「ん? 何やってんだあいつ」
朝、いつもより少し遅れて登校時刻ギリギリに教室へと到着した自分の目に飛び込んで来たのは、たじろぎつつも絢辻と何やら話する薫の姿だった。いつも薫の隣にいる田中さんは、今は席について彼女たちの様子を苦笑いを浮かべながら見守っている。
薫と絢辻が一緒にいる姿を見るのは珍しい。あの二人の間にはあまり接点がなく、なおかつ薫曰く波長が合わないということで、積極的に会話を交わすような仲では無かったはずだ。
「うい」
「ん? ああ、大将」
机にカバンを乗せ、コートを脱いで椅子にかけた後、席に着いている梅原の元へと近寄り声をかける。先に教室へと着いていた彼は、机に頬づえをついて二人の様子を眺めており、恐らく事の経緯を把握しているはずだ。
「何やってんのあいつら」
「いや、俺もちょうど今来たところなんだ」
「あー……」
「ん、でもまあ見た感じ、棚町がなんかゴネてるっぽいな」
梅原の言葉を聞いてから、改めて3人へと目線を向ける。
確かに二人には会話を楽しんでいるような様子は見られない。そして薫が若干怯んでいる姿から、何かを絢辻に頼んでそれを突っぱねられているといった風にも見えなくはない。
「行ってみっか」
「大将、お前まじか」
「いや、だって気になるだろうが」
梅原に信じられないといった目で見つめられる。
確かに、話し込んでいる女子の輪に加わるというのは気がひける行為ではある。しかし、別に険悪な空気が漂っているというわけではないのだ。それに薫も絢辻も、用事がなくても話しかけられる程度には仲が良いと自覚している。状況的にも、話しかけて事情を聞くのは許されるはずだ。
「まあ、骨は拾ってやるよ」
「なんだそりゃ。俺死ぬの?」
「いや……だって、天丼じゃねぇか」
「は? 意味わかんねーよ」
梅原はそれ以上会話を続ける気はないようで、南無三と両手を合わせながら呟いた。
本気で止めにかからないあたり、なんだかんだで彼も期待しているようだ。直前の会話の意味はあまり理解することができなかったが、それについて考えることはやめにして、薫たちの元へと向かうことにした。
「あ、純一」
「おは」
立ち位置的に、薫の視界には自分が近づく姿が入っていたのだろう。声をかけるよりも先にこちらの存在に気がついた彼女は、絢辻との会話を中断させて視線を合わせてくる。それに続き、絢辻も薫の目線に従って顔の向きを変えてきた。
「ああ、橘くん。おはよう」
「おはよ。珍しいね、絢辻が薫と話してるなんて」
「そ、そうかな? まあ、ちょっとね」
「ちょっと?」
「うん。えっと、話せば長くなるんだけど……」
絢辻は苦笑いを浮かべると、事の事情を説明し始めた。
今朝、体育教師に呼び出された薫と田中さん、そして絢辻は、それぞれ補習とその監督を言い渡されたらしい。
本来ならば補習は教師、もしくは体育委員が務めるのだが、その二人が所属する陸上部の大会が直前に迫っているということと、プールの使用状況的に今日の放課後しか補習を行えないということ。そして、絢辻が成績優秀者で教師たちからの人望を集めていたということにより、例外的に監督を任されたそうだ。
そして、それを承諾して教室へと戻ってきたところで急に薫がゴネ始めた、と。
あまりにもな内容に、思わず冷めた視線を薫へと向けてしまう。それに対して彼女はバツの悪そうに顔をそらした。
「お前さぁ……」
「だって! 今朝いきなり言われたのよ!? あたし今日バイトだってのに……」
「自業自得だろうが。つーか補習ってなんだよ。お前海産物のくせに泳げねぇのか」
「大将……」
梅原の呆れたような声が遠くで聞こえた気がした。それと同時に、薫が顔色を変えてこちらを睨んでくる。
しまったと思い、慌てて訂正の言葉を発しようとしたのだが、それよりも先に薫が自分の背後へと周り、首に手を回してチョークスリーパーを掛けてきた。
「だ! れ! が! ワカメですって!」
「ぐっ……うぅ……」
首を絞められることによって気管が塞がり、言葉を発することもままならない。抵抗のしようがないので、首に回されている彼女の腕をバンバンと叩くことで意思表示をする。
薫はその程度で技をやめるような女ではなく、しばらくは首を絞められ続けたのだが、こちらの顔の色が変わり始めたあたりで流石に不味いと感じた絢辻が止めにかかってくれたおかげで、なんとか解放されることになった。
突然拘束から外された反動で、思わず地面に膝をつく。そのまま、ゼエハアと大きく深呼吸することで、十数秒ぶりに脳に酸素を行き渡らせる。
なんとか呼吸が整ったところで体を起こすと薫は未だこちらを睨み続けており、そんな彼女の怒りを収めるために、たじろぎつつも話しかけることにした。
「いや、違うんだって……人魚のように美しいっていう意味だったんだよ……」
「どーこの世界に人魚を魚介類扱いする男がいるのよ」
弁解の言葉を述べたつもりだったが、薫の冷静なツッコミにより言葉がつまってしまう。その場に居たたまれなくなり、そっぽを向いて誤魔化そうとしたところで、そんな様子を見かねた絢辻がフォローに入ってきてくれた。
「ま、まあまあ。棚町さん、それくらいでね?」
「別にいいのよ、絢辻さん。こいつの丈夫さはあたしが一番把握してるから」
「そういう問題じゃないでしょうに……何か起こってからじゃ取り返しがつかないのよ? ああいう、意識を落としにかかるような技は洒落にならないんだからね?」
戯ける薫に対し、絢辻は少し語気を強めて話しかける。
このような流れ自体は自分と薫の間では茶飯事のようなことなのだが、危険な行為であることには間違いない。真面目な絢辻は、自分たちのいつもの調子を知らないということもあって、本気で怒っているように感じられる。
彼女の真剣な表情に怯んだ薫は、バツの悪そうな表情を浮かべるとこちらを向き、渋々と言った風に口を開いた。
「まあ……悪かったわよ」
「んー、いや。8割は俺が悪いんだけどさ。それでも、残りの2割は授業をサボって補習をゴネてるお前だからな」
「はいはい。体は大丈夫?」
彼女も絢辻の言葉によって多少の罪悪感を感じたのだろう。少しギクシャクしながらこちらを労わる言葉を掛けてきた。
少々場の空気が沈んでしまっており、慣れていない状況に薫も戸惑っているようだ。それを解消するためにも表情を明るくして返答する。
「死にかけた」
「あんたねぇ……」
「マジだって。ねぇ、わかってんの? 俺の残機はお前の髪の毛と違って、水に浸けても増えないんだよ?」
「橘くん……」
「大将……」
しまった、と思った時にはもう遅い。絢辻は呆れ顔を浮かべており、その隣の薫はわずかに震えている。
冷や汗が頬を伝うのがわかる。助けを求めるように梅原に目線をやるが、無言で首を振られてしまった。
諦めて視線を薫に戻すと、満面の笑みを浮かべた彼女が拳をポキポキと鳴らしながら話しかけてきた。
「言い残すことは?」
「ごめん。つい心の声が」
それに対してこちらも笑顔で返す。
目線と目線がぶつかり合い、数秒の間沈黙が続く。
もしかして、許されたのだろうか。そんな希望的観測を抱き始めたところで、突然素早く間合いへと入ってきた薫は、こちらの肩に左手を掛け大きく右手を肘から後ろへ引いた。
大ぶりなその動作から、逃げることこそできなかったものの、来たる衝撃に備えて腹筋に力を入れることができた。
「せいっ! ばいっ!」
ドゴという擬音が幻聴として聞こえるような勢いで、薫が放った拳が腹部に突き刺さる。
あらかじめ予測はできていた一撃であったが、輝日東の核弾頭と呼ばれる女の拳だ。その衝撃は悠々と腹筋を貫通し、内部へと到達した……気がする。
一瞬大きな衝撃を感じた後、痛みと吐き気が同時に襲いかかってきた。
膝をついて腹を抱える自分であったが、喉へと逆流してくる何かが外へと出ようとするのを、気合いで堪える。
しばらくして波が治まったところで顔を上げるが、その場にはもう、人の姿は見られなかった。
立ち上がったところで二人の姿を探すと、彼女たちは既に席に着いており、その扱いの悪さから解せぬといった表情を浮かべたところで、その場から動けずにいた自分に対し絢辻が一言。
「あはは……橘くん、もうすぐホームルームよ?」
「……はい」
絢辻は今の流れで薫との関係を察したのだろう。こんどは労ってはもらえず、呆れ顔で早く席に着けと促された。
腕時計に目をやれば、後数分で教師が教室へとやってくる時間だ。よくよく周りを見渡すと、ほとんどの生徒が席へと着いており、立ちすくんでいた自分は完全に浮いている。
その場に突っ立っているわけにもいかないので、トボトボと席へと向かう。すると、梅原の席の横を通りかかったところで、彼に小さな声で話しかけられた。
「お前マジで学習しないな……」
「あ゛!?」
思わず声を上げてしまったが、周りの視線が集まったことにより、我に返って口を紡ぐ。
梅原はニヤケ顔でこちらを見つめており、その表情がさらに自分を苛立たせるのだが、それを表に出すわけにもいかず、渋々その場を立ち去ることとなった。
そうして、担任の高橋先生がやって来るまでの数分間を、やりきれない気持ちを抱きながら過ごすのであった。
♢♦︎♢
「気をつけ。礼」
四限終了のチャイムが鳴り、教師が授業終了を告げたことにより、学級委員である絢辻の合図に従い、一斉に挨拶を行う。それに対して教師が挨拶を返した瞬間、あたりは一気に騒がしくなった。
昼食休憩の時間へと突入したことにより、各々が自由に行動を取り始める。ノートを取り続けるもの、友人の元へと駆け寄るもの、弁当箱を取り出して食事を始めるもの、教室を出て行くもの。
今日の自分は一番最後に当てはまる。午前中に梅原から、今日は昼食を共に取ることができないと聞かされており、また弁当を持参していなかったので、久しぶりに学食を利用しようと考えたからだ。
学食自体は混雑することはあっても、席を確保できないという日はほとんどない。なので、購買に向かう時とは異なり、焦ってまで移動する必要はない。よって、直ぐに教室を出ようとはせず、何を食べるかを考えながら、ゆったりと机の上のものを片付けに掛かった。
そうして、筆記用具をしまい、教科書類をロッカーに整頓し終わり、いざ教室を出ようと思い立ったところで、こちらに向かって近づいてきた絢辻に声をかけられた。
「ね、橘くん、ちょっといいかな」
「ん?」
体の前で手を組み合わせ、様子を伺うように話しかけてきた絢辻は、自分が反応を返すとその調子のまま話を続ける。
「あの……橘くんって、今日はお弁当だったりする?」
「え? ううん。学食でなんか食おうと思ってたんだけど……」
「そっか、よかった……」
「よかった?」
「うん。えっとね、昨日クリスマス委員の仕事の手伝いをしてもらったでしょ? そのお礼に、お弁当を持ってきたの」
絢辻は、表情を緩めてそう言葉を発した。
弁当を持ってきたからどうしたというのか。わざわざそんなことを伝えなくても、一人で食べればいいだろう。彼女の言った言葉の意味が理解できず、一瞬戸惑ってしまう。
「橘くん? どうかした?」
「えっ? ああ、いや。なんでもないよ。それで? 俺は学食に行きたいんだけど……」
「あっ……ごめんなさい。もしかして、迷惑だった……?」
「迷惑? なにが?」
どうにも話が噛み合わない。何かがおかしいと感じ、今までの会話を頭の中で反芻する。
確か、彼女は昨日の礼として弁当を持ってきたと言ったはずだ。
礼として弁当を持ってきた?まさかとは思うが、それは手作り弁当を食べて欲しいということなのだろうか。
「……ごめん、違ってたらアレなんだけど、もしかして弁当を持ってきたって、俺の分のこと?」
「えっ? え、ええ。そうだけど……」
「マジか」
「う、うん。それで、一緒にお昼を食べれたらなって……」
こちらの顔色を伺うように言葉を発する絢辻。
そんな彼女の提案に妙な違和感を覚えてしまい、言葉に詰まってしまったが、口ごもる自分に対し彼女が不安そうな表情を浮かべたことにより我へと返り、なんとか口を開く。
「絢辻ってさ、そういうキャラだっけ」
「え? えっと、どういう意味かな」
絢辻に聞き返されたことにより、再び言葉を詰まらせてしまう。
彼女は男に弁当を作るようなキャラじゃない。それが彼女の言動に対して抱いた違和感の正体だ。今の言葉では少々棘が出てしまったが、要するに、絢辻は気を使える女子なのだ。だから、礼をすると言ってもそういう男子を勘違いさせるような行為は避けるタイプであると思っていた。
そのことを彼女に伝えたいのだが、思いついた言葉ではどうしても棘が出てしまい、なかなか口を開くことができない。
そんなこちらの様子から何かを察したのだろう。絢辻はクスクスと笑いながら話しかけてきた。
「私がこういうことするのって、変かな?」
「変……ではないけど、意外ではあったかも」
「ふふっ、そうね。でも、橘くんだからなのよ?」
それが直球の意味ではないということはわかったのだが、どう返事をして良いのかはわからず、絢辻が続きを話すのを待つ。
そんなこちらの様子を眺めた彼女は一呼吸置いて、いたずらっぽい笑みを浮かべてから再び口を開いた。
「ほら、友達だったらーってやつ。あなたが教えてくれたんじゃない」
「……やっぱお前の方が強引じゃねぇか」
♢♦︎♢
結局絢辻に押し通されてしまった自分は、彼女に少しだけ支度をしてから向かうから先にテラスの席を確保しておいて欲しいと頼まれ、自販機で飲み物だけを買ってから食堂を通ってテラスへと移動した。
11月に入ってまで、わざわざ外で食事を取ろうと考える生徒は少ないだろう。雑談をしている生徒はちらほらと見受けられるが、空席は多く、その中でなるべく目立たなそうな位置にあるテーブルを選んで椅子に腰を下ろした。
絢辻が現れたのはそれから数分後で、特に探すこともなくこちらの姿を見つけられた彼女は、軽く手を振りながら駆け寄ってきた。
「おまたせ、早速食べましょうか」
そう言って席に着いた絢辻は、肩にかけていた通学カバンを下ろすと、中から大きめの弁当箱を1つと、恐らく自分の分であろう巾着袋と水筒を取り出した。
彼女から弁当箱を受け取り、蓋を開ける。
「うっわ、すげぇな……」
思わず感嘆の言葉が漏れてしまうほど、その中身は充実したものだった。
四角い弁当箱は半分に仕切られており、ご飯側には小さな梅干しが1つ乗っている。おかずの内容はハンバーグに目玉焼き、唐揚げ、そしてウインナーのベーコン巻きと少しのサラダという、男子高校生には嬉しい重めの食べ物と、彩りを兼ね備えたものだった。
「これ、絢辻が作ったの?」
それらのおかずは形が不揃いなことから、市販品ではないということはわかった。しかし、もしこれが手作りだとしたら結構な手間がかかっているはずだ。礼を言うためにもそこのところを確認しておきたかった。
こちらの質問に対し、絢辻は一瞬目を泳がすが、すぐに調子を取り戻して苦笑いを浮かべながら返答した。
「あはは……実は、そういうわけじゃなくて……」
「あ、そうなの?」
「うん。えっと、私もちょっとは手伝ったんだけど……それ、お姉ちゃんが私のために作ったものなの」
絢辻は、申し訳なさそうに事の経緯を説明した。
それを聞いた自分は、もちろん少しだけがっかりはしたが、それよりも違和感を覚えた彼女の行動に対しての疑問が解消されたことで晴れやかな気持ちになることができた。
「なるほどね。絢辻は少食なの?」
「うん。普段はおにぎりで済ましてるわ」
「そっか、それでこれの扱いに困ってーってわけか」
恐らく図星だったのだろう。絢辻は苦笑いを浮かべながら何を話すかを迷っているようだ。
彼女はどうやら罪悪感を感じてしまっているようだが、自分としては学食で食べられる以上の食事を恵んでもらえたことに対しての感謝しか感じていない。
まあ、
「ありがとね。俺も肉類は好きだからさ。win-winってやつだ」
「そ、そう? 喜んでくれたのなら良かったわ」
「うん。ってかむしろ、絢辻が作ったって言われた方がビビるわ。異性に気軽に弁当を作るようなキャラじゃないじゃん」
「ああ、それで戸惑ってたのね」
こちらの反応に安心したのだろう。絢辻も表情を緩め、場の雰囲気も明るくなり始めた。
「つーか絢辻の姉ちゃんすごいね。これ、女子が食う飯じゃないでしょ」
「……ほんとよね。まったく何を考えてるのかしら」
「え゛?」
「あっ、ううん! なんでもないの。それより、そろそろ食べ始めない?」
突然不穏な空気を発した絢辻であったが、こちらの言葉により慌てて表情を緩めると、話題を変えて話しかけてきた。
その様子に少々引っかかることはあったが、何やら有無を言わさないような雰囲気であったので、深く考えることはやめて箸を取る。
「んじゃ、いただきます」
「はい、どうぞ」
そうして、自分たちは談笑しながら、周りよりも少し遅めの昼食にありつくのであった。
ちなみに、絢辻姉の作った料理は並以上の美味しさではあったが、やはり胃への負担も少食の女子には耐えられない程度だったと述べておく。
最近、ちまちまと共通ルートを改定しています。
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