『試す? 何を?』
彼女は実は深い意味のある比喩か何かかと思った。
――――普通に考えて、試すって何だ。と思ってしまうのは当たり前のことである。何かトライできるような要素のある言葉を誰も発していなかったはずなのだから当然だ。
『だから――――――付き合ってる、フリ?』
『何故そんなまどろっこしい事を…………』
彼の素っ頓狂な発言に彼女は頭を抱える。紫青の瞳が混乱にゆらゆらと不安定に揺れた。
控えめに言って何故フリなのかがわからなかった。じゃあもう付き合えよって何かがポツリと零す。
多分彼の気分の問題なのだろう。何というか、堅苦しい男であることをやっとエンタープライズは理解した。
『ほら、色々やってみようぜ。お前もどうせ男居た事ないんだろ?』
『居たなどと強がる気はないが、何だか急に失礼になってきたな』
遠慮がないにも程がある。いや、彼女は実際にそれに酷く抵抗があるような性格ではないが、だからそうしていいという理由にもまるでならないのである。
『いや真面目な話さ、言葉には出来るけど恋愛感情かと言われると俺には分からん所があってだな』
要は彼の場合は父性に因む愛情というのも有るということだ。
精神年齢で見れば20歳差(ぐらい)である訳だから、まあありえないこともない。彼から見れば娘という可能性も存在する、という感覚だけは有るだろう。
――――ただ、体に精神は引きずられる側面は少なからずあるはずで、だから全く女性と見ていないとも行かないのが彼の体質の困りどころである。
『どういう事だ?』
至極当然に尋ねかけた彼女に、彼は眼を逸らしながら頭を掻く。
『うーんとな――――――――まあ、もうちょい色々済ませてからちゃんと説明するよ』
色々あんだよ、と彼は彼女を無理やり話題から逸らした。
「…………久しぶりだな、私が秘書艦をするのは」
せやな、と彼は黙々と書類に字を書き連ねながら生返事をする。
――――サボり癖は三週間では治らない、なんて言った大先輩も居たが。
案外やる気スイッチは何処にでも有るらしかった。具体的には彼女の前でのカッコつけが有力そうであるが、貴方はどう思う?
朝陽に照らされて、彼の頬には僅かに汗が滴る。
「いつもそんな風に仕事をしてくれれば、秘書艦というのも悪くはないのだが…………」
「おいおい、やる気出してる人間にそういう事言うなって」
眼だけは書類を見つめたまま答える。器用なものだ、と彼女は肩を竦める。
――――いつもは雑然と散らばっている書類は、珍しく『摩天楼』の異名に相応しい整然とした形に成形されていた。
彼女が手を出すまでもなくやっているのだ、張り切っていることである。
「何というか…………努力は悪いことではないが、肩に力が入りすぎていないか?」
「彼女の前で張り切るっての? あれやってみたかったのよ」
「相変わらずの阿呆で安心したよ」
だろ?と言って彼は彼女に笑ってみせる。彼女は釣られて何故か笑ってしまう。
――――――というのも、どうやら彼は本当に張り切っているというわけでも無さそうだった。
今の口振りを聞くには「そういう素振り」をしているだけということらしい。彼は中途半端な嘘はつかないので、恐らくその内エネルギー切れで止まるということも同時に言える。
彼女としてはそちらの方が有難かった。調子が狂うのだ、真面目な彼は。
「俺って基本的にエネルギー節約で生きてるタイプだしさ、偶には何か理由つけて動きたかったんだよね」
偶には本気を出さねば鈍る、とお節介な兵法家にも言われたからだろうか、そんな事を彼は答えた。
「指揮官らしいと言えば指揮官らしい答えだな」
緩く笑って書き終えた書類を軽く流し見る。どうせ不備がないのは分かっていた、彼はやろうとしてやる仕事は正確で迅速だ。
本来は余程忙しい、などでなければミスをしない。
「ってか名前で呼べって言ったのに…………」
それっぽい事その1。名前で呼ぶというやつである。
「也人、なんて呼びにくい名前はそう呼ぶ気にならないな」
しかし彼女はきっぱり却下してしまった。
実際呼びにくい所はあるのだ。彼女の場合は指揮官と呼ぶ方が慣れきってしまっている、という点も有るから却下されるのは正直運命みたいなものであった。
「そう言うんなら強要はしないけどよ――――――前に怒られたし」
完璧なメイドは、完璧な爪痕を残した。自由に在るというのは、何も何でもかんでも縛りを外せば良いわけではないというのを彼は学んでいる。
「ほう、誰に怒られたのだ?」
からかうような調子で彼女が尋ねる。
「十六夜咲夜」
「誰だ?」
時を止める人、とだけ彼は答えて作業に戻る。
――――――――かち、かち、かち。何処かに飾られた時計の針を刻む音がやけに大きく響く。
彼女はおもむろにサイフォンに向かって歩き出す。
「指揮官も飲むか?」
「ああ」
短く答えたのに少しだけ不満そうな顔をして、彼女はネルフィルターを手に取る。
――――――電気ポットの水が沸くのをぼんやりと待ちながら、彼女は彼の姿を見る。
黒鉄の瞳、僅かに日光を反射する黒髪、殆どが真っ黒だ。彼は制帽からはみ出る髪を切るのではなく、何故かいつも後ろでくくっているのが不思議だった。
真っ白な衣服はかなり着崩していて、第一ボタンは開いているし、手はつねに肘まで捲くられている。
実際の彼は、その見た目の軽薄なイメージとは全く似ていないのが笑えてきてしまう。
「どうした?」
「いや、何も」
変なやつ、とだけ彼は呟いて作業に戻っていく。
――――――こぽこぽこぽ。湯が沸いたようだった。
彼女はゆっくりとフラスコに湯を注ぐ。
「お前さ、何でそれ其処に置いてるんだ?」
彼が顔を向けずにおもむろに尋ねた。
これは彼女が自分の所持金で買ったもので、此処の艦の数が二桁に達した辺りからずっと此処に置かれている。
秘書艦の交代制が生まれてからも、ほぼ毎日のように彼女がコーヒーを入れていたのを彼は急に思い出したらしかった。
――――――淹れると決まって他愛ない歓談をしていた事を、彼は敢えて意識から弾く。
「さあ、何でだと思う?」
緩く弧を描いた唇からは、何処か読めない雰囲気が漂っていた。
コーヒーの粉を入れながら返事を待っていると
「まさか俺と喋る為とか言い出すなよ? 色々死ぬ」
「そのまさかかもしれないぞ?」
冗談でも言うんじゃねえよ、と彼は制帽を深く被り直す。
彼の後ろから微風が舞い込んできた。書類が飛びそうになるのを、彼が咄嗟に手で抑え込む。
――――――出来た。
彼女は2つカップを横から手にとって、ゆっくりと注いでいく。
「砂糖は?」
「覚えてるだろ、4つだ」
ただの砂糖である。彼は砂糖の塊が好きだった。
甘党であるというよりは苦いものが苦手らしく、ならば何故飲むのかと聞くと
『お前が淹れてくれるから』
とだけ答えるのであった。
――――――ベルファストの出したコーヒーというのは、丁度砂糖を四つ入れたものだったという訳だ。
逆に言えば、それだけである。良いものなんて実は入れていない。
「虫歯になるぞ」
とか笑いながら、彼女は片方のカップに角砂糖を四つ放り込んだ。
――――――混ぜていくうちに固形の引っかかる感触が無くなっていくのを確認した後に、スプーンを机に置いて彼に向かって歩き出す。
ことり。と片方を彼の右手の少し遠くに置く。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女が甘味のある香りを匂いながら返事をする。
――――――ゆっくりと、一段落付いた彼がそのコーヒーを手にとって、煽る。
刹那、むせるように咳をした。
「おい! これブラックだろ!」
「ははは、まさか本当に引っかかるとは――――!」
巫山戯んな、と彼が涙目に彼女を睨む。
彼女も少し手元のコーヒーを飲んだ後
「甘すぎる」
と苦笑いする。
「じゃあ何で飲んだんだよ」
「何となくさ。あなたが飲んでいるものを知りたくなるのも人情だろう?」
いきなり彼女面ですか、と彼は彼女が机に置いたコーヒーを黙って煽る。
「これだこれ、俺は砂糖を飲みたいんだよ」
「自覚は有ったんだな」
さすがにな、と彼も苦笑い。
――――――また彼のペンが走り出す。さらさらさら、という音ばかりが執務室を響いている。
彼女はぼんやりと、今度こそ自分の飲むらしきコーヒーの縁を眺める。
「…………逃げ道なし、か」
彼は聞こえていないようだった。
――――――躊躇いがちにブラックコーヒーを手に取る。
縁をじっと見つめて、何か考え込んでは耳を紅くしたり、目を見開いたりを続ける。
「何だ、飲まないならそっちにも砂糖四つ入れてくれ」
彼は彼女を見るわけでも無く言い捨てる。
「――――――いや、飲むよ」
えい、とでも言いそうな思い切りの有る手つきでコーヒーに口をつけた。
――――――今度こそ飲みなれた酸味、苦味にほっと一息をつく。
他の事実について、彼女は一旦置いておく。乙女チックだと揶揄されるのも勘弁願いたいところなのだろう。
「ってか何でホットなんだろうな、我が事ながら」
彼がぼやく。
元々夏はアイスで飲む気だったのだが、彼が常にホットで飲む癖が有って、気づけば彼女も同じ癖を身に付けてしまっていた。
はあ、と彼女は紫青の瞳を細める。
「こっちが聞きたい」
「だよなあ」
彼はまた作業に戻っていった。
「ふぃ~…………おしまいおしま~い!」
彼は椅子にもたれ掛かりながらぐるぐると回る。その顔は汗が大量に流れていて、暑くなっているのも無視していたのがよく分かる。
――――――もう昼頃だった。太陽は天辺にまで昇ってきていて、彼女もさすがに机から離れて扉付近の避暑地に逃げ込んでいた。
「あつぅ!?」
「遅いな、集中していた証拠か?」
そういうことだぜ、と言いながら彼は服ではたはたと仰ぐ。
――――――しかしいつも暑そうなのに普段はそんな事は一切言わない。
逆に今だけ暑いと言っている方が彼女に不思議に見えてくる。
「普段は暑くないのか?」
「これ普通の軍服に見えるだろ、パチモンなんだよ。通気性バッチリのパチモン」
見てみろよ、と言いながら捲くっている袖を引っ張る。
――――――確かによく見ると、他の軍人が来ている軍服とは生地そのものが違うようだった。
呆れて溜息をつく。
「バレたら面倒そうだ…………」
「バレなきゃ犯罪じゃないんですよ?」
バレなければな、と彼女は重ねて前置きした。
また書類を彼は確認し始める。意外と心配症らしい。
「其処までやらなくとも――――」
「シャラップ。ちょっと静かにしてくれ、ミスを見落としかねん」
彼は黙々と終わらせた筈の書類を流し見ていく。
彼女はそう言われては堪らない、何も言わずに彼を見つめるしかなくなった。
「………………」
彼の口が固く引き結ばれている。
「………………」
彼女の口は不機嫌そうにへの字に曲がっている。
彼が少し経って、わずかに気を抜いた瞬間に、彼女は背を壁から離す。
どんどんと彼の前に歩いてくるのに気づいて、彼も少し目を向ける。
――――――というかだな。そう言いながら彼女がスッと彼の前まで歩み寄って、机に手を付いて身を乗り出す。
予想外の怒ったような動作に彼がビクリとする。
「な、何でございましょうか…………?」
彼女の瞳は不規則に揺れて、考えていることをまるで読み取らせなかった。
――――――初めて見る表情に彼も困惑する。怒っているとも、呆れているとも違う。
何というか――――――彼の予想としては
「何だか私が構って欲しがっているみたいだ、あなたも何か話題を出せ」
寂しい、だろうか。
「やっぱお前が彼女は無理」
心底辛い、という表情で彼は肩を落としながら呟いた。
「な、何故だ。名前か、名前呼びか?」
的違いな方向に観点を向ける彼女を見て、尚更彼は溜息をつく。
「何というかさ、眩しい。オジサンの眼が潰れちゃうわ」
まぶしー、と棒読みしながら彼女がまるで眩しいように目を伏せる。
「指揮官は『オジサン』、なんて歳じゃないだろう?」
残念ながら、それぐらいの歳である。
「それはともかく無理。やっぱ次元の壁はデカイよ、うん」
「何を言ってるんだ…………?」
この押し問答は、二人が食堂に向かう十分程度、ずっと続けられた。
――――――今日もこの鎮守府、異常は殆ど無しである。
彼女と彼はこれからも非日常に生きて行くし、艦は中々人扱いなんてされないし、彼の人生は何処か暗い影が落ちてるし、彼女はきっと彼を追い続けるのがこの世界だ。
物事何でもかんでも明るくなんて世の中は上手くは行かないだろう。不幸は降ってくるし、絶望は絶えないし、人は何処か冷たいままのつまらない世界は変わらない。
だが世界全てが変わらなくとも、「自分の居る世界」ぐらいなら、きっと誰にでも変えられるのだ。
これまでの話を説教臭く纏めてしまうと、そういうオチなのである。
貴方はどうだろう?
【アンタの世界は輝いているかい?】
彼は、今のところ――――――そろそろ輝いている気がしてきた。
だそうである。
【LuckyEは落とされない、なんて全くの嘘だぜ? オチまくりだよ、ははははは】
いや~、良い終わり方だった!(適当)
唐突な最終回でしたね(ホントそうだなこの阿呆)。