——————果たして、ここはいずこの世界か。
地面に足をつけたときに、真っ先に考えるのは自分の在りかであった。
荒んだ大地か、大きな海原か、あるいは天空のある城か。火山のときもあれば都市であることもある。
一どころに留まることの少ない自身にとってその世界の印象とは、一歩を踏み出したときに見た光景のみだった。
異世界漂流者。帰るべき場所を失ったわけではない。ただ追い求めるものがあって、どこにあるかわからないから、自らの足で進むしかない。
フードを被った騎士甲冑の青年は、蒼の瞳を開いて遠くを眺める。
驚くべきことに、この世界に景色はなかった。見渡す先には何もない。
ただ足元が崩れていくような感覚だけがあった。いままさに、この世界は崩れようとしているのだ。
感覚からして、高い位置にあるであろうこの場所は、きっと塔だろう。
最果ての地にある塔。バビロンにそびえていたという人智の限りを尽くして建てられたというそれと対となるものだ。
覚えがあった。一瞬、彼女が閉じ込められたという妖精郷の塔であるかとも思ったが、きっと違う。
そう、この感覚は……。
「今日は客人が多い」
声が聞こえた。やはり彼女か、とも思ったが、違う。声音は似ている。声に滲むものも近く感じる。神魔に類するものだ。遥かな高みの視座を得て、大局を見据えた上で物を言う者だ。そしてカリスマ性もあった。人を無条件で従わせてしまう祝福、あるいは呪いだ。
しかし、本質がどうにも異なっている。むしろ自分に近いとすら思えた。
そんな人物に覚えはなかった。二度に渡る聖杯戦争を経て、聖杯より多くの知識を得たが、心当たりはない。
では、やはり彼女が? そんなはずはない。彼女は理想郷へと送られるはずだった自分を回収し、異世界へと送り出したのだ。
目覚めた『原種』との戦いのために。あるいは、それに備えて。
「こちらを向くがよい」
許しを得て、青年は振り返った。そこには鎧を纏った女がいた。女王の威厳ではない、女神の佇まいだった。静かであったが、そこにいるだけで人を圧してしまう。身につけたものではなく、生来のものによって。
遥かな最果ての地で、終わりゆく世界でなお、彼女は幽玄な姿勢でそこにいた。
そして、その手に握られている聖剣には見覚えがあった。この女神が何者かであるかを察したときに、驚きとともに納得があった。自分は選ばなかった道であるが、こうなる可能性はあっただろう。自らの前に伸びていた道、その一つの行き着く先にいるのだと理解する。
「並のサーヴァントであれば私の前に一人では立てん。ああ、だが、今日は人間ばかりが私の元にやってくるから、もはやそなたが何者であるかはどうでもよい」
神の視座を得ている彼女であったが、言葉を重ねるたびに人間性を取り戻していっていたのを感じる。それは手に持つ剣が人ならざるものから人へと送られた最高のものであるからだろうか。
そう、サーヴァント。女神はそう口にした。であれば、ここは聖杯戦争の舞台となった場所なのだろうか。この女神の参加する聖杯戦争など想像もしたくはなかった。
なにせ、この塔が自分の知っているものであれば、その出力はかの太陽王の光撃と同等かそれ以上であろうから。もしかしたら、それにも勝るかもしれない。ある弓兵が自らの身を賭けて放った矢であれば、あるいは英雄王の矢であればどうかはわからない。ともあれ、女神の力を経て放たれた光を想像するのも恐ろしかった。
「この世界は、君のものだったのか?」
「いかにも。この塔は我が領土であった。私は王であった。不覚にも侵入者を許し、槍は崩された。剣は未だ残っているが……彼らはその役目を果たしたと言い、私の前を去った。勝ち逃げ、というものをされたのだ」
剣を握れば勝利を約束される王は、しかしその剣を振るう機会を得ることはなかった。負けず嫌いな性からか、言葉の端からは頑固さを感じさせる。
ますます、自分に似ているものだ、と青年は思った。
「……笑うか。この剣を振るう機会も逸した今、無聊の慰めにそなたを斬ることも躊躇わぬぞ」
「やめておくよ。僕は君と戦いに来たわけでもない。それに、君はもう納得している。そうだろう?」
女神はわずかに驚いた顔を浮かべる。そして苦々しい顔を浮かべた。
「まったくもって、その通りだ。この私にも意味があったのだ。無論、過ちだった。見ての通り過ちは正され、世界はいままさに正しい世界へと戻ろうとしている。しかし、それでもなお……」
女神の体は崩壊を始めていた。彼女の存在意義が消滅している。間違った歴史を歩んでしまった彼女は歴史の修正とともに消滅していく。この塔と共にだ。しかしそうまでなっても未だ意思を保ち、意志を損なわない姿は見事としか言いようがなかった。
「私は私のしたことが、間違いだとは思っていない。ゆえに、私は敗北した理想と共に沈むことにしている」
「そこに躊躇いはなかったのか」
「ない」
女神はそう言った。玉座に座る彼女は、遠くを見ている。神の視座ではなく、自身の視座から。自らが座る物理的な位置より、誰かが行くであろう想像の位置を。
かつて、躊躇ったことがある。自分の内にある正義と、自分の背負う責務との間に揺れたことがある。自らの行いは正しいのかという自問自答を繰り返してばかりで、過ちを積み重ねていたことがある。
自分が最初に誓ったことを忘れてしまうことがある。何を目指していたのか、何を守ろうとしていたのか、忘れてしまうことがある。
結果を見れば、過ちであったのかもしれない。しかし、自分は知っている。過程と結果はワンセットではない。それぞれ独立したもので、時には選ぶことこそが答えになることだってある。
女神は選んだのだ。そして結果を見て、納得をしたのだ。そこに意味はあるのだ、そう想いながら彼女は崩れていく。
自分があのガーデンにひとつの夢を見たように。彼女もまた愛と希望を担う誰かに出会ったのだ。
声をかけようとしたとき、誰かが近づいてくる気配を感じた。懐かしい感覚だ。妙に重い足取り、一歩を踏みしめるように歩く者だ。すべての動作に意味を持たせる。でも決して裏切らない。同時にサーヴァントの気配でもあった。
「……時間だ。もうすぐこの世界も崩壊する。そなたは行くがいい」
「ああ、そうしよう。君は、とてもいい騎士に恵まれたようだね」
「騎士たち、だ。それはそなたもよくわかっているだろう」
最後に彼女は微笑んだ。その笑みはぜひとも、自分の騎士たちに向けてほしいと思った。自分はついぞ、騎士とともに笑うことなく過ごしてしまったのだから。
そうして、自分はまた世界を彷徨う。どこにいるともしれない『L』と『R』を求めて。多くの世界を駆けながら、これから崩壊していく世界を、すでに剪定されてしまった世界を見ながら、どこかで目覚めたはずの獣を探し続ける。
あるいは、もしかしたら。
それは彼女が与えたものだった。この手に握られた聖剣がそうであるように、彼女は自分に多くの役割を与えてくれていた。三度目の獣との戦いに臨むということもまた、与えられた役割に過ぎない。
よく覚えていることもあれば、忘れてしまうこともある。記憶を整理していくのは人のできる最も偉大な行為だ。
その中でもとりわけ、覚えていることがある。時代を確認しそびれてしまった、しかし二十世紀、あるいは二十一世紀の世界のことだ。
神の視座を失いながらも、見た景色を忘れず胸に抱え、そして自らを狂っているかもしれないと言った者がいた。そんな彼でさえできなかったという偉業を成し遂げた、何者かに出会うためかもしれない。
消えてしまった昨日のために、これから来る明日を自らの脚で目指す。
それこそが人類の持つ大いなる使命なのかもしれない。