闇堕ち士郎のリスタート   作:流れ星0111

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長きにわたる戦いを経て、ついに帰ってまいりました。
HF2部も始まりましたし、この先は止まらないで駆け抜けられたらと思っております。
いつも通り士郎さんが闇堕ちってるため、ご了承ください。
こんな不定期作者の小説を読んでくれて、本当にありがとうございます。

俺、この戦いが終わったらさ。映画、見に行くんだ。


第8話

 特別になりたかった。

 

 誰だって思うはずだ。誰も知らないもの。誰も持たないもの。誰もが欲しがり、誰もが認め。それでも届かない世界に焦がれたことが、あるはずだ。

 それが手元にあって。それを誇って生きて、何が悪い。皆誰しもが他者をどこかで見下し、見下ろして生きる。自分にしかない武器。才華という名の木の枝を手にして、恥じることなく掲げる。それが人間だ。他者に優位である何かを感じ、何かを蹴落とし、何かを踏みにじり、犠牲の上で優雅に笑いながら、自己を正当化して蜜をすする。それが人間のはずだ。

 

 そうやって人はそれぞれの世界を形作る。瓶の中に浮かべた海賊船を眺めて、薄い透明な板を挟んで、隣のちっぽけな遊覧船を眺め嘲笑う。

 

 そんなものでも、少しずつ、作り上げてきたはずだった。少しでも力を込めてしまえば欠けてしまいそうな脆いパーツを握って、必死に形にしようとした。

 

 引く手に困ったような表情を浮かべて。名前を呼ぶたびにびくりと驚いて。怖がるように、それでも手を離さずに、くしゃっと笑うその顔が、当たり前のように側にいて。

 

 その脆さを知るのは、ことごとく割れて散ってからだった。中に浮かんでいると思っていた船は張りぼてで、自分が誇りにしていたはずの立派な船は、偽物とすらいえない塵だった。

 

 何もかもが、偽りだった。どうしてわからなかったのか、気づかないほうが不自然なくらい。

 

 自分は特別などではなかった。

 自分が手にしていたものは、ことごとくすべて空っぽだった。

 偽物ですらなかった。贋作ですらなかった。大事に大事に抱えてきたその懐にあった宝物は、玩具とも言い難い塵のようなもので。

 

 気づいたときには、それを踏み荒らした後だった。大切にしてきたはずの物すら壊して、果たしてなにが残ったのだろう。

 

 舵は壊れた。コンパスはすでにない。彷徨いながら歩む日々。結局、何がしたかったのかわからないまま。すがった理想郷はあっさりと崩れ落ちた。

 

 欲しかったもの。焦がれたもの姿は、闇に溶けて消えていく。

 

 失ったものは何だったのだろうか。

 

 手にしていたものなんて、最初からあったのだろうか。

 

 奪ったものは、何だったんだろうか。

 

 今はもうわからない。

 

 一つだけはっきりしていることは、もう、それを問う機会は来ないということくらい。

 奪っていた居場所も、壊れてしまった想いも。もうきっと戻ってくることはない。それならいっそ、壊しきってしまおうか。

 

 欲したものも見えぬなら、いっそ明かりなどなくていい。

 そうすればきっと、もう一度。

 

 君の手を掴んでも、いいのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コツコツと、高い音が響く。こもる湿気と腐臭漂う密室の中で、唯一命としての主張を行う無数の影。生きるものすべてを穢す淫蟲。陰鬱で、淫蕩な死の色彩を放つ部屋の中央で、堂々と佇む死体は、こちらを覗くと奇怪な笑みを浮かべた。

 

「ようこそ、間桐の修練場へ。歓迎するぞ。衛宮の子倅」

 

 灰のような肌に、崩れそうな肉体を携えて、老人はできる限りの笑みを浮かべる。塗りつぶした微笑みに余裕はない。張り詰める空気が、互いの緊張を高める。

 自分を落ち着けるように深いため息をついて、老人は口を開く。

 

「突然の来訪で、あまり大層なもてなしはできぬ。だが、まあ、互いにそんな余裕はあるまい」

 

 一歩一歩踏みしめる度、歪な音が脳に劈く。ぐちゃりと腐敗した肉を踏み散らし、カサカサと音を立てて這いずり回る蟲を数匹取り込みながら、老人はこちらに赴き、両手を広げて歓迎した。

 後ろから漂う瘴気のような殺気は、既視感のあるものだ。未だに成長が見受けられない。さすがに、あの後ランサーを食う機会はなかったようだ。

 

 顔色を変えない様子を見て、対して老人の表情はほんの少しだけ驚きと困惑を覗かせる。しかし、すぐに元の不敵な表情に戻ると、カチンと手にした杖で床をたたいた。

 瞬間、統率を失っていた蟲はすべて姿を隠した。奥に隠された今にも壊れそうなイスに腰を掛けると、目の前にある空いた席に腰を掛けるよう示唆する。

 

 未だにこびりつく滑りを投影した剣で削り落として席に着く。ギシリと音を立てるが、不思議なことに壊れる様子は微塵も感じなかった。

 

「もう少し驚くと思っていたがな」

 

 粗茶の代わりに老人は蟲を吸う。怪物のようなしぐさで、こちらの動揺を狙っているのか。

 きっとそうではないのだろう。彼。いやこの異形はいつもここに腰を掛けて同じように嘲笑っていたのだろう。子守歌のような慟哭を耳にしながら、酔うように蟲の体液をすすり。

 

「わしは貴様をここに入れた覚えはない。此処で行われていたことが察せられぬ男でもあるまい。それなのに初見で表情はおろか、眉一つ動かぬとは。いやはや、少しはその顔が歪むことを期待しておったが、どうしたものかの」

「緊張で顔が硬直していただけだ」

「面白いことを言う。聞いていた人相とは異なるものでな。少しばかり驚いた。だがまあ、しかし。此処では追及はせずにおこう。わしも柔くなったものだ」

 

 話をひとりでに切ると老人は、話題を作るようにあからさまに懐に手を伸ばす。

 取り出されたのは一枚の写真。それはそれは愉快そうに口元を歪め、そこに焼かれた光景を見せる。無数の蠢く淫蟲に包まれた一人の少女を上から撮ったのだろう。歪み、少し恍惚に頬を染める絵。続けて数枚、ほとんど同じ写真をこちらに差し出す。違うのは、少しづつ少女の年齢が増していくことくらいか。

 

「わしも祖父だからな。娘の成長の記録くらいつけようて。苦労したぞ。同じように場を整えるのは」

 

 差し出された写真を受け取らないままでいると、老人は残念そうに懐へとそれらを戻す。そして、始めて明確にうれしそうな顔をした。まるで、孫との話題が見つかった老人のように。

 

「安心したぞ。やっと。やっと、表情が変わった。それでは話を始めようではないか。明確にわしが貴様の愛おしい後輩とやらにした所業を理解したところで。お主の思う休戦とやらを提案してみせよ」

 

 慣れた動作。慣れた表情。きっと、何度も同じように行ってきたのだろう。間桐に連なる親族たちは、大切な人ができるたび、この老人によってこの箱庭に落とされる。

 だが、残念なことに、その光景はもはや見飽きた。

 

「慎二にも、同じ手を使ったのか?臓硯」

「.......なに?」

「表情が変わったと。残念ながら。ならばきっとそれは、飽きからくる、失望のせいだ」

 

 写真をしまった懐に、正確に剣が突き刺さる。老人はその場で形をとどめなくなると、数メートル奥に転移した。しかしその身を削ったことを表すように、形を失った切れ端が空を舞う。

 敵意が場を満たす。アサシンから洩れる殺気は、並大抵のものでは股を濡らすだろう。

 しかし残念ながら、その程度であればこの地を踏むことはない。

 

「効率的な人心掌握だな。気づかなかった己の無力。資格の喪失。そして自責を埋め込んでその心を壊し人形にする。狂気の操作はお手の物か?だが申し訳ないが。その程度の壁、噛み砕けなければここにはいない」

「.......正常であれば削れるはずなのだがな。慕うものの犯される姿を見て感じるものはないのか?」

「何度も言わせるなよ。その程度、もはや考えるまでもない。答えなどとうに出している」

「貴様は桜のために来たのではないのか?」

「本題に入ろう間桐臓硯。互いに時は惜しい」

 

 座らぬ老人を急かすように、後ろにはローブをかぶった女が陣を描く。合わせて十数個の砲門を展開する。

 

「それとも、ここで散るか?蟲」

 

 数秒の時を経。360度隙間を埋めた殺意に、老人は一度形状を崩壊させると、対面するイスにしぶしぶ腰を下ろした。

 

「では聞かせてもらおう。休戦の条件とやらを」

「話が早くて助かるよ。それじゃあ、条件を提示していこう」

 

 背景に載せた武具たちが粒子になって散る。互いに従えた者たちすら姿を消した。

 ここからは、正真正銘マスター同士の会話となる。

 

「まずは期間だ。よもや最後の二人になるまで仲良しこよし肩を組むつもりでもあるまい」

「桜が此度の聖杯として成るまでだ。ここは、譲る気はない」

 

 正直に驚いたのだろうか。目を見開くと老人は思惑を図るのか。しばらくすると、何か結論を得た様子で、納得の表情でこちらに微笑む。

 

「全く持って面白い。これは予想していなかった」

「参考までに聞かせてもらっても?」

「わしはてっきり、桜を解放しろというのが主題となると思っておったよ。いやはや。わしの目も衰えたものだ」

「質問がなければ先に進めるが、いいな?」

 

 左手を上げると、臓硯との間に文字が刻まれていく。空間に描かれた線はキャスターによるものだ。互いに了承を得たものが条件として空間に色づいていく。

 

「一つ。桜が聖杯として成るまで、心臓部に寄生した本体の行動を禁ずる」

 

 流石に堪える条件だったのか。それとも、手品の種が明かされたことによる動揺かは定かではない。が、しかし。目の前の怪物はようやく、こちらに対する認識をただの餓鬼から改めたようだ。

 それもそうだろう。疑念が確信へと変わったのだ。彼の心情は察するに余りある。もう、明確な死の匂いがこびりついて離れまい。

 

「二つ。桜が聖杯になるまでの間、桜の肉体に干渉することを禁ずる」

「同化した蟲の苦痛を取り除くのは、もうわしにはできんよ」

「すでに摘出できるものは取り除いてある。それはお前自身が一番よくわかっていることだろう。後の蟲はこちらで管理する。お前自身の制御下でなければいい」

「それではあまりにこちらに不利ではないか?」

 

 臓硯は深くため息をついて不満げにつぶやく。

 

「対等だとでも思っていたのか?寄生虫の分際で」

「口を慎めよ若造。桜が死んで困るのはわしだけではあるまい」

 

 愚弄するような微笑みをした後、人の道を離れた目がこちらを向く。警戒か、敵意か。それとも恐怖か。

 勘違いはここで絶っておいた方がいい。この男は、未だに自身に権利が与えられていると思っている。

 客観的に場を視れば、詰んでいることなど一目瞭然であろうに。

 

「あんたのアドバンテージは二つ。本体の位置が特定されない限り本質的な死を迎えないこと。そして起動済みの聖杯の舵を握っていることだ。逆に言えばそれだけ。種が割れてしまえば、脅威ですらない」

 

 表情を取り繕う老人の奥に、やっと困惑と焦りが見える。しかし止めない。最初に言っていた。ここに来た理由。警告と、一方的な提案だ。断じて交渉などではない。

 

「桜の命を担保に俺と交渉ができるとでも思ったのか?逆だよ。あんたは桜を殺せない。桜という最後のカードを捨てられない。あんたはわかってるはずだ。捨てたら最後明日は迎えられない。問答無用で、俺はあんたを殺す」

「さて、それはどうだろうか。小僧。追い詰められたものは、はたして手段を選べるほど利口なのかのう?」

「利口だろう。なんせ死なないために生きている亡霊様だ。生き穢さで言えば右に出る者はいない一級品の愚か者。そんなあんたが、自らの首を絞められるはずがない」

 

 足元の蟲が足を伝って体を這う。煽るように全身を廻る蟲を一つ捕まえて、細い胴を握りつぶした。断末魔の小さい音だけが石室の中を埋める。

 

「残念だよ。蟲の王。カードは切る恐れを感じさせるからこそ価値がある。どれだけ有効であっても、『切れるわけがない』と思われた時点で、あんたのそれは価値はない」

「まるで恐喝だな」

「いや、まだお願いしているだけだ。搦手を使わないあんたは脅威ですらない。ここで少し体力を削ってやってもいいが、その補充に動かれてはこちらも後味が悪い」

 

 年長者を気遣うように丁寧に頭を下げる。耳に響く歯ぎしりの音。苦痛と、屈辱の捻。

 であれば丁寧に、頼みこむとしようか。

 

「頼む。俺にあんたを脅させないでくれ。そうでなきゃ俺はあんたが思考する余裕すらないほど殺さなければいけなくなる。それは、どちらにとっても不利益しか残らない。ここは、黙ってこちらの要求を飲んでればいい。その蟲に侵された脳漿でも理解できるだろ?」

「......続けよ」

「恩に着る」

 

 続けて二つの条文が空間に記載されていく。赤く熱いその線は、目を焼き残像を描く。

 

「三つ。存命のための捕食を禁ずる」

 

 反論はない。飲まねばこの場で地獄の瀬戸際まで追いつめられることを理解している。ここで朽ち果てるのは望んではいないだろう。たとえそれが、どれだけこの先苦痛を招くと知っていても。

 

「これらが守られる限り、こちらからの攻撃はないと約束しよう」

「......いいのか?わしのサーヴァントのクラスを理解していないわけではあるまい」

「構わないよ。その代わり、こちらも自己防衛程度はさせてもらう。そのリスクをあんたが乗り越えられるのならば、歓迎しよう」

 

 互いに紡ぐ時間は終わりだ。

 話は済んだ。ここにいる理由もない。長居する場所でもない。表情を隠しきれない老人は、しばらくこちらの意図したように動くだろう。

 

「ギアスにはしない。此処で話したことは、心得として胸にでも刻んでおいてくれ」

 

 石室の階段を上がる。何度踏みしめても不快な感触を伝えてくる。もう二度と、ここを訪れることはないと信じたい。

 

 では最後に、老人を諭すとしよう。

 

「話は終わりだ。これだけは覚えておけ。俺の願いも、あんたの願いも、誰かに押し付けていいものではない。罪も願いも、あんた自身の手で背負え。亡霊に押し付けるなよ。間桐臓硯」

「.........余計なお世話だ。餓鬼」

 

 次に出会うのが、他でもない、間桐臓硯であることを祈る。彷徨う亡霊には、痛みが些か足りないだろう。

 いつかその膝が地につき、心が砕け消えるまで。

 いつかその本心を思い出し、その営みを拒絶するまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗い洋風の、まるで今すぐ妖怪が出てきそうなインテリアの中、存在感を示すテーブルの一角で、ばつが悪そうに、下を向く男がいた。大事そうに抱えた一つの本。彼が固執する、欲した証。今の現状が、不相応であることをきっと本質的に理解しているのか。知るべきでなかった。知るはずもなかったものを聞いたのだろう。深く刻まれた眉間に、思わず呆れてしまった。

 

「盗み聞きとは趣味が悪いな。慎二」

「.......誰の許可得て、お前はそんな謀をしてやがる」

 

 か細く、しかし根底から染み出た声。困惑と、疑念を孕んだ声色。

 顔を上げて、睨むように顔をしかめる。目の前にいる男からは、いつもの感情は感じられなかった。メッキがはがれ、痛々しい素肌がやっと露出してきたのだろうか。

 思えば、彼はこういう男だったはずだ。それが歪んでしまったのは、果たしていつからだっただろう。

 

「聖杯って、どういうことだよ。桜は、どうなるんだ」

「言葉の通りだよ。桜は、願望器として起動して、弄ばれた挙句。死ぬ」

「なんで、お前がそんなことを知ってんだよ」

 

 勢いよく立ち上がった拍子に、椅子がガタリと音を立てて倒れる。意にも介さずテーブルに本を置いて、男はこちらに歩を進める。

 強くつかまれた胸倉。背中に伝わる衝撃。やっと頭に血が昇ったのか、合わせなかった瞳が初めて正面に置かれる。

 

「答えろよ、衛宮。桜を使って何をする気だ」

「聞いてどうする。お前には、関係ないだろ?」

「関係ないわけないだろ。僕には、聞く資格があるはずだ」

「それは兄としてか?マスターとしてか?いずれにせよ、無意味だよ。それとも、壊すだけ壊して今更償えると思っているのか?」

 

 未だに加わり続ける力。目の前の男の歪んだ顔。

 怒りと断定できないほどに、彼の顔は醜く歪んでいた。

 

「桜が救われないのがそんなに気に食わないか?毎晩嬲り、犯し、蔑み、妬み、穢したお前が。それとも、悲劇のヒロインにヒーローが現れないのを知って。罪悪感にでも駆られたか?」

 

 いつもなら燃えるであろう瞳から、熱が奪われていくのがわかる。少しづつ、体から力が抜けていく。目線も大きく下に向き、ふらふらと千鳥足になった体が、休める場所を探していた。そうして、テーブルに座った後。男は一言も発さず、置いていた本を大事そうに抱えた。

 

 嗤い草にもならない。自覚していない執着は、ここまで哀れなものだとは。

 その様子が、少しだけ、癇に障った。

 

「いいよ。教えてやる。俺はな。慎二。お前が丹精込めて壊した女使って、願いを叶える。慕ってくれる後輩利用して、あるはずもない幻想追って、途方もない罪を背負う」

 

 驚くか。怯えるか。変貌に驚愕し、その四肢を震わせるか。

 震える脚で、立ち上がりもせず。何年の年月、横たわり続けたその体で、何ができる。

 

「嗤えよ。お前が何年もかけて壊した女は、事も有ろうに惨めな化け物になった。世界を滅ぼす悪魔になった」

 

 左手で顎を持ちあげる。慎二は、一瞬嘔吐く声を上げた。

 

「お前が望んだことだ。壊して、穢して、踏みにじって。巡り巡った結末だ。嗤えよ。高らかに嗤って、泣いて悦べよ。そうでなきゃ、何のためにここまで来たのかわからないだろ?」

 

 無理に合わせた生気の無い目。止まらない震え。

 

「なあ。どんな気分なんだ。妹が、穢れていくのを見るのは」

 

 一文字一文字を男の脳裏に刻む。その言葉から逃げられぬよう。犯した罪が、背筋を伝うよう。

 

「ああ、そういえば、決まったか?令呪(その本)、何のために使うのか」

「そんなもの、元から、わかってる」

 

 ようやく出したか細い声からは、何か取り繕うようで。

 

「奪われたものをすべて取り返して、僕の思うがまま、人生をやり直す。何もかも」

「それで、元に戻せるとでも?残した傷も、刻んだ跡も。なかったことにすれば、もう一度日の下を歩けるとでも、本当に思ってるのか?」

 

 逃げ続け、逸らし続けた結論。しかし、目の前に転がる現実は、これ以上変わることはない。一度入った黒を、もう落とすことなどできるわけがない。

 

「無理だよ。色付いた白は元には戻らない。一度堕ちた身には、日の下は明るすぎる。何しろ、お前が望む世界は、その深淵にある場所だからな」

 

 掴み続けた手を離す。止まらない震えを抑えるように、慎二は強くその身を抱く。

 

「それにな。たとえお前の願いを叶えたとして、特別な存在になって、その先に何が残る。無力な自分を殺して、自分に与えられるはずだったものを手にして。その先に得たかったものは、本当にあるのか?」

 

 照らすことを辞め。目を開くことを辞め。向き合うことを辞めた。

 そうしていつか帰ってくると星に願いながら、そばにあるものを壊し続けたんだろう?

 諦観したと思い込んで、結論付けて、目の前の光景から目をそらしたんだろう?

 その姿が、ほんの僅かに、重なった。

 

「お前が本当に欲しかったものは、そこにあるのか?」

 

 身を翻す。これ以上は、己のみでなければ気づけまい。

 だから、ここからはただの自己満足の決意表明だ。

 

「俺は、もう迷わない。何を捨てて、何を叶えるか。たとえ、その想いが間違いで、偽物だとしても、背負うと決めた」

 

 たとえこの先が、光などなくても。もう二度と、手にできない未来があるとしても。走り続けると決めた。

 

「退路はない。止まれるのは、心臓が止める時まで。それが、魔術師として生きるということだ」

 

 大義名分を掲げて、降りやまない刃受けながら、己のために道を進む。

 

「自分の根底にある願いのために。己のために引き金を引け。それが、お前の目指すものだ」

 

 愚者のまま終われると思うな。お前の償いは、そんな容易いものでは終わらない。

 

「慎二。逃げようと、進もうと、お前の道だ。お前自身の手で、舵を取れ。他の誰かに譲るな。夢の中を彷徨うのは、もう終わりにしろ」

 

 負け犬のまま、その身を横たわらせるのは終わりだ。

 震える脚で立ち上がれ。お前自身の理由のために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悪趣味な石室や、家の意味を成していない洋館を出て、思わず深呼吸をした。

 腐臭のする魔術。おぞましい怨念。醜悪な姿とその魂に、何度吐き気を催したか。きっと私がサーヴァントではなく、一人の魔術師としてここに立っていれば、今ごろ塵一つ残ってはいないだろう。

 しかし、魔術とは多くの場合同じような側面を持つものだ。洗練されたものはあれ、何かしらの犠牲と代償が必要なのも事実。この道の一端を極めた者として、蔑みはあれど否定はできない。

 

 そも、誰より穢れたこの体で、その営みを根本から否定するなど、到底できるわけもない。

 

「キャスター。いるか?」

 

 先ほどまで能面のような表情をしていた少年は、さも当たり前のように私の仮の名を呼んだ。契約してから一日すら経っていないのに、何の違和感もなく。息を深く長く吐いて、顔から力を抜くように表情を取り戻していく。

 どことなく憂うその表情に、わずかに心が揺れる。

 

「ここに。何か用かしら、坊や」

「悪かったな。無駄なことに魔力を割かせた」

「構わないわ。坊やの仕事は使うことだもの。道具にいちいち気を使っているようなら、その性根から叩き直すわよ」

 

 一日。たった一日だけで、わかることがあった。

 彼は、自分自身を魔術師と定義していた。「根源」なんていう、私からすれば呆れるようなものに手を伸ばすということではなく。もっと広義で、本質的に。己が目的、欲のための従順な僕と、自らならんとしている。

 だが、素に近ければ近いだけ、その言動は魔術師からかけ離れていく。普段の一挙手一投足が、自然な作法振る舞いが、彼を引き戻している。

 

 その歪んだあり方が。心の底から吐き気を催す。

 

「軽蔑するか?」

「しないわ。だって、私もきっと、同じことをするもの」

 

 庇うわけじゃない。単純明快。私自身に同じ問いを投げれば、同じように返しただろうから。

 愛する者のために、本人すら地獄の淵に追いやる。正しいわけがない。間違った行いを、それでも、私はきっと選ぶ。

 

 それが、魔術師というもの。いやきっと。それが、叶えるということだ。

 

 少年は、ばつが悪そうに頭を掻くと、小さくこちらに微笑んだ。

 気に入らない。本当に、この男の表情は私の心を荒立たせる。

 

 無理やり自分に鎖を巻いて微笑むなど、魔術師の生き方ではない。魔術師であろうとすればするだけ、少年は自分からその資格と形相を殺していく。出来上がるのは、かけ離れたものだというのに。

 自身を偽り、己を騙し。そうしてきっと、この少年は死んでいくのだ。自覚していながら、己の意志で、その感情にふたをするのだ。

 

 もう話は終わり。そもそも、馴れ合うために彼のサーヴァントとなったわけではない。ここで私が彼の前から姿を消すことを、咎めるものは誰もいないだろう。

 また、たった一人になった少年は、屋敷を一瞥した後、踵を返した。

 

 行く先を言うこともなく。目的を語るわけでもなく。少年は歩を進める。

 

「キャスター。聞いてもいいか」

 

 ぽつりと、きっと誰にも聞こえないような声。どことなく消えそうな声。

 まるで、この少年自身のような声が、私の耳元にだけ、鮮明に響いた。

 

「どうして、お前は戦うんだ?」

 

 自分自身が、訪ねたことのある問い。

 ああ、深く考えるのは、ここにきて初めてかもしれない。

 

「......戻りたかった。居場所があったのよ」

 

 間違いではない。そのために、ここに降り立ったのは、まぎれもない事実なのだ。

 

「今も、そうなのか?」

「.......変わらないわ。ええ。変わるわけがないですもの。何があったって、私の根底に根付いたものは、そう簡単に失われないわ」

 

 雨に打たれて。立ち上がれない時があった。

 いつものごとく裏切られ、いつものごとく捨てられた。ルーティーンのように代わり映えのない運命。

 

 不器用なやさしさなんて、私の辞書には無かった。英霊メディアの辞書に、こんな感情があるわけなどない。

 

 でも、知ったのだ。もう、得てしまえば、捨てることなどできるわけもない。

 

「決めたのよ。もう、失わないと。もう、奪わせないと」

 

 ただ。たった一つの願い。私は、帰りたいのだ。そんな資格はないかもしれない。すでに背負い。これから生み出す業の数も、計り知れるものではないのかもしれない。

 

 それでも、与えてくれた家を。居場所を。彼の待つ家に、私は帰りたい。

 おかえりといいたい。ただいまといいたい。そんな、ありふれた日常を、万能の願望器に願うのだ。

 それだけは、何があったって、これから変わることはない。

 

「これが正しいなんて思わない。それでも、間違いになんてさせないわ」

「.......そうか」

 

 変わらない少年の表情に、ほんの少しだけ憤りが生まれる。

 顔が赤くなるような年ではないけれど、少しは真剣に答えてやったのだ。それ相応の対応があって然るべきだろう。

 

「そこまで言わせるほどの対価を、すでに得てるのか?」

「当たり前でしょう。そうでなきゃ、英霊である私がここまで言うわけがないじゃない」

 

 ここまで話したのなら、もう最後まで話してしまえ。こんな年で、乙女じみていると笑うのなら笑えばいい。表情が少しでも変われば、私の心もきっと少しは晴れるだろう。

 そう。くだらない。他者に言えば笑われてもおかしくない。単純で、ありふれていて。何よりも希少な、宝物。

 

「手を差し伸べてくれた。戦う意味なんて、それだけで十分でしょう?」

 

 目を見開いて、そしてすぐに、儚い笑みを浮かべた。

 散りゆく花のような、本物の笑み。心の底からの同意に、思わず息を飲んだ。

 

 何かを再確認するように、少年は手に力を込めて、見えるはずもない私に、その瞳を向けた。

 

「十分だよ。それだけで、贅沢すぎるほどの」

 

 ほんの僅かに、光が射した。

 たったそれだけの理由で、立ち上がれるのが、人間というものなのだ。

 

 その尊さを、きっと衛宮士郎は一番理解しているのだろう。何よりも、大切にして。何よりもそれに執着したのだから。

 

「行こう。キャスター。たとえこの道が、正しい道でないとしても。この想いが、正しいものでなくとも。目に焼き付いた光景は。たった一度の奇跡は、きっと何物にもかえられないものだから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 望まない客の来訪を、床に刻まれた痕跡が告げる。この客は、訪れた家で靴を脱がないのだろうか。そういった疑問も、足跡の向く方向でかき消される。

 この先は、人の立ち入ってならぬ魔境。腐臭と汚泥にあふれかえった墓場が広がっているだけだ。

 誰かなど問うまでもなく一人しかいないだろう。日ごろからずれを感じることはあった。今でも、カバンに入ったナイフを見るたびに、あの日の震えがよみがえる。それでも、あれは自分の知っている男ではない。

 

 従者に護衛を命じて、先へと歩を進める。ここで、奴から逃げるのは得策ではないだろうし、何しろ自分が望んでいない。

 それでも、どうしても、最後の一線を越えなければいけない足は、固まったように動くのをやめた。どれだけ言葉を並べたところで、この扉の奥は別世界だということを知っている。そんなことは、最初から知っていた。

 怨恨と恩讐が、石ころのように転がっている世界。信念。願いのためなら何の躊躇もなしに他者を害する世界。

 そんな世界を、日の届かない世界を、自分は夢見ていたのだろうか。

 

 隠し扉の奥から、声が響いてくる。ずいぶんと深い地下のはずだ。音も、微々たるものでしかない。それでも、この耳はそれを大音量にして脳裏に刻む。

 

 その声色に、足が震えた。奥に潜む闇を。喰らう闇が、体を蝕んでいく。

 

 ふと、笑いが漏れた。何故かはわからない。それでも、あっさりと、その笑みによって自分の何かが抜けて行った。

 それとも、欠けただけなのだろうか。

 

 すでに震えの止まった足で、崩れそうな体を椅子に据えた。大きくため息をついて、手にした本を強く握りしめた。

 

 驚くそぶりも見せず、どこかあきれたような顔で、男は自分の名前を呼んだ。

 今、湧いている感情が、何なのか。それでも、問わねばならないことがある。

 

 そうして初めて、男は驚いた表情を浮かべた。つい、体を寄せて胸倉をつかんだ。何のために、何故、これほどの声と力を出しているのかわからない。勝手に動き出しただけなのかもしれない。ただ、言葉に対する反射として、行動をとっているだけなのかもしれない。

 

 それでも、強く、壁へと体を叩き付けた。

 男は嗤った。

 愉快でも、爽快でもない。

 わからなかった。孕んだ意味を。

 その笑みは、こちらに向けられてはいなかった。

 

 力が抜けていく。思考も、熱も失って。残ったものは告げられた言葉だけ。

 

 漠然と、言葉だけが脳裏に流れる。文字だけを書きなぐったキャンパスが、スライドショーのように流れていく。

 ふと、何かがあふれてきた。口内を酸性の臭いが立ち込める。あわてて口を押えて、溢れることを許される場所へ走る。

 

 いまだに声が止まない。いまだに声が病まない。

 

 眼前の鏡に映った自分の像の、たった一部分だけが、奇怪に歪んでいく。

 

 “なあ。どんな気分なんだ。妹が、穢れていくのを見るのは”

 

「うるさい」

 

 “お前が望んだことだ”

 

「うるさい」

 

 “嗤えよ”

 

 鳴りやまなかった声は、別の音にかき消された。脳を劈く叫び声。何かを叩き付け続ける低い音。嬉しいことに、音源は自分のすぐそばで、蝕む声は消えたように思える。

 

 それでも、何度殴りつけようと、目の前の歪みは消えない。満面の嗤いで、微笑む自分。

 血が抜けたからか、少しだけ奪われた熱が戻ってきた。

 

 騒音が止むと、この家は恐ろしいくらい音を失う。生活音を奏でるのは、今はもう自らの肉体のみ。ここは生きていない。いや、いっそのこと心地よいのだが。

 

 決まった時間。決まった部屋から、決まった場所へ移る音。あれほどに重い音というのは、ほかに探すほうが難しい。

 毎日処刑台から、懺悔と甘い叫び声が鳴る家の、どこに居場所を探せというのか。

 

 ああそうか。どうして、先ほど、深い部屋の奥からの声が、あれほど聞こえたのか。

 毎日繰り返していたじゃないか。人間というのは大層精巧にできているようで、望まない音ほど鋭敏に拾う。自分を刺し貫く声というのは、中々に聞こえやすいものだ。

 

 ついた個室。机の上には、書店には売っていないような本が所狭しと並び、実験用の道具で埋め尽くされていた。

 自分の部屋。というには些か器が足りていない。だってここに、自分のものなど一つもないのだから。

 

 机に置かれた何度ともなく読み直し、擦り切れるほどに時を過ごした魔道書さえ、自分にとってはSF小説と何ら変わりない。

 

 無音で、隣にたった従者が、血の滴る手を触る。治療される筋合いはない。治療魔術が使えるわけでもないだろう。

 

「傷の治療を。応急処置程度なら私にもできます。機材はありますか?」

「自分でつけた傷だ。自分で治す。お前に触れられる筋合いはない」

 

 皮肉めいた言葉をかけられたにもかかわらず、フフッとライダーは微笑んだ。

 

「そうですね。穢れた魔獣の施しなど、誰も受けたくはありませんでしょう」

 

 当たり前のことを言われたと思っているのか。それとも、想定内のセリフ過ぎてあきれただけなのか。

 違うだろう。きっと、この世で一番求めていない感情が、ライダーをそうさせた。

 

「お前に同情されるなど、まっぴらごめんだ」

 

 言って後悔するようなセリフも、流れるように口から溢れた。

 何て呆れる様だろう。こんなことをしても、何の意味もないだろうに。

 

「お前は、僕の従者じゃない。道具だ。借り物の、資格だけ形作るための。急造で張りぼてで、語るには力不足すぎる」

 

 そうだ。繋いだ絆などない。あるのは唯の本と、そこに刻まれた紋章だけ。

 

「だから、僕にそんな感情を割くな。お前が向ける先は一つだ。その一点だけを見ていればいい」

 

 得たのは名乗りを上げる資格だけ。それ以上でも、それ以下でもない。

 わかってるじゃないか。誰より自分が、己自身のことを。今更、思い出すこともないだろうに。

 悪役でも、ヒーローでもない。ただの噛ませ犬ですらない。たった一人の、哀れで無残な置物だ。最初から、手にしたものなど、何もなかったではないか。

 

「僕は、お前のマスターにはならない。お前が従者として立つべき場所を見失うなよ」

 

 同情など必要ない。哀れみなど必要ない。

 だって、理由がないのだから。

 理由など、知りたくもない。想いたくもない。照らしたくもない。だから。

 

「頼むからさ。そんな顔で目の前に立たないでくれ。ライダー」

 

 それでも、目の前の蛇は姿を消さない。たった一枚の布の奥にある視線が、甲高く心をえぐる。

 

 違う。俺は、そんなことを望んでいたのではない。

 

 そんな目を向けてほしかったわけじゃない。そんな思いで、隣にいてほしかったわけじゃない。

 少しだけ、やっとわかった。自分は、救われたかったのだ。

 誰よりも、救われたかったのに。誰よりも、救われることを拒絶していた。

 向き合うことが怖かった。背負うことが怖かった。

 無力な自分から、目をそらしていたかったのだと。

 特別になりたかったわけでも、何かを得ようとしたわけでもない。

 失ったことに気づかないように、えぐれた傷の痛みを消すために、無為と無価値から目をそらし続けていただけだった。

 そのために、奥底のものまで目を背け続けていた。

 

 だって、見えてしまえば、気づかなければいけないから。

 

 いつだって。何をしていようと。いやむしろ、満たされれば満たされるだけ瞼の下に映るのだ。

 

 知ってしまった日のことを。そのとき向けられた表情を。

 

 今はもうない。最初に愛したその笑みを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 漂う刺激臭。目に刺さる赤。痛みを伴う視界。此処は薬品を扱う店だっただろうか。正直、どの建物よりも、悪の居城という言葉が似合うだろう。人類悪といわれても違和感はない。

 

 中から肩を担がれて出てくる男の二人組が見えた。唇を膨らませ、口からあふれるほどの白い息を吐く。朦朧とする意識の中で、必死にタクシーに乗って去っていった。

 可哀そうに。遊び半分に手を出せば、死は免れまい。

 誰か此処いい加減家宅捜索したほうがいい。絶対、違法な薬物か、魔術を使用した調合が行われている。正規の手段、合法の調味料で人を殺す中華料理屋があってたたまるか

 

 意を決して暖簾をくぐる。すでに客は一人だけ。昼間だというのにこれでは、いい加減ここもつぶれるのではないだろうか。いやむしろ、潰すことこそ世のため人のためであろう。

 

 微笑みながら蓮華に赤い泥状の物質を口にかきこむ男の前に座る。

 

 さて、最初からラスボス戦と行こうじゃないか。

 

「おや。こんなところで会うとは奇遇だな。衛宮士郎。この高揚を共有できるものが、君だとは。驚きだ」

「黙れ。変態人外味覚神父」

 

 『紅洲宴歳館・泰山』

 アル語族による、辛党というより痛党のための人類悪育成機関にて。似た者同士の最初の会合が始まろうとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ハイそこ慎二君キャラ崩壊とか言わない。
慎二って魅力的なキャラクターだと思うんですよね。だから、逃がすわけ、ないですよね。
彼には最高の舞台を用意してあげましょう(愉悦)

あと、映画はやっぱり神でした(予言)

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