私には、あなたさえいればそれでよかったのですから。

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あなたさえいればいい

──怖いか、まゆ?

 

 ある夏の夜。誰もいない夜の海で、彼は私にそう言いました。

 

──いいえ。

 

 私はそう答えます。私はちっとも怖くなかった。これから死ぬとわかっても、私の中に恐怖心は全く浮かんでこなかったのです。

 

 恐らくそれは、プロデューサーさん、あなたが隣にいてくれるからなのでしょう。二人でなら、怖いものなんてない。私には、あなたさえいればよかったのですから。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 それは、少し前のことでした。いつものようにオーディションとちょっとした撮影の仕事に出かけ、事務所に帰ってきた私を待っていたのは少し、うかない顔をしているプロデューサーさんでした。

 

 私のプロデューサーさんは仕事はそこそこできる人だったのですが、時折大きな失敗をしてしまう人で、私は、あぁ、また何かやってしまったんだなぁと、そう思いました。

 

「戻りましたよプロデューサーさん、大丈夫です。まゆがついてますから」

「……あぁ、まゆか。おかえり」

 

 そう言って私を見たプロデューサーさんの目には、とても疲れが強くにじみ出ていました。

 澄んでいて、それでいて闇のように暗く儚い彼の目は、とても素敵だなといつも思います。

 

「……プロデューサーさん?」

 

 ただ、いつもと違ったのは、お迎えにプロデューサーさんが来てくれなかったこと。

 いつもなら迎えに来てくれたのに、まるで今の今まで縛られて、ようやく動けるようになったような、そんな感じがしました。

 

「まゆ」

「はい、プロデューサーさん。まゆはここにいますよ」

「お願いがあるんだけど……」

「お願い、ですか?」

「うん。……俺と……」

 

──俺と、一緒に死んでくれないか。

 

──……あなたがそう言うのなら、喜んで。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 それから私たちは、プロデューサーさんが運転する車に乗って事務所からそんなに遠くない海岸に来ました。私はフリルのついた可愛らしい、プロデューサーさんが以前誕生日にプレゼントしてくれた服を着て、プロデューサーさんは仕立てたスーツを着て。

 

 ゆっくりと。

 

 一歩ずつ。

 

 コンクリートの上から、砂の山に。

 

 砂の山から、水の近くに。

 

 ざぶざぶと水を押しのけ、押し返そうとする波を割いて、海の中へ。

 プロデューサーさんが、痛いほど強く手を握ってくれて、連れていってくれました。

 

 私も、プロデューサーさんと離れまいと、ついていきます。

 

 そして、水が膝下ぐらいの深さになった時、立ち止まりました。

 もう靴の中は水だらけで、靴下もすっかり濡れて体温を奪っていきます。スカートの裾もだんだんと水を吸って重くなってきました。

 

──怖いか、まゆ?

 

 プロデューサーさんがそう言ってから、私は初めて自分の体が、足が震えていることに気がつきました。

 

 だけど、私は。

 

──いいえ。ちっとも怖くないですよ。

 

 そう、答えました。

 

 これから死ぬとわかっても、死を目の前にしても、ちっとも恐怖心は湧いてきませんでした。

 

 なぜなら。だって。それは……

 

──だって、プロデューサーさんがそばにいてくれるから。

 

 私は言葉を紡ぎます。最期の言葉を。彼と、大好きなプロデューサーさんとの、別れの言葉を。

 

──私、嬉しいんです。プロデューサーさんとこうなれたことが。

 

 

 突然、私の体は少しだけ上に持ち上げられ、抱きしめられました。

 

「プロデューサーさん……?」

 

 彼の体は、少しだけ、震えていました。

 

「……まゆ……ごめん。ごめん……ごめん……っ」

 

 抱き寄せられていたからどんな表情かは見えなかったけど。プロデューサーさんは、鼻声で、おそらくは泣きながら、私に謝り続けていました。

 

 私は、強く、強く抱きしめる彼の体を、今まで見てきた彼の背中を撫でるように、いたわるように、そっと抱きしめるだけ。

 

「プロデューサーさん」

「……なに? まゆ」

 

 私は。スっと軽く息を吸って。

 

 

 

「────────────────────」

 

 

 それが、私と彼の、最期の会話でした。

 

 

 私たちは。

 抱きしめあったまま。

 海に。

 

 冷たくくらい、水の底に。

 二人だけの温もりを抱えて。二人だけで。

 

 そっと。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

『──ゆ……』

 

気がついた時には、真っ白な世界の中でした。

光の中にいるような、真っ白な世界。そこには何もなく、ただ私がいるだけ。

 

『──ゆさ……』

 

私は最期まで、プロデューサーさんと一緒に入れてよかったって思います。たとえこれで私が、私の人生が終わるとしても、悔いはありません。

 

『──まゆ』

 

ふと、私のことを誰かが呼んでいることに気がつきました。その声は、どこか懐かしいような……

 

『──まゆ』

 

「……プロデューサーさん? どこですか? まゆは、まゆはここにいますよ……プロデューサーさん……」

 

『──起きてください! まゆさん!』

 

「──っ!?」

 

光が、いっそう強くなって。私を包んで。

 

 

 

「まゆさん……! よかった、起きたんですね!」

「うぅ……心配しましたよ……」

「……………………」

 

次に気がついた時、私は病院のベッドの上でした。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

「まゆさん、なにか悩んでいたことでもあったんですか? あったのなら、ボクたちに相談してくれればよかったのに……仲間じゃないですか」

 

そういうのは、同僚の輿水幸子ちゃん。今日もいつもの私服で、髪が外側にはねています。

 

「……生きててくれて、よかったです……まゆさんまで自殺しちゃうとか、もう、つらくぼです……」

 

今にも泣きそうな声で椅子に座るのは、ユニットを組んでいる森久保乃々ちゃん。

 

「……私、“まで”……? どういう、こと、ですか……?」

 

そう尋ねると乃々さんは、しまった、とでも言うかのような表情を浮かべ、黙ってしまいました。

 

なぜだかわかりませんが、私が目を覚ました時からの嫌な予感が、現実のものとなっているような気がしました。なんとなくですが、私の中での仮説が、真実のような気が。

 

「……まゆさん、落ち着いて聞いてください。実は……」

 

幸子ちゃん、やめて。お願い。聞きたくない。いやだ、聞きたくない。

 

──プロデューサーさんが、自殺したんです。

 

ああ。どうして。どうしてこうなってしまうのでしょう。

 

どうして、彼だけが。

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

そこからあとのことは、よく覚えていません。気がついた時には、私は病院の屋上にいました。

 

綺麗な青空で、蝉の声がうるさく響いていました。

 

 

(……望みすぎて、いたのかな……)

 

ファンにも。同僚にも。みんなに愛されるなんて。望みすぎていたのでしょうか。結局、私は一番大切な人を失った。一番愛していて、一番愛されたかった彼を。

 

朦朧とする意識の中で、私は自然と柵を越え、建物の端に立つことが出来ました。

 

──まゆさん!

 

同僚のアイドルのみんなの声が頭に響きます。

 

──まゆ!

 

ステージに立った時の、ファンのみんなの呼ぶ声が、頭の中で響きます。

 

──まゆ。

 

大好きな彼の声が、もう聞けない彼の声が、頭の中で響きます。

 

「……私には……」

 

無意識のうちにこぼれる涙を止める術を、私は知りませんでした。

 

「私には……あなたさえ、あなたさえいればよかったのに……!!」

 

もう帰っても、あの人は迎えてくれない。事務所に戻っても、デスクにあの人はいない。もう、どこにもいない。

 

「……プロデューサーさん。プロデューサーさんが一人で寂しくないように、まゆが、今から、そっちに逝きますね」

 

私は、足をゆっくりと前に進めて。

 

真っ逆さまになって。

そして。

 

 

私の視界は、白い光と赤い液体に塗りつぶされました。

 

 

 

 


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