闇堕ち士郎のリスタート   作:流れ星0111

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 本当にお待たせして申し訳ありません......
 映画の第一部が始まったころに出した小説なのですが、ついに来春には3部が。
 それまでには何とか追いつきたい......新作書いてる場合じゃない.....
 キャラ崩壊ご注意です。

 読んでくれている方に深い感謝を。




第9話

 

 生きていることは罪を犯すことだと、誰かが言った。

 死することこそ罪だと、誰かが言った。

 

 救いなどなかった。そう、最初から指定され、規定された人生だった。

 

 知っている。

 目の前で苦しんでいる人をただ助けたくて、その身を削り続けた存在を。

 

 知っている。

 救わなければならない。その願いが尊いものだと想い続けて。胸を張って生きるために。そんな免罪符を、胸に抱き続けた少年を。

 

 知っている。

 その手で、最愛の人の命を奪った少年を。

 

 ブリキになった四肢を。ガラスになった心臓を。がらんどうになった心を。

 動かす理由が必要だった。

 

 成果には対価が必要なように。

 生きるためには、動力が必要だった。

 

 だから願った。

 だから使った。

 だから差し出した。

 

 贖罪のような日々。

 

 奪った命も、失った心も、刻んできた道も。

 何一つ、もう取返しなどつかなくて。

 地獄から助けを求める魂を奪って、掠め取った命なのだから。

 せめて、その周りは、幸福で、平和でなければならない。

 そう、願い。そう、念じ。そう、思い続けた。

 

 そうして、世界から自分を取り除いて。無数の対価を得た。

 

 目を逸らし。耳を塞ぎ。無知であり続け。

 慟哭と灼熱の中、必死に奪った命を抱えて。

 罪という免罪符で、盲目に、ただ理想に準じた少年。

 

 誰を救っていたのだろうか。その理想に、果たして救われていたのは誰なのだろうか。

 

 永久に続く闇と、一筋の光指す闇。果たしてどちらが残酷なのだろう。

 救ってくれるであろう人に、願い続けたその日々は。気づいて。助けてと。叫び続ける日常は。どれほど残酷で、心をどれだけ削り続けたのだろうか。

 

 側にいてくれた人。

 支えてくれた人。

 想ってくれた人。

 

 その一切合切を無視して、男は贖罪のために生きた。

 

 たった一度の歩み寄りもなく。

 たった一度も、道を違えることなく。

 目の前になければならない光のために、目を潰し続けた男を、知っている。

 

 結局、男は何も変わりはしなかった。

 何一つ、前に進んでなどいなかった。

 

 最後まで一瞬たりとも間違えることなく。

 男は、与えられた責務を全うした。

 

 どれだけ思いを馳せたとしても。

 どれだけ無数の罪を贖おうと。

 

 時は戻らない。起こしてしまった結末も。

 犯した罪の数々は、背中に刻まれたままだ。

 

 だったらせめて、この身を穢しきってでも。

 

 救うためには、力が必要だった。

 たとえそれが、どれほど穢れたものだとしても。

 たとえそれが、どれほど邪悪なものだとしても。

 たとえそれが、己が望んでいないものだとしても。

 

 救うためには、対価が必要だった。

 全てを平等になど空想の御伽噺で。

 

 誰かを救うことが、罪になるのだとするならば。

 無力であることは、果たして何になるのだろうか。

 

 求めた力も、得た資格も、望んだものとは程遠く。

 夢見た景色は、永遠に遠い空の下。

 

 悪役にも、英雄にもなれはしない。

 

 たとえそれが、偽物だとしても。

 たとえそれが、幻だとしても。

 

 その想いを、きっと世界は、間違いと呼ぶのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 叫び声が、聞こえる。

 

 反り返る女の鼓動が、痛みが、視界を染める。

 歯を食いしばり、歪んだ金属音のような音を立てながら。全身から膿を吐き出す身体が、叫びをあげる。

 

 黒色の泥が、足元を濡らす。

 白い肌から流れ出る黒。ぴちぴちと音を立てて、滑らかな肌を犯す何かが、断末魔をあげて絶えていく。

 

 目を逸らすな。

 

 際限を知らぬ穢れは、川のように流れを作る。

 足元はもうすでに泉の様だ。

 源泉から溢れ出る泥は、絶えず世界を穢していく。

 

 綺麗だったはずの思い出は、震える脚によって支えられていた。

 

 耳を塞ぐな。

 

 苦痛に歪むその顔を。

 瞳から流れる雫を。

 耳に入る叫び声。何度も呼ばれる己の名前。

 それが、どことなく既視感のある光景だった。

 

 どれだけ力強く手を握り締めようと、己の無力さが変わるわけではなかった。

 遠い。途方もなく遠い。輝く世界にはもう手は届かないことはわかっている。それでも、どれだけ捨てようと、どれだけ力を得ようと。

 この距離は、一向に縮まることはない。

 

 何一つお前には、手を差し伸べる資格などありはしない。

 自分に、一遍たりとも救う力など、ありはしない。

 

 嗤ってしまう。

 偽善にもほどがある。

 

 目の前で行われる惨劇。

 見慣れた光景だ。今更何を想うことがある。

 

 出来ることなんてありはしない。

 この手に許されている行為は、所詮。

 救うことなんかではなく、奪うことなのだから。

 

 たらりと、一滴だけ、赤い色が落ちた。

 源泉から一滴だけ。

 

 力のこもった手は、鉤爪のように床を削り、割れた爪から滴る血液が、黒い泉に溶けていく。

 

 叫びが聞こえる。

 慟哭が、刺さる。

 

 糸が切れたように、女はだらりと床に沈んだ。

 今までそこにあったはずの泉は、まるで何もなかったかのように、消え去っていた。

 

 先までの服を着させて、女は元の布団に戻された。

 手も足も、体も、全く傷の無い状態で。

 まるで何事もなかったかのように。

 

 居間に通る冷たい風は、いつもと何ら変わりないものだった。遠くに少しだけちらつく明かりも、段々と光を消して、夜は深まっていく。

 

 少し目を向けてみれば、そこには日常が溢れている。

 

 先ほどの光景なんて、何処にもあるはずもなかった。

 

 しかし、それは悪夢などではなく。

 目をそらしてはならない。ただの現実だ。

 

 作業が終わり、居間に集まる3人の間はとても奇妙なバランスで成り立っていた。

 

 向かう合うようにローブの女は正面に、上座の席には甲冑を外したドレス姿の女が座った。

 

 キャスターはローブを外すと、苦虫を嚙み潰したような表情でこちらを覗いた。見下すような視線で、一瞬だけ庭に目を向けると、再度こちらに向き直る。

 

「悪趣味なことをするのね。今代の魔術師は」

「聖杯のことか?それとも」

「どちらもよ。別に否定するつもりはないけれど。三流以下ではあるわね」

 

 庭の方から何かを潰した音がした。小さな断末魔が、命の絶つ音を響かせる。

 平行移動してきたそれは、今の机の中央に鎮座し、粒子となって消えていった。

 

 それは、見覚えのあるものだった。つい先ほど、少女から溢れ出たもので、そして寺を監視していたもの。

 

「どこかで見たことがある蟲だとは思ったけど。そういうこと」

「察しの通りだ」

「まんまと踊らされてたってわけね。この寄生虫にも、あの暗殺者にも」

 

 キャスターの声色に、わずかに怒の感情が混ざる。

 握りしめる手には、わずかに血が滲み出ていた。

 

「それで、桜の容体はどうなった?」

 

 上座に座るセイバーが、表情を変えずに問う。

 正座しているその右足のすぐ横には、顕在化する聖剣がある。

 

 同盟を決めてから未だ数時間しかたっていない。互いにとっての線引きとして、彼女は剣を側に置いていた。

 

「言われた通りにしたわよ。駆除できる範囲の刻印蟲は死滅したわ」

「ということは、まだ残っているのか?」

「残っているというのは語弊があるわね。今彼女の中にある蟲は、もう彼女自身と言って遜色のないものだけよ」

 

 驚いているのはセイバーのみで、少年の表情に変化はない。

 まるで、既知の事実を聞くようなそぶりに、セイバーは何かを察したように俯いた。

 キャスターはそのまま与えられた状況と成した成果のみを口に出す。

 

「十年近くの時間をかけて侵食した蟲は、彼女の成長と共にその体に介入していったのでしょう。彼女の体は、蟲によって成り立ち、蟲によって傷つけられている。一種の共依存ね。どちらかが欠けてしまえば、取り返しはつかないでしょう」

「方法はないのか?」

「あるわよ。臓器移植と同じ。彼女の中の蟲の管轄内の物をすべて殺して、代替えする手段があればの話だけれど」

 

 そんな手段が正規にあるわけがなかった。であれば等にキャスターのマスターは蘇生され、少女の命も尊厳も安易に取り戻すことが出来ていただろう。

 

「まあ、それができたら苦労しないわ。宗一郎様でさえこの状態なんですもの。全身の神経と魔術回路を移植できるなら、それはもう死者蘇生と変わらないでしょうね」

 

 ふと、何かに気づいたかのように、キャスターはセイバーから視線を男へと移した。

 

「だから、聖杯の器にさせるつもりなのね」

「.......シロウ。それは」

「文面の通りだ。セイバー。桜は、小聖杯として、脱落したサーヴァントの受け皿になる」

「それは、桜に死ねということか」

 

 確認するように、強くセイバーは少年を問う。しかし責め立てるのではなく、むしろ逆の様子で。

 

「そんなことをしたら、桜は」

「どちらにせよ。救いはない。だったらせめて、可能性のある方を選ぶだけだ」

「無理だ。耐えられるわけがない。重すぎる重圧と痛みを与えて死なせるだけだ。そんなことになる前に、聖杯を桜の体から」

「取り除かないわよ。少なくとも私は」

 

 場を冷やすように。キャスターは冷酷に言い放った。

 セイバーまるで獲物を狩るがごとく、その視線をキャスターに向けた。

 意にも介さず、キャスターは続ける。

 

「勘違いしないで。私が貴方たちと同盟を結んだのは、聖杯を譲るといったからよ。それ以上でもそれ以下でもないわ」

「それなら」

「どうして、わざわざ2つしかない選択肢の一つを、私自身の手で削り取らなければならないのかしら。私は、悲惨な目にあっている女を助けるためにここにいるわけではないわ。こんなもの、日常茶飯事の世界で生きてきたもの。今更ほんの少しも心は動かないわ」

 

 一度視点を裏返してしまえば、苦痛も痛みも絶望も、石ころ以下のように転がっている。そんなことで足が止まっていたら、目的地になんか、一生つくことはない。

 ここにいる全員がそのことをわかっていた。だから、それに対する糾弾なぞ、できるわけがなかった。

 

 セイバーは、己のマスターに向き合う。

 

「シロウはそれでいいのか?」

「ああ。いい」

 

 無表情で、セイバーのマスターである男はそう告げた。

 まるで、作業的に。感情のこもらない瞳と声で。男は続ける。

 

「それに、もう、手遅れだろ?」

「.......そうね」

「そんなものが寄生している時点で、桜はもう永くない。すでに同化も進んでいるはずだ。さっきの話と同じだよ。取り除くなら、それは命と引き換えになる」

 

 先ほどまで、女が横たわっていた場所を眺めた。

 溢れ出るほどの苦しみと憎悪。恥と悦楽。

 いまだその根源が彼女の中にはあるのだ。そんな状態で、生い先が長いはずがない。

 

「それに、もう一つ、やらなきゃいけないことがある」

 

 たとえ、キャスターがいたとしても、小聖杯からかかる負担が減るわけではない。

 そして、それを補完するだけの、燃料が必要だ。それは、桜の保有する分では微塵も足りない。

 そんな中で、やらせることなんて、一つしかなかった。

 

「桜に、人食いをさせる」

「.......彼女はきっと、自然にせざるを得ないわよ」

「それじゃダメだ。すでに起動はしてるが、負担が減れば停止する可能性もある」

 

 延命はすでにできた。このままならば、本来よりも数段いいコンディションで日々を過ごせるだろう。

 でも、それではいけない。

 

 もしも思考の余地が生まれてしまったら?

 早期の時点で桜が魂食いを拒絶することが出来たのなら?

 彼女の泥が溢れる前に、彼女の精神が焼き切れてしまうかもしれない。

 

「じゃあ何。貴方は私に、彼女が自然に思えるように苦痛を調節しろっていうの?」

「そうだ」

 

 男を一瞥して、迷いなくキャスターは腕を振るった。

 描かれた陣から少女に向かって伸びた鎖は、彼女の肉体に溶け込むように蝕んでいく。これから刻む痛みを象徴するように、鎖の擦れる音が鳴り響いた。

 

 無表情だったキャスターは、この時だけは少しだけ揺れ動いていた。

 

「私は、反対しないわ。優しくはないから。貴方に対しても、彼女に対しても」

「キャスターにならわかるはずだ。今までどれほどの苦痛を背負い。これから背負わされるのか」

「.......貴方はこれからそれを、彼女に押し付けるのよ」

「ああ。だから、責任くらい、とるさ」

 

 初めて、男は表情を変えた。

 もう、その顔をみて、言葉は出なかった。

 

 キャスターはフードを被りなおすと、セイバーに声をかけた。

 

「わかりました。私から、今これ以上は言いません。あなたもそれでいい?」

 

 セイバーは何も言わない。ただ、己のマスターの瞳を見続けていた。

 

「あと、一つ、約束をしましょう」

 

 キャスターは消える前に振り返り、指を3本ほど立てた。

 

「貴方の左手とは別に、3回だけ、私の意向とは関係なく懇願する権利をあげます。こうすれば、形だけの関係だって、わかるでしょう?」

 

 キャスターはそういい、儚げに笑うと、ローブを翻した。

 

 未だ夜は明けず、月明かりが部屋を射す。

 

 

 

 

 キャスターが姿を消してから暫くして、男は席を立った。

 

 均一になる床を踏みしめる音。

 

 自然に、男は縁側に座り、月を見上げた。

 ほんの少し雲で陰る月を仰いで、何をわらったのか。一瞬だけ口角が動いた。

 

 隣にセイバーが座り、同じように空を仰ぐ。

 

「きっと。同じものを、見てはいないのだろうな」

 

 ぽつりと、セイバーはつぶやいた。

 台所から盗んだ日本酒をつぎ、セイバーはその喉を酒で満たす。

 

「桜でなければ、いけないのだろう?」

 

 再度セイバーは酒を口に含む。

 ほんの少しだけ熱を帯びた舌が、月を摘みに酒を味わう。

 

「シロウの進む道を、きっと誰も理解してはくれないのだろうな」

 

 セイバーは、見ていた。

 最初に共に戦った夜。自分のマスターが、何のために、あのような条件を出したのか。

 何のために、あんな行いをしたのか。

 

 撃ち放った彼女自身が、見ていないわけがなかった。

 

「きっと、間違いだと、誰もが言うのだろうな」

 

 あの時の背中を。

 

 毎朝微笑むその笑みも。

 

 偽物でないことぐらい。痛いほど伝わってきていた。

 

 男は何も言わなかった。

 ただ、言葉を発さず、左手に器を持った。

 

 黙って、セイバーはそれに答えた。

 

 男は、口元に淵を当てると、勢いよく杯を傾けた。

 喉が揺れ動き、液体は体にしみわたっていく。

 

「もう、二度とこんな問いは言わない」

 

 セイバーは縁側から降りると、男に向き合った。

 虚空から剣を取り出して、数振り演武をし、刃を水平にする。

 

 男は、何も言わずに問いを待った。

 

「護りたいものが、あるんだな」

 

 セイバーはそれ以上何も問わず、答えを待った。

 数刻ののち、しかし返答はない。

 

 それでも、セイバーは得た。

 彼の瞳に映る光景が、雄弁に答えを放っていたから。

 

「シロウ。この先、貴様が道を違えぬ限り」

 

 金色の瞳と、金色の髪が月の光に照らされる。

 どこか既視感のある光景に、息を呑んだ。

 

「私は、貴方の剣となろう」

 

 たったひとつだけ、この私が抱えた後悔を。

 この場に立ち、剣を握る意味を。

 

 少年は一度死んでいた。

 目はそこで色を失い。

 手はそこで熱を失い。

 足はそこで意味を失い。

 少年はそこで名を亡くした。

 

 新しく生まれたはずの衛宮士郎も、今はもう死んで。

 抱いた誓いも。願った理想も。遂にはすべて亡く。

 

 だからせめて。

 

「たとえ幾多の罪を背負うとしても。私は貴方のために、この力を振おう」

 

 その丘に、誰も足を延ばさず。

 その背を、誰も支えはしないのならば。

 

「それがどれだけ罪深いことだとしても、私は」

 

 冬の乾いた風が、結ばれた金の糸をほどく。

 たなびく風に揺られる髪が、視界を埋める。

 

「貴方の味方で、いると誓おう」

 

 儚げに微笑むその瞳に、映り込む感情。

 どうしてと、問いたくなるほどに、精錬で、美しい瞳に。

 

 セイバーは男に近づくと、その頬に手を当てた。

 愛しい人を想うように。遠い目を向けるその瞳に寄り添うように、声が響いた。

 

「それが、私の願いだ。それだけは、もう、変わらない」

 

 騎士は初めて、少女のように、笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 見知らぬ天井の下で、目を覚ます。

 重い体を半身だけあげて、朦朧とする意識の鍵を開ける。

 窓からは暖かい日の光と、冷たい乾いた冬の風が吹き入れる。

 

 未だに残る手の熱を、何度も握ることでかみしめた。

 体調はまだお世辞にもいいとは言えぬものの、学校に行くには支障はないだろう。

 この程度なら、普段とたいして変わらない。

 

 そう、間桐桜は、体を起こして伸びをした。

 

 掛けられた時計を確認する。

 針は美しく縦に一直線になっていた。片方の針と背中合わせになるように、長針は下を向いて時を告げる。

 

 .......長針が、下?

 

 靄む思考が一瞬にして過敏になった。

 まるで脳内に直接つららを差し込まれたみたいに、脳は処理を始める。

 

 どれだけ思考を回したところで、目の前に映る景色は変わらない。

 現在昼の12:30。

 残念ながら本日は休日ではない。

 

 わき目も振らず廊下を走る。

 ギリギリとほんのわずかに痛みを発する体を引きずりながら、着替えを抱えて洗面所へと急ぐ。

 

 もちろん水を温めている暇などなく、容赦なく頭部に冷徹な水滴がこれでもかと降り注ぐ。

 しかし、そのすべてを無視した。

 跳ねる寝癖を瞬時に直し、最速の速さで寝間着から制服へとフォルムチェンジを遂げた。

 

 これ以上ないほど晴れ晴れとした思考。

 ミッションは終え。あとはどれだけ早く到着できるかの勝負だと、桜は玄関へと先を急いだ。

 午後からの出席にはなるが、行かない選択肢はなかった。

 もう、数えるほどしか行くことが出来ないかもしれない。そう思うと、体は考えるよりも先に動いた。

 

 そんな時、廊下に変な音が鳴り響いた。

 

 ぐーっと、自らの腹部から絞るようになった音。きっと聞かれていたら顔を真っ赤にしていたであろう、ある意味はしたない音を聞いて、桜は一度冷静になった。

 

 このまま学校に付けば、恥をさらすことになるのは必至。

 であれば先に、その要因を潰すまで。

 

 きっと先輩ならば、食べられるものの一つや二つ作り置きしているだろう。

 そう思って、桜は居間の襖をがらりと開けた。

 

 ボキりと、硬いものが砕ける音がする。

 光る液晶を見ながら、座布団に美しく伸びた背で座りせんべいを頬張る金髪の女性が、襖の方へと振り向いた。

 

「ようやく起きたか。体調はどうだ?桜」

 

 昂然たる姿勢で覗くセイバーに、桜はついあっけらかんとしてしまった。

 まるで家主のように堂々と居座るセイバーは不思議と違和感がなく、桜は常日頃と同じように冷蔵庫へと直進した。

 朝食のあまりか入っていた煮物をレンジで温め、小鉢によそいつまむ。

 アイコンタクトで私の分もと伝えてきた女性の前にも、同じように小鉢が置かれていた。

 

「なにしてるんですか?セイバーさん」

「体力回復と時間潰しだな。そろそろ昼ご飯を食べようと思っていたからちょうどよかった」

「作りませんよ。私すぐに学校行きますから」

「もう昼過ぎだぞ?病み上がりなのだから無理する必要もないだろうに」

 

 すでに空になった小鉢を置いて、セイバーは再度せんべいに手を伸ばした。

 ため息をつきつつ、桜は脇に置いていた鞄を再び手に取り立ち上がる。

 

 居間から出ようと差し掛かったあたりで、セイバーはごくんと口に含んでいたものを飲み込む。

 

「シロウは今日学校には行ってない」

 

 そう、目を向けることなくつぶやいた。

 

「どういうことですか」

「シロウは野暮用で出かけている。それぐらいは言うべきだと思ったのでな」

「それじゃあ、あなたが何で家にいるんですか」

 

 相手がどういった存在であるか。自分がどういった立場であるか。わかったうえで、口調は高圧的になった。

 しかし、物ともせず。それどころか少しだけセイバーは微笑んだ。

 

「大丈夫。シロウはそんなに弱くない」

「そんなことは」

 

 わかっている。そう言おうとした桜は、自分の犯した過ちに気づいた。

 そんなことで声を荒げてしまっていること自体が、かかわりをこれ以上なく証明してしまったから。

 

「心理戦が本当に苦手だな。桜は」

「......意地悪ですね。セイバーさんは」

 

 ほんの少し頬を膨らませる桜を、セイバーは微笑ましく思った。

 

「そのまま学校に行っていればこれ以上話をする気はなかったんだがな。もう、行く気はなくなっただろう?」

「当たり前です。しなければいけないことが一つ増えましたから」

 

 鞄を部屋の隅に立てかけると、その足でキッチンへと向かった。

 

 桜は二人分の湯呑を出すと、やかんに水を入れ火にかけた。

 急須に茶葉を入れ、湯が沸騰するのを待つ間、桜は反射的に行ってしまった先ほどの問答を後悔していた。

 

 それは、少年の手の甲を見た時と、少し似た感覚だった。

 

 ぐにゃりと、今が歪む音がする。取りこぼしてしまった砂が、さらさらと終わりを暗示しているようで。

 ほんの少しだけ、唇が震えている。

 しかしなぜだろう。不思議なことに手は震えなかった。

 

 高い音で意識が戻る。少し水を指して、湯を注ぎ茶を淹れる。

 湯気が立ち上る中、対面に座るセイバーが、ほんの少し茶を口に含む。

 

 未だ変わらぬ様子に、桜は困惑した。

 

「私から、シロウに桜について何かを言うことは絶対にない」

 

 端的に、それでいて大胆に。事の論点の芯を、一点の曇りもなくセイバーは射貫く。

 だが、桜はその言葉を、そう簡単に信じることなどできなかった。

 

 セイバーは、サーヴァントで。少年にそのことを伝えない利は彼女にはないはずだから。

 利が無くてでも、迷いなくその道を選べる人を、桜は人生で一人しか出会ったことがなかった。そしてこれからも会うことはない。確信していた。それ故にどれほど真摯な声色だとしても、おいそれと話を区切ることはできなかった。

 

「どうしてですか?」

「意味がないからだ。桜が聖杯戦争に一枚噛んでいる。そんなことを言ったところで、シロウは何も変わるまい」

「そんなわけ」

「怖いか?シロウの敵になることは」

 

 歯に衣着せぬセイバーの物言い。もう一度、変えられない現実に、引きづられていく。

 

 どれだけ身を清め着飾ろうと。最終的に目的地にたどり着くころには、きっと対面に立っている。

 それが、たまらなく怖かった。

 穢されるのはいい。間桐桜は、その生き方しか知らないから。

 でも、もし、それが、彼から向けられたなら。

 彼に手を、離されるとしたら。

 

 もう。どうつなぎ留めたらいいかわからない。

 どう立ち上がればいいのか、きっともう。

 

「それでいいんだ。桜」

 

 下がった顔をあげると、セイバーは変わらず微笑んでいた。

 それは、何を見つめる目なのだろうか。

 哀れみではない。同情でもない。

 

 例えるのなら、母が子を見つめるような、そんな目をしていた。

 

「桜は、シロウのこと、好きか?」

 

 火打ち石が鳴った。

 凍っていた間も、失っていた感覚も戻ってくる。

 緑の水滴が、空を舞う。ぽたりと、肌に王冠を描いた湯の熱が、頭に響いてくる。

 

 ほんの少しだけ急いで箇所を濡らしてタオルで手をふく。

 シンクに映る顔は赤らんでいた。

 それほど熱くはなかったはずなのに、頬がわずかに温かい。

 

「突然どうして」

「はっきりさせておいた方がいいと思うのでな」

 

 いたずらっこのように、怪く楽し気に笑うセイバーに、桜の肩の力が勝手に抜けた。

 セイバーはにやにやと、つまみを見つけたかのように桜を見ながらせんべいをかじる。

 

「先輩のことは、少なからず想ってます。そうでなきゃ家になんて泊まらないですから」

 

 そういった桜の心境は、声色とは違い、そう落ち着いたものではなかった。

 初めて、口に出した好意の形。踏み出せなかった一つの線。

 

 しかし、セイバーの顔色は変わって少しだけ暗くなった。望んだ答えを得れなかったからか。

 

 それとも何か別の理由があるのだろうか。

 

 コトンと、湯呑が机に置かれる音が鳴る。湯に水をさすように、衝撃で液体が凍り付くように。場は、色を変えた。

 

「そうじゃない。私が聞いているのは、そんな綺麗な話じゃないんだ」

 

 「少し、話をしよう」と、湯呑を空にしたセイバーは、居間の襖をあけて、桜に目配せをした。

 廊下に出るセイバーを、桜が追う。数歩分空いた距離で、桜は庭の前の縁側に座った。

 

 セイバーは庭に降り立つと、その形相を変化させた。

 

 その身に甲冑を纏い、その手に剣を握る。

 黒く、されど澄んだ鎧。人の手に余るほどの芸術的な一刀。

 

 しかしそれを見つめるセイバーの目は、ほんの少し虚ろだった。

 

「私の手は、穢れている」

 

 そう、自戒するようにセイバーは呟いた。

 

「すまなかったな桜。突然、こんな状況に追いやってしまって。私も、心理戦は得意じゃないんだ」

 

 曝け出すように痛々しい笑いをその顔に張り付けて、セイバーは桜の方へ向き直る。

 

「貴女のことばかり詮索するのはフェアじゃない。だから少しだけ、私の話をしよう」

 

 砂利を踏む音だけが、場を満たす。

 剣を虚空へと消して、真っ黒な鎧もすでに脱いで、漆黒のドレスに身を包んだ少女は、自嘲するように笑った。

 

「クラス。セイバー。霊基の器の名はアルトリア・ペンドラゴン。かのアーサー王伝説の王のものだ」

 

 すでに、全マスターの周知ですらある、セイバーの真名。

 しかしそれを、セイバーは何事もないように、他人事のようにつぶやいた。

 

「だが、私の名はもうない。私は、偽物だからな」

 

 まるで、捨ててしまった思い出を話すような。そんな様子で、セイバーは淡々と自分を語る。

 

「もちろん。記録はある。いつ何時、アーサー王が何を想い何を決断したか。それらすべてを、私は知っている」

 

 セイバーはその手に再び剣を握り、演武のように数振り舞う。

 それは、洗練され無駄のない。理想の騎士の一振りだった。

 

 よく言えば清純。悪く言えば無感情。

 研ぎ澄まされた故に、一切の迷いない太刀筋。

 

「彼女の営みを。努力を。力を。私は知っている。この身には、その研鑽の成果が。あらゆる技術が身についている」

 

 しかし、セイバーの顔は全く晴れない。今すぐその身を切り捨ててしまいそうなほど、その手は強く握られていた。

 

「だがそれでも。私は、彼女ではない。私は彼女の残滓を押し固めただけの、継ぎ接ぎの人形だ」

 

 再びドレスに戻ったセイバーを、桜は見つめた。

 桜にはわからなかった。

 そこに立っている英霊が、いったい何を言っているのかが。

 

 でも一つだけ。

 この人は、少年に似ているのだ。

 失ったものを、必死にかき集めようと。手が血まみれになりながら必死に足掻いているようで。

 

「私にはもう、帰る場所はない。最初から、存在しなかったものだ。そのことに、思うことはない。私を形成するもののほとんどは、借り物だからな。それを、返すだけだ」

 

 太陽を浴びているはずなのに、辺り一面から光が失われたと錯覚するぐらい、セイバーの瞳は深かった。

 

「だが、一つだけ」

 

 瞳に光が灯る。強く、滲み出た声が、桜の耳に焼き付く。

 暗闇に、一点だけ。されど轟々と音を立てて燃え上がる光が、そこにはあった。

 

「盲目な瞳に、光を灯してくれた少年がいた。誰一人支えない背を、必死に押す愚かで愛おしい少年がいた」

 

 セイバーの肩から力が抜ける。何かを抱えるように腕を曲げて、その手のひらを見つめて。

 それはまるで、零してしまった砂を眺めているようだった。

 

「名も、誇りも、意味もすべて失って。それでも、歯を食いしばって立ち続けた少年がいた」

「それは」

「手を離してしまったよ。私は。誰より支えたい人を、この手で切りつけることしかできなかった。そんなことでしか、私は少年に尽くせなかった」

 

 目をそらしたくなるほど膿んだ傷跡。

 背から血を流していると錯覚するほどに、それはセイバーの魂を鋭利に切り刻む刻印だった。

 もう、取り返しのつかない罪を犯した。やり直すことなどできないと知ったうえで、その背は消えない過去を痛々しいほど鮮烈に語る。

 

 どこか、空いた風穴を見ているようで。

 

「私はな。桜。もう、二度と、この手から零さないと決めたんだ。何もなくなって、帰る場所がなくなって、立ち上がれなくなりそうな少年を、支えてやると、決めたんだ」

 

 もしもそれが、彼女への裏切りになるとしても。

 そう言い捨てた英霊の言葉に、桜はそれ以上何も言うことが出来なかった。

 その瞳に迷いなどなかった。

 

 それでも、英霊はなくしたものを見続ける。

 

「だけど。私には、彼を救うことなどできない」

 

 無力な自分をあざ笑うように、セイバーは笑う。誰に向けられているわけでもないその笑み。

 それが。いつかみた少年と、重なったように見えた。

 

「力になることはできる。眼前に立ちふさがる敵を薙ぎ払うことも。背後に忍び寄る邪悪を断ち切ることも。

それでも、私は。一人ぼっちの彼を。降ろせない」

 

 隣に立つことはできる。迫る敵に、目線だけで意思疎通を取って、殺意を胸に敵の刃を打ち砕くことも。

 背後に立つこともできる。その背を狙うものから護ることも。

 

 けれど。

 

「私は、奪うことしか知らない。支配することしか知らない。統治することしかできない。だから、与えることなどできないんだ」

 

 正面から、その頬をたたくことも。

 正面から、涙を拭いてやることも。

 正面から、抱きしめてやることも。

 

 何一つできやしない。だって剣なのだから。

 刃では、傷つけることしかできない。

 

「いくらその頬に血がついていても、この手で拭ってやることすらできない。たったそれだけのことを。私には、そんな資格すらないんだ」

 

 真っ赤に染まった手では、少年を穢してしまう。

 剣を握った手では、彼を傷つけてしまう。

 

 異端の象徴。非日常の象徴である英霊では、彼の求めるものを与えてやることは、永久に不可能だから。

 

「だから、もう一度だけ聞く。桜は、シロウのことが、好きか

貴女は、衛宮士郎がたとえこの先、何を成そうと、揺れ動かぬものがあるか」

「......私の感情は、そんな綺麗なものじゃありません」

「綺麗なんかじゃなくたっていい。薄汚れていても。欲と渇望に満ちたものでも。ただの憎しみだっていい」

 

 二人の視線は重ならない。

 見ているものが違い過ぎて。抱えた環境がずれすぎて。

 それでも、桜にはわかることがあった。

 

 セイバーは伝えたいのだ。

 ただ、少年のために。そして桜自身のために。

 

 誰にも、背負われない生き方を。

 そんな生き方を、しようとしている人がいる。

 誰よりその熱を愛しているのに、誰よりも、想っているのに。

 剣で出来た体では、誰も抱きしめることなどできない。

 

 そんな生き方を、もうさせたくない。

 それを背負うべきなのは、罪を背負うべきなのは。断じて彼ではないと。

 

「私は、きっと先輩のことを裏切ります。わかるんです。何故かはわからないけど。私は、あの手を離してしまいます。傷つけて、嬲って、踏みつけて。大切にしてくれた熱を私は」

「そんなことは、わかってる」

「だったら.......だったら私にどうしろっていうんですか。こんな、こんなもう救いようのないからだで。そんなものを背負ってしまう勝手な人に、無力な私じゃ、力になんて」

「本当に、そう思うのか?自分にしかできないことはないって。貴女は、シロウにそこまで想われていないと。言えるのか?」

 

 伏し目な桜の顔を、優しくセイバーは上げさせた。

 その手にはもう、鎧も、剣も持ち合わせてはいない。

 ただの、一人の少女だった。

 ただ、強くて弱い一人ぼっちの少女が立っていた。

 

「桜。シロウは直視すれば目を焼く光源だ。側にいればいずれ貴女が傷ついてしまう。きっとそれは、貴女にとって酷なことだ

 それでも、もう、目を逸らさないでやってはくれないか。シロウの軌跡を。痛々しいまでの傷痕を。それは、他でも無い間桐桜にしか、できないことなんだ」

 

 泣きそうな顔で、少女はそういった。きっと誰より彼のことを案じる少女は、そう、懇願した。

 わかっている。間桐桜にできることなんてほとんどない。その事実は、どうしたって変えようがない。けれど。

 

「シロウのことを、見ていてやってくれ」

 

 誰にも、負けないこと。誰にも譲れないこと。

 誰よりもずっと、そばでしていたこと。それだけでもと、しがみ続けた願い。

 

「シロウのことを、救ってやってくれ」

 

 たったそれだけの言葉で、何かが揺らいだ。髪をまとめる糸が、風に揺らいで少しだけ緩んだ。

 逸らし続けた光。凍り付いたどこかに、火が灯った。

 途方もない恐怖が襲うけど、それでも。立ち上がるには、十分すぎた理由だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 土蔵の中から漏れ出る光を、夜目になれた目で垣間見る。

 金属がこすり合う音が、中からかすかに聞こえる。

 

 見えるのは、いつか目にしたことのあった、小さな背。しかし記憶の中より大きく、強くなったように思える背。

 

 初めてこの光景を目前にしたとき、目を疑ったのを今でも覚えている。

 それと同時に、何か別の感情が生まれたことも。

 

 鍛錬なんて言うことが出来ないほど、目の前で行われていた所業は凄絶に過ぎた。

 命を捨てる行為といえばまだ聞こえがいいほど。

 人としての生を、その手で削るように。何度も何度も刃で自分の体を刺し貫く姿に、口元を抑えなければ声が漏れてしまいそうだった。

 

 今覚えばそれは、怒りだったのだろうか。

 どうして、この人は、自分の手で、幸せを切り捨ててしまうのか。

 喉から手が出るほど欲しいと思った。そして失ってしまった景色。そんな世界に手が届く癖に、どうして。

 どうして彼はその足を、こちらに向けてくるのだろうと。

 救えないものを。壊れてしまったものを。穢れてしまった世界を。

 死を。

 

 そんなものを、背負おうとしているのだろうかと。

 

 まるで、生きることを許されないかのように。そんな責務を背負い続けていた。

 何の疑問も抱かず、何の不平も漏らさず。

 ただ。こんなにも美しいほどに、研ぎ続けていたのかと。

 

 その姿が、どうしようもなく嫌いだった。

 どうして、助けを求めないんだろう。

 どうして、捨ててしまわないのだろう。

 重荷でしかない。捨ててしまえばいい。責務も、苦しみも、涙も、全部洗い流して笑って明日を生きればいい。きっと誰も責めないはずだ。彼が幸せになることを、誰も糾弾することなんて許されない。

 それなのに、涙を噛みしめて、刺さる刃を受け止めて。そんな体で、誰かに笑ってあげられるのだろう。

 もうボロボロなのに、崩れる体で手を伸ばそうとする少年。

 

 それなのに。彼は、こんなにも苦しそうなのに、誰も助けてあげないんだろう。

 

 そんな、刻まれた記憶。

 重なり合うときの中で、凛々しくなった背だけが変化を物語っていた。

 

「やっぱり、まだ起きてたんですね。先輩」

 

 ピクリと動いた人影は、手元を少し動かすと、スッと立ち上がり扉の方へと歩いた。

 

 ガラガラと、音を立てて扉が開く。

 

「夜遅くに、どうかしたか?桜」

 

 先輩は、人懐こい笑みで微笑んだ。

 気づかなければ、良かったかもしれない。いや、見ようとさえ思わなければ、変化にさえ気づかないほど微々たる差でしかない。

 だけど、その表情は、隠しきれないほどに霞んでいた。霞んでしまっていた。

 まるで、泣きはらした後。映す表情を失って、苦し紛れに笑うようで。

 

 握りこぶしに、力が入る。

 

「先輩こそ、私の言ったこと、忘れてしまいましたか?」

「あー。すまん。少し集中していたから時間を見るの忘れてたよ。少ししたら戻るから、桜も部屋に戻っててくれ」

「嫌です。先輩、そういって最近は毎晩こっちで寝てるの、知ってますから」

 

 先輩を半ば強引にどかし、薄暗い内部に入る。先ほどまでは明かりすらなかったのではないかと思えるほど、漏れる月明かりはか細い。

 少し困った様子で、先輩は頭を少し掻いて、雑多な荷を掻き分けるようにして何かを出し始めた。

 

「何を出しているんですか?」

「ん。ストーブ」

「.......なんでここに居座るつもりでいるんですか?」

「部屋に戻るにはまだ目が覚めてるからさ。俺だけならいいけど、桜もいるならつけたほうがいいだろ?」

 

 壊れていたはずのおんぼろなストーブに火をつける。短く高い音が響く。

 

「それに」

 

 ストーブに手をかけながら先輩はこちらを振り向く。夜目に慣れ始めた瞳に、赤い光が残像を映す。

 だから、重なった先輩の瞳が、見えなかった。

 

「桜がわざわざここに来たってことは、何か話したいことがあるんじゃないのかなってさ」

 

 察しがいいのか。それとも、そこまで私は表情に出してしまっているのか。

 伝わってほしくないことまで伝わってしまっているのではないかと、少しだけ不安になる。

 

 先ほどまで使っていた座布団を、これでもいいならと差し出された。

 少しだけぬくもりが残る布を敷いて、膝にスカートを織り込む形で腰を据えた。

 目の前の明かりが熱を発する中、それ以上に隣の熱が心を温める。

 

 ぴたりと、小指が手の甲に当たった。

 今にも消えてしまうのではないかと思うくらい、冷え切った手。

 

 とっさに、被せるように手の甲を包んだ。

 少しは反応してくれてもいいのに。ピクリともしない手が、少しだけ不服だった。

 そう、彼の横顔に目を向ける。

 彼の耳は赤くなっていて、それが寒さのせいなのかはわからない。だけど少しだけ気分が晴れた気になった。

 

 視線を、再び前に戻す。変わらず熱線を放出し続ける様子に、心が温まる。

 傷だらけだった機械に、再び命が吹き込まれたのだろうと。

 

「これ、直したんですか?」

「うん」

「そのために、最近こもりっぱなしだったんですか?」

「まあ、それも一つの理由かな。そういえば、まだ直してなかったなって」

 

 一点を見つめる先輩の横顔を過ぎて、明るくなった土蔵の中をぐるりと見渡す。

 ごちゃごちゃで、でも少しだけ整得られている。そんな印象を裏切るように、整理整頓された道具たちがあった。

 

 違和感が脳裏にわずかに走る。

 

「整理、したんですね」

「汚いままじゃ藤ねえも物の位置とかわからないかなって」

「藤村先生ってどちらかというと荒らす側だと思いますけど」

「違いない。どんだけ物押し付けられてたのか、少しわかったよ」

 

 ようやく笑みが漏れた先輩の顔は、少しどこか既視感のあるものだった。

 

「羨ましいです。藤村先生は。先輩と、ずっと長い間の思い出を持っていて」

「まともなものなんて数えるほどにしかないよ」

「先生、昔からああなんですか?」

「ああって。まあ、もっと激しかったかな。此処に引き取られてから暫くは、藤ねえに引きずられっぱなしだったから」

 

 何事もない。人並みの思い出を語るように、先輩は話す。

 でもそれは、懐かしむというよりはむしろ、憂うような声色で。

 

「つらかったですか?」

「藤ねえからはそう見えてたのかな。でも、そんなことはなかったよ。やるべきことが決まっていて、その環境もあった。俺にとっては十分すぎたと思う」

「........それじゃあ先輩は。楽しかった、ですか?」

 

 恐る恐る尋ねた問いに、先輩は答えてはくれなかった。

 悩んでいるわけではなく、明確に。彼の答えは決まっていた。

 楽しかったわけなんてないことぐらい、私にだってわかる。

 

 だからこそ。

 

「私には、わからないんです。先輩のこと、何も知らなくて。私、私自身のことすら、わかんないことが多すぎて」

 

 胸が苦しくなった。首から下げられた重みの分だけ、痛みが体を走った。

 

「私、昨日はとても楽しかったんです。貰ったネックレスも、握ってくれた手も、何物にもかえられないくらい大切で。

でも、どうしてそんなことしてくれるのかなんて、わからなくて。いくら考えても、答えが出ないんです」

 

 与えたことが無いから、与える理由なんて知らないから。

 

「だって私は」

 

 私は、裏切り続けていた。今でさえ、先輩のことなんてほんの少ししか考えられてない。

 もしも言えたなら、どれだけ楽なのだろうか。貴方のことを、裏切り続けていますと。貴方が私に抱いている感情は、誤解にしか過ぎなくて。私は、私のためにここに依存しているだけで。本当は、醜く穢れた女なのだと。

 でも、そんなこと、言えるわけがなかった。

 

「先輩は、これでよかったんですか......?」

 

 先輩は口を開かない。

 ただ、指に優しく力がこもるだけだ。

 

「先輩は」

 

 唇が震える。

 寒さのせいではない。手は暖かい。体も、心も。もうこれ以上ないくらい、今の自分は熱を持っている。

 でも、震えている。唇だけが、己の体じゃないように、制御を奪われて思うように働かない。

 

 言葉に詰まっているのを心配しているのか、安心させるように返された手のひらが握られる。

 

 無理しなくてもいいと、そう伝えてくる感触に、頬が緩んだ。

 

 超えてはならない一線がある。

 踏み込んではいけない領域がある。

 でも、そうしなければ届かない手のひらがある。

 

 私は、どうしたいのだろうか。このまま与えられ続けてしまっていいのだろうか。貰って、微笑んで、そうして何も知らないふりをして、わずかな時を大切に生きればいいのだろうか。

 心のどこかで、それを許す声が聞こえる。

 そのくらいなら、許容されて然るべきだと。

 

 握られて、背を押されて。 

 離さないまま。もう何もいらないから。せめて今だけでもこの手が握られ続けられるのなら。

 

 そう思えたら。どれだけ幸せなまま、間桐桜は死ねただろうか。

 

「もし私が悪い人になったら、許せませんか?」

 

 震えは広がるように、全身を蝕んでいく。

 そんなことに気づいてほしくなくて。必死に手に力を入れて、震えが移らないようにと。

 

 けたたましい幻聴が、脳裏に響く。

 大切にしていた糸が、はち切れてしまったのか。

 

 沈黙が場を埋める。

 小さな金属音だけが、耳にまとわりつく。

 

「桜が」

 

 水がほんの少しだけ溢れ出るかのように、先輩はぽつりと小さな声を出した。

 視線は交わらない。

 表情も見えない。

 けれど確かに、目の前には先輩の心があるように思えた。

 

「うちに来るようになってどのくらいたつかな」

「え」

「中学のころからだもんな。もう、俺よりも料理、上手くなったかもしれない」

 

 ゆっくりでとても暖かい声。

 ふと、目線を先輩の瞳へ移す。そこには、遠き日々を映し出した瞳があった。

 

 ほんの少しだけ、震えが収まる。

 

「桜」

「はい」

「これまで何回くらい、お帰りって言われたのかな」

「.......わかりません」

「俺も分からない。でも、数え切れないほど俺はその言葉を貰った。それだけは、確かだ」

 

 熱の光が、胸元にあるペンダントに反射する。

 5つの花弁を抱えて咲く花が、映し出される。

 

 そんな光を、先輩はじっと見つめていた。

 

「鍵を渡した時のこと。覚えてるか?」

「はい」

 

 喉の奥から、深く吐くように声が漏れた。

 絶対に忘れているわけなんてなかった。

 

「桜、頑固なくらい通い詰めて、俺の手伝いをするって聞かなかったよな」

「今思えば、私らしくなかったかもしれません」

「それで俺の方が折れて、合いかぎを渡したんだったな」

 

 鮮明に思い出せる。

 その時の風景も。色褪せない暮れも。手に乗る重みも。移る温かさも。

 1秒たりとも、忘れたことはない。

 

「そのくせ、渡したら渡したでこんなもの受け取れないなんていいだして」

「驚きます。赤の他人に、突然合い鍵を渡すなんて」

「それでも、桜は受け取ってくれた。それで今、桜はここにいる」

 

 ポケットに入っている金属を触る。

 居場所の証。私を繋ぎとめてくれる、最初の熱。

 

「桜」

「はい」

「俺には、わからなかった。余裕がなかったなんて理由で、目をそらし続けていたよ。今でもわからない。だから、楽しかったですかといわれて、答えるセリフがないんだ」

 

 力強く握る手に、返される重み。

 先輩の声色は変わらないはず。それでも、冷たい風が溢れていた。

 空いてしまっている風穴から、びゅうびゅうと乾いた音が聞こえる。

 

「でも、知ったんだ」

 

 先輩の中の何かが、音を立てている。

 擦れるように聞こえていた。

 だが違った。削れているのだ。

 今でも彼の心が、目の前で削れていく。砂粒になって、風に吹かれて、それでも必死に、鎖で形だけはつなぎとめて。

 

 降り積もる砂塵だけが、彼を物語っていた。

 

「お帰りって言われることは、とても暖かいことで。帰る居場所があるっていうのは、それだけで幸せだってことを」

 

 握られていた手が離される。

 代わりに、先輩は少しだけ体をこちらに向ける。

 

 伸ばした手が、私の頬をなでる。

 やっぱり冷たくて。それでも大きな手のひら。

 

 先輩は、正面から私を見つめた。

 逸らさずに、私に残った柔らかい部分を優しくなでた。

 心が、変な音をたてた。

 

「だから、桜。俺は、幸せだった。鍵を渡したあの日から、俺は、幸せだったよ」

 

 頬をなでる手に、雫が落ちる。

 いつの間にか、泣いていた。

 悲しいわけでも、苦しいわけでもない。

 それでも、流れる涙が止まらなかった。

 

「誰が何と言おうと。たとえ桜自身が、それを否定しようと。答えは変わらない」

 

 これ以上はいけない。

 そう、心の中で誰かが叫んだ。

 

 過去形な言葉も。血だらけに見えるその体も。

 今にも崩れ去ってしまいそうで。脆く儚く。それでも強い心も。

 もう、これ以上、目の前で傷つけないでほしかった。

 

「君の声で、俺はもうとっくに。救われていた」

 

 そう微笑む少年の姿に、もう、声を抑えていることなんてできなかった。

 

 わからないわけがなかった。

 すでに壊れ切ってしまっているのに。全部飲み込んで、ついてしまいそうな膝に剣を突き刺して。

 

「......違います。ダメなんです」

 

 いけないとわかっていても、漏れ出てしまう思いがあった。

 こんなものが私の中にあったのか。そう思うほど、瞳が熱を持つ。

 

 いつからだろう。

 どうして、私は気が付かなかったんだろう。

 知られたくなかった。

 隠せていたと思っていた。

 

 現に、今までは気づく素振りなんて一度もなかった。

 だから、私はまだ浸かっていられた。

 

 綺麗なままでいてほしかった。

 だから穢れた私は、いつかこの明るい世界から、手を離さなければいけなかった。

 

 わかっていたはずだった。

 何度も何度も理解したはずだった。当たり前のように、背負ってしまう人だってことぐらい。

 

 それでも、重荷にならないように、いつかその手を去ろうって。

 でも、もう、これ以上ないくらい。とっくに彼は。

 

「私は、ここにいてはいけなかったんです。私が、貴方の」

「誰だって、誰かにとっての悪い人になる」

 

 ぽすんと、誰かの胸に、自分の体が収まった。

 涙が、服に軌跡を描く。温かい体温が、強く刻まれる鼓動が伝わる。

 

「いいんだよ。桜。叫んでいいんだ。憎くて、妬ましくて、羨ましいって。どうして、何一つくれなかったのって」

 

 ふわりと、包んでくる優しさが、心に刺さる。

 壊れてしまう。これじゃあ。

 溶かされて、もう、立てなくなってしまう。

 

 それでも、優しく、力強く、背中に腕が回る。

 

「泣いていいんだ。もう何も、奪わないでって」

 

 溢れ出る涙。

 抱き寄せられた体で、肩を濡らした。

 下から、両腕でしがみつくように抱きしめた。

 

「怒っていいんだ。どうして、そばにいてくれないのかって。どうして自分の周りは、こんなに優しくないんだって」

 

 声はやまない。

 穏やかな声色。

 ギリギリと痛む心を癒すように、麻薬が体に浸透する。

 

 超えてはならない一線。

 踏み越えてしまった一線。

 

「どうして、私を救ってくれないのかって」

 

 境界のガラスが、けたたましい音を立てて壊れた。

 声があふれた。

 抑え続けた嗚咽が、土蔵に響く。

 

 決意があった。そこには、覚悟があった。

 もう、取り返しのつかない道を進んでいた。

 

「いいんだよ。もう、寒くなくても、いいんだ。抱きしめてって、願っていいんだ」

 

 頭をなでる手。

 もう、離したくないと願った。大きな手のひら。

 

「だめ、なんです。それじゃあ先輩は」

「ああ」

「だって、」

「そうだ。俺は」

 

 何かが、崩れていく音がした。

 涙が滴る音がした。高温で、光り輝く雫。

 だが違った。涙なんかじゃない。

 

 彼の背から、朱い熱があふれていただけだ。

 私はその熱で、こんなにも、満たされていたのだ。

 

「正義の味方に、なりたかった」

 

 答えを物語る、血潮で濡れた言葉。

 

「私が......貴方の場所を」

「でも、いいんだ」

 

 顔なんて見えない。

 声色は、未だ穏やかで、体を癒す。

 それでも、わかった。

 

「これで、いいんだ」

 

 これ以上にないくらい。わかってしまった。

 

 見えない涙が、肩に堕ちた。

 

 傷がつくほど、彼の背中を抱きしめた。

 掻き傷が残ってしまうほど。赤くその身が染まるほど。

 

 涙が、溢れて仕方なかった。

 どれだけ撫でられても。どれだけ熱にあふれても。

 声が、溢れてきてしまった。

 

 嗚咽だけが、場を満たした。

 漏れ出る思いが、止まらなかった。

 

 ごめんなさい。

 

「ごめんな桜。俺は、きっと君を救えない」

 

 こんなに、傷つけてしまって。

 

「だから。桜はさ。俺のこと、赦さないでくれ」

 

 こんなに、満たされてしまって。

 

 奪ってしまった心に、償う方法など知らなくて。

 壊してしまった代償に、捧げられるものなどありはしなくて。

 そんな生き方を、知らなくて。

 

 ああどうして、こんなに月が綺麗なのに。

 私たちは、こうなってしまったのだろう。

 




実はオルタはかなり大きな独自設定だったりします。

あと、感想いつも読ませて頂いています。本当に、本当にありがとうございます。
頑張るから。失踪しないように頑張るから...

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