但し、ここに黎明卿は出てきませんので悪しからず(重要)。
ーーー人の憧れは、止まらない
地上最後の未開地、アビスの穴。
それは遥かな古より存在するとされる、深度二万メートルを超える縦穴である。切り立った崖から緩やかな坂、果てには滝や氷山で形成される厳しき環境。
そして、その悪逆な領域によって育まれた強靭なる原生生物たち。大型の種族に至っては飛行船すら叩き落とし、空に海、陸の隅々にまで到達した人類に徒歩での探索を強いる。まさに命知らずの探窟家だけに許された絶界こそがアビスである。
「はぁ、はぁ‥‥‥‥‥ようやく、ここまで戻って来れた」
ここは深界四層、巨人の盃。
ダイラカズラと名付けられた巨大な植物が捕食器を広げ、そこから出る湿気により満たされた強者の庭。緑豊かな環境は三層の比ではなく、猛毒を始めとした多くの危険な生物が生息している。
そんな巨大な盃のように突き出した植物の上を進んでいく影が一つ。
腰まで届くような長い赤髪とオレンジ色の瞳をした少女が、息も絶え絶えといった様子で消化液の沼を歩いていた。首から下げた笛の色は『黒』、アビスにおいて達人級とされる序列二位の探窟家である。
「ーーーげほっ、ごほっ!!」
真っ青な顔で吐血する少女。
その身体は余すことなく病に侵されていた、もう長くないと医者に宣告されて半年あまり。体力の衰えた自分をかつての仲間たちは遠ざけ、萎えた気力ではアビスに潜ることも叶わなくなって数ヶ月。もともと多くなかった蓄えは底をつき、残るはコレクションを生活費に変えるくらい。腐ってもアビスの遺物だ、恐らくは死ぬまで安穏と暮らすことは出来ただろう。
しかし、いざ売り払おうとしたところ、忘れてしまっていた火が心に灯った。
「私の、憧れはまだ終わってない‥‥‥‥まだ『あの人』の背中すら見えてない。こんなザマで、死ねるか!」
消化液を蹴り跳ばして活を入れる。
ベッドで死ぬくらいなら、アビスに殺された方がいい。看取ってくれる相手がいないなら、アビスの生物に腸(はらわた)を喰われるついでに看取ってもらえばいい。葬式代もかからないし、どのみちオースの街でくたばれば遺灰をアビスの穴に撒かれるのだ。灰になってからか、肉のままかの違いしかない。
根っからの探窟家、そして冒険心に富んだ若人は鋭利な笑みを浮かべる。どうせなら一歩でも深層へ、一歩でも未知の世界へと踏み込んでやると心の中で繰り返す。
地上では昔なじみの月笛に別れを告げてきた、顔を合わせた瞬間から要件はわかっていたようだった。お互いに黙ったまま抱きしめあって、握手をするだけだ。それで全ては伝わった。あの男も孤児院で教導などしていなければ更なる高みに辿り着いていただろうに、惜しい選択をしたものだと思う。
二層のシーカーキャンプでは敬愛する白笛、不動卿オーゼンに呆れた顔をされ、餞別代わりに『六層への侵入経路』を教えてもらった。そこまで命があるかは分からないが、良い土産をもらったものだと感謝する。
「く、くくっ‥‥‥‥‥それにしても、ここまで順調に降りておられたのは初めてね。いつもいつも原生生物どもが邪魔してくるから、鬱陶しいったらありゃしない」
このアビスは明確な階層によって分けられている。帰還不能とされる六層以下を含めるならば、判明しているだけで七層と深層極点を含めた八層が存在する。そしてここは、地上にあるオースの町からアビスの大穴を降りること二万メートル以上。地上を遥かな高みへと置き去りにした第四層である。
恐れるなかれ、侮るなかれ、いつも何時も奈落の穴は挑む者たちを飲ま込もうと大口を開けている。どんな達人であろうとも、一瞬の油断が命取り。骸も残らず、たちまち生命は露と消え失せる。常人ならば数時間とて保たぬ危険地帯である。だが、そんな場所にも黒笛たる彼女は臆することはない。
まだ見ぬ絶景を求めて、
まだ知られぬ生物を探して、
まだ埋もれている財宝を夢見て、
そして何より『憧れ』のために探窟家たちは生命を賭して進むのだから。
その笛の音は『黒』の輝き。
少女の首から下げられた証は、誇らしげに主を讃えていた。アビスが階層分けされるように、ここに潜る者もまた笛によって階級を表され、笛の色によって立ち入ることの許される階層が決められている。
探窟家の卵から孵ったばかりの見習いの『赤笛』、経験を積んで一人前となった『青笛』、次世代を導くだけの能力を持つ師範代の『月笛』、一部の選ばれし者のみが辿り着ける達人級の『黒笛』。そして、伝説級となる英雄の『白笛』である。
どんな才能に恵まれた者であっても、幸運に満ち溢れた者であっても、黒笛として認められる苦難だけでも並大抵のことではない。そんな達人たちでも立ち入ることの出来るのは現在判明している七界の中でも『第四層』まで、巨人の盃と呼称されるココまでである。
原理は不明だが未来予知すら使いこなす強大な原生生物、あらゆる死の充満する過酷な環境。更にここより下の五層で『アビスの呪い』は極まり、全感覚の喪失と自傷行為が待っている。四層までが常人の至れる限界点、そう定義付けされている故の限界深度なのだろう。犠牲となった幾多の生命たちが耳元で語りかけてくる、ここより先は「決して帰れぬ」と。
「ーーーどうせ生きて帰っても長くない。ここまで来たなら決死の覚悟で行ってやる。そうすれば、死んだ先でアイツらに会えた時の土産話も豪勢になる」
この少女の名は『ユースティア』といった。年若い身でありながら、黒笛に任命された将来有望な探窟家である。いや、もはや『だった』とするべきなのかもしれない。アビスで猛毒を持つ原生生物に襲われたことが引き金となり、すっかり身体を病魔に蝕まれてしまった。
そして彼女が率いていた小隊もまた死んだ。リーダーであった黒笛の脱落により、あろうことか深界二層で全滅の憂き目にあったのが一ヶ月前。知らせを聞いた時は随分と呆気ないものだと涙ながらに笑ったものだ。
「ーーーどうやら幸運はここまでのようね、くそったれ」
燃えるような夕日色の瞳が細められていく。そして周囲を確認することなく、走り出すユースティア。その足場から飛び降りると、大型のピッケルを壁に突き刺して減速しながら背の低い同種の植物へとダイナミックに飛び移った。そして体勢を整えると消化液をバシャバシャと跳ねながら、その場を全速力で離脱する。液体が下着にまで染み込んできたが、そんなことを気にしている場合でもない。
程なくして、空気を掻き毟るような不快極まる唸り声が先程までいたダイラカズラから響き渡った。
「はっ、そう簡単に殺されてたまるかっての。このハリネズミめ!」
ベテランの探窟家でさえ躊躇するような高度から臆することなく飛び移った黒笛少女。振り向くことなく悪態を怪物へと叩きつけ、更に走る速度を上げていく。この深さにいる捕食者たちに距離を詰められてしまえば、生存自体が危うくなる。後ろから追いかけてきているであろう怪物はその筆頭だ。
大丈夫、この距離なら十分に逃げ切れる。追いかけられたのは一度や二度ではないのだから。
「ーーーけほっ!」
油断があったのだろう。
胸の奥から這い上がってきた血の塊にむせこみ、少女は身体を投げ出すようにして横転する。派手に撒き散らされる水飛沫、そして小さな血飛沫がダイラカズラの捕食器を賑わわせた。
「げほっ‥‥‥‥が、はっ!!」
流れ出す血で染められていく消化液の泉。せっかく逃げ切れそうなのに酷い状況だと、苦笑するしかない。あいつに効く解毒剤は存在しない、一度喰らってしまえば毒が回る前に患部を切り離すしかなくなる。即効性のある猛毒は半刻も経たぬ内に、その者の命を焼き尽くすからだ。
後ろからはタマウガチの忍び寄ってくる音が聴こえる。まだ逃げられる、諦めてしまいそうな想いもあったが身体は足掻くことをやめそうも無い。そっと自分の誇りであった首元の黒笛に手を延ばした。
「‥‥‥‥‥あれ、そんな」
千切れた紐の感触のみがあった。
オレンジ色の瞳が見開かれ、絶望しかけていたことさえ忘れ去って周囲を見回す。アレがなければ、死体となった自分を誰がユースティアと判別してくれるというのか。アビスにおいて、命を落とした探窟家は笛を発見してもらうことによって地上へと最期が伝えられるのだ。あの笛は自分にとって魂そのものである。
必死になって水面の下を探ってみるが、見当たらない。痺れ始めた脚を引きずっていると、ようやく水の底に黒光りする何かが落ちているのに気がついた。
「ああ、こんなところにあったのか。まったく肝を冷やした、心配させるなよ」
震える手で水ごと掬い取る。
そして手のひらで包み込み、胸の前に祈るようにして黒笛を抱きしめた。小さな頃、物心ついた幼き日に出会った不屈の探窟家、金色に輝く彼女のような存在になりたいと決意してから十年あまり。赤笛から始まった憧れは、年月を経て黒笛へと至った。ようやく『あの人』の影を踏める位置にまで辿り着いた、そう思っていた。もう少しだ、もう少しだけ先に進もう。
ユースティアの憧れはまだ終わっていない。それなのに無情な終わりを告げる死神の足音が、すぐ側まで迫っていた。
『ーーーーーッ!!!』
暗く澱んでしまった夕日色の瞳。
そんな少女の前に降り立ったのは、文字通りの怪物だった。なかなかの執念深さと嫌らしさ、唸り声をあげているのは四層最強の捕食者タマウガチ。ハリネズミのように全身を覆う致死の毒針と、赤いサイコロをくり抜いたような目も鼻も不確かな顔面が特徴的な四足歩行の猛獣である。未来余地にも例えられる直感や水上で一切衰えない脚力は、人間に対してはあまりにも絶望的だ。
はっきり言うならば、近づかれてしまえば終わりとされる類いである。
恐ろしい鈍痛が脳裏を走っている。
チラリと確認してみると、己の身体に負傷した箇所はない。ゆっくりとタマウガチは獲物を観察しつつ、そして飛びかかるために身を屈めている。そしてーーー。
「ーーーーざまあみろ、私はここまで、辿り着いたんだから、な」
一面の薄氷世界が広がっていた。
空気の澄み切った匂いと、白銀の煌めきが空間を満たしている。吐く息は凍りつく冷たさで、足元には海とも湖とも知れぬ氷の原っぱが覆っていた。
ここは第五層『なきがらの海』、人間が人間として戻れる最終地点。犠牲者よりも帰還者が遥かに少なく、数えることすら可能な領域である。その世界の入り口でユースティアは赤髪を地面に垂らして、力なく座り込んでいた。乾いた唇とボロボロの両腕、半ば凍りついた上着がここまでの困難を物語っている。火を起こすなりして、せめて暖を取る必要があるだろう。
葉巻きに火を灯す少女。
もう立ち上がるだけの気力も体力もない、それでもここまで来たのだから上等なものだろう。別に葉巻き自体を嗜んでいるわけではない、ただ匂いが好きなので持ち込んでいるだけだ。地面から立ち昇るトコシエコウの香りが、疲れ切った頭を癒やしてくれる。
「ライザ師匠、私は立派な探窟家になれたので、しょう、か‥‥‥‥?」
最高の探窟家の一人、殲滅卿。
多くの危険生物を葬り、他国の探窟隊を退け、数々の伝説を打ち立てた女傑。十年前に『絶界行き(ラストダイブ)』に挑み、公式では死亡扱いとなった。そんな彼女の白笛が発見さたのが数日前、その瞬間に病床にあったユースティアの決意は固まったのだ。
せめて第六層にまで辿り着きたかったが、もう力が残っていない。しかし本来ならば白笛以外が立ち入り禁止とされる第五層に足を踏み入れたのだから、彼女は褒めてくれるだろうか。
「まったく、わた、し、至らない弟子、でしたね」
それっきり途切れた吐息。
ライザを真似して伸ばした赤髪が真っ白な世界で揺らめく。第五層の入り口で力尽きた少女、憧れを胸に抱いて歩き続けた旅が、ここで終わりを迎えた。なにがらの海は語りかける、ここまでよく来たと。
氷混じりの風が吹き荒ぶ、それはまるで一人の探窟家の夢をアビスの底へと運んでいくようだった。
「ーーーーうそ、ティアさ、ん」
それから何日経っただろう。
四層から降りてきた探窟隊が一つ、三人の子供たちで構成された異様ともいえる者たちが少女の亡骸を見つけていた。気温のおかげで痛むことなく、冷凍保存された身体は生前の面影をそのまま残しており、それが探窟隊のリーダーである娘の目に止まったのだ。
「リコ、この御仁は知り合いなのか?」
「‥‥‥‥っ、お母さんの弟子で、リーダーの昔馴染み。孤児院にも何度か来てくれて、いつも笑っていて、でも最近はアビスに潜ってないって‥‥‥‥ど、どうしてっ、ティアさん‥‥‥‥‥ッ!」
「おいおい、ここはアビスなんだぜ。顔見知りがくたばるなんて日常茶飯事じゃねえか。気持ちは分からんでもないが、あまり気に病むべきじゃねぇぞ」
金髪を二つ結びにした娘。
まだ十二歳そこらであろう眼鏡の少女は、ひどく動揺した様子でユースティアの頬に触れていた。肩や頭に積もった雪からして、この探窟家が命を落としたのは今日ではない。もう日が経っているのだ、それでもリコと呼ばれた少女は震える掌で身体を確かめるように触っていく。
ユースティアの顔は微笑んでいた、満足したように黒笛を握りしめて事切れている。そして書き置きのようなモノが笛とともにあることにリコは気づく。
「リコ、何と書いてあるんだ?」
「‥‥‥連れて行って欲しいって、笛だけでも六層以下に放り込んで欲しいって‥‥‥‥書いてある」
「なら、持って行ってやればいいんじゃなねえか? 幸いにして、笛だけならオイラ達でも運んでやることは可能だろ。それがソイツへの弔いになる」
「うん、ありがとう、レグ、ナナチ」
ここは人類最後の秘境アビス。
出会いと別れは星屑のように、生と死は海よりも深く。全てを呑み込んで余りある謎と冒険は、未だに多くの人々を惹きつけている。母の弟子だった者の笛を手に取って、目指すは深淵の先、ユースティアが夢見た地よりも更に深く深く、第七層『終焉の渦』の下へと。
機械人形である少年レグ、アビスの祝福を受けて生き延びたナナチ、そして伝説の白笛を母に持つ少女リコ。多くの先人の想いを引き継いで彼女たちは進んでいく。
これは、やがて六層に至ることになる少年少女たちの幕間にあったかもしれない物語。