ブレンサムが研究所に雇われて一年ほどの時間が流れた頃だった。
ホワイトを幽閉する部屋の扉が内側から叩かれた。
何度も何度も強く強く。
そんな事はブレンサムの記憶している限り、一度たりともなかった。
首輪で『不死女王』をホワイトという存在に形成して以降、彼女は従順だった。
正確には人形のように、意志が感じられなかった。
腹を捌かれれば耳を劈くような悲鳴は上げる。
しかし、実験自体に抵抗することは決してしなかった。
その唇は決して意味ある言葉を紡ぐことはなく、その黄金の瞳に輝きが灯ることもない。
だからこそ、ブレンサムも扉一枚越しにいる存在が人は別の生き物だと、信じてこれたのだ。
なのに。
それなのに。
ブレンサムは生唾を飲み込みながら、重い扉をゆっくりと開けた。
窓の格子もない、寒々しいほどの無機質的な印象を与える純白の部屋。その入口付近、ブレンサムが手を伸ばせば触れられるような位置に彼女は佇んでいた。
その手足には本来枷がつけられている筈だが、それらは全て取り外されていた。ホワイトが自身で外したのだろう。冷や汗で背筋をびっしょりと濡らしながら、ブレンサムはホワイトと相対する。
黄金の瞳が真っすぐにブレンサムを見ていた。
ホワイトは何もしゃべらない。当然だ、彼女は言語を知らない。
ホワイトの両手の平は何かを覆うように閉じられていた。
それを。
ゆっくりと開く。
ーーーーそこにいたのは一匹の小さな鼠だった。
暫く食料にありつけていないのか、灰色の体毛で覆われたその身体はガリガリにやせ細っていた。
ホワイトが手を広げるや否や、鼠はその痩躯似合わず、ぴょんと勢いよくジャンプする。そして、通路の奥に走り去っていった。
おそらく前回扉が開かれた際に、部屋に忍び込んだのだろう。その結果、内側から出られなくなり、餓死しかけていたのだ。それをホワイトは見つけ、逃がそうとしたのだ。分かってしまえば、なんてことは無い種明かしだった。
ホワイトは鼠が走り去ったのを見送ると、部屋の中央に戻った。
そして器用にも枷を自身の手足に着けていく。
その一連の光景を見て。
『………………、嘘だろう』
ブレンサムは震える唇そう呟き、左右にゆっくりと首を振った。
その顔はくしゃくしゃに歪んでいた。
まるで泣きそうな子供のように。
『……………嘘だと、言ってくれ。君が、生き物を思いやる心を持っていたとしたら……、私は……、私は……』
ブレンサムは否応もなく理解した。
ホワイトは知らないだけだったのだ。
言葉を。
感情を。
何より、己に降りかかる理不尽に抵抗することを。
どうしようもなく彼女はまっさらで、だからこそこの狂った研究所の狂った常識に染まるしかなかった。
なのに。
彼女はそんな状態からでも、何かを慈しむ心を育んだ。
ならば。
真に『人』らしいのは誰だろう。
無垢な少女を切り裂いて、こんな場所に閉じこめて。
そんな事を、自分は望んでいたのか。
『違う…!違うッ…!私は……!私はッ…!妹のように……!病で苦しんで、ベッドの上で息絶える子供をもう生まないように……!そのために……』
そのためにブレンザムはここまでやってきた。
なのに。
彼の行為はただ、不幸な少女を生み出していただけだった。
それを理解した時、彼は石ころのように床に丸まって、声もださないまま泣きじゃくっていた。
◆
「……彼女は人だった」
ブレンサムは瞼を開けた。
目も前のソファには黒髪黒目の少年が座っていた。
立派な少年だとブレンサムは思う。
自分なんぞとは比べものにならない。
「私はホワイトに本を与え、言葉を教えた。勿論反対するものもいた。事件動物に下手に知恵を与えて何になるのか、といった風にね。………だけど、ホワイトには『首輪』がある。最悪記憶を消去してしまえばいい。最終的に私の案は支持されたよ。彼らにとってはそれもまた、観察の一つだったんだろう。……彼女は本からめきめきと知識を吸収した。そして彼女は、徐々に外の世界に興味を持ち始めているようだった」
ブレンサムは息を吐いた。
「最初はただ罪滅ぼしのつもりだったんだ……。彼女が人だと気づいても、それでも私は彼女を助け出す勇気が持てなかった。だからせめて、私だけは彼女は人らしく扱おうと……。だけど、そう決めながら私は彼女をあの部屋に閉じ込め続けた」
ブレンサムには2つの罪がある。
一つはホワイトが『人』であるという事に気づかなかったこと。
もう一つはそれに気づいても尚、彼女を助けようとはしなかったこと。
獄炎に焼かれるような日々だった。
自分が間違っていることは分かっている。
しかし、ホワイトの為に自分の人生を捨てることができるのか。
そう自問する度、彼は答えに詰まり、自身を殺したいほど憎悪した。
そんな日々が何年か続いた後に。
擦り切れた男は、ようやく純白の少女に尋ねたのだ。
『君は外が見たいと思うかい?』
そして、少女は頷いた。
男の覚悟は遂に定まった。
擦り切れて灰となり、くすぶり続けた男の魂に今一度、燃え上がるような炎が灯った。
そこから、全ては『今』へと繋がる。
「その為ならば、何とだって戦ってみせる」
ブレンサムはそう締めくくった。
それはローランに話しかけているというより、世界へ宣戦布告しているようだと少年は思った。
◆
「このッ!馬鹿者があッッ!!」
「……おいおい、婆さん。起き抜けに罵倒は酷いんじゃねえか?」
グレン・ディスライトは耳元で叫ばれた大声に顔を顰める。『レイドモンド研究所』の医務室のベッドで、目を覚ました次の瞬間にはこれだ。
「ボスと呼べ、ボスと!」
「へいへい。けが人は労ってくれよ」
「はっ!任務を失敗しかけた戦闘員なんぞに労る価値があるものか!そもそも碌な怪我はしておらんじゃろう!とっとと、対象を確保してこい!ここままでは、ワシら『テュルファング傭兵団』の面目がまる潰れじゃ!」
『テュルファング傭兵団』は大陸全土をまたにかける傭兵団で、金さえ積めばどんな非道な仕事でもやり遂げると評判であり、後ろ暗い事業をするものから重宝されていた。
グレン・ディスライトはそんな傭兵団の一員である。彼は1年ほど前から、ブレンサム・ハーウェイと同じように『レイドモンド研究所』の護衛として雇われていたのだ。
「了解だよ、婆さん」
グレンはベットからひょいと飛び降りて、横の椅子に掛けられていた上着に袖を通す。
「全く。お主は肝心なんところで、いつもいつも爪が甘い」
グレンの耳元から、古めかしい喋り方をする女性の非難の声が聞こえてきた。しかし、声の主の姿は見えない。首にさげられたペンダント型の『魔法具』を通じて、グレンは遠方の傭兵団団長と会話しているのだ。
「大方、相手に手加減でもしたんじゃろう」
「……ッ」
図星を突かれたグレンは思わず唇を軽く噛む。
一瞬の沈黙。
しかし、その沈黙は魔法具の向こう側の相手、自分の所属する傭兵団の団長にグレンの動揺を如実に伝えたようだ。
彼女はスラム出身であるグレンを拾い育てた、彼の親代わりとも言える存在である。この程度を見抜くのは、造作もなかった。
「ほれみたことか!お主は甘い!甘すぎる!敵と相対した時、お主は相手をどう殺すかではなくどう倒すかを、まず考える。それでは相手に隙をつかれる一方じゃ!」
「……分かってるよ、婆さん」
グレンは声を落とした。
その甘さが自身の欠点であるという自覚はあった。
本来なら、今ごろグレンはホワイトを連れて研究所に意気揚々と戻っている筈だった。それができなかったのは、ブレンサムの命を奪う事をしなかったからだ。腹に銀の矢を打ち込み、それで無力化できたのだと勝手に判断した。それが誤りだった。
何よりも、己の友人である黒髪の少年。
ローラン・レインダース。
あの男を前にして、自分は最後まで本気を出すことができなかった。彼と共に過ごした1年の歳月がそうさせたのか、それとも『不死女王』を守ろうと無能者の身で己に立ちむかってきた、ローランの瞳に自身の身体が竦んだのか。
(どちらにせよ、あいつとの友人関係もこれで終わりか…)
「じゃからボスと呼べと言っておろう!公私の区別はつけろ!」
グレンの思考は耳元の喚き声で現実に引き戻される。
「了解、ボス」
「お主は何と言って『テュルファング傭兵団』には入ったのじゃ?言ってみよ」
傭兵団団長は声を低くして尋ねる。
グレンの脳裏に幾つかの光景がフラッシュバックした。
彼の答えは決まっていた。
「誰よりも強くなる……。その為だ。だから俺は傭兵団に入った」
『テュルファング傭兵団』の長は満足そうに頷く。
「そうじゃろう。……ならば捨てろ。余計なものは。それらの情は強さには不要な物じゃ。……少なくとも、己よりも弱いものを見逃すなんて行いは、今のお主には百万年早い蛮行じゃよ。その甘さはいずれお主自身を殺すことになるぞ」
「ああ、そうだな。分かってる。俺は強くなる。世界の誰よりも……、アンタよりも強くなる。その為には何だってしてやる」
「そう。その息じゃ。………ならば己の為すべきことを為せ。グレン・ディスライトよ」
グレンはその言葉に大きく頷いた。