闇堕ち士郎のリスタート   作:流れ星0111

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 遅ればせながら戻ってきました。
 本当に、本当に読んでくれてありがとうございます。
 感想と誤字報告。いつも背中を押してもらっています。ぜひこれからもお付き合いください。
 


第10話

 霞む記憶の中で、父の姿が映り込む。

 強く、しかし乾いた手に頭をなでられて。

 その大きな背中に乗って、高くて遠い綺麗な空を眺めた。

 

 段々と黒くにじんでいく空。

 

 抱きしめられた体に、伝わっているはずの体温は、いつの間にか消えてしまった。

 頭をなでる大きな手も。低く名を呼ぶ声色も。

 思い出そうとすればするだけ、遠ざかっては霞んでいった。

 

 伸ばす手も、いつしか届かぬことを知り。

 願い続けた扉の音も、いつしか鳴らぬと思い知った。

 

 ただ時だけが積み重なり。

 体は痛みを知った。

 痛みを知るたびに、何かが削れて散っていく。

 

 痛みは希望を塗りつぶし。

 時は願いを踏みしめる。

 むなしさだけが心につもり。

 残ったものは砂塵だけ。

 

 欲しかったものなど等に忘れ。

 

 見捨てられ、痛めつけられ。己を包む熱がないと知ったのは、果たしていつのことだったのか。

 もう、思い出せないほど。遠き日の記憶。

 

 いつしか想いは反転し、元の心を無くしたまま。目に見えぬ何かを呪い続けた。

 

 今思えば、弱かっただけなのか。

 

 誰にも抱きしめてもらうことなんてできないと知った。

 誰にも温かい声色を向けてもらえないことを知った。

 誰にも熱を与えられないことを知った。

 

 いつまでも。決して。あの空の元には届かないと知った。

 

 真っ白で、溶けそうな雪の中。

 いつこの身が溶けて崩れてしまうかわからなくて。

 

 だから、一人で立ち上がった。

 

 弱いままでは壊れてしまうから。

 弱い自分は壊れてしまったから。

 

 壊死してしまった体を甦らすために、溶けた鉛を全身に流した。

 

 だから、何かを憎んで進むしかない。

 なぜ憎むかなんて、最初から知らない。

 身体に走る痛みも、もうすでにない。

 

 代わりに何を無くしたのかなんてわからない。

 痛むことを辞めた心は、勝手に空虚を埋めたから。

 

 そうして私は、雪の中で埋もれて死ぬ。

 冷たい底でたった一人。誰の手の届かぬところまで吊るしあげられて。

 

 そのことを、仕方がないと受け入れた。

 それ以外の生き方を、知らないから。

 

 だから。

 私にはわからない。

 

 胸に走る稲妻も。

 頬を流れる雫も。

 身体を流れる震えも。

 

 どうしてこんなに、私は寒さを拒むのだろう。

 

 私は何を、忘れてしまったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 不便だなと自嘲した身体は、未だ寒さを感じ得る。いつもより一枚多く着こんだためか、外気はより遠いものに感じた。

 

 顔に触れる寒気とは裏腹に、中にこもる熱はまだ暑い。体内から湧き出る生の気は、外界と内界に境界線を張るようだった。

 まるで、生きることは拒むことだというように、体は熱を発し続ける。熱く感じるほど、外気は寒さを増す。冷たさが、襲い掛かる。

 

 よくできたものだと、微笑みが漏れた。人の形を模した器でも、猿真似程度なら人を演じられるのだろうか。

 

 たどり着いた場所は、住宅の合間に少しだけできた空間で。誰一人今はおらず。しかし風に揺れる遊具が、ぎーぎーと頭に響く音を奏でた。

 

 公園とは、公共に提供される整備された庭であるという。しかし、もちろん彼女の知る庭は比べるまでもないくらい規模が違った。

 本当にこんなに狭くて。なんて閉じた空間。

 

 それでも、彼女にとってはとてつもなく開いた場所に見えた。

 

 いつも通り、彼の座っていたベンチに腰掛けて時間がたつのを待つ。

 もしかしたらと、昨日期待を裏切られて。それでももう一度同じように待つのは、果たしてなぜだろうか。

 

 会いに行くことは容易だ。少し自分の髪を媒介に、魔術の一つでも起動してしまえば、彼の居場所などすぐに特定できる。

 

 でも、そうはしなかった。どうしてと。彼女自身が意図も知らぬまま、そうしてわからない彼の来訪を待った。

 

 時計の針が進むたび、頬と手は赤らんでいく。

 口元に手をやって、息を吹きかける。命を吹き入れるかのように、赤らんだ手は熱を取り戻していく。

 

 冷たいなあと、思った。

 寒いなあと、感じた。

 

 もっと雪吹き荒れる場所に住んでいた。比べ物にならないほど。まさしく死を呼ぶ熱を知っていた。

 

 でも、それ以上に、手から失われる温かさは、深い底から何かを奪っていく。

 

 とっさにコートのポケットに手を入れた。少しでも奪われぬようにと、宝物を抱えるように縮こまって。

 そうして、そっと眼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 頬に当たる熱で目を覚ます。

 大きな手、傷だらけの手で、光で見えない誰かは、私の頬に手を当てていた。

 大気と同じくらい冷たくて、ヒヤッと背筋が凍るように、氷のような手だった。

 

 何より、暖かい手だった。

 少しだけ見える赤い髪が、同じくらい暖かかった。

 

「危ないぞ。こんなところで寝たら」

 

 そんな、溶かすような声色で、彼は声をかけた。首にかけた長い布を脱いで、私の首を2周するように巻いて。

 不器用な巻き方と、照れたような笑い。先ほどまで彼がつけていたせいか、他の熱とは一線を画すほど、その熱は暖かくて。

 鼻まで隠したマフラーを、指で少しだけ下げて、彼と向き合った。

 

 視線を少しだけずらす。時計は先ほどより数度右に傾いていて、僅かすぎる時間の経過を表していた。

 

 少しだけ待っていてと少年は頭を数回なでて公園から出ていった。

 見ると、赤い箱の前でコインを入れて二度ほど下から筒状の物を取り出している。

 

 片手で握り締めるにはいくらか熱すぎたからか、両手で転がすように二つを遊ばせながら、彼は公園へと戻ってきた。

 

「熱いから、気をつけてな」

 

 そう、シロウは微笑みながら片手に持った缶を差し出した。

 受け取って、ラベルに書かれた文字を読む。カタカナで大きくココアと書かれた飲み物は、共に描かれた絵で味を鮮明に伝えてくる。

 開け方がわからなくて昏迷していると、シロウはもう一度だけ缶を預かり、小さな音と共に空洞を作った。

 

 缶を傾けて、中に入る液体を口に含む。一度に数滴くらいしか飲めないほど、それはまだ暖かく、そして甘かった。

 きっと普段飲みなれているものより、数段以上格の下がるものだろう。リズなんかは、口にすることも許してはくれないかもしれない。

 それでも、乾いた体に。温かいはずの身体に、液体は染み渡るように広がっていった。

 

「まるで魔法みたいね」

 

 そう、皮肉めいた笑みに、シロウは困ったように笑った。

 何も知らない私に、なんといえばいいのかわからない。そんな風な顔に見える。

 

 同情なんていらない。それはきっと、彼が一番よくわかっていることだ。誰より私に同情する資格のない彼なら、きっとそれくらい察せられる。

 

 首に巻かれたマフラーをほどいて、彼の腕にかけた。首元に入る寒気は鮮明に神経を傷つけるけど、耐えられないほどではなかった。

 士郎は笑みを崩さずに、受け取ったマフラーを自分にかけなおす。

 

「私、昨日も来ていたのに、シロウは来なかったね」

 

 自分でも不思議なくらい、冷たい声が喉元からあふれた。温かくなったはずなのに、出てくる言葉は対して、私であることをやめようとはしない。

 

 少しだけ怯えて、シロウの表情を覗こうとした。

 しかし、視野は覆われ、シロウの顔色を見ることはできなかった。

 

「ごめんな。間に合わなくて」

 

 そう、頭をなでるシロウの手に、言葉を飲んだ。

 すぐにでもその手を払おうと、手は力を増して委縮した。缶を握る手は強まって、痛いほど熱が伝わってくる。

 それでも、私の身体は動かなかった。押し固められたように、身体は一切、関節の一つすら動かせないほどで。

 

 両手で握る缶のせいならば、片手に持ち替えればいいだけだった。

 触れられる手のせいならば、少し声をあげるだけで、その手はひかれ彼はすまなそうに微笑むだろう。

 

 それがわかったうえで、私の身体は動かない。

 

 時間だけが過ぎ去る。頭を動く感触だけが、私の世界を繋ぎとめるように、輪郭をとどめていく。

 

 長い髪を解かすように、柔い何かを支えるように。

 恐れを感じず慈しみを感じる手が、私には耐えられなかった。

 

「やめて。お願い」

 

 そう懇願した震える声を聞いて、シロウは抵抗することなく、スッと手を引いた。

 彼の顔を直視できない自分の震えに驚いて、失われた熱によりどころを求めた。

 

 大きく息を吸うと、甘みの残骸は寒気と共に消え、視界は鮮明になった。

 

「私、シロウの敵だもの。そういう態度は、違うわ」

 

 力が入る声色。ようやく重なった目線は、望んだものとは程遠いもので。

 それを拒絶することが許されていないとわかっていながら、目じりに力を入れなければ崩れてしまいそうだった。

 

 シロウはそれでも彩を変えない。

 見つめる視線は白い肌を焼いていくようだった。

 

「そうだな。間違えた」

 

 シロウは頭を掻いて少しだけ首を垂れるとほんの少しだけ後ろに下がった。

 そういって1歩だけ距離を開けた歩幅。それが、取り返しのつかない壁だと、気づくのに時間はかからなかった。

 

 缶に残った液体を飲み干すまでの時間、互いは一言も喋らなかった。ただ熱は身体にこもり続け、発散されない力は、内部から何かを圧迫した。

 

 スッと立ち上がり、シロウの方に手を伸ばした。一歩分だけ縮まる距離が、空間を満たした。

 それでも、シロウは困った風に笑うだけだった。

 

「ねえ、シロウ」

 

 震えそうになる唇をごまかすように、声をあげた。気づかれてないはずの声は、自分にとっては思考が埋め尽くされるほど動揺しきっていて。

 

「キリツグに、会わせて」

 

 そう、言い切った。精一杯張り上げた声は、吹きすさぶ突風にかき消されたかもしれないと思うほどか細くて。

 

「ああ。わかった」

 

 シロウはそう、すべてを受け入れたように一言返して、歩き出した。

 行こうとかけられた声に、凍った足は動き出す。そこまで早くない歩幅に、追いつくのはそう難しいことではなかった。

 

 それでも、あと数歩。手を握るまでが遠すぎて。

 

「なあ。イリヤ」

 

 目線を手から動かして、少年の方へと動かした。

 笑っていたはずの顔には、もう笑みはなく。張り付けられた仮面の奥に、ありありと浮かぶ残像が、眼を焼き付けた。

 

「ごめんな」

 

 少年はそう、一言だけつぶやいた。

 

「もういいよ。大丈夫」

 

 そういって目線を前へと戻した。段々と頭に重力がかかって目線は下へ下へと移っていく。

 

 歩く速度は同じなのに、歩数の違いが目について。ふと幻覚のように歩いている道を認識した。

 同じ所へ向かっているはずなのに、これほど違いがあって。私とシロウのレールは、どれほど遠いものなのだろうと。

 

 そう、私の熱に問い直した。

 答えは返ってこなかった。何度問い直しても、答えは私の中になかった。

 

「遠いね。シロウ」

「そうだな」

 

 口から出る白い吐息が、熱を奪う。奪われた熱は、大気と混ざって消えていった。

 どれだけ熱を捧げようと、世界の温度は変わらない。身を捧げようと、それが意味を成すかとは別の話だ。

 

「少し、遠いな」

 

 口元だけを動かして、シロウは最後にそういった。ぴくりとも動かない目線も、凍ったような手も、何も変わりはしなかった。

 

 ねえ。シロウ。私、そんなに鈍感じゃないよ。

 だってその顔、知ってるから。どうしてかはわからないけど。どんな風に知っているかも、わからないけど。

 

 目の前にあるのに、どこまでも深い谷底にまで落ちていく背中を。

 二度と振り返らない背中を。

 なぜか私の手は、そこには届かないと。私は、知っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気づいたときには、頬から涙が流れていた。その止め方を知らなくて、困惑することしかできなかった。

 

 切嗣が住んでいた。そしてシロウが今住む家。感覚がマヒして、今という時間の所在がわからなくなるほど、見まわる時は一瞬だった。

 もうとっくに手遅れだったのだと、この小さい箱庭に入った時点で気が付いた。それからは、本当にすぐだった。

 残り香の無い部屋。しかし、霞む記憶が、誰かの面影を投影する。

 ここにいる私はどこまでも異物で。存在を許容する理由は、とっくに死んでいたそうだ。

 

 涙の意味を、私は知らない。きっと抱くはずだった感情はなく。ただぽっかりと空いた大きな穴だけが、私の胸を通っていった。

 だから、止まった。立ち止まった。フクシュウという大義はいったいどこへやら。すぐにでも逃げ出してしまいたいほど、身体は震えを抑えらなくなる。

 

 そんな私に、シロウはまた手を伸ばした。

 

「ねえ。シロウ」

「うん」

「シロウにとって、キリツグってどんな人なの?」

 

 彼がどうして本来の両親と離れて、キリツグと共に生きているのか、私は知らなかった。本来なら、私たちとは絶対にかかわらないような日の下にいて、享受するのは当たり前という特別だったはずだ。

 そんな彼が、何故、英霊を従えて剣を握っているのだろうと。それでも、察することはできる。

 きっと、彼の両親を殺したのは他でも無いキリツグで。直接的理由はなくても、きっと憎むのが正常な人間の反応なはずだ。

 

「切嗣は、俺に衛宮って名前をくれた家族だよ。それに、救ってくれた恩人だ」

 

 シロウは用意された台本を読み上げるようにそういった。

 その反応は、前回を知らないからできることなのか。それとも、知った上で同じ反応を彼は返すだろうか。

 きっと後者だ。それは、確信を持って言える。

 

「私、悲しいって思っていいのかな」

 

 相手が答えを持たないとわかったうえで。できないとわかったうえで口は勝手に問いを投げた。それが、彼にとってどれだけ残酷な問いかわかったうえで。

 

「だって、私。このために生きてきたの。そのために、どんなにつらいことでも耐えて。いつか報いを受けさせて。どうせ私には何も残らないから、せめて奪ったやつも道連れだって」

 

 そう思って生きてきた。悲しさなんてないはずだった。あっていいのはむなしさだけ。結局叶わなかった願いを弔うための感情以外、私には許されてはいけなかった。

 どんな形であれ、私を繋ぎとめて居た鎖は、もうなくなっていたそうだ。

 

「私は、シロウとキリツグを殺さなきゃいけないの。だってそうしなきゃ」

 

 どんなに足掻いたって、私は、ここで終わるのだから。これ以外の目的を失ってしまえば、聖杯戦争に挑む意味はついに一つだけになる。

 だから死を悲しみと感じる資格は、私にはない。そうしてしまえば、私はそんなことのためにここまで生きてきたことになる。

 誇りはある。アインツベルンのマスターとして。そして小聖杯としての、生き様に今更思いもない。

 

 でもそれならどうやって、私は殺した彼女に償えばいいのか、わからない。

 

「ここ、気に入ったか?」

 

 少年はそう微笑みながら言った。

 心臓を鷲掴みにされた気分だった。呼吸するのが億劫になるくらい苦しくて、歯がゆかった。

 

「なんで、そんなこというの」

「いい家だと思うんだ。まあイリヤの家からしたらこんなところ小さすぎるかもしれないけどさ」

「そうじゃなくて」

「意外と慣れると和室もいいもんだぞ。畳の上独特の寝心地があるんだ。うちは浴槽も純和式だから、結構気持ちがいいぞ。少し手入れが大変だけど」

 

 なぜと。問わずとも答えは目に見える。

 楽しそうに話す少年を、これ以上見てはいられなかった。

 だって、そこにはまるで、

 

「俺が死んだら、ここに住んでやってくれないか」

 

 シロウはいないようだったから。

 

「......シロウは」

「ああ」

「死ぬ気なのね」

 

 少年は何も言わなかった。ただ、言葉が詰まって、苦し紛れに笑っただけだった。

 私にこの場で言う意味を、理解していないわけがなかった。

 託すという行為は、残りの無いものが、あるものに問うことだ。

 いい加減にしてと大声で叫びたい思いを押し殺して。私は、自分自身に溺れた。どうやったって、この身にある価値観ではそれを否定しきれなくて。だから、肯定するしかなかった。

 それは、もうあきらめた熱だから、縋ることも拾うことも許されなかった。

 

「そっか。シロウも、そうなんだね」

「それは」

「でも無理。私も死ぬから、シロウの代わりにはなってあげられない」

 

 お返しに、頬に流れる雫を無視して精一杯笑ってみた。その時の少年の顔はそれはそれは愉快で、予想通りの表情で。

 

 何を言おうかと、何度も悩んだ様子で、最後は私と同じように微笑んで、「そっか」って一言だけつぶやいていた。

 

「もう行くね。ここに呼んでくれてありがとう。シロウが生きてるうちなら、また、来てあげてもいいわ」

 

 襖を横にずらして、低い音のする廊下を通った。木製の香が鼻を刺し、かかる体重が床をほんの少しだけ歪ませる。

 きっとシロウにとってはもう見慣れ過ぎた光景で、でも私にとっては真新しい世界の出来事で。

 共有できない世界観を、少しだけ心地よいと思った。

 

 先ほど通った帰り道。遠い遠いと思った通り道は、あっという間に過ぎた。答えの無い問いだけが、私の頭を埋め尽くす。

 どうして、彼は仇の残した家を護ろうとしているのだろう。もちろん、キリツグだけが仇ではないし。言ってしまえば私もそのうちの一人だ。

 そのはずなのに、彼はどうして憎しみをそこへは向けないのだろう。一体どう、その体を支えているのだろう。

 残ったのは、躰に刺さるわずかな違和感だけ。

 

 私は何かを忘れている。ただそれだけの、誰にでもある違和感から、私は抜け出せなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 古びた扉が、擦れた大きな音を鳴らし、感じる外気の風圧が全身を嘗め回すように過ぎていく。

 日は少しだけ暮れ始めた。ほんの少し夕闇が訪れる一幕で、視界に映る少女がこちらを覗く。

 

 見慣れた髪色が風に揺れる。記憶の底にある澄んだ黒色の髪色ではない、淀んだ色が視界に広がって。括られた髪留めが、まるで楔のようにその頭に蝶を描いていた。

 

 こうして対峙するのは、果たして何日ぶりだろうか。今まで、これほど時を開けたことがあっただろうか。

 じくりと痛む手元を無視して、少女と視線を交わした。瞳には色が映り。憎しみか、怒りか、どちらにせよ、それは向けられた覚えのない鋭いものだった。

 

「久しぶりだな。桜」

 

 たった数日だけ顔を合わせなかっただけで、見違うほど少女は妙に伸びた背筋で立っていた。

 それは奇怪に思え、それ以上に脅威だった。

 

「手短に済ませよう。僕も、あまりお前といるところを周りに知られたくない」

 

 早々と漏れ出た声は、急ぎを匂わせた少し余裕の無いもので。

 それが正直な感想だった。これ以上状況が変動することは望んでいない。無駄な感情を男が抱けば、どうなるか予想が出来ない。敵対することもかなわぬ力では、せいぜい命乞い程度の事しかできないだろう。

 遠坂は、別に良かった。取り返しのつかない時から今まで一体いくつの時を経たのかわからない中で、彼女が手を出す理由なんてない。それに、それを飲み込めるから、未だに目の前に映る少女は間桐桜なのだ。

 

「先輩と、戦いましたか?」

 

 そう、問い詰めるように少女はつぶやく。そんなこと、自分の従者に聞けばいいはずなのに。

 

「ああ。殺されかけたよ。ライダーも傷を負った」

「じゃあその手は」

「違う。これはあいつとは関係ない。ましてやお前にもな」

 

 怪訝な目を向ける視線の照準に手の甲を向ける。もう血の滲んでいない傷は、戦闘によってできたものでないことは明白だった。

 包帯がまかれた手を握る。すでに血は止まっているものの、力を込めるたびに感覚が蘇り脳を刺す。

 痛むだけならいい。だが痛みは記憶を蘇らせる。

 それは熱をもって、逃げられない苦痛になる。

 

「それで、だから、なんだ?」

 

 そう、眼を逸らすように話題をずらした。

 

「衛宮と戦うことが気に入らなかったなら、最初からお前が戦えばよかっただろ。自由意思を持つ他人に権利を譲渡した時点で、お前がどうこういう権利もない」

「違います。そんなことを言いにわざわざ兄さんを呼ぶと思いますか」

「思わないよ。それならライダーを呼んだ方が早い」

 

 大方、ライダーはずっと桜の方を見ているだろうし、そうでなければ困る。

 間桐慎二が言うよりずっと、マスターが言った方がその言葉は効力を持つ。

 であればなおさら、会う理由はないのだ。所詮向こうは本物で、こちらは奇形の仮初にすぎない。

 

「だが、悪いんだけど、それ以外が思い浮かばない」

 

 実際、それが本音だった。てっきり、情けない声と被害者面を携えて懇願という名の脅迫をするのだろうと。

 それ以外、間桐慎二が間桐桜に願われるものはないだろうし、叶えられるものはないはずだ。

 

 そう、思っていた。

 

「私のことを、どこまで言ったんですか」

「.........何?」

 

 呼吸音と共に、伝わってきたのはわずかなズレ。

 理由は定かではない。しかし目の前の女は今明確にこう言ったのだ。

 ”あなたは、間桐桜についてどこまで衛宮士郎に明かしたの?”と。

 そしてそれは。

 不明瞭な、違和感を感じるものだった

 

「お前の、不手際じゃないのか」

「確かに、その可能性も考えました。いや、きっとそれもあると思います。でも、よく考えたらありえないんです」

 

 だってと。少女は強く息を吐いた。

 その後の言葉が紡がれることはない。それを口に出すことは、彼女にとって自らの諦観を犯す行為だと知っているから。しかし、続く言葉を予想することは容易かった。

 

 ”だって、ずっと気づかれなかったのだから”

 

「だから考えました。少なくとも、きっかけがあったのだろうと。導火線に火をつけた存在がいると」

「だからそれが」

「兄さんでは、ありませんか?」

 

 様子に不信感を覚えたのか、彼女は結論を簡潔に求めた。

 

 もしもそうだと答えたなら、彼女はどんな表情を浮かべるだろう。憎悪だろうか。焦燥だろうか。それともそれ以外の何かだろうか。

 もしもその目が変わるなら、それでもいいと思った。その手に刃物でも持ち出して、この首筋に当ててくれるのなら、喜んでそう答えただろう。

 

 演じることには慣れていた。目を逸らし、自分の行いと想いを塗りつぶすことにも。

 

 そうして声をあげようとしたとき、嫌でも気づかされた。

 正面から見据えた目に何が映っているのか。

 恐怖だと思った。それを震えをごまかす怒りだと、始めは感じた。居場所をまた奪われ、住処を追われた迷子の目だと。

 

 違う。これは、全く持って違う。

 彼女は、一切彼女自身のことなど見ていない。ましてや、目の前に映る男のことなど。

 

 そして、声も思いも握りつぶされた。

 

「しらない。僕は、あいつに関して何ら干渉していない」

「それは本当ですか」

「信じるかどうかは好きにすればいい。だけど考えてもみろ。少なくとも敵対する可能性があるマスターに僕がそんなとこを言うと思うか?そうすればあいつがどうするかなんて、お前にでも想像できるだろ」

 

 その言葉に、少しだけ女の顔は歪んだ。

 身近なものを傷つけられていたと知った時の、理想主義者は何をするだろうか。

 諦観か、徹底抗戦。赦すのならばそのすべてを、断じるのなら一切の躊躇なく。迷いなく機械的に正しく或る。あいつは、そういう男だったはずだ。

 自分の知る衛宮士郎は、そういう少年だったはずだ。

 

 その返答に、きっと驚くと思っていた。それか、疑うと。それを信じるということが、どういうことか分からない女ではないから。

 しかし彼女は咀嚼するようにその言葉を浸透させて、それ以上の声をあげなかった。まるで、最初から出ていた結論の答えを合わせているようで。

 

 その様子が妙に重なった。

 

「あれはなんだ」

 

 気づけばそう口に出していた。目の前の女が答えを持ち得ないと知ったうえで、彼女の表情すら見ずに、言葉は勝手に口から紡がれていく。

 それは滑稽で愚かな行為だとわかって。それでも止まらなかった。

 

「あの男は、なんだ」

 

 日が陰る屋上から、光一つない戦場へ視界が移る。数日前の夜、ナイフを差し向けてきた男の顔が、強く映り込む。遠い光。陰る表情からは、何一つ容赦などなく。

 あんな声を出す人間だったか。己の知る限り、男は、あんな顔をするものだったか。

 

「僕は、見たことがない。一度も、いつだって、あいつはそういうやつだったはずだ」

 

 大切にしたものにも執着せず、抱える宝物を他人のために捨て、そうして一人遠いところからこちらを覗いて微笑むような男だったはずだ。

 矢を構える男の姿が視界を埋める。見惚れるほど捨てられた余分と、洗練され研ぎ澄まされた指先。

 届かないと思った光景を、容易く捨てた男の姿。そうして笑った、男の姿を。

 

「あれは本当に」

「やめて、兄さん」

 

 高く傷ついた声は意識を起こす。

 少女の表情を、長い時を挟んでみたようだった。まるで邂逅と思うくらい見覚えがない瞳がそこにはあった。

 

「それ以上は、私が許さない」

 

 これまでにないほど芯の通った声に、本来なら動揺するべきだったのだろう。少し前の自分なら、女の決意に身が震え、己の敗北を予感し、そして逃避のための選択を模索しただろう。

 小さく、しかし強く放つ言葉の、切り取られた語が、琴線を引きちぎる音がした。

 

 許さない。なにをいまさら、この女はそんなことを言い出すのか。

 許すというのは、相手に罪があるから成立するのだ。

 相手から罪を奪ったお前が、どうしてそんな言葉を発する。そうしてできた余白で自分の悲劇に酔った女が、どうして今更そんな風にこちらを見る。

 今まで、一度たりとも見ようとしなかったくせに。今でも、視野にすらいないくせに。

 

「笑わせるなよ」

 

 ああ。吐き出す音を聴いて、少しだけ理解が深まった。こうして、人は声を出すのか。

 深い汚泥からあふれ出した声は、視界を黒く塗りつぶすようだった。場を憎悪と嫌悪で満たす、穢れた嬌声だった。

 

「僕がいつ、お前に罪を犯した」

 

 吐血するように漏れた言葉は、がりがりと脳漿を削っていき、瞼の裏に焼き付いた残骸が、日の元に黒い影として照らされていく。

 

「二度と口にするな。その覚悟もないくせに」

 

 侮蔑の言葉を吐いても、彼女の表情は変わらなかった。

 もう、わからなかった。一度も向けられたことのないそれは、理解するには時間がかかりすぎる。そしてそれ以上に、触れようとするには手遅れだった。

 

「もしも兄さんが先輩を傷つけるなら」

「僕を殺すか?その手で」

 

 手に下げた鞄の中にあるナイフに指先が触れて、意識が鮮明になる。

 靄がかっていた視界を晴らすように、足元にナイフを投げたあの夜の男の意図が、つかめたような気分に襲われた。

 

 もしも少女がナイフを握れるようなら、やってみるがいい。

 表現を恐れた怒りと恐怖を、死という形で体現できるのなら。

 そうしてお前がその髪留めをほどいて罪を負うことを己に課せるなら。

 もしも、この身に刃を向けてくれるなら。

 

 そこまで想って、ナイフから手を離した。

 わかりきった結果を、目の前で晒される趣味はなかった。

 

 返答を待たず背を向けた。妙に重なる姿を、眼に通したくなかった。

 うるさい風の音をこれ以上聞きたくなかった。このままじゃあ、聞きたくもない幻聴で狂ってしまいそうだった。

 

「話はまだ終わっていません。兄さん」

 

 ようやく訪れた返答を、無視しようとして足に指令を出した。しかし体はそれをいともたやすく拒絶して、口は今かと震えだす。

 無風の室内まであと数歩というところで、耳に入る音を、無視することが出来なかった。

 

「もう、やめろ。僕をそう呼ぶのは」

 

 呼吸が止まった。耳障りだった風の音も、今では些かも感じない。

 紡ごうとした声を飲む音だけが鮮明に聞こえた。振り返れば今頃どんな顔をしていることだろうか。

 想像を消して、色を消して。言葉を吐き出した。

 

「桜。僕は、お前が嫌いだ」

「.......知っています」

「気持ちが悪い。穢れている。お前は、感情よりも本能を優先するよう作られた獣だ」

「.......はい」

 

 その声が、否が応にも自覚を促した。

 歪な視界が元に戻るようで、慣れていた神経はかき乱される。

 まるで陸酔いのような感覚に苛まれながら、震える唇は言葉を止めない。

 

「一度聞きたかったんだ。僕にはわからない。何のためだ。何のためにお前は僕をそう呼ぶ。お前にどんな意味がある」

 

 その身に力なく、背負うことを恐れた愚か者。

 すでに手を離し、手を伸ばさなかった悲劇者。

 最初から最後まで歪でしかなかった関係。ただそれだけを、なぜ呼び続けるのか、わからなかった。

 

「繋がりなんて、頭に付いた二文字だけだ。僕は。それに、何の価値も見いだせない」

「.......意味なんて」

「どうしてだ。桜。お前は未だ、どうして間桐の名を受け入れようとする」

「今更」

「今更なんてわかってる。わかってるさ。そんなことは、誰にだって」

 

 そのたった一言の”今更”にどれほどの意味が込められているのか、知ることはできても理解はできなかった。

 もう手遅れなほど絡まってしまった糸は、放置するか失くすしかない。

 それが、蝶を描くことなど永久にないとわかっているのだから。

 

「それでも」

 

 だがそれに気づいたのだから。気づけてしまったのだから。

 この異物を切り取れるのは、ここが最後だった。ここから先に道はないと知っていた。

 

「馴れ馴れしくそう呼ぶ関係も。繋がってすらいない関係も。互いに逸らした目線も。偽りの関係全部、もう、捨てるべきだ」

 

 繋ぎ続けた本物は、その身に未だ付いたままだ。

 きっと無意識の中で、残しているだけの形骸でしかない。

 

「邪魔なんだよ。全部」

 

 手遅れで、もはや取り返しはつかない。それほどの罪を犯した。そして、負わせた。

 だが少なくとも、もう偽物は必要ない。それだけは、今わかった。

 

「だから、もう、やめよう」

 

 結局、奪い続けた日々。最後まで、奪うことしかしない。罪悪感など、微塵もない。

 せいぜい一人彷徨えばいい。そうして、終わりを探して壊れてしまえばいい。

 

 もう、認めよう。

 この手には、とっくに何も残っちゃいなかった。

 

贋作(家族)でいるのは、ここで終わりだ」

 

 軽くなった身で、彼女の方を振り返る。

 何一つ変わらぬ表情に、言われる安堵を覚えた。

 

「もう、家には帰ってくるな」

 

 少しだけ驚く彼女に浴びせるように言葉をつづけた。もしかしたら、そう思いたいだけなのかもしれない。

 

「明日、学校には来るな。これは、警告だ」

 

 繕った資格が、口元を歪ませた。もしかしたら、そう感じたいだけなのかもしれない。

 

「衛宮に伝えるかどうかは、好きにしろ。その時は、どちらかが死ぬだけだ。大方、僕だろうがな」

 

 何も言わぬ。未だ迷う少女を前にして、足は感覚を取り戻した。

 

「せいぜい、安全な場所で今のままを気取るがいい。ライダーのマスター。お前の役は、愚者が奪った」

 

 これまでも散々奪ってきたのだ。今更これだけを返却するのは矜持が許せない。赦すことなどできない。

 

「お前はお前の居場所に帰れ。それでいいだろ」

 

 そうして答えを待たず、その場を後にした。

 風音のならないはずの室内でも、耳障りな音はやまなかった。

 

「ライダー。いるか」

 

 発した声は、コンクリートに呑まれて消える。

 人気のない放課後の一幕ですら、警戒しているのか、蛇は姿を表さなかった。明かりも照り、声も聞こえる校舎。いつも通りの、放課後の一幕。

 それでも、人の気配はしなかった。同じように歩む人は、一人もいなかった。

 

 独りであることを自覚しながら進む歩は、自然と少しずつ大きくなった。ようやく自分は特別に、異端になれたのかと、心は踊るべきだった。

 そうだ。背負った荷物など何もない。軽くなった体で、なんだってできる。

 ただ、歩いた。街中を通り、人混みを躱し、必死に何かを求めて、当てのない歩みを止められなかった。

 

 学校を出ても、ひたすら歩いた。幻聴がいつか鳴りやむと信じて、ひたすら進んだ。

 声すらならず、光すらも遠ざかり、そうして初めて警戒を解くように長い髪を揺らしながら大蛇が姿を表す。相変わらずわからぬ表情と視線に、少しだけ苛立ちを覚えながら、道を歩いた。

 

「すみません。先ほどは」

 

 そんな、微塵も悪びれてない声が、耳元で鳴るモスキート音を打ち消す。

 

「謝らなくていい。それとも、煽ってるのか」

「いいえ。どちらも。あの時あの場に現れるべきでないと思いましたから。それでも一応形式的にそう声をかけただけです」

「それならいい」

 

 わざわざ少ない魔力を消費してまで、姿を表す必要はないというのに、怪物はわかったうえで隣を歩く。

 視界の端に映る、肌色と、深い紫。時折触れる毛先に、消えた神経はいらだった。

 

「何か用かよ。ライダー」

 

 皮切りにしようと発した言葉を、これでもかと女は無視をした。

 思いきり左腕を振り女を殴っても、軸はびくともしなかった。顔に括った鉄仮面が、眩しそうに似合わぬ夕立にさらされている。

 こちらの意図を無視して、ただ黙々と側にいるなど、いったい何と形容すればいい。

 

「消えなくていいのか」

「邪魔ですか?私は」

「言われなくても分かってるだろ」

 

 目障りだと。ぐっと眉間にしわを寄せてにらむと、女はふわりと表情を柔らかく微笑んだ。消える様子は、全くといっていいほどない。

 似合わぬ幼さに吐き気を催しながら、視線を前に戻した。

 

「いうことを聞かない獣だな。お前は」

「であれば持っているそれでも使ったらどうです」

「バカを言え。その瞬間、俺の首は身体と永久のお別れするだろ」

 

 皮肉に笑いかけると、何一つ変わらぬライダーの顔が視界に焼き付く。

 鞄に入った本を掲げて、使ってしまえば資格すら失う。

 そうすれば、怪物の手綱は切れたも同然だった。セーフティーなしで武装できるほど、肝は据わっていない。

 

「私もそこまで落ちぶれたわけではないと思いますが」

「よく言うよ。反英霊の分際で」

 

 軽口をたたくライダーを珍しいと思いながら、鼻につく潮の匂いが聞こえる雑音を色付けた。

 すでに半分以上落ちた日が、僅かな気力を振り絞って視界につなぎ留められている。その光景が、いつもより数段綺麗に見えた。

 段々と沈む太陽が、遂には視覚から手放され。天は既にその軌跡を失っている。

 

「慎二」

「なんだ」

「血が出ています」

 

 目線を下へ下すと、真っ赤に染まった包帯が少しずつほどけ始めていた。痛々しく、細々とほどける布。

 認識したことで、じくじくと痛みが頭に走る。強く抑えたはずの包帯は、いつしか傷つき壊れていた。

 

 滴る血が、今までの軌跡を表している。歩いた道のりが、鮮明に残るようだった。

 灰色の地面に落ちた血を、足でスッと引き延ばした。赤黒く染まった道路は、もう元には戻らないようで。

 

 まるで過去のように、広がる血は背にのしかかる。

 

「手を」

「いや、いい」

「本当にいいのですか?」

「いらない。傷口は、勝手にふさがる」

 

 すでに機能を失った包帯を、力任せに引きちぎるように外した。何度も電流が走り、それでもこもる力は衰えなかった。

 だらりと垂れた赤い糸が、少しずつ切れていく。かろうじてとどめたはずの血液が、少しずつ滲み出ている。

 

 それらを、仕方がないと思った。替えの包帯を持ってくるのは忘れたし、傷は少なくとも命の危険があるほどじゃない。

 すでに一度止まった血だ。しばらくすれば、傷は癒えよう。少なくとも、痛みが消える程度には。

 傷跡がいくら残ろうと、痛みは勝手に引く。

 

「お前、血は出るのか」

「出ますよ。それが致命傷でないのなら」

「そうか」

 

 英霊は、その核が破壊された時点で、自身の身体の崩壊が始まる。

 壊れてしまうほど傷つけば、傷を作り出す前に、消滅が決まるのだ。それが、少しだけ羨ましくなった。

 

「嗤ってくれ。ライダー」

 

 思いのほか大きく出た声に、一番驚いたのは自分自身だった。

 もっと、震えると思っていた。こんなにもはっきりと発することが出来るとは思っていなかった。

 きっと、握りしめた手のおかげだと、そう納得した。

 

 何も言わず、ライダーは堤防に背を預ける。すでに黒くなった影が、大きな体を覆っていた。

 

「何を、嗤えばいいのですか?」

「全部だよ。さっき起こったことも。今まで起こしたことも」

 

 きっと、ライダーは見ていたはずだ。聞いていたはずだ。

 なぜ、何を、桜に伝えたのかを。その時の自分の姿も。目を逸らした、少女の表情も。

 

 目の前の景色は、息を飲むほどに美しかった。薄暗くわずかに光る星々と、暁色に染まる視界。手を伸ばさなくても距離がわかるほど、遠く儚いこの時だけの世界。

 

「こうしてみると、僕はどれだけこの町を知らなかったのかって思い知らされる」

 

 何も知らなかった。何も知ろうと思わなかった。身近な世界を恐れて、井の中すら臨むことを拒絶して。

 抑え続けた視野が広がって、初めて見た世界は、途方もなく美しかった。例えようがないほど、もう見れなくなるのが惜しいほど。

 

 初めて、腰を据えて海を見た。隣に立つのが化け物でさえなければ、どれだけ映えて、どれだけ誇らしい経験だろうか。

 こんな、毎日訪れるひと時に。どうしてここまで心奪われてしまうのか。

 

「なあ」

 

 声を返さずに、同じ景色を見る女に、少し安堵した。

 

「これは、綺麗なんだよな」

「.......そうですね。私は、そう思います」

「そうか、お前も、そう思うんだな」

 

 化け物と謗らないのですかとつぶやく怪物の声を右から左へ流して、今までの記憶を反芻する。見たことがないわけではなかった。今までだって何度も、視界には映っていた。

 

「気づかなかったよ。今まで、一度も」

 

 ただ、それだけのことだった。

 

 そう、日が落ちるまで前を向き続けた。止まったようなときは、過ぎ去るときにはあっという間だった。

 また、夜が来る。寒さと暗さの中を彷徨う時間が、訪れる。

 

「一人で、立てますか。慎二。あなたは」

 

 闇に溶け込む女は、手を伸ばすことなくそういった。明るさに慣れた目は、黒く彼女の表情を隠す。

 その紫の髪が。風に揺れる色が。不思議なほど綺麗に見えた。

 

「今更だ。今更、誰かに手を取ってもらおうなどとは思わない」

 

 傷ついた手を地面に強く押し付けて、反動で状態をあげる。

 どろりと、血は噴き出すようにして赤を地に描く。

 

「それに」

 

 痛むとわかっていて、そうした。それが無意味と知っておきながら、意図的に傷をつけた。

 まるでそれを、赦しと思いたいが如く。

 

「僕はきっと、望んでたんだ。ずっと。こうなることを」

 

 そういえばもう冬だったと、身体にまとわりつく寒気に触れて理解した。

 独りで歩く暗い空は、わが身を取り込む怪物のように広大で。何より冷たく芯に侵食する。

 

「嗤えば、あなたは楽になるのですか」

「さあ。やってみないとわからない。少なくとも僕には」

「ではどうしてそんなことを私に求めるのです」

 

 その感情の無い瞳は、今の自分にとって心地の良いものだった。

 血まみれの手を通して、己の犯した罪を見た。誰に糾弾されることもない。ただ、十字架として刺さり続ける傷を。

 責められない代わりに、誰が許すこともない。永久に続く地獄の道を。

 

 まるで、終わりの見えない迷い道。

 それでも、もう踏み越えてしまった。

 

「だって。そうでなきゃ」

 

 ずっと、望んでいたことだから。

 

「ここまで来た意味が、わからなくなるじゃないか」

 

 軽くなった歩と共に、身体から湧き出す汚泥と、生まれていく空洞。

 

 受け止めた喪失感で、すべてを理解した。

 かき集めて作り上げた砂の城は、波に消されて溶けていく。

 

 プライドをかなぐり捨てて。散々麻酔を打ち続けて持ち続けた屑はもうない。

 欲しかったもの。愛したもの。愛そうとしたもの。

 

 それらすべての残骸を、この手から手放した。この手にないと、認めた。

 

 押さえつけていた瘡蓋がはがれ、感覚は痛みを取り戻していく。

 消えていく感覚と反するように、鼻につく香が脳裏をくすぐった。

 

 髪の甘いにおいも。

 あふれる喘ぎ声も。

 透き通る肌も。

 柔らかな四肢も。

 何も映さぬ瞳も。

 悦楽に歪むその顔も。

 

 脳裏に刻まれるたび、これが一生消えないことを知った。消せないと知った。想い出すたび、侵食されることを自覚した。

 罪の証。永久に許されない、眼を逸らし続けた痛みの記憶。

 

 手を伸ばすことのできなかった。無力な誰か。

 望まぬことと知りながら、穢し続けた光景。

 

 涙は出なかった。

 嗤いは漏れなかった。

 

 ただ歩いた。夜が更けるのを待ちながら、ただ止まった歩を進め続けた。

 

 どこへ行くとも知れず。ただ一人、最後を探して歩む道。

 

 二度と呼ぶことの許されない名を。

 二度と握ることの許されない手を。

 

 懐かしむことは許されないと理解した。

 

 ただ、もう。色濃く映る目の前の光景から目を逸らすことはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「キャスター。どうだ」

 

 少女がいなくなった居間で、少年は一人虚空に問う。張り詰める空気は以前の形相とは全くといっていいほど異なっていた。

 冷たく乾き、痛みを伴う寒気が、居間を覆う。先ほどまで動いていたはずの空調は一切の機能を失っていた。

 

「可能よ。あとは、時間さえあれば」

 

 女は、無感情にそう伝えた。男は決意をその瞳に映して、再度女に問いかける。

 

「了解だ。どのくらい必要になる」

「せいぜい数秒程度ね。何なら先ほどやってしまってもよかったのだけど」

「それは」

「嫌だったんでしょう。わかってる。だから、この件は考えなくていいわ。別にそれは、あなたの弱さじゃない」

 

 力ない声色と共に、見えない女は、しかしその目線を男から避けた。それ以上何かを発することもなく、けれどその身は少しずつ形を表していく。風に揺れるローブが、時折女の表情をのぞかせた。

 男は庭の方向に視線を向ける。

 虚空が揺れる。蠢く大気が少しずつ色めいて、現れたのは紫の影。

 その大きな肢体と、長い髪が、月の光によってより蠱惑的に際立つ。手に一切の武器を持たず、女は男の方へと歩いた。

 

 言葉を交わすことはなく。しかし一言のみを告げて影は消えた。その守護すべき少女を一目見ることもなく、幽霊は霊体へと戻っていった。

 たった一言。言葉を残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 慎二も、桜も。変わることが出来なくて、罪は二人の関係を縛り付けていました。
 そんな二人の運命が変わる話が、ずっと書きたかったのです。
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