ラケンハイルの湾岸地帯、人の手によって整備もされていない砂浜に一つの影が堕ちてきた。
「……が、はぁっ。はあ、はあ、はあ…」
ハリンド・レイドモンドだった。彼の身体はボロボロだった。左腕はなく、わき腹には大きな穴が開いている。至る所に裂傷があって、焦げた白衣を真っ赤に濡らす。
ひゅーひゅーと浅い息を繰り返しながら、砂浜に大の字になって横たわるハリンドは空を見上げた。
星空がそこにあった。
人の手の届かない景色がそこにはあった。
そこから誰かが降りてくる。
ローラン・レインダース。
ハリンドは自分を倒した男が砂浜に到着するのを確認すると、上半身を起こした。
「……やあ、どうも。流石ですね」
「僕は君に驚いてるよ。まさかその程度の傷で済むとは思わなかった」
見るからに重症のハリンドの傷を『その程度』で済ますローラン。
というのも、先ほど彼が使った《ダークネス・ヴェルト・ネビュラス》を食らって、生きていること自体が驚嘆に値するのだ。
ローランの使用する魔法、《ダークネス》系統の魔法は、触れた存在を消滅させる。正確にはローランが『必要ない』と判断した存在だけを抹消する。それがどれ程の硬度を有している鉱石でも、関係ない。触った部分はまるで、消しゴムにでもかけられたかのように削り取られる。
《ダークネス・ヴェルト・ネビュラス》はその最終形態の一つ。
範囲・威力共に他の《ダークネス》系統の追随を許さない。
ローランの創り出した暗黒の雲海はラケンハイルごと世界を飲み込み、その中でハリンドだけを確実に消滅させた筈だった。
しかし、現実としてハリンドは生きている。
その身体に大きなダメージを負いながらも、命を繋いでいる。
それにはきっと、彼が直前に使用した【フォトン・アイザーム・メテオール】が関係しているのだろう。他属性の高密度の魔力は、《ダークネス》系統が生み出す暗黒物質の効果を減衰させることがある。彼はあの世界を逆行する流れ星で己に迫る暗黒の雲海を打ち消し、その後も全身全霊の魔法で自分の身体を覆い、その身を守ったのだろう。
「傷が酷い。手当てするよ。魔力もなくなっているようだし」
ハリンドの手は細かく震えてた。魔力を全て使い切り、魔力欠乏症に陥りかけているのだろう。
魔力は無限でない。個人の魔力袋のサイズに応じて、ため込める魔力の量には限りが出る。魔力がなければ魔法も『
「いいえ。貴方のお手を煩わせる必要はありませんよ…」
変化はすぐに現れた。ハリンドの腕がみるみるうちに再生していく。腹の傷も、まるで時間を逆戻しで再生しているかのように塞がっていった。この光景をローランは見たことがあった。ホワイトとそっくりだ。
「これはまさか。完成していたのか、不老不死は……」
「はは……。まさか。ちょっと人より死ににくいだけですよ。不死とは程遠い」
「それでも、偉業だよ。君はいつも僕を驚かす」
「そこは、まあ。僕は…天才ですので」
ハリンドは笑った。才能に振り回された者の皮肉的な、だけど少しだけ前向きになった笑み。
それにローランも釣られて笑った。
街の明かりは遠い。
ここの砂浜は入り組んだと所にあるためか、開発が進んでいないのだろう。
「ああ、楽しかった。…本当に、本当に楽しかった」
「ああ、そうだね。でも、もう終わりだよ」
「終わり……ですか」
ハリンドは数秒ほど虚空を見つめると、小さく首を横に振った。
その何処か満足げだったヘーゼル色の瞳は細く引き締められ、闘志が灯る。
「いいえ、まだです。僕はまだ全ての手札を切ってはいない。僕はまだ、貴方と戦える。挑戦し続けますよ、最後まで。初めてなんです…こんな経験は。だから、もっと……」
ハリンドの白衣の内側が輝いていた。
不気味な白色の発光。その原因を彼は焦げた白衣の内ポケットから取り出す。
それは、人の拳ほどの球体。表面には様々な『魔法式』が刻まれていた。ローランが解読できないものも、多くある。それでも、彼にはそれがなんであるのかすぐに分かった。
ホワイトの『首輪』の制御装置だ。
「お前っ!まさかっ!」
「----『シャガナル』が目覚めます。世界を壊し再生させる、神のシステム。漆黒の龍が」
ぐらり、とローランの足元が揺れた。
砂浜が、ラケンハイルが、リンドバード王国が、世界全体が揺れていた。
大地を震わす地鳴りが響く。
それは悲鳴のようにも、或いは喝采のようにも聞こえた。
「私は世界の看視者、『シャガナル』の端末ともいえるホワイトに『首輪』を施して『シャガナル』に誤った情報を送信することを考えました。この世界はもう、龍が目覚めるほどに『世界の活力』が尽きている、という風にね」
「だけど」
『シャガナル』を目覚めさせるシステムが完成しるならば、もっと早くに使えばよかった筈だ。それはつまりその『首輪』の機能が未完成であるという証拠に他ならない。
ローランの当然の疑問にハリンドは頷いた。
「ええ、そうです。まだ未完成ですよ。あと少しで完成していたのですが……。『シャガナル』が現れたとしても、精々数日程度。そのあたりで活動を止めるでしょう。まあそれでも、このラケンハイルに留まらずリンドバード王国は滅ぶでしょうが……」
「なにっ!?」
ローランはうめき声を上げた。
それでも、十分すぎる被害だろう。
一体どれほどの人間が犠牲になるのか。
ローランのその反応を見て、ハリンドは満足そうに笑う。
「さあ、止めてみなさい。魔王よ、これが僕の最後の戦いだ…!最後の挑戦だ…!」
ローランはハリンドに向かって無言で手を振った。
突如現れた暗黒の帯がハリンドを縛り上げる。
四肢を封じ、顎から砂浜に倒れた彼の身体を包み込んでいく。最後には彼は黒い寝巻袋から頭だけを出しているような、滑稽な格好になった。
その上からローランは幾重もの魔法を重ね掛けしていく。全てハリンドの身動きを封じるためだけに。それらの魔法は人間個人に対して使うには、余りに過剰で無慈悲な代物だったが、この天才にとっては余りに軽い。
ハリンドは一切の抵抗を見せなかった。
只粛々と己の身体から自由を奪われる様を見ていた。
最早魔力も尽きている。
抵抗する気もその力もなかったのだろう。
「……いいさ、やってやるよ。最後まで付き合ってやる。君はここで、自分が負けるのを見ているといい!」
「ははっ。ええ、そんな未来を見せて下さい……!」
そして、ローランはラケンハイルの街並みに目を移した。
悲鳴が聞こえた。
実際は咆哮だったのだろう。
大気を震わせるような、龍の咆哮。
それでも、ローランにはそれが悲鳴に聞こえた。
待っているのだ。
ホワイトが。
『シャガナル』を目覚めさせる鍵。
世界を監視する永遠の少女。
彼女は今まさに、ローランの助けを待っているのだ。
ならば、助けよう。自分はいつだって、そうしてきたのだから。