「じぇ?」
困惑する。気がつけば闇の中にいたのだ。見えているのに見えていない。今まで体験した事の無い出来事であった。星の光も届かない空間でありながらも、自分の姿だけははっきりとこの瞳で捉えていて、それ以外は全ての存在を呑み尽くす虚無を湛えていた。茫漠と広がる虚空に身を浸す感覚は、空を飛ぶ時のそれに酷似しているようであった。だが淀んだ不快感が体の奥底からこみ上げてくるようでもあった。非現実的でありながらも奇妙に生々しい実感を伴った悪夢のような感覚。しかしこれが夢であると結論づけることが出来なかったのは、単にこの感覚を体験していたからに他ならない。そう、ここは月面と同じ。人の侵入を拒まんとする聖域。
「私もゲームをしてみたかったのよ。お相手してくださるかしら」
空気を掻き乱す存在も無く、耳が痛いほどの静けさを踏みにじったのは、歳相応の潤いを含みつつも、世界が全て思い通りにいかないことを知っている憂いを帯びた声。手を引っ張られるように、声の主の顔を見た。焦点が定まってるのかも定かではない瞳で捉えた姿は紫そのもののようであった。いや、姿かたちは問題では無い。自身の感覚がこいつは紫だと囁いていた。が、次第に焦点が定まっていくにつれて、本当の姿が網膜に映し出されて行った。そして完全な出で立ちを見た瞬間に、紫とは根本が全く異なっていると結論づけた。こいつは人の不幸を嘲笑う奴じゃない。もっと悪質な、万人の幸運を望む奴だ。ジワリと汗が滴る。
先ほどこいつが口にしたのはゲームへの誘い。何のゲームだ、と自問自答する振りをしてみたものの、結論は既に出ている。そして、こいつの正体についてもだ。甘ちゃんの姫君といった態度からして断言してもいい。
「豊玉姫命」
夢うつつといった感覚が未だに抜けない面持ちでポツリと呟く。こいつの不動であった耳がピクリと反応し、元から満面の笑顔をしていたが、さらに喜色が増したような気がする。月人の表情は読みにくいことこの上ない。人間味が薄れすぎているが、こいつはその中では分かりやすい方だ、と思う。
「それなら自己紹介も不要ね。要件は……前回の騒動ではしてやられちゃったからその仕返しかしら」
仕返し……? 霊夢が投了して私達が負けたはずだ。いや、心当たりはある。紫と幽々子だ。こそこそと何かを企んでいるようではあったが、豊玉姫命の口ぶりからして私達、ロケット組は鉄砲玉として使われたらしい。そうして得た甘汁を独り占めか。実にあいつらしい。
そう言って現実から目を背けてみたものの、事態は一向に改善しない。この空間はこいつが作り出した空間であるらしいことからも自明の理ではある。ならばこいつを満足させない事には帰らせてもらえないということか。相変わらず身勝手で無茶苦茶な連中だと悪態をつきながらも、無言の首肯をした。
「ルールは聞いているわ。自分の大技を全て見せて相手に躱されたら負け、だったわね。それでは始めましょうか」
言い終わると同時に世界が暗転した。闇に覆われた世界から一転して明らかに輝度を増した月の海がそこにはあった。そして理解することは放棄した。箒に跨って空を飛んでいたが、既に私の理解の及ぶ範囲ではない。ひもがどうとか、と話には聞いていたが、実際に体験しても理論体系を理解できるようにも思えず、かといって語られたところでこれっぽちも分からないのは火を見るより明らかだった。もうやけだった。自分の正気を疑う神経まで麻痺させて、早く終わらせることだけを優先することにした。
「いいや、持てる最大の技一つをぶつけ合うのが最近の主流だよ」
口を動かしながらエプロンの内ポケットから八卦炉を取り出した。よく分からん連中に私の魔法が届くとも思えないが、目標となる星はこの程度のものじゃない。ならばこいつに過擦り傷程度負わすことさえ出来ないならば、霊夢には一生勝てないということの裏返しになる。体の四肢からオドを掻き集め、今持てる最大の技を撃たんとした。
「最大、ね。では私から行かせてもらおうかしら」
妖艶に瞳が揺れた。何処までも深く、そして温かい瞳が脳裏を穿ち続ける。さあ、鬼が出るか蛇が出るか。いずれにしてもろくな結果にならないことは分かっている。どんな事実でさえ受け止めて、白昼夢にするつもりだったから問題は無い。
「八尋熊鰐よ。不浄なる者の衣を剥がしなさい」
世界が暗がりに落ちた。明らかな異常事態に思わず空を見上げれば、そこには鬼でも蛇でもない、魚の化け物がいた。大きさを測るのも馬鹿馬鹿しいほどの巨体を苦でもないようにくねらせており、こいつが世界最大級の生命体であることは瞬時に理解出来た。胴体は細身の樽型、四肢は鰭、尾鰭のように太く幅広い尾。 そして何より特徴的なのは、長い全長のうちの何割かを占める大きな顎であった。龍のようにも見えるが、神聖さは持ち得ず、獣のような性質を兼ね備えている。悪くいえばただ姿かたちを龍に似せているだけのようであった。少なくともあの邪龍の方がよっぽど龍らしさがあった。だからといって明確な脅威であることは他ならない。溜め込んだ魔力全てを八卦炉に送り込み、とっておきの魔法を持って迎え撃つ。スペルカード宣言する必要は無かったが、身体が叫びたがっていたのか、自然と言葉が口から漏れ出た。
「恋符「マスター スパーク」」
八卦炉から今か今かと待ちわび、漏れ出ていた光を全て解き放った。色褪せた月の空に映えたのは天の川の輝き。月よりも太陽よりもなお眩い星の煌めき。網膜に焼き付いた鮮烈な色がハレーションを引き起こし、訳もなく鼓動を高鳴らせる。曲がることも無く、止まることもなく、何処までも突き進んでいく私の恋心。一瞬たりとも誰にも止めることなど叶わない。冷えきった空気を焼き尽くし、衝撃波が無音の空を蹂躙し、空間ごと世界を揺らしていた。空気が消えたことによる真空状態は辺りの空気までも吸い込み、消し去っていく。静かの海という名称を反故にしていくことに愉悦まで感じていた。
最高の一撃だった。最高の光だった。そして、最高の恋だった。撃った自分自身でさえ驚くほどの威力を秘めていた。これならば、この月人にさえ止められない。そう信じていた。
「直線も、空間が歪むのであれば軌道さえ操作できるでしょう」
確かに止められなかった。私の光に織り込んだ恋心は、ぐるぐると螺旋軌道を伴って、虚空の空へと儚く消えていった。その様子はまっすぐに歪んでいたと形容するのが正しいように思えた。ただ、ただ、悔しかった。
そして私は化け物に喰われて身ぐるみだけを剥がされた。 貧相な胸元が、私の虚しさをより掻き立てていた。
「一途な恋、ね。私にはそれが出来なかった。思慮の浅い優しさしか持てなかった私に貴女は眩し過ぎる」
勝った癖して、自分が負けたかのようにか細い声で何かを囁いていた。その態度がなおのこと気に入らなかった。戦っていたはずなのにまるで相手にされていなかったような感覚を覚えた。恐らくこいつは、私という鏡を通して自分自身と戦っていたんだ。そしてまんまと利用されただけなんだ。月人が絡むといつもこうだ。今後は関わらないようにしよう。
目が覚めると博麗神社の炬燵にいた。どうやら眠っている間の出来事であったらしい。気だるさの残る身体を動かして這いずり出ると、霊夢は顔を赤らめて目を覆い隠していた。何かおかしいのだろうかと自身を見て思い出した。自分が全裸であったことを。
「じぇ」