ただそれだけ
わずかに階段が軋む音が鳴る。他に鳴るモノもない夜の
その小姓は少々の不気味さを覚えながらも気丈に天守閣を登って往く。その足は既に六階に着いていた。下階より蝋燭の灯りだけを頼りにここまで登ってきたが、ここに来てどこからか流れてきた隙間風に煽られ、灯りは消されてしまった。肝試しという遊び事に対して貴重な蝋燭を浪費してしまうのは憚られたために、使い古しの滓を集めたような小さな蝋燭を使ったことが仇となった。
外から入ってくる僅かな月明りだけが薄く階段を映す。その薄ぼんやりとした灯りが余計に小姓の肝を刺激した。一歩先を超えてしまえば、二歩先は朧気であり、三歩先は暗闇であった。小姓にとって一寸先が闇であったほうが逆に気が楽であった。見えなければそこに何が潜んでいようと分からない。しかし、僅かな灯りによって生み出される物陰がそこに何かの存在を小姓に意識させてしまった。
小姓は思わず引き返してしまおうかと考えたが、たかが天守を登るだけの肝試し、首が晒された刑場でもなくおどろおどろしい墓場でもない、こんなことで肝を冷やしているようではとても武士としてはやっていけないと考え、歩みを進めた。
蝋燭の灯りが無くなったことにより、階段の軋む音がより一層耳に付くようになった。更には心の臓が耳のすぐ隣にあるのではないかと思えるほどの鼓動の音が耳から離れなくなった。背中に水を掛けられたような冷たい感覚を覚えた小姓は自分でも気が付かないうちに早足なってに階段を登った。武士としての気丈な意識に反して、恐ろしいモノを目に入れたくないと顔は下を向いていた。そのため、自分が今どれだけの段を登ったか分からなくなっていたが、ついに今より先に段がないことに気が付いて、そこで一度歩みを止めた。
嗚呼やっと終わりか、この一段を超えて早く終わらせてしまおう、小姓はそう考えたが足は一向に上がろうとしなかった。小姓はもう一つ考えた、別にここで引き返してしまっていいのではないか、誰が見ているわけでもない、それにほれ、あと一段などと言うがそんな物はここまでの段数を考えれば僅かな誤差にすぎないだろうよ、今自分が立っているところなぞほとんど七階だろう。その考えが出た時点で実際にどうするかは別として、一度体を後ろへ向けた。
小姓は体が芯から凍り付くような感覚を覚えた。下へと続く階段は闇に包まれており、自分はこんな恐ろしい空間を通ってきたのかと。
怖いと、そう考えた時にはすでに足は後ろへ下がっていた。当然の事で足は段差に遮られ、小姓は思わず後ろへと転がる。転げた痛みに我に返った小姓は、自分が天守の七階の床に尻もちをついていたことに気が付いた。冷静になって辺りを見渡せばなんてことはなく、様々な物が置かれているだけの物置のようで別段恐ろしいようなことは無かった。
やりきってしまえば随分と呆気ないないものだ、さて引き返そうかと、小姓はそう考えた。
「誰?」
足が止まった。軽やかな声であった、小姓は思わず美しいと感じた。声が自分の体の中に静かに染み入ったように感じた。不思議な余韻を感じた小姓だったが、再び心の臓の動悸が激しくなる。振り返ってはいけないと自分に言い聞かせるように念じる。
「私はしがない小姓でございます。そちらは物の怪の類か、或いは天守に久しく棲むとされる真の城主で在らせられる姫でございましょうか?」
小姓は振り返ることなく答えると次に声の主に問いかけた。小姓がここまで一人で登ってきたのには理由があった。ただの肝試しならばそこらの墓場でよかった、ただここ姫路城の天守には刑部姫と呼ばれる怪物の類が住んでいるという話を聞いたからであった。幽霊の正体見たり枯れ尾花と言う、自分がその正体を明かしてやろうという気持ちであった。
「その通り、私はここに住む姫。あなたはここへ何をしに来たのですか?城主が来る日は今日ではないはず」
伝え聞いた話の通りであると小姓は思った。この姫は年に一度だけ城主と会っているようだ、しかし話ではその姿は老婆であるはず、それにしてはやけに若い娘のような声だと感じた。
「姫様の御前に在って偽りは申し上げません。ここへは姫の噂を聞いた故、いざその正体を明かしてやろうと肝試しに参った次第でございます。姫様の間に踏み入ってしまったこと誠に申し訳ございません。その姿を瞳に入れることなく疾く去ります故、どうかお許し願いたい」
話によると姫は自らの領域に足を踏み入れられることを嫌うという、軽々しくその禁を犯してしまったが故に小姓は少しでも姫の機嫌を損ねまいと正直に目的を言った。
「随分と正直な者ですね。いいでしょう、こちらへ向きなさい」
小姓は内心では姫の言葉を拒否したかったが、相手は姫路城の守護を担っているとされる者。その命に背き機嫌を損ねることになってしまえばこの先どのような災いが降り注ぐか分からない。恐ろしさを根性で押し殺し、小姓は後ろを振り返った。
「正直なあなたにここまでやってきた証を与えましょう。その代わりにここで私と出会ったことは決して他言してはなりません」
小姓は姫の姿を目にしてしまったことを後悔した。噂に聞いた老婆の姿はどこにも無かった。ただ美しい姫がそこにいた。緋色の袴に十二単を纏い、流れるような黒髪が月の光を受けて煌く。清楚で気品溢れるその佇まいからは神々しさすら感じられた。これほど美しい者を小姓は他に知らなかった。ここで姫の美しさを知ってしまったことで小姓はこの先、どれほどの者を見ても美しいと感じられなくなってしまうであろうことを確信し、その事を悔いたと同時に天に感謝した。
「あ、有難き幸せにございます」
小姓はこのままでは美しさに目を焼かれてしまうと感じ、膝を着いて頭を下げた。暫くの間、何やら姫が辺りを探っている音が聞こえた。
「うーん、あ、これなんか立派そうだしこれでいっか」
姫が小声で何かを呟いていたが幸か不幸か、小姓の耳にまでは届かなかった。
「こちらへ」
「はっ!」
姫の呼びかけに対し、小姓は頭を垂れたまま姫の手が届く位置まで移動した。
「手を」
小姓は恭しく手を挙げた。そこにそっと何かが置かれた。何やら硬質な物ようだったが触っただけではそれが何かは小姓には分からなかった。ただそれとは別に僅かに小姓の手に触れた細く柔らかなもの正体に気が付いた小姓は思わず赤面した。更に恐怖とはまた違った理由で心の臓の鼓動が激しくなった。
「では疾く去りなさい」
姫の指の感触の余韻が残ったままの小姓は心ここに在らずといった様子か、ほぼ無意識のうちに頭垂れたまま階段を下っていた。
そこでようやく我に返った小姓はもう一度だけ後ろを振り返った。そこには何者も居らず、ただ静かな空間が広がっていた。思わず今見た姫の姿は幻であったのではないかと小姓は感じた。だがその手には確かに姫から賜った兜の
小姓の気配が完全に去った。天守では一人の乙女がだれていた。
「あぁもう姫様っぽく振る舞うの疲れたぁ。なんで急にきちゃうかな、こっちにも準備ってものがあるのに。まあちゃんと口止め料も払ったしもう来ないでしょ……来ないよね?来ないでよ?」
今日も姫路城の八天堂様こと、刑部姫は元気に陽気に引きこもり中である。
刑部姫への愛が溢れて死にそう
参考文献:日本妖怪大辞典
:老媼茶話(近世奇談集成 1収録)