過敏になった神経は何気ない雑音さえもはっきりと捉え脳に伝達する。それ故に先生がチョークを黒板に叩きつける音がやけに大きく聞こえる。
髪の毛が触れる額や衣摺れが起こる背中には虫刺され以上のハッキリとした痒みを感じるし、筋肉に対して意識を向けているせいで体が強張り同じ体勢で居続けることができず、短い間隔でついそわそわと身体を動かしてしまう。
今の自分を例えるなら、まるで蛇に睨まれた蛙のようだった。絶対的な捕食者の前で逃げることも戦うこともできず、ただただ時が過ぎるのを待つことしかできない哀れな被食者──と、考えてるのはきっと自分だけなのだろう。自分の真横、数十センチ先に座っている少女の目には、恐れ戦く哀れなカエルの姿など眼中になく……というか、そもそも真横を気にする素振りすら見せない。彼女のその大きな瞳は壇上で講義をする教師、黒板、ノートのみを捉えている。その非常に洗練された動作からは、いかに彼女が真剣に思考に耽っているかがうかがえる。そんな彼女の周りにはある種の不可侵領域が形成されているようにも思えた。
そしてその雰囲気が自分と彼女との間の溝を表しているように思えて仕方がない
近いようで遠い、そんな距離感。手を伸ばせば届く距離に座っている絢辻はそれでも決してこちらを意識する素振りをみせず、そのもどかしさから自分は彼女についての思慮を止めることができずにいた。
絢辻は昨日のことをどう捉えているのだろうか。彼女とは1年以上の付き合いがある。異性間の友情は成立しづらいという意見はよく耳にする情報ではあるが……少なくとも自分は、絢辻詞との間には確かな友情が存在していたと思い込んでいた。
顔を合わせれば雑談に興じることが日常だった。好きな本について語り合った。自分の内面、弱みをさらけ出したこともある。少なくとも自分は彼女のことを信頼していた。だからこそ、この関係もそう簡単に破綻するものではないと信じたかった。
考えれば考えるほど自己嫌悪に陥る。
結局、自分は絢辻のことを知らなさすぎる。何が友情だ。何が信頼だ。そんなもの、こちらが勝手に思い込んでいただけじゃないか。
昨日の放課後、彼女が自分に見せた顔こそ彼女の本性だったのだろう。あの利己的で攻撃的な言動は自分の中に存在していた絢辻詞像とは大きくかけ離れていた。だがそれに対して自分は嫌悪感は抱かなかった。自分は。自分は……
「ふっ…」
思わず笑いが吹き出してしまった。
彼女は違った。手帳に書かれていたであろう彼女の秘密、それと橘純一との関係を天秤に掛けた際、彼女は即座に後者を切り捨てた。自分が彼女の別の一面に対して何を思おうとも、彼女にとっては関係はなかったのだろう。橘純一は絢辻詞が弱みを見せることを許せる人間ではなかった。だからあの手帳を拾われ秘密を見られたという可能性が生じた瞬間、彼女の中で自分との人間関係は即座に終焉を迎えた。
終わったのだ。そこから先に何を取り繕おうとも、何を弁解しようとも、先は存在しない。それにもかかわらず友人関係を継続できるだろうと楽観的に捉えていた自分の言動は、彼女の目にはあまりにも滑稽に映ったに違いない。
悩んでも仕方がない。もともと自分と絢辻との関係はあまりにも独りよがりで、端からそこに友情など存在していなかったのだ。それは手帳を拾おうとも拾わなくとも関係ない。自分と絢辻の関係はそもそも始まってすらいなかったのだから。
だから、絢辻と過ごした時間は彼女にとっては事務的な何かにすぎず、自分が勇気を出してさらけ出した内面は彼女にとっては無価値なもので、そもそも彼女にとって橘純一はその他大勢の同級生となんら変わりのない人間に過ぎなかったのだ。それは、それは本当に
寂しいなぁ
流石に声には出さず、わずかに唇だけを動かして気持ちを外に吐き出す。そうしなければ不安に押しつぶされそうだったから。
このままではいけない。不安や孤独感という負の感情はネガティブな時に限って無限に湧いてくるものだ。増大し続ける負の感情は決して溢れることなく心臓のあたりに蓄積されていく。胸の重みは時間が経つにつれ増し、それによってまた不安を自覚する。負のスパイラルの完成だ。
2限目からこれだ。今日の授業はまだ4つも残っている。ただでえ朝から感情が不安定だというのに、この状況はとてもじゃないが耐えることができない。とりあえず、今はこの苦しみから逃れる必要がある。今のままでは絢辻との人間関係について中身のある思考を行うことは決してできない。いや、考えたところでもうどうにもならないのが現実なのだが。
「先生……」
頭の中でネガティブな思考がひたすらループしていたことを実感した時点でこれ以上はもう限界だと感じ、勇気を出して教卓に立つ先生に声をかけた。
「お、どうした橘。珍しく質問か?」
「いや……ちょっと体調悪いんで保健室行ってきます……」
「保健室? そりゃ構わないけど……大丈夫か? 誰か付き添ってもらうか?」
「いやマジで大丈夫なんで! 一人で行きます……」
「大丈夫か大丈夫じゃないかどっちなんだよ……」
先生が妙なことを言い出す気配を感じ、咄嗟に大声を被せてしまった。先生のツッコミに対して周りから笑い声が起こる。
それに対してより一層居心地の悪さを感じた自分は、足早に教室を立ち去り保健室へと向かうのであった。
♢♦︎♢
夢を見ていた。
何の変哲もない夢だった気がする。忍者に殺されるとか宝くじに当たるとか、そんな現実離れしたものではなく日常の夢だった気がする。具体的な内容はもう思い出せないが、断片的には覚えている。
友達がいた。高校の男友達が3、4人。なんて事のない日常だ。多分放課後、学ラン姿のままどこか広い公園のような場所で駄弁っていた……気がする。
いやまて、あれは本当に知り合いか?
保健室のベッドの上でごろりと寝返りを打つ。制服姿のまま横になることは滅多にないので硬いブレザーとさらさらのリネンの肌触りに違和感は感じるものの、目蓋の重たさが故に目を開ける気にはならない。
それでも中途半端に意識は覚醒しており、仕方がないので寝ぼけた頭のまま思考に耽る。
梅原ではなかった。それに、ケンでもマサでも。
てことは誰だ? 他に自分が特別仲がいい男友達、それもグループで連むような奴っていたっけな。いやいないよな。
というか学ランって何なのだろうか。輝日東も中学の頃も制服はブレザーだ。それこそ、学ランを着た経験なんて自分にはない。
「ン"〜……」
「……」
再び寝返りを打つ。
どうにも腑に落ちない。夢に他人が出てくるということはまあ、よくあることだろう。夢とはもともと複雑なものではあるし、そもそも自分は目が覚めたことを自覚した時点で夢の内容をほぼ忘れてしまっていた。こんなことにいちいち違和感を覚える方が不自然なのだが、何かが引っかかる。
「あ"〜……」
「……」
思い出せそうで思い出せない、そんなもどかしさが気持ち悪い。何かを忘れているような、何かを思い出せずにいるような、それだけは理解しているのだが、何をと言われると見当もつかない。
というか、
今は何時だ? 寝起きの微睡具合から見て保健室に来てから結構な時間が経過しているはずだ。それこそ、1時間や2時間では済まないはずだ。
養護教諭は今この部屋にいるのだろうか。頭が回っていなかったからつい変な声を出してしまったが、それを聞かれていたと思うと段々と羞恥心が増してきた。
流石に体を起こすか。
そう思い立ったところでゆっくりと目蓋を開けた。
目に映るのは茜色に染まった天井。日が落ちる時間がかなり早くなったとはいえ、流石に今は放課後だろう。
状況が理解できたところで涅槃の体勢で肘を起点に体を起こそうと通路側に寝返りを打つ。
目に飛び込んできたのは露出した2本の脚。男のものとは違う華奢なそれは、しかしきっちりと揃えられどこか力強さも感じられる。
そのまま目線を上げる。膝の上には一冊の本。文庫本ではなくハードカバーのものだ。
さらに目線を上げる。きっちりと背筋を伸ばして腰をかけているのだろう、張った胸はそれでも起伏に乏しく、だからといって女性らしさが感じ取れないわけでは無い。
そうして顔を上げきったところで、ベッドの横に広げられたパイプ椅子に腰をかけていた誰かとやっと目が合った。
「あら、おはよう」
背筋を伸ばし膝の上の本に両手を乗せ、覗き込むような形でこちらを見つめていた絢辻は自分と目が合うとあっけらかんとした態度でそう口にした。
「絢辻……」
「はい絢辻ですが?」
今の状況が理解できないのと、眠りに落ちる前の記憶を思い出したことで心臓がどきりと脈を打つ。
なんとか言葉を振り絞ったがそれ以上は出てこない。それに対して絢辻は口調を変えず返事をした。
「なんで……」
「なんでここにいるかって?」
コクリとうなずき肯定の意思を返す。すると彼女は目を瞑り、茶化すような口調で言葉を口にした。
「授業をサボって昼寝してる誰かさんに荷物を届けるよう頼まれた絢辻は、間が悪いことに先生が保健室を離れなければならない時に来てしまい、目が覚めるまでここにいてくれと頼まれたので仕方なく椅子に座って本を読んで時間を潰していたのでした。まる」
そう言い終わると口を閉じた絢辻は目線を下に向ける。確かにそこには自分の通学鞄が置かれていた。
礼を言うべきなのだろうが、どうにも言葉が出てこない。絢辻の方もそれ以降は口を閉ざしたまま、それでも目を逸らすことなくこちらを見つめている。
会話に空いた少し間を彼女は終了の合図と受け取ったのだろう。小さなため息を吐いた絢辻は平坦な口調で言葉を切り出した。
「ま、大丈夫そうね」
本を鞄にしまった絢辻は立ち上がるとスカートを軽く手で叩く。
「教室でいきなり吹き出したときは気でも狂ったかと思ったけど、寝起きで女の子を視姦する元気があったとは。心配して損したわ」
「いや視姦なんてしてねぇよ!」
予想外の言葉に思わずつっこんでしまった。しかし絢辻は相変わらずあっけらかんとした態度で言葉を紡ぐ。
「してたじゃない。スカートの中を覗こうとそれはもうねちっこい視線で。訴えようかしら?」
「いや、それは寝起きで頭が回らなかったからで……つーか、なんで俺が笑ったこと知ってんだよ。ずっと前見てたじゃん」
「そんなの前見てても気づくわよ。席隣なのよ? 馬鹿なの?」
言い返す言葉もない。
こちらが口を閉ざすのを確認した絢辻は椅子を畳み、床に置いてあった彼女の通学鞄を手に取った。
その姿を見た自分は慌てて口を開く。
「ちょ、ちょい! 待てよ!」
「はぁ?」
動揺する自分の姿を見た絢辻は渋々鞄を置くと両腕を前で組み、顔をしかめて話しかけてきた。
「まだ何か?」
「い、いや、何かあるって訳じゃないけど……」
「あっそ。それじゃあたし帰るから」
「ある! あるから! 頼むからもう少し待ってくれって……」
項垂れながら力なく懇願する自分の姿を見た絢辻は、大きくため息を吐くと鞄を放り投げ再びパイプ椅子を開いた。そしてずかりとそれに腰をかけると手と脚を組みこちらを睨みつける。
自分の鼓動が煩くて仕方がない。
全身で不機嫌を表現する彼女だが、それによるプレッシャーのせいでつい彼女の顔から目を逸らしてしまった。
何か話さなければ。今が絢辻と和解する最後のチャンスなのかもしれない。そう理解しているのだがまるで喉を締め付けられているかのように言葉を発することができない。
"昨日はごめん"
この言葉が正しいかどうかを判断するほどの余裕はない。やっと頭に浮かんだ謝罪の言葉を口にしようと思い立ったその時、絢辻の方が先に口を開いた。
「橘くんって、変わってるわよね」
予想外の言葉に驚いた自分は顔を上げ絢辻の表情を窺う。
眉をひそめているものの、彼女は先ほどとは打って変わりどこか呆れたような表情を浮かべていた。
「昨日の今日で、普通あたしに関わろうなんて思わないわよ」
「そんなこと……」
こちらの否定の言葉を無視して彼女は話を続ける。
「クラスのみんなに慕われる優等生の絢辻さんは、実は猫を被っていて落とし物を拾ってくれた親切なクラスメイトを恫喝するような人間でした」
「それ自分で言うか普通」
「あなた余裕があるのかないのかどっちかにしなさいよ!!」
反射的に突っ込んでしまった自分を絢辻は大きな声で怒鳴りつけた。
その威勢に再び萎縮したこちらの姿を見た彼女は、こほんと咳払いをすると僅かに赤らんだ顔を取り繕うかのように口を開いた。
「とにかく! まともな思考してたらあたしに関わろうなんて思わないでしょ。それなのにどうしてそんな顔であたしを呼び止めるのよ」
彼女のその言葉は間違いなくこちらに投げかけられた疑問なのだが、どこか自分に言い聞かせているかのように感じられた。
「そんなの……」
何かを考える余裕など自分にはなかった
それ故に、真っ直ぐこちらを見つめる絢辻に向き合うように彼女の顔を見つめながら自分の心をそのまま口に出す。
「俺はお前のこと、友達だと思ってるから……」
それ以上言葉が続かない。僅かな静寂が二人きりの保健室を支配する。
「これ単純な疑問なんだけど」
その静寂を破ったのは自分ではなかった。
「あたし達ってそんなに仲良かった?」
「……俺はそのつもりだけど」
絢辻は目を瞑りこちらの言葉を反芻する。
「でもそれって猫かぶってる時のあたしでしょ」
絢辻の言わんとすることは理解できた。そしてそれは今日一日自問自答し続けてきたことであり、明確な答えを見つけることの出来なかった事象でもあった。
自分は絢辻詞のことを何も知らない。彼女が猫を被っていたことも、その原因も、彼女の抱える苦悩も。
今まで自分が接してきた絢辻詞は彼女にとっては本当の自分ではないのだろう。上面でしか関わることのなかった相手が友情だなんだと語ったところで何をほざいたものかと感じるのは当たり前のことかもしれない。
「確かに俺はお前のこと何も知らなかったよ。猫かぶってたことも、手帳のことも。俺の中の絢辻詞はお前にとっては表面上の自分だったかもしれない」
「そうよね。だから、この話はここで終しまい」
「でもさ!!」
ただ、それでも。
「俺は絢辻のこと、友達だと思ってるんだよ。本当とか偽物だとかそんなことはわかんない。でも少なくとも俺にとってはお前と過ごした時間は、俺が見てきた絢辻詞は偽物なんかじゃない」
「……意味がわからないんだけど」
「人間ってさ、そんな真っ直ぐなものじゃないって。裏表のない誠実な人間なんて物語の中にしかいないんだよ。お前が猫かぶってる自分のことをどう思ってるかはわからないけど、それが完全な偽物なんてことは無いと思う」
人間誰しも別の自分の顔と言うものを宿している筈だ。問題は、それを自覚しているかしていないか。絢辻の場合は前者だ。それ故に彼女の考える素の自分との乖離に苦しんでいたのだろう。
「今こうして話しててわかったよ。やっぱり絢辻は優しいって。口調や雰囲気なんかは確かに別人かもしれないけどさ、中に通ってる芯は"絢辻詞"のものなんだと思う」
「やさしい? 何言ってるの?」
「穏やかって意味じゃねぇよ。思いやりって言うのかな。細かな気配りとか、なんだかんだで相手のことを考えてくれることとか。俺はお前のそういうところがその……嫌いじゃない」
絢辻のその丸く大きな瞳は今、俺を、俺の肉体のその奥を覗くかのように大きく開かれこちらに向けられている。
今しかない。フィルターをなしに、彼女の心に自分の気持ちを伝えられるチャンスは。恐らく。
「今までの絢辻が全部偽物みたいなこと言うなよ。お前はそんな薄っぺらい人間じゃないって……」
「……」
「とにかく! 俺はお前のこと友達だと思ってるから! もしお前のことを全然理解してないって理由で友達やめなきゃならないってのなら、俺は本当のお前と接したい。てかそうする。俺も結構猫かぶってたし、これからはクソウザ絡みしてやるから覚悟しとけよ!」
自分の気持ちをぶつけるかのように捲し立てたため息が切れる。心臓も動悸が激しく痛みさえ感じるようだった。顔も熱い。頭で考えずに話したため何を喋ったかは今すぐに自分で理解することはできないが、なんだかとても恥ずかしいことを言った気もする。
しかし、自分は清々しい気持ちだった。
やっと自分の気持ちを絢辻に伝えられた。それを彼女がどう受け止めるかはわからない。それでも、フィルターに拒まれることなく彼女の心に直接訴えかけることができた。
進歩はしていないだろう。今のは全部一方的な気持ちを語ったに過ぎないから。
だが、それでもいい。決めたのだ。橘純一は絢辻詞の友達でいると。
拒絶されるかもしれない。いや、きっとされるだろう。でも上等だ。彼女が折れるまで何度だって話しかけてやる。こちらも意地だ。絢辻が今までの関係が全部嘘だったなんて、俺の大切なものを偽物呼ばわりするのを認めるわけにはいかない。
自分の興奮はまだ治まってはいない。息を切らしながら、それでも決して視線を逸らすことなく絢辻を見つめ続けていた。
そうしてどれだけの時間が経過したのだろうか。不意に視線を外した絢辻は顔を隠すように額に手を当てると肺の空気を全て吐き切ってしまうかのような大きな溜息をついた。
そして空っぽになった肺に酸素を溜め込むと、ゆっくりと口を開いた。
「橘くんさぁ、よくそんな恥ずかしいこと堂々と言えるわよね……」
呆れたようなそんな口調。しかし、そこからは不快感や嫌悪感は感じられなかった。
「はぁ、わかったわよ……」
そう言い終わると突然立ち上がった絢辻は、少し前屈みになりベッドに腰をかけている自分に向かって手を差し出しこう言った。
「とりあえず、よろしく」
「……おう」
握り返した彼女の掌は暖房の効きが悪い保健室なのにもかかわらず、まるでカイロのように温かかった。
長ったらしい後書きはブログに書きました。興味のある方だけ読んでいただければと思います。
https://kanikama-coffee.hatenablog.com/entry/2019/11/24/212539