闇堕ち士郎のリスタート   作:流れ星0111

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第11話

 電話の鳴る甲高い音が、居間に響く。耳慣れない音は痛む頭を揺らして、遠く沈んでいた意識を呼び覚ました。

 眺める時計の針を見て、用件は察せられた。グッと手に力を込めて、少しだけ揺れる視界を支えながら立ち上がる。

 襖をあけて廊下へ出ると、肌寒い寒気がふと頬に当たる。明かりのついていない、僅かに刺さる日光の光を頼りに、音の鳴る先へと歩を進めた。

 

 電子音を立てる存在を目の前にして、何をすればいいのか、わかってはいたが手は動かなかった。今まで一度も取ったことがない受話器。誰かからの便りなどなかった人生。だから、それはとても遠い行為で。目の前に現れた怪物に、足がすくむようだった。

 ふと、頭に浮かぶ情景。遠い昔、何度かしたことがあったシュミレーションの中で、私は最初何と言っていただろう。遠く感じなかった、待ち望んでいたころの。待ち望むことが出来た私なら、どうしただろう。きっと今それを繰り返すのは、きっと間違いで。

 震える手を抑えながら、受話器に触れる。妙に冷たく感じる塊を持ち上げて、温かい耳元にそれを当てた。

 

 ”はい。衛宮です”

 

 そう告げる声は思った以上に淡々と流れ出た。いともたやすく、私はその名前を名乗りに使っていた。

 それは、いったい何を意味しているのか。ただ、ここの家主の代理として出した声に、そんなことを思っていた。

 

 相手は予想していた通りの人で、耳元でなるその声に、私は動揺しないよう必死に震える手で受話器を握り締めた。

 衛宮を名乗った私に、少しだけ戸惑い、少しだけ笑った彼女は、嬉しそうに言葉を続けた。

 その声は、聞きなれないもので。違和感となって直接体に入ってくる。

 本題はわかりきっていた。彼女がいるその場で何が起き、その結果彼女は私がいないことを願って、電話をかけてきたのだ。

 それが表すことは、少なくとも悪いことではなくて。少なくとも彼女の勘定の中に私がまだいる余地があって。

 それでも、こみ上げる感情は喜びとは言えなかった。

 

 そんなことは露ほどにも思わず、彼女はこの特別許された状況を楽しんでいた。きっとその場にはそぐわない声色で、彼女はこの行為においてはもうとっくに目的半ば、ほとんどをすでに果たした後だったけれど。その数十秒間の時の価値は、きっと私たち以外誰にも推し量ることは出来ないもので。

 

 でも、私の時は止まったままだった。むしろ、体の中からこみあげてくるのは吐き気に近いもので。今すぐに繋がりを切ることを許されるのなら、私はすぐにでもこの手を降ろしてしまいそうだった。

 

 何も知らない彼女は、どんな気持ちで私に声をかけているのだろう。今、彼女にとって私は、どんな彩色で描かれているのだろう。どうして、今更、電話をかける必要があったのだろう。

 いったいどうして、今更私はこんなことを考えなければいけないのだろう。

 そんな疑問が、私の脳裏を満たしていく。ジワリと蝕んでいく泥が、私の意思を少しずつ塗り替えていく。

 耐え切れなくなって、彼女を少しだけ急かした。意図を察したかはわからない。それは期待できなかった。

 彼女はすぐに二度目を示唆する一言を残して、残ったものは僅かな空気だけ。そこにはもう電子音だけが過ぎていった。

 

 ガチャリと大きな音を立てて、受話器は元の場所へと据えられた。与えられた情報が、無機質な叫びとなって頭に甲高く響く。

 襲い掛かる重さは、何と形容すればいいのだろう。

 伸ばさなかった手が。傍観者でしかない傷痕が。加害者であることが。償いを知らない咎が。

 

 いつまでも、受話器を置いたまま。進まない時の中で顔のあげ方を知らずにいる。

 

 とっくにそこに立つ資格を失っていた。何も足掻かず、何も伝えず、ただ流れた時をそのまま受け入れた。

 その結果、何人が死ぬのか、私にはわからない。その結果、いくつの苦しみが生まれるのか、私には知ることが出来ない。

 

 それが望んだことだったのか。こんなことが、私の望んでいたことなのか。そう、自答すればするだけ、答えは当たり前のように突きつけられる。

 

 いつまでも止まらない震えを抑えて、必死に態勢を戻した。

 すっと口から息を吸った。籠もる熱を逃がすように体内に浸透する寒気に、少しだけ安心を取り戻した。

 そうして、深く深く息を吐きだした。描かれた白い煙が目の前を紛らわしていく。

 

 それでも、どれだけ吐き出そうとしても、鼻につく鉄臭さは、いつまでたっても消えなかった。どれだけ消そうと思っても、消えてはくれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて。それじゃあ行きましょうか」

 

 校門の前に立つ少女は、そうつぶやいて先ほどまで耳に当てていた携帯をポケットにしまう。期待を込めて。あるいは確認として鳴らしたベルに価値があったことを確認した彼女は、強くにらむように待つであろう存在をにらみつけた。

 

「もういいのか」

「いいわよ。相手が誰かは察しがついてるから。目的は済んだし。今じゃなきゃできないわけじゃないもの」

「それならいい」

 

 いつも通り赤いコートに身を包む彼女の目は、声色とは大きく違って冷ややかで。すでに身体はエンジンのかかったものに作り替えられていた。

 その隣にはすでに赤い外装を帯びた男が立っている。その手にはまだ武器は握られていないものの、彼にとってはそれが一番の警戒体制であるかのように、その姿は泰然と当たり前のように存在していた。

 

「行くぞ。マスター。此処からは、ただの殺し合いだ」

 

 その声と共に、紅い二人の男女は校門をくぐる。

 応えるように、待ち構えたかのようにすぐさま視界は朱く染まっていく。

 

 重くかかる重圧と、穢れた空気。三半規管を揺らすように歪む感覚と、わずかに体内を蝕む空間を感じながら、少女は急ぎ歩を進める。

 わかっていた光景ではあるものの、一手遅れたことを認識する。

 

 敵は待っていた。他ならぬ少女たちが訪れることを。サーヴァントにはすぐにでもわかるように反応を残し、結界に動力を流すそぶりを見せ、わざわざ奇襲の手を捨てる選択を選び。

 それはまるで正面からの戦闘を望んでいるかのようだった。

 しかも、起動は少女が入ってからで。それが、何のために行われているのかなんて、明確だった。

 

 意味をまだ持ち得ないと思っていた、形だけの結界。本領を発揮するのにはまだ時間が必要だったはずのものを、なぜ敵は動かしたのか。魔術において半ば潔癖である少女には、当初はそれを理解することは出来なかった。

 

 そこはまるで怪物の胎の中だった。飲み込まれたのは学び舎に募る多くの若者。深紅の祭壇の中に放り込まれたのは自分たちの方だと、強い敵対行動に握る手は強くなっていった。

 

「アーチャー。敵の居場所は」

 

 少女は斜め上を見上げ、目を細めると、そう声を漏らした。隣の弓兵は上方を一瞥し、それに応える。

 

「4階、教室内だ」

「外から狙撃できる?」

「可能だが他にも生徒がいる。もちろん当てないようにはできるが」

「なしね。私を狙っていることは明白だもの。クラスがわかっている以上対策していないわけがないわ」

 

 少女の検討は的を射ていた。その実、窓に近い場所には当然のように生徒が並ぶ配置がされていて、余波を考えればそれらを傷つけずに攻撃を加えることはできないことは明白だった。

 相手の行動は、間違いなく少女を害するための、悪意のある行動だった。そして、事も有ろうにそれを彼女の学び舎で。日常の象徴で起こそうとしている。

 

 正門から廊下へと歩を進める。そこには衰弱したというよりは糸の切れた人形のような人影が多く見えた。だらんと力の抜けた四肢と開いているにもかかわらず何も映していない瞳が、それらの形相を痛々しく、生々しく伝えてくる。このままで放置してしまえば、人の形を保てず、ものの数分でその姿は見るも無残な遺体へと変わっていくはずだ。

 

 少女はグッと、強く歯を噛んだ。

 

 悔しさと怒り。タブー視していた、一般人をここまで直接巻き込む行為。そしてそれが自分に有効であることが、強く彼女自身の気を逆なでしていた。

 

 見慣れた姿が倒れている異界を流し見て、揺れそうになる感情を制御して、少女は階段を急ぎ走る。

 駆け寄ったところで意味はなく、できることなどないことがわかっていて、それを見過ごすように走り去っていくことに少しの罪悪感を抱えながら、少女は敵の待つ教室の扉に手をかけた。

 

 

 その姿は予想していたものではあったけれど。その形相は予想を大きく裏切るものだった。

 机や椅子は綺麗に前後に寄せられ、窓の方には壁を背に十数人の顔見知りの姿があった。意識の無いことは明らかで、既に僅かに肌の溶けている重傷者もいた。

 中心に待ち構えるように立つ少年は、表情を変えず少女の方へと振り返った。その後ろには紫の髪をした女性が、手に見覚えのある顔をした人形の首をつかんでいる。

 

 その首筋から伸びる吸血痕は、普段の彼女とはかけ離れた痛々しさと妖艶さを演出していた。

 

 やはりと思う反面。脳裏には疑念が走った。

 しかし見えない理由に困惑する前に身体は反応を起こし、ポケットに手が伸びる。それに応えるようにアーチャーは手元に武器を持とうとした。

 しかし、それは叶わなかった。首筋に当たる指先がその体にめり込んでいく姿が、本能よりも先に理性を働かせたからだ。

 

 少年はその様子を見て少し嗤った後、少しばかり合図を出す。するとすぐに後ろの女は指先を元の位置へと戻した。

 

「......随分な様子じゃない。慎二。あんたにこんな度胸があったなんて」

 

 ポケットからは手を出さず、息を吐き出すように、声を出した。漏れそうになる怒りと焦燥感を抑えて、歯を噛みちぎってしまわないように強く言葉を吐き出す。

 

 目の前の少年は、その返答に驚くように目を見開くとともに、自嘲的に笑いながら口を開く。

 

「それこそ遠坂らしくない発言だ。それとも、僕に対する評価は変わりそうかい?」

「ええそうね。これ以上落ちぶれない程度には、あんたのそのまともじゃない思考に対して失望できそうよ」

「そいつは意外だよ。遠坂が僕に失望できるほど期待していたなんて」

「無関心から軽蔑になっただけよ。それとも振り向いてもらえて満足かしら」

 

 少年の軽口に乗りながら、平静を保ち現状を観察する。

 赤い空は依然として変わる様子はなく、その主は目の前にいる女とみてとれる。クラスはライダーで間違いない。

 そこまで優秀なステータスを保有してはいなかった。アーチャーとの直接対決なら、万に一つも負け筋はないだろう。どれほど宝具に自信のあるサーヴァントかは不明ではあるが、自負と自信故にも、魔術師としても負けることはありえないと断言できた。

 

 それ故に問題は、そこではなかった。

 

「綾子を、離しなさい」

 

 ライダーに掴まれた少女は、ある一人を除き尤も目的に沿った人質だった。

 ハリのある活気を持った表情はそこになく、息をしているかどうかも怪しいほど死に体なそれは、自身と敵の間で大きな役目を負えてしまっていた。

 

 歯がゆさと同時に、籠る怒り。想像していた何十倍も、その感情を制御することは難しかった。

 だが、それを表面に出してしまえば、効果的であると晒すとことと同義で。そしてそれは、何を意味するかは明確だった。

 だからこそ、歯がゆさは増すばかりだった。

 

 それを抑え、少女は口を開く。

 

「人質として使いたいのは目に見えてわかるけど、お生憎様。意味ないわ」

 

 震える声を抑えて突き放した声が、睨み合い静寂に包まれた部屋を満たした。

 

 少年は数秒沈黙を続けたのち、抑えきれない笑いを零した。歪む口元と同期したように身体がくの字に曲がり、抑えるように腹を抑えたのち、両手を開くようにして少女に向き直る。

 

「じゃあ撃てばいいじゃないか。その懐に入れたものを。もしくはお前の隣にいる今にも動きたそうな木偶の坊に命令でもすればいい」

「無駄死にだって言ってんのよ。わかってんでしょ。あんた、そんなもの使おうと使うまいと、勝ち目なんてないって」

「そうは思わないから、ここに立ってる。それぐらい、優秀な遠坂ならわかるだろ?」

 

 一瞬だけアーチャーに目線を向ける。いつもなら余計な一言を挟みたがる隣の男は先ほどから黙ったままだ。

 しかし、何が言いたいのかはすぐにわかった。それは、彼が手にすでにもった武装がすべてを象徴していた。

 

 撃つべきだ。今すぐ。時間は、過ぎるだけ不利になる。それは、わかっていることだ。例え、その結果で親友が死ぬとしても。

 

 その思考のノイズを、目の前の少年は見逃さなかった。

 

「撃てないよな。遠坂には」

 

 見透かしたように少年は迷わず言い切った。それも僅かに軽蔑の混ざる声で。先ほどの笑みはそこにはなく、言い放つ声は冷たく、答えを知っているかのように断定する個々の言葉は、それぞれが凶器だった。

 

「撃つべきだった。お前はこの部屋に入る前に。いやむしろ、結界が展開されてすぐに、窓から遠距離で回避不能な物量をぶつけるべきだった。そうすれば、死傷者は数人。被害も最小限で済む。それが、遠坂に課せられた義務で、そして今回、お前が許容できる罪だった」

 

 何を言っているのか、意味を理解するのに時間がかかった。その正論を、目の前にいる男が言っている事実自体。信じることが出来なかった。

 だけど、今そこに思考を割くわけにはいかなかった。

 

「何を」

「だがお前は、こいつを離せといった。本当なら”結界を止めろ”というべきなのに」

 

 ぐにゃりと少年の表情が歪む。張り付けられた笑みは、普段通りの意図とするなら、優越感と名付けるのがきっとふさわしいだろう。だが違う。それは、よく似ていて非なる感情だ。

 

 それは、強い侮蔑だった。

 

「甘いな遠坂。お前がそんなだから、僕はこいつを起動した」

 

 その言葉に込められた意味は、たった一つだけ。

 

 ”お前の欠点が、これだけの人を殺す”

 

 事実だと、思考は冷静にそれが正しいことであると認識する。それは紛れもなく、言い訳のしようもないことで。

 だけど、今そんなことに頭を割いている場合ではなかった。

 現状を打破するために必要なのは何か。人質を無傷で奪還し、手遅れになる前に結界を止めさせる。

 そのために、最も効率的で、確実な手は。

 

 そう数コンマの内に考え抜いて、そして、口を開いた。

 

「それで。あんたはマスターにでもなれた気かしら」

 

 自分自身で驚くほど、その声は狙い道理の声色だった。

 

「.......何が言いたいんだ?」

「確かに有効でしょう。効率的だし、あんたの考える状況にするにはぴったりね。まるで、玩具の使い方を知った子供みたい」

 

 まず、前提として目の前の少年は私たちが動くことで人質を殺せるだろうか。

 おそらくは否。本当に人質の価値を吊り上げたいのなら、すでに数人は殺しておいた方がリアリティがあった。本気で運用をするなら、先にいくつか餌を喰らっていたほうが効率がいい。だが、そうしてはいない。まだ、その一線は越えていない。

 

「中途半端なのよ。これだけ大々的に巻き込んでおいて、やってることはてんで甘い。実際、結界なんてカードを切らなくても、人質ならすぐにでも用意できたでしょう」

 

 本気で行動を止めたいのなら、もっと適した人がいた。少なくとも、現状絶対に選択肢が出ないような。

 その一線を超えれば、あとは命の奪い合いしか残らないような選択肢もあったはずだった。

 それに、結界である必要もなかった。ただ誘拐でもしてくるか、数日待って完成間近で脅しに使うべきだ。効率だけを考えるのなら。

 

「まるで、この宝具を使うことが目的みたいね。そんなに、そのおもちゃがお気に入りかしら」

 

 覚悟がないのはどちらだと。カードの強さを誇示しようとしていることが目に見えてわかる。

 

 そう考えているように見せることが、この場における最善だった。

 

 実際は違う。現実はそうではない。現状は極めて有効的で、考えられた絶妙な配置であることは間違いない。

 

 だがまずはその認識から崩さなければ、手綱を握られた状況を変えられないと、少女は確信していた。

 

「そんなことでマスターに。魔術師に成れたと思っているなら、勘違いもいいところだわ。あんたがやってることは、責任感の無い子供の癇癪と変わらない」

 

 まずは、彼の受動的な姿勢を崩させる。謝罪を求めるならそれも良し。力を誇示しようとすれば隙が生まれる。

 だから、理由を与えてあげなければいけない。彼が、能動的に、殺意を向けてくるように。

 そのためなら、彼の琴線を引きちぎってでも。

 

「衛宮君はいないようね」

 

 顔色が変わる。それは、目に見えた変化だった。

 

「よかったじゃない。あんたが目の敵にしてる彼がいなくて。怖いでしょう。あんたにないものを持っている彼が」

「........」

「少なくとも彼はわかってるわよ。引き金を引くという行為が、どれほど重いものなのか。マスターという地位が、どれだけ重いものなのか」

 

 選択しなければいけない。何が、敵を一番傷つけるかを。どの言葉の刃が、一番彼を蝕むかを。

 耐えられない傷はなんだ。目の前の少年が、絶対に耐えることのできない痛みとは何であるかを。

 

「あんたは、衛宮君のようには成れないわ」

 

 一瞬の空白の中で出た結論は、あまりに陳腐なもので。しかしそれ故に、少女の中には確信があった。

 

 だけど、その反応は予想していたものとはかけ離れていた。

 

「ああ。そうだよ。僕は、あいつのようにはなれない」

 

 その言葉を聞いて、外したと思う前に、訳のわからない正体不明の悪寒を感じた。目の前にいる存在を、何か取り間違えている。

 最初から、見逃していた大きなずれと、間違い。決定的に前提が間違っていたことを。この数回のやり取りですら、何の意味すら持たなかったことを。

 

「そんなに困惑することか?お前があいつの名前を出して、僕が憤らないことが」

 

 少女の心境なんて微塵も気にしないように、少年は話を続ける。その顔に怒りは一切なく、むしろ清々しささえ感じ得る。

 

「正解だ。遠坂。僕は衛宮のようには成れないし、成る気もない。マスターであることが疑わしいのは、僕が無力であるが故だ。そんなことは言われなくても分かってる」

「.......じゃああんた、自分が何してるかわかってんの?」

「わかっていないのは遠坂だ。僕たちがしてるのは、決闘でもなければ殺し合いでもない」

 

 少年は近くに寝る同級生の腹部を強く蹴りつけた。本来であれば嗚咽くらいは漏れるであろう威力であったのにもかかわらず、人形はばたりとその体重ゆえに床に寝転がった。

 

 その様子を冷ややかに眺め、そして少年は明確に吐き捨てた。

 

「これは、戦争なんだろ」

 

 少年は懐からナイフを取り出す。刃渡りはそこまで長くないにしろ、人を殺すのには十分なものだろう。

 それを鏡のように自らの顔を映して、少年は再び嗤う。

 

「お前も、まだ何もわかっちゃいない。僕たちがどんな舞台に立っているのか」

「さっきから何を」

「お前はさっき言ったな。魔術師に成れたと思っているならって。悪いけど、そんなことはこれまでも、そしてこの先も決してない」

 

 先ほどから変わらず少年を後ろにいた女は、まるで場所を調整するように少しだけ動き出す。

 悪寒がする。よく見ると、その後ろの窓だけが、全開になっていた。

 

「さて、長話もいいが、時間がたてばたつほど有利になるのは僕たちだ。このまま話して有象無象の生徒たちを見捨てるってのがお前の矜持なら、止めないけどさ」

 

 女は肩の高さまで持った首をあげる。

 そこには意識の無い開いた眼と目線があった。しかし未だ生きている。人形なんかじゃない、苦しそうに呼吸をする親友が、そこにはいた。

 

「何を、する気」

 

 問わずともわかった。配置を見れば、意図を読めば結論なんてすぐに出る。でも、そういわざるを得なかった。体を走る慣れない悪寒が止まらなかった。

 

「簡単だよ。僕は今からこいつに美綴を外に向かって投げさせる。人質を解放してやるんだ」

「そんなことをして何の意味があるっていうの」

「別に。僕は人質がいなくなって無防備になる。サーヴァントは僕の方が劣っているから殺すのも簡単だろ。そうすれば、結界は止められる」

 

 確かに、数十秒あれば、敵対する二人を殺すことは出来るだろう。

 すでにずれ始めた肌を見る限り、残されたときはそう多くはない。精々が数分。それを超えれば、もう取返しはつかない。

 でもそれは。

 

「だが、そうすれば美綴は死ぬだろうな。あいつも普通の人間だ。4階から受け身も取れずに落ちればあっさり死ぬだろ」

 

 想像は容易かった。地上に拉げて真っ赤な花を咲かせる親友の姿が、ありありと目に浮かんだ。

 

「嫌ならそこの隣にいる男でも差し向けてやればいい。英霊様だ。落下速度より早く拾うことくらいできるだろ」

「やめなさい。慎二。あんたがしようとしてることは」

「決めようじゃないか。命の値段ってやつを。条件は同じだ。どちらも無実のただ巻き込まれた一般人。違うのは、お前との関係性くらいだ」

 

 美綴を救うようアーチャーに命じれば、この室内にライダーに対抗できるものはいなくなる。一人では防戦一方だ。少なくとも、数手以上不利になることは明白で。それじゃあ結界を止めるのが遅くなる。最悪、死者が出るかもしれない。

 

 逆に、見捨ててしまえば容易い。直接戦闘を仕掛けさえすれば、数回の打ち合いで決着はつくだろう。

 

 ナイフを構えた少年の瞳には交渉の文字はなく、それが数秒後に起こる結末だということを明確に伝えてくる。

 吐き気がした。選択肢を出した自分自身に、途方もない拒絶感を得た。

 だってそれは。

 

「選択だ。たった一人の親友と、有象無象の他者。御大層なこと宣う魔術師様ってやつなら、容易い問答だろ」

 

 この少年は、決めろといっているのだ。命の値段を。何を価値とするかを。

 優先順位を、定義しろと。そんなことのために、男は美綴の命を、生徒たちの命をまるでボロ雑巾のように使っている。

 一度でもそんなことをしてしまえば。

 

「........あんた。それは、越えちゃいけない一線よ」

「それがどうかしたか?」

「戻れなくなるわ。もう」

「その問いは些か遅すぎるんだ。むしろ、僕がお前に言うよ。もう戻る道なんてない。僕も、お前も」

 

 手元に宝石を握る。頭に走る迷いを消して、今やらなければいけないことのみに注視する。隣に佇む男は、意図を読んだかのように手元の剣を遊び始めた。

 少年は続ける。それが、当たり前であるかのように。女は、その腕に力を込めた。

 

「覚悟がない。それはいったいどっちの事だろう。遠坂。お前の魔術師としての誇りってやつは、いったいどれほどの強さを持ってるのか、少し興味があるよ」

 

 軽々と投げられた人形の身体は、窓から綺麗に宙へと投げ出されていく。外へ吸い込まれていくその姿と視線が交わった。

 感覚が研ぎ澄まされて、一瞬がとてつもなく長いものに思えた。コンマ送りにされる視界に、自分の身体が付いてこないことを歯がゆく思う。

 洗練された動きで手に握りしめた宝石に魔力を流し、脳裏に強く刻まれた呪文が口からもれ出ていく。

 すでに隣に男の姿はない。何を求められているのか、瞬時に判断しているはずだ。そう信用しているからこそ、できる限りの込めた魔力で渾身の一撃を放つ。

 

 そう、腕を振るう前に。その先の何かと、目線を交わした。

 色素の抜けた、彩の無い瞳を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 樹木の匂いが満ちる懐かしい山道を登りながら、死臭のする森を歩いていく。

 さらりと乾いた香が鼻を通る。季節柄落ち枯れ果てた葉が音を立てていて、少しだけ足を取るように絡まってくる。

 

 しかし、体力的な疲れはなかった。すでに見慣れた道だ。目をつぶっていたって、進むべき道行きは手に取るように分かる。

 呆れるような顔で先ほどからキャスターは後ろについている。未だ止まらない足と、文句も言わず進んでいく姿は、彼女にとっては少し疲れるのだろう。故に、呆れるような声が後ろから響いてくるまでに、そう時間はかからなかった。

 

「大変ね。人間って」

「唐突にどうした」

「そんな馬鹿正直に山中を歩いている姿見てると、一言くらい挟みたくなるわよ」

「若いし鍛えてるからな。これくらいならなんとも」

「........口の利き方には気をつけたほうがいいわよ。坊や」

 

 強い舌打ちと共に、キャスターの冷たい声が響く。いや別に年寄り扱いしたわけではなく、単に自分はまだこういうとこは得意だということを示したかっただけなのだけど、琴線にぶっ刺さったようだ。最初とは、大きく口調が変わってしまった。

 

「はあ。後ろからついていってるのも退屈ね。ずっと興味もない男の背中眺めてるのって結構しんどいのよ」

「しょうがないだろ。それが一番消費が少ないんだから」

 

 残念なことに、魔力は遠坂とは比べ物にはならないほど多くないのにもかかわらず、現在二体のサーヴァントの飯を食わせている状況で。実際、正面から大規模な戦闘をしたり、長距離の転移なんて使ったら普通に許容範囲を超えてしまうのが現状である。

 そのため、どれだけ文句を言われようとも、あまりむやみやたらに燃料を割いてはやれないのである。

 

「さっさと魂食いを始めてしまえばいいのに」

「もう少し経ったらな。今だと、めんどくさいことになる」

 

 キャスターは呆れたようにそうつぶやいた。

 現状キャスターは半ば脱落したという認識が強い。すでに始まっていた魂食いが止まり、そのタイミングで柳道寺の意識不明事件が起これば、大抵の魔術師なら何が起きたかは予想できる。

 だが逆に確信もない。再開されればまた彼女の関心はキャスターに戻るだろう。それは多少仕方がないにせよ。タイミングとしてはまだ早かった。

 どうせ、キャスターの魂食いとは比べ物にならないことが、冬木の町で起こるのだ。であれば、それまで待ったとしても支障はない。

 

「今だけはサーヴァントであることを喜ばしいと思うわ。霊体化って楽だもの」

「お前、受肉したとして、どうせ自力で魔力生成できるようになったら道なんて歩かないだろ」

「現代に生きていくのにわざわざスーパーまで転移使うような主婦がいるならそれもそうね。受肉するの、やめようかしら」

「......まあ。その辺はお任せしますよ」

 

 先の未来に不平を漏らす自称主婦はさておいて、そろそろ2時間が経つ頃だ。

 本来であればもう少しかかるだろうが、こちとらすでに慣れ親しんだ道である。もうすぐ到着するだろう。

 

「最後に確認するけど、本当にこの方法じゃなきゃいけないの?」

 

 そう、姿の見えない背後霊は先ほどとはいくらかシリアスな声色で問う。

 

「散々昨日話したろ。納得してたじゃないか」

「納得はしたわ。でも理解はしてない。賛同もしてない。他の手があるなら、これまでの無駄な時間を返上してでも引き返したいところよ」

「無い。どっちにしろ、いつかはやらなきゃいけないことだ。それなら、他の手が干渉しない今が最善だよ」

 

 今なら、一番見られたくない存在は手一杯だろう。少なくとも干渉することは出来ないはずだ。

 自宅にいるセイバーには合図をお願いした。そのタイミングに合わせて突入が出来るよう時間も調整済み。あとは、返事を待つのみである。

 

「大体、やっぱりセイバーを置いてきたのは賛成できないわ。理由はわかるけれど」

「仕方ないだろ。現状、桜の近くにサーヴァントはいなきゃいけないんだから」

「もしそれを仕方ないと断じれるなら、私はとっくに坊やに賛同してるわよ」

 

 怒りのにじむ声で刺してくるキャスターを苦笑いでごまかしながら、再び歩を進める。

 セイバーの合図が来た。予想通り、決行にも問題はない。

 

「皮肉なものね。加護下にあるはずなのに、その近くに凶器がなければ成り立たないなんて」

 

 珍しいなと、正直驚いた。今の発言は、桜を慮っての物だった。

 桜は今、半ば人質の立場をとっている。もちろんそれを彼女を狙う刺客、特にアサシンから守らなければいけないということは変わらない。

 だが、それはセイバーを置いてくるリスクとは比べ物にならない。そもそも、臓硯が桜を害したいなら、すぐにでもそれは可能だろう。

 

 重要なのはむしろ、衛宮士郎という人物が、桜の肉体にいつでも干渉できる状態を保っていることである。

 現状あり得るのは乗っ取りか殺害。そのどちらもが、奴との仮の契約によって止められている。それが成り立つ条件が、そもそも彼自身を殺すことなのだ。彼は命の脅かされている状況だからこそ、その最後の一手に踏み入ることが出来なくなっている。

 だからこそ、桜を加護下に置くには、彼女をいつでも殺せる立場になければいけない。

 

「やることは最初から何も変わっちゃいないさ。桜を生かしたいなら、死なない以外のことはすべて選択肢に入る」

「そんなことはわかってるわ。そのために私がいるんだもの。もし感覚を共有するまで乗っ取りなんてしたら、むしろこっちが優勢になる。だからやらないのよ、あの蟲は」

 

 いくら狂人とはいえ、所詮枠を外れた程度だ。欠片も残さず壊していいという条件なら、容易く壊せる。そう、隣の女は自負していた。

 そうすれば、もう一人の大切な人の魂は、死を除くどれだけの尊厳を踏み荒らされるのだろうかと、危惧する必要もないほど事実は明らかだった。

 それをしたくないのなら、そんな目に彼女を合わせたくないのなら。その引き金を容易に引けるようにならなければいけない。そうでなければ、意味を成さないのだから。

 

「それでも、賛同はしないわ。坊やが今からすることは、私にとってはまだ自殺と何一つ変わらないもの」

「それこそ珍しいな。そんなに心配か?」

「当たり前でしょう。それくらいわかってるくせに聞いてくるところ、本当に気に入らないわ」

 

 しかし怒りを何一つ見せない声色で、キャスターは言い放って姿を表した。ローブを深くかぶっているから、今はその顔を覗き見ることは出来ない。

 

「どんな形であれ、私は貴方に賭けた。私達の未来を。だから、それが死にに行くようなことしたら、止めない理由がないわ」

「お前は、戦力をどう見てるんだ?」

「昨日のセイバーと同じ感想よ。それすらわからないのなら、今すぐ無理やりセイバーの元に送りつけてやるわ」

 

 フードからでもわかるほど呆れが伝わるジェスチャーと声に、頭を掻いた。

 それを言われると弱かった。セイバーを盾にされてしまうと、何か言い返すことすらできない。

 昨晩、計画を伝えた時、むしろ怒っていたのはキャスターの方だった。それはそうだろう。はたから聞けば無謀とすら言い難い。ただの自殺志願者だ。蛮勇ですらない。

 どこまでも理性的に、対面する相手がどれだけ強大であるのか。どれだけかけ離れた存在なのか。それはキャスター自身にも当てはまっていた。だからこそ、その言葉は強く説得力を持っていた。

 

 でも、セイバーは何も言わなかった。まだ数日間だけれど、信頼もしている。彼女は衛宮士郎の知っているセイバーではないけれど、それでも信頼しないという選択肢はない。

 そんな彼女は止めなかった。彼女はただ終始無言で。キャスターとの討論が終わって、曲げない意思と理由と説明した後に近寄って。手を握った。

 

 ”止めない。止めないから。シロウ。お願いだから、帰ってきてくれ”

 

 そう一言だけ言って去った彼女の瞳は、きっと忘れられないし、忘れるべきではないのだろう。そのセリフは、何よりもセイバーの心境を物語っていた。

 彼女がわずかでも勝ち筋を信じているなら。浮かんでいるのなら。”お願い”なんて言葉は、死んでも使わないはずだから。

 

「ゼロよ。絶対に。手も足も出ないわ。それでも行くのね」

「ここまできたんだ。どうせ、敵さんも逃がしちゃくれないさ」

「わからないわよ。全力で頭下げれば、転移する隙くらいくれるかもしれないじゃない」

「おっと。キャスターにはプライドがないのかな」

「命に勝るほど、私の頭は重くないわよ」

 

 森を抜けると、大きく開けた空間へと出る。目の前には外敵を阻むよう建造された要塞にすら見える城が聳え立っていた。深窓の令嬢と、それを護る戦士の居城。ピリピリとした感覚が、強く体に走る。

 死地へと挑むというのに、口からは笑いが漏れた。緊張はない。命がけで戦うことは今更だし、現状を見ればどれだけ余裕のある状況だろう。たとえ失敗したとしても、全てが打開してしまうわけではない。絶体絶命というわけでも、今から誰かを殺すわけでもない。

 

 それでも勝手を震える手を、抑えるように握り締める。

 全身に回した魔力と同様に、キャスターによる強化が入る。実際に自分の身体を通すのは初めてだった。

 

 これなら想定通りの身体能力で挑めると、内心少し安心する。無論、今から待ち受ける存在にとっては微々たる力ではあろうが、それでも無いよりは数千倍いいだろう。

 

 キャスターの魔術でふわりと浮き上がり、上方から大きく開けた空間へと足を降ろす。

 てっきり侍女が待ち構えておろうかと思ったが、そんな様子もなく、眼前に広がる白く大きな庭は異物であろう自分たちすら迎え入れてしまうほど、存在感を放つ。

 

 吟味するように花を横目に見るキャスターは、敵地であろうにもかかわらずその余裕を微塵も揺らさない。むしろ、そこからアインツベルンの魔術の破片を集めているようにも見えた。

 

「キャスター」

「何かしら。用がなければ話しかけないでほしいのだけれど」

「さっき、聞きそびれたことがあった。今のうちに聞いておいていいか?」

「いいわよ。あまり癇に障らないものなら。貴方が五体満足で帰れるとも思わないし、冥土の土産に答えてあげる」

 

 妖艶に笑うキャスターの言葉はどこか信憑性というか、予知のようなものを感じさせる。そのためか、背中に奇妙な悪寒が走る。本当に、縁起でもない。

 別に質問といっても、本当に些細なことだ。今聞く必要性はないし、答えを聞いたからといってどうなるという問題でもない。

 

「魂食いだよ。お前、いいのか?」

「.......さて。あなたが聞きたいことがわからないわ」

「別にわからないならいい。それがお前にとって重要じゃないなら、俺がこれ以上問い詰めるべきじゃない」

「あら、そんな淡白でいいのかしら」

 

 .......軽い口調で話すキャスターに、ムカッと来たのは悪くないはずだ。

 

「お前なあ。これは別にふざけて聞いてるわけじゃ」

「わかってるわ。だから、今はこの程度にしましょう」

 

 声色が固まるキャスターに諭されて、前方に注意を向ける。

 侍女の一人が場違いなほど美しい礼をこちらに向ける。何を言うこともなく、半身引いた体でその手が示唆するのは、招きだった。

 

 まさに、敗北を知らない強者の佇まいである。馬鹿馬鹿しくて思わず笑いがこぼれそうになった。それはキャスターも同じようで、顔を合わせると笑いをこらえるのに必死だった。彼女は手で口元を覆って、くの字になりそうな体を必死に抑えている。

 

 落ち着きを取り戻すまでそうして、廊下を少しだけ歩いていくと、大きな玄関へと続く曲道にもう一人の侍女が佇む。その先に何がいるのかは、嫌でも察しがついた。

 キャスターも覚悟を固めたように、持っていく魔力が大幅に上昇する。

 

 互いが玄関へと足を踏み入れると、目の前にいる少女が嫌でも目に入ることになる。

 

「駄目じゃない。シロウ。客人は、玄関から入らなきゃ。せっかく、お出迎えしようと思ったのに」

 

 たった一人、ぽつんと佇む少女。嬉しそうで、どこか信じられないようなものを見るように怪訝な視線を向ける彼女は、絞り出すようにそういった。

 

「ねえ。私の家に訪ねてきてくれたんでしょ。シロウ。だから私、わざわざ一人で待ってたのに」

 

 そう明るい声色で語り掛ける少女は、間隔を取ったまま手招きをした。

 いつもとは違う、遠くかけ離れた距離感が、そこにはあった。

 

「訪ねてはきたけど、公園で会うときとは、違った意味でここに来た」

「まだ昼にもならないじゃない。だったら、そんな顔するのは間違いだわ」

 

 そう駄々をこねるように頬を膨らませる少女の隣には、守護者はいなかった。

 キャスターは動かない。今動いたところで、たとえこの場に姿が見えないとしても、無為に終わるだけと知っているからだ。

 少女はそんなこと微塵も考えず、まだその明るい姿を変えない。

 

「昨日案内されたんだから、今度は私がこの城を案内してあげる」

「いや、あいにくそんな時間はないんだ。用が済んだらすぐに帰るよ」

「.......ふうん。そうやって拒絶するんだ。シロウのくせに」

 

 いじけたように、少女はそっぽを向く。まだその姿は、いつも通りの幼さを残していた。

 

「そうやってシロウは女の子に冷たい態度をとるんだね。まったく。ほんと、だめだめなんだから」

「いつもはもっと優しくしてるだろ」

「あー!でたー!私知ってる。そういうのDV彼氏っていうんでしょ!セラが言ってた!」

「え、ちょ。まってくれ。それはいろいろと語弊と訂正があるというか、何を吹き込まれてんだお前!」

 

 腹を抱えて笑う少女とは反対に、キャスターからはすさまじく鋭く冷ややかな目線が送られてくる。おい。何が言いたいんだ。言いたいことがあるなら言えばいいだろ。

 涙目になるほど笑う少女と、予想外の状況に収拾をつけろといわんばかりにガンを飛ばすローブの未亡人。どちらかというと助けを求めたいのはこちらなのですが。

 

「ねえ。シロウ」

 

 急に抱えた手を降ろして、少女は目線を合わせる。

 

「なんだよ。今度は」

「夜まで待ってよ。私、今シロウと戦う意味がわからない」

 

 そこには、本当に呆然と、そして漠然とそう告げる声色があった。

 

「それは、俺たちが」

「私は、少なくとも今はマスターとしてここにはいないし、いるつもりもないわ。だから、シロウが引いてくれるって言うなら」

「引かない。俺には、やることがある」

 

 少女の顔が明確に歪む。それは失望でもなければ、失意でもなく。ただただ、哀色の。何か吐き出しそうな表情だった。

 

 どこか見たことのある顔だ。何度も焦がれ、その手が届かないことを嘆いた顔だ。

 今もまだ。それは変わらなかった。

 

「どうして?だって、私にはあっても、シロウが私と戦う理由はないでしょ?」

「何でそう思うんだ?」

「だったら何で護ったりするの。別にそうじゃなくても死ななかったけど、そっちの方が理由がないじゃない」

「誰かを護るのに理由が必要なのか?」

「そんな風にごまかしたって無駄なんだから。私、そんなことすらわからないほど、鈍感じゃないもの」

 

 強く拳を握り締める少女の顔は、強く冷たいいつもの表情とはかけ離れていて。そこに強さはなく、ただわかり合いたい一心で、彼女は声を荒げていた。

 その程度の表情は、痛いほど理解できた。

 思い通りにならない思いと、現状に嘆くことすらしたことがない少女は、ただ持ちえるカードを必死に切り続ける。

 

「じゃあシロウもフクシュウなの?私のこと憎んでるから、そうやって」

「それは違う」

「私には、それ以外の理由なんて、わからないもん」

「俺は、イリヤを憎む資格なんてない」

「じゃあ。じゃあ何でシロウは私に敵意を向けるの?どうして?」

 

 少女はそう叫んだ。そう大きい声ではなかったが、その訴えはまさしく叫び声だった。答えは彼女の望んだものではないと、それが分かったうえで彼女は問う。

 答えは、最初から決まっていた。

 

「俺が、|魔術師≪マスター≫だからだ」

 

 その言葉は、トリガーだった。

 少女の後方から、轟音が鳴る。精神の根源に響きわたるような。背骨に恐怖をねじり込むような咆哮が、城の内部を覆いつくす。

 少女の表情は一転していた。嘲るような嗤いに、軽蔑したような表情を張り付けて、少女は淡々と死を運んでくる。

 

「セイバーは、いないのね。鞍替えしちゃったの?偽物は捨ててきちゃった?」

「......それは」

「気づいてないとでも思った?あんな異物。その反応って。てっきり知ってたと思ったのに」

 

 少女の顔が陰でくらむ。何か、大きな者が彼女を明かりから隠しているのだ。

 

 黒色の肉体。手に抱えられた不格好でありながら明確に死を予見させる大斧。その肉体は生半可では攻撃すら通さず。その精神は幾度倒そうと朽ちることはないその姿。

 それは、何度も対峙したけれど未だ鮮明であり続ける恐怖の証。それほど、明確な差だ。格の差。まさに英雄というにふさわしい絶対的な暴力の象徴だった。

 そして、それが今まさに、己が命を奪おうと咆哮をあげようとしている。

 

 キャスターの震えが見て取れた。彼女は知っているのだ。目の前にいる存在が、どれほど圧倒的で、それでいて絶対的な法則であることを。

 それを押さえつけるように、彼女は笑う。そうして杖を両手でつかみ、後ろを支えるように背後につく。

 

 その様子を、少女は嗤った。

 

「シロウ。何かと思えば、よりにもよってキャスターを連れてきたのね。本当に、死ぬ気?」

「さてどうだろう。戦わなきゃ結末はわからない」

「わかるよ。バーサーカーは最強だもん。シロウは、ただの無駄死に。それで、本当にいいのね」

「それが結果なら、力不足を憎んで死んでいくよ」

「ほんと、嘘ばっかり。シロウと話してると、こっちがバカみたい」

 

 少女は怪物の後ろへと姿を隠す。

 正真正銘。正面からの対峙に喉がかれる。交わす視線が嫌でもその重圧を鮮明に伝え、逃げることを許さない。

 

 でも、もう震えは止まっていた。

 どれほど焦がれ続けただろう。こうして、自ら戦って足掻けることが。どれだけ幸せなことか、今の自分ほど理解できているものはこの世のどこにもいない。

 

 妙な高揚感が体を包む。身体も。強化も。回路も。思考も。理想に描いていたものに限りなく近い。

 

 自らを作り替える。構成概念の根本から。自らがここに立つという、そのものの根本から。己のあり方を再構築する。

 

「いいよ。シロウは殺さないであげる。手加減するのって大変なんだから。だから、せいぜい足掻けばいいよ」

 

 怪物が吼え、轟音を立てて一振りその斧をふるう。空気が切り裂かれ、轟音だけが耳元を掠めていく。

 

「キャスター。援護を頼む」

「無論よ。不本意だけど、ここまで来たら一蓮托生だもの」

 

 安心した。振り返らず、その声色に怯えはなく、そこにいたのはまぎれもない一人の英霊だった。力及ばぬ、強大な敵にも挑む姿は、まさしく世を変えたものの表情だった。

 

「少しでいいから、時間を稼いで。他は何も考えなくていい。あの子は、私に任せて」

「ほんと、嫌になるほど重い責務だよ」

「あんたが言い出したんでしょうが」

「.......悪い」

「頼りにしてるわよ。坊や」

 

 一歩、巨人は足を詰める。

 間合いを測るまでもなく、一呼吸ののちに戦闘は始まる。それは対面に構えた怪物とも。そして、己自身とも。

 誓いはすでに。退路はない。己が目的を果たすまで。

 

 流れに沿うように回路が染まる。いつの日か見た見た赤い背中の幻覚が、目の前を染める。

 だがそれは、もう必要ない。奴が刻んだ物語と、これから刻む物語は、違う。

 

 すでにもうここは、俺の始めた物語だ。

 

「任せろ。むしろ」

「何?」

「倒してしまっても、文句はないな」

 

 驚き目を見開く彼女を無視して、怪物と向き合う。

 それは死の壁だ。明確に立ちふさがる、絶望という名の絶壁だ。

 

 今更だ。見慣れた道だ。であれば、越えられないはずがない。

 さあ告げろ。高らかに叫べ。この偽物の道は、誰の道であるかということを。

 

 さあこの運命の心臓部を。この手で奪い取らせてもらう。

 

投影(トレース)ーーーーー」

 

 さあ握れ。形骸に塗り固めた、すでに朽ち果てた幻想を。

 

「------開始(オン)

 

 そう、振り下ろされる死に二本の刃を合わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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