お姉ちゃん……甘えたい……。
夕暮れの中崎町を、とぼとぼと歩く。
寒い。
このところ数日で一気に冷え込んできた。
冷え込むと、体の節々が痛くなる。
風邪というわけでもないのに。
「あ、いたたたた」
ワイは、よれたスーツ越しに自分の肩を撫でる。
「ふひぃー」
嘆息とも独り言ともつかぬ奇妙な声が出てしまった。
情けない。
男一匹、自営業。
せっせと働くうちに45歳になってしまった。
長年の仕事の付き合いの「飲み」で腹回りについた贅肉は体を重くするばかり。
かさかさの肌、はげかかった頭。
何一ついいことがない。
こんな風体でしかも独身なのだから、虚しいったらありゃしない。
ワイは。
ワイは、こんな詰まらん男になるために今日までもがき苦しんできたんやろか。
うなだれていると、不意に路地裏の男に声をかけられた。
「社長はん。ええ娘揃ってまっせ!」
ワイは首を振った。
また客引きか。
あほらしい。
あんなもん、ほいほいついて行ったかって金の無駄や。
しかし、客引きの男が差し出してきた写真の一枚が目に付いた。
「その子は?」
「おっ。社長はん、ええ趣味してはるなぁ。この子、一押しでっせ。西住まほちゃん。お姉ちゃん属性のクールっ娘や」
「お姉ちゃん……」
「リアルお姉ちゃんでしてなぁ。こっちの、ほら、みほちゃん言うおぼこい感じの子いますやろ? この子の姉ですねん」
「気、変わったわ。その子、指名さしてもらいます」
「あっりがとうございまーす!」
※
パーテーションで仕切られた、狭い部屋に通されて、待つこと十数分。
写真の女の子が部屋に入ってきたんや。
ワイは、その子の顔を覗き込むように見つめた。
似てる。
似てるわぁ。
そっくりや。
「あの。どうしたんだ?」
怪訝な顔で問いかける、まほちゃんに、ワイは笑顔で答えた。
「いやいや。なんでもあらへん。なんでもあらへんねんで。かわいい顔やなってな」
「よ、よしてくれ。照れる」
「照れてる顔もかわいいのぉ。あのな。まほちゃん。ひとつ、お願いがあるんやけどな」
「ん。なんだ?」
「今日は、ワイのこと、弟して接してくれへんかなぁ」
「弟?」
「そう。まほちゃん、妹さんいるんやろ。そしたら、感じはわかるやろ?」
「あのくそ客引き。人の個人情報を……。まぁいい。わかった。今だけ、おじさんは私の弟だな」
言うや否や、まほちゃんの表情が変わった。
きりっとしたクールな雰囲気から、やわらかい、慈しむような雰囲気に。
「せっかくだから、名前で呼びたいな。おじさんの名前は?」
「い、樹や」
「そうか。じゃぁ、いっくん。おいで。お姉ちゃんのおひざの上においで」
「う、うん」
ワイは、ふらふらと、誘われるようにまほちゃんのすべすべの太ももに近寄る。
そして、その太ももにめがけて、顔をダイブさせた。
「ひゃんっ」
「ふわぁぁぁ。まほちゃん、いや、まほ姉ちゃん、すべすべやぁ」
「もぉ。いっくん、顔をうずめていいとは言ってないぞ」
「だってぇ」
ワイは子供のような甘えた声を上げた。
「もう。しょうがないな」
そっと。
まほ姉ちゃんの優しい指が、ワイの頬を撫でた。
暖かくて、柔らかくて。
こんなにもそっと、いたわるように他人に肌を触れられたのは、何年ぶりやろうか。
ワイは、気持ちよすぎて、目を閉じてしまう。
このまま、眠ってしまいたい。
すると、そっと頬を撫でていたまほ姉ちゃんの指が、今度はワイの髪を撫でた。
「ふひ。ふひひひぃ。お姉ちゃんが、ワイの頭撫でてくれとる♪ 嬉しいなぁ。こんな禿げ上がってしもうたけど。子供の頃みたいや……」
ワイの脳裏に、子供の頃の映像が浮かぶ。
ワイの頭の髪はまだふさふさで、柔らかくて。
すべてが優しくて、幸せで、守られていた時代。
「いっくん。今日はいっぱい甘えてかまわないからな。いいこ、いいこ」
「お姉ちゃん……」
と、まほ姉ちゃんの指が止まった。
ワイの髪からすっと指が離れ、それが、首筋を這い、やがて、股間に触れる。
「あれ?」
まほ姉ちゃんがつぶやいた。
「やっぱり。ちっとも勃っていない」
「あ……その」
ワイは、不意に現実に引き戻されたようにしどろもどろ答えた。
「ちゃ、ちゃいまんねん。その。なんや、ほら。今日は取引先との付き合いで疲れてたから。いやぁ、はは。最近あきまへんわ、もう歳やね。お酒ちょっと飲んだら勃起が弱まりまんねん」
ワイの言葉を、じっと聞いていたまほちゃんが、つぶやくように言った。
「そんな、言い訳しなくていいよ」
「え?」
「おじさんは、本当は、エッチなことが目当てだったわけじゃ、ないんだろ?」
「ま、まほちゃん……」
「おじさんの頬に触れたとき、なんとなくわかったよ。うっすらと濡れてた。涙の痕だ。ねぇ、おじさん。なにがあったの? よかったら、話してみて?」
ちゃんと全部聞くよ、と、まほちゃんの表情が語っていた。
その優しさと母性にワイは泣きそうになった。
ワイは、ぽつぽつと話し出した。
「その。ごめんな。せやねん。お察しのとおりや。ワイは別に、エッチなことが目当てやったわけやあらへんねん」
「ちっとも謝る必要なんてない」
「ありがとな。ワイな、子供の頃大好きやった、親戚のお姉ちゃんがおってん。ワイが小学生のとき、高校生ぐらいで。その子にな、まほちゃんがそっくりなんやわ」
「そっか、それで……」
ふいに、ワイの胸の中に、思いがあふれ出した。
「ワイはな、大阪の枚方っちゅうところの生まれでな。まぁ、郊外の中途半端な小都市や。淀川っちゅう大きいけど汚い川を挟んでな、川向こうが高槻。その高槻に、お姉ちゃんは住んどった。時々な、バスに乗って遊びに来てくれるねん。そんでな、私市ってゆう山に虫取りに行ったりな、逆にワイがバスに乗って高槻行って、摂津峡で川遊びしたりしてな」
「うん、うん」
ワイのしょうもない思い出話に、まほちゃんは、優しくうなづいて聞いてくれる。
「楽しかったなぁ。お姉ちゃんな、負けず嫌いやねん。ワイがな、ファミコンで勝負しよ?って言うたらな、弱い癖に必ず乗ってくるねん。そんでな、負けたら悔しがって、勝つまでやめへんねんで。子供みたいやろ。次にうちに遊びに来るまでに練習してきよってな。次は必ず最初っから勝ちよるねん。そんでな、ドヤ顔でな『いっくんは弱いなぁ。お姉ちゃんに負けて泣いとるわ』って言いよるねん。ひどいお姉ちゃんやろ?」
「ふふふ。そうだな」
「でもなぁ、そんなところも、かわいくってな。せや、ワイなぁ、初めて女の子の裸を意識したのな、お姉ちゃんやねん。あれはもう、ワイが小学校5年生になってた頃かな。お姉ちゃんは大学一年生になっとってなぁ。うちに泊まりに来たのにな、一緒にお風呂に入ってくれへんねん。『いっくんも、もう高学年なんだからダメ』とか言ってな。ワイなぁ、腹が立って、お姉ちゃんがお風呂に入ってるときにドア開けたった。そしたらな、当たり前やけど、裸のお姉ちゃんがおってな。ものすごい恥ずかしがって体隠そうとしてて。そのときにな、ワイ、初めて女の子の体に興奮することを覚えたんや」
そこまで話して、ワイは頬が赤くなった。
「あ、その。ごめんな、変な話して」
「ううん。ぜんぜん。変じゃないよ。おじさんの子供の頃、想像して可愛いって思った。もっと教えて?」
ワイは、涙がでそうやった。
まほちゃん、優しすぎるやろ。
「そんでもなぁ。ワイな、お姉ちゃんにひどいことをしてもうたんや」
「ひどいこと?」
「せやねん。お姉ちゃんの結婚式、台無しにしてもぉてん」
「え?」
「お姉ちゃんな、大学卒業と同時に結婚したんや。短大やから、21歳やったわ。ワイが裸見たあのときから、2年ぐらいしかたってへん。相手は誰やと思う? 大学の教授やて。ハゲの中年のおっさんやった。ワイはな、中学生やった。そんなんおかしいって言いまくったんやけどなぁ。家族みんな、偉い先生と結婚できるんやからええことやっていうねん。悔しくってなぁ。悲しくってなぁ。そんでな、結婚式のとき。ワイな、お姉ちゃんにお祝いのメッセージを伝えたいって、事前にお願いしててん。それでな、舞台に上げてもらってな。そこで大声で叫んでやったんや。『お姉ちゃんのドアホ! ハゲのおっさんと結婚しくさって!』って」
「それはひどいな」
「せやねん。あん時はな、それがどのぐらいひどい行為かわかってへんかったけどな。子供のお願いを聞いて、ちゃんと舞台に上げてくれたのに。それを仇で返したんや。うちの親はめちゃくちゃ怒ったけどなぁ。でも、お姉ちゃんは、ワイを叱らんかった。そのことがまた、妙に悔しくってなぁ。それ以来、お姉ちゃんとは会ってないねん。時間が過ぎて、過ぎて、過ぎて。気がついたら、ワイが、あのおっさん以上のハゲになってしもうた」
ワイは一呼吸をおいた。
そして、一気にまくし立てた。
「あのな。お姉ちゃんと別れてからのワイの人生は、つらいことばかりやった。高校ではいじめられたし。大学の頃に反動でグレて、窃盗やらなんやらで数回警察に捕まってなぁ。結局中退や。その頃、親父が死んでなぁ。親父の後をついで自営業を始めたんやけどな。親父が隠してた借金が出てきよる、出てきよる。20代半ばで、やくざやさんの相手までせなあかんような状態やった。おかんは、親父が死んでからヒステリックになってなぁ。役に立たんのに叫んでばかり。一緒におると、気が狂いそうや。そんでなぁ。ワイなぁ。一人っきりで頑張ってなぁ。方々這いずり回って。いろんな人に頭下げて。呼び出されたらどこへでも飛んでって。ちょっとでも名前を売れそうな場があったら、あらゆる酒席に顔出して。なんか仕事ありまへんか、って頼んで回って。んでひたすらに働いて。もう、身も心もボロボロや。借金もなぁ。結局、親父以上にしたでぇ。親父の分は返したけどな。借金ちゅうのは、旨くできとるわ。結局なぁ、一人で会社回そうとしたら、いろんなところでつぎこまなあかん瞬間が出てきてな。金が要るねん、金が。人付き合いとか見得とか、切っても切れんのもあったりしてなぁ。サラリーとはまた違うんや。カードがプラチナになっても、ホンマの懐はすっからかんや。いつも下向いて歩いてたわ。道路に金落ちてへんかなってなぁ。あぁ、せや。公共施設の随意契約がらみで、おかしな地方代議士に脅されたこともあってなぁ。そこそこ名の通った人やってんけどな、裏で反社会団体とつきあっとるねん。金を無心されて断ったら、街宣車出して脅してきよった。あれは怖かったなぁ。とんでもない奴や。とんでもない奴でっせ、ホンマ。そいつとの揉め事も、全部一人で解決したんや。誰にも頼ることができひんかったからな。一人ぼっちやったんや。一人ぼっちで、今日までやってきたんや」
そこまで語り終えると頬が上気していた。
ワイは、強く興奮して、それと同時に、どうしようもない脱力感も感じとった。
ため息を吐き出すように、言葉が口をついて出たわ。
「あぁ~あ。大人になってから、苦労ばっかりして生きてきたなぁ……」
ふわり。
ワイの頬に、柔らかいものが触れた。
包み込むような、その柔らかいもの。
優しい花のような香り。
まほちゃんの、おっぱいやった。
まほちゃんが、やさしくぎゅっと、ワイの顔を、胸元にうずめてくれた。
ワイは……泣いた。
泣きまくった。
人目もはばからず、泣きまくった。
大きな声を上げて、ワンワンと泣くワイの頭を、またまほ姉ちゃんが撫でてくれた。
まほちゃん。
まほ、お姉ちゃん。
……お姉ちゃん。
ワイは、その日。
生まれたときと同じぐらいに泣いた。
泣いて泣いて泣きまくって。
体の中が空っぽになり、溶けていきそうやった。
このまま、溶けてしまえればええのに、と思ったわ。
お読みいただきありがとうございます。
如何でしたでしょうか。
実は、この短編は、まほに甘えたいといつも言っている友人に喜んで欲しくて書いたものです。
若干、おっさんの方が目立ってしまった感はありますが。