的を完遂する道具に成り下がっていた。
「俺は他のどんな艦の願いを叶えることも可能かもしれない――――――でも君だけは、多分無理だと思う」
顔を逸らして、ただ冷めた眼でぼそりと
「ごめんな」
小さく答えた。
からん。執務室に一つだけ有った妙に綺麗な風鈴が、音を響かせて少しだけ揺れる。
「なら」
彼女の涙は失せていた。
――――流れた涙なんて意味を持たないと彼女は知った。手にするためには、事を成すしか無いのだと理解した。
いや、それを生まれる前から知っている。手を伸ばさなければ、決して何にも届きはしないのだと。
だからその瞳は無機質でも、弱々しくも無く――――ただその鈍色に相応しい、強いものに変容した。
もう、届く距離に居る誰かを失うなんて、御免だった。
「私はあなたの為のモノになります」
幸いにも彼女にはそう在れる力があった。彼とはぐれないために、戦うだけならば何とか出来る力を持っていた。
それは『英雄』と呼ばれる。かつて『灰色の亡霊』と評されたような、とても強い、そして挫けない力だ。
「おい、そんな事は――――」
彼女の瞳は彼の揺らぐ感情を見透かすようにまっすぐと見つめていて、彼は其れ以降の言葉を出せなくなった。
ただ彼女の後ろのドアノブなんかを眺めながら、表情を誤魔化すだけになる。
「私が誠実に――――在りたいように生きる為にはまず、自分の欲望に向き合う必要があります」
とうに迷いは無かった。彼女の真っ白なキャンバスには、とっくに理想のラフスケッチが投げ込まれている。
後は描くだけ。
「それは目下で言うならば、私の手を取ってくれた――――――――他でもないあなたを救うことです」
それは誰かではなく、彼を――――だった。
――――今まで誰かの為に勝利だけ掴み続けた彼女は、この時に初めて自分の為に勝利を掴み続けることを切望した。
――――誠実に生きるとは、誰かに対してではない。それは自分自身に。
出来ないから、望んではいけないから、間違っているから――――そんな理屈に負けないこと。自分自身の願いに、信念に、忠実であることこそが――――彼女の『誠実に生きること』だった。
「私はあなたの隣に立ちます」
「きっと理解なんて私では出来ないでしょう、その景色を直視し続けられないでしょう。あなたは一人で苦悩する現実は変わりません――――――それでも」
「あなたが崩れてしまいそうな時に、挫けてしまいそうな時に、例え何が起きても――――――隣に立って、支えられる誰かにさせて下さい」
彼はその一言に、眼を丸くして彼女の顔を見つめる。
――――彼は自分が、周りに誰も居なかったことに気づいた。独りぼっちで此処まで歩いてきていて、彼はそれを見透かされていることが悲しくなった。
せめてバレなきゃ良いのに、とばかり後悔した。
「それが今の私達で叶えられるかもしれない、二番目の願いです」
彼女はそして、誰もが知る『グレイゴースト』として完成する。
「私はあなたの為に生きたいです」
――――未完遂で、不可能なその願いを唯追い続ける旅人。その報われず、しかし意義の有る『冒険』は――――此処から始まったのだろうか。
真相は分からない。
これももう、過去の話だ。
「…………もう感情を塞いでしまう必要はありませんから、ちゃんと言葉にしておきますね」
今迄よりも少しだけ、親愛を含んだ声色で続ける。
「私の流儀は『敵には同情も手加減もせず、いつでも全力で向かい撃つ』です。だから――――全力で私を、受け止めて下さいね?」
彼女は今でこそ当たり前のような、不敵な笑みをすこし不器用に作って彼に語りかけた。
笑い方を知った。
――――――彼は頭を掻く。その溢れた笑顔は呆れ、歓喜、希望――――何もかもが内蔵されている。
「わかったよ。だから俺は君に感情を教えて、そして艦の権利を勝ち取ってみせる」
しかしそれで彼は満足してしまった。
――――何せ男冥利に尽きることだ。こんな流麗な少女に、隣に立ってもらえるのだから。きっと忘れることの出来ないモノを、沢山くれるだろう。
【後は大事な女の子を、出来るだけ大事にできる子に育ってくれれば――――って言ったら、我儘かしら?】
何時かの言葉が残響してくる。もう風鈴の音は聞こえてこなかった。
――――彼はもう、大事な人を見つけていたのに気づいていたかもしれない。
「分かってると思うけど、俺達はどれだけ近くなろうと隣にいるソイツだけは救えない」
「意味のない関係だ。それで構わないか――――――?」
俺達同士だけはずっと救えない、彼はそう言い切った。
――――彼は、彼の為に生きる彼女を理想の為に否定する。
彼女には自分の為に生きてほしいから。
――――だが彼女は、彼女の願いとして彼の為に歩み続ける。
誰かの為に生きる彼を支えたいから。
きっと誰よりも強く、解れた関係となる。
お互いにお互いを想った所で、それは互いに傷つけ合うだけに終わる、ハリネズミのような関係。
だが之ほど美しく残酷な関係は、この世にそう多くは在るまい。
「ええ。苦しんでも、報われなくても――――私はあなたの為に此処に居ますから」
「そうか――――君が辛かったら、その時は俺が支えてやるから。ちゃんと言えよ?」
此処に契約は成った。
そして、物語は今に続く。
「花火、やってみたいんですよ。あの娘が見たいって言ってたから」
彼はいつもの軽薄な口調ではなく、本来の何処か重ったるい語調で二人に告げた。
【花火と呼ばれるものには興味があります。それはとても高く打ち上がって、とても大きく花開くのだと聞きました】
【でも、それは決して空を蝕まず。空と共にある美しいものなのだと】
【あなたが見せてくれた星空も綺麗でしたが、其れと同じくらいに美しいというのなら――――――見てみたいですね】
あの頃の彼女の姿が彼の瞼に思い浮かぶ。どうにも少しだけ揺れていた瞳が忘れられなかった。
――――からんからんからん。少し強い夜風に忙しなく揺れる風鈴を見ていると、尚更瞳に焼き付いた其れが消えてくれなくなる。
――――そんな彼の異変に、二人も気づいていた。赤城と加賀は見合わせて、そして
「良いだろう――――」
「却下です♥」
見合わせた癖に、二者二様に反応した。かたや冷静な表情のまま、もしくはまるで快諾したかのような朗らかな笑みで。
――――外は夜だった。この日は曇り空が朝から続いていて、星空はよく見えない。彼の言葉遣いがいつもと違ったのは、こんな日が最近多いことへの鬱憤からだろう。
「それは赤城への愛の試練という事でしょうか?」
「敢えて言うなら仲良くしてほしいというのはありますが、別に試練じゃないですし、愛という程重い物を俺は持ち合わせませんから」
口調の変容に赤城は表面上の表情に比べてかなり動揺していた。まるで別人だ。少しだけ彼女の耳が萎びてしまう。
――――そこでやっと自分の顔つきについて理解が及んだ(というより気が向き始めた)のか、彼は顔を大きく叩いて頬を緩める。
「すんません! ちょっと変でしたね、俺」
「い、いえ…………人なんて幾つも面が有りますから、赤城は気にしていませんよ♪」
しかし動揺は心にへばりついているようで、赤城は上手く誤魔化しきれている様子はなかった。頬に手を当てる仕草で其れを誤魔化そうとして、余計に悪目立ちする。
――――きっとあの女なら、赤城は逡巡する。
あの女の前でなら、彼はその表情を隠さないのだろう。それは信頼だとか、親愛だとかではなく――――アレの前でそういう嘘は吐かなくて良いから。
其れを思うと彼女の胸がズキリと痛む。
届くことはないのだ。そう再認識して――――それでも何時か、とだけ夢を見ておく。
今は譲ってやる。あくまで余裕を残して彼女は手を貸すことを決断した。
「しかし花火と言うが、お前自身に案はあるのか」
加賀はそれをやや凍った表情のまま見て、尋ねた。手を組んで尻尾を忙しなく動かす辺り、其処には注目が向いている所なのだろう。
――――すぐに現実的な問題に向き合える点では、加賀は男に近いものが有った。
「いや全く。どうしようかね、艦載機で花火玉落とせる?」
彼はにやにやと、椅子をくるくると回しながら加賀に尋ねる。
――――段々と回転する中、目で追っていた加賀の表情が諦めたような、呆れたようなものに変化した。
彼の視点から見るとさながら古いアニメーションのようだ。
「普通に考えてみろ。巻き込まれるだろうに」
「まあまあ。一応機会があったら聞いてみるよ」
加賀は絶対に無理だと思ったが、彼にとって無理なものなんて無かった。
案外行けたらどうするんだ、いつもそんな風に疑う男だったからだ。
「現実的な案としては――――やはり船から打ち上げる形式だろうな。確実だ、費用までは何とも言えんが」
加賀の案は王道を行くものだった。実際其れが一番手っ取り速いのには違いない。
――――しかしなあ、と提督は腕を組んで唸る。
「相場というか値段分かんねえしな、一応費用を削る方向性で動く予定だ――――勿論、無理なら加賀さんの言う通りに王道をゆくさ」
彼が心配するのは値段の問題だった。
――――別に金を惜しむほどの趣味も生活も持ち合わせていないのだが、彼のおぼろげな記憶では花火というのはトンデモなく金のかかっているイメージが有った。
それこそ億とか。実際はもっと安い費用に抑えることは可能なのかもしれないが、彼は知らないのだから値段を恐れて然るべきだろう。
「にしてもお前は本当にグレ――――エンタープライズを気にかけているな。何故だ?」
加賀は片目を瞑りながら、彼が誘いに引っかかるか確かめる。ちなみにグレイゴーストと言いかけたのは素である。諦めればいいのに、と誰かがポツリと呟いた。
――――過去語りが嫌いと彼は言った。
ならば認識させずに口から零れさせるだけの事だ、何せ彼女は兵法に通ずる者――――何事も一通りの攻略法では考えていない。
引っ掛かってくれるかと思うが、しかし彼の人間不信は彼女の予想を超える。
「教えないぜ、加賀さんはすぐ知りたがる」
指を振って彼が知った風な顔で笑うと――――ちっ、と彼女はあからさまに舌打ちをする。
――――加賀だけは彼も少し警戒していた。なんなら自分さえも罠にはめてやろう、という意気込みを時々感じてしまうからだ。
大抵それが酷い不利益を被るような罠ではないのだが、罠に引っかかる感覚そのものが彼にとっては不利益だ。
「まあ、理由はともかく。これからこの話を何回かに分けて詰めていきたいんで、夜に集まれます?」
二人は二つ返事で了解する。
――――結局、どちらも彼の珍しい申し出を断ろうとは思わなかった。
何だかんだ、彼が彼女達を大事に扱っているのは、案外伝わっているということだ。
「ああ、行く前に一つ聞いていいか?」
あの日、彼がエンタープライズをプリンツに元に無理に行かせたあの時。
実は少しだけ、扉の外に出た彼女を呼び止めていた。
――――彼は少し心配そうな顔で、頭を掻きながら扉から顔を出して尋ねる。
頭を掻くのは大抵何か含みが在るときの彼の癖で、勿論何かを隠しているのをエンタープライズは見抜いていた。
「別に他意はないんだが――――今でも花火は、見たいか?」
その意図までは、エンタープライズには見えなかった。
――――だが、その質問が意味のあるもので。彼はきっと何か良いことをする気なのだろう――――ということだけは、彼女は確信が有った。
いつだって彼が自分達の為に身を粉にしてきていたのを、この鎮守府で誰よりも見てきていたから。
そういう彼だからこそ、彼女は――――。
「…………ああ、勿論。見れるなら、是非見たいものだな」
彼に微風が吹いた。彼女の柔らかな笑みが、『あの人』に重なって、少し目を合わせにくくしてしまう。
――――彼は帽子を被り直して、さも彼女の居る日なたが眩しいようなフリをして
「そ、そうか。変なこと聞いたな――――それだけだ」
素っ気なく答えた。
――――彼の不思議な行動には慣れていたから、彼女は気にせずに
「そうか」
と言ってプリンツの元へ向かった。
――――彼はこの時安心した。もしも、違うものを見たいと言われてしまったら――――どうなのだろう。彼は考え込んでしまった。
――――そして、布石は収束する。
たった一つの結末に向かって、歯車は動き出す。舞台は回り、役者は踊り――――――そして、終わる。
条件ばっかりだな、情けない。
全然幸せに出来たりはしないだろうけど――――――精々手を離さなくて良いように、頑張るよ。