私は全てを曖昧にしたまま、本能で迷路のゴールへと歩き出す。果たしてゴールがあるのかも分からない。
道すがら、役者が切り取った日常の一部を見せてくれる。些末なものから人生を左右するほど大きなものまで様々。
そして、私が迷路の果てに見つけたものとは――。
気が付くと私は迷路の入り口に居た――。
入り口といっても後方に道は無く、苔むしたような色の壁が立ち塞がっているだけだった。果たして、ここが"入り口"という表現が正しいのかどうかも分からない。同時に些細な言葉遊びをしている場合でないのも確かだった。
見渡す限り高い壁がそびえており、誘導するが如く、前方へ空間が広がっていた。
ここへ座り込んでいても仕方がない。
そう思い立つと、畳んでいた足を伸ばして両足の裏で地面の感触を確かめる。壁も地面も固い素材で出来ているのか、歩く度にコツンコツンと踵が音を鳴らす。壁も登れるような高さではなく、行き止まりに突き当たったら来た道を戻らねばならないようだった。
迷路と称しているが、初めのうちは殆ど分かれ道などは存在せず、ただ決められた順路通りに進むだけだった。あるとしても、見える範囲で行き止まりの壁がそびえていたため、間違える心配は無かった。
そんな迷宮も狭い道が淡々と続いているだけではない。時折、広い空間が目の前へ現れる。そこはまるで小さな劇場。異質な空間でそれまた異質な光景として、役者たちが日常の一部を披露してくれる。
ここの舞台は、広くもなく狭くもない部屋。そこで子供が机に向かってノートと鉛筆を広げている。しっかりと向き合っているものの、その手には携帯ゲーム機が握られている。忙しなく動いている両指。そこへ母親らしき女性が空間に入ってきた。
「こら!○○!!ゲームは宿題やってからって言ったでしょ!」
「今からやろうと思ってたんだよ!けど、今は切りが悪いからちょっと待って!!」
女性はぶつぶつと文句を言いながら、部屋を出ていく。一方の子供は、中断する様子も無くゲームを続けていた。
物語はまだ続いていたが、私はその空間を無視して先へ進む。このまま、一向に言い付けを守らずにゲームをしている子供を見ていてもつまらないからだ。
「ごめん、〇〇さん。僕、他に好きな人居るから」
次の劇場は小学生くらいの男女。一世一代の思いで告白した女の子は無情にも玉砕してしまう。男の子が姿を消しても、女の子は俯いたままその場から動こうとしない。
二人の台詞は行数にして七行くらいしか無かった。喋っていた時間よりも、女の子が黙っている時間の方が遥かに長い。それでも舞台は暗転することなく、垂れ流しにされる。
ここでの劇に終わりは無いのだ。
だから、迷路内には時間制限なども設けられていないため、ずっとその場に立ち止まったり、全部をスルーしても構わない。
その先にも延々に続くかと錯覚するような道が広がっている。辺り一面、見覚えしかない壁と床。どれだけ進んでも無機質な同じ光景しか流れない。天井は薄暗くて窺い知ることがままならない。もしかしたら、ずっと同じ道を行ったり来たりしているのかもしれない。本当に前へ進めているのかという確証はどこにもないからだ。進むごとに異なった小芝居を見せてくれてはいるが、同じ場所を廻っているという可能性も捨てきれない。しかし、そうは言っても今の私にできることはあるのかも分からないゴールへ向かって、ただ足を動かすだけなのであった。
その小芝居にも様々なものがある。さっきのように、普段の何気無い一部分を切り取ったようなものや、ピアノの発表会や忘年会など、真面目なものから馬鹿騒ぎしているようなものまである。
中でも今しがた通った空間では、女性が助産医に囲まれて新しい命を芽吹かせていた。これには思わず私も、息をするのも忘れるくらいに見入っていた。産まれた赤ん坊がオギャアと一泣きした瞬間には、周りの人と一緒にため息をついたくらいだった。
この迷路に放り込まれているのは私だけではない。歩いていった途中で、私ではない別の誰かに遭遇することも何度かあった。しかし、禁じられている訳ではないが、互いに会話どころか会釈すら交わさない。それが、ここでの暗黙のルールのようなものだったからだ。
自分以外の存在は、広い空間で芝居を演じているようなものと同じ。ここでの一つの演出にしか過ぎず、直接私にはかかわってこない。私にとっては不必要なものだったからだ。けれども、不要な存在ではない。他の存在も、同じ考えなのだろう。目的はただひたすらに、この迷路を歩んでゆくだけだった。
それでも気になる他人も存在する。それは、目の前に居る男性だ。この人は食い入るように小芝居を眺めていた。その内容は、結婚式。視線の先には牧師の前でどこか落ち着きの無い、少々緊張気味の男性。あのタキシード姿の男性は目の前の人と瓜二つだった。そんな彼を他所に、司会がコールを掛ける。
そして、奥の扉から現れたのはとても美人な女性。純白のドレスに上質なヴェール、白やピンクのグラデーションをしているバラのブーケ。
その姿に男性は自然と笑みが零れる。隣に居る彼も同じ表情をしていた。まるで、二人の感覚がマッチングしているかのようだった。次第に隣の男性の目からはポロポロと涙が溢れ、足元を濡らしていた。それでもくしゃくしゃな顔を隠したり拭ったりせずに、ずっとそのイベントを二つのガラス玉に移し込んでいた。
先にも述べたように、この迷宮には時間制限という概念そのものが無い。だから彼のように、ずっと同じ場所を動かなくても構わないのだ。おそらくだが、この男性はここから一歩も先へ進むつもりはないのだろう。しかし、私はここへ留まっていても何も得られそうにないので不確かなゴールへと爪先を向けるのだった。
もう中間あたりまで来ただろうか。初めも曖昧だったため、終わりも不明瞭なのだ。そもそも、目的地があるのかも分からない。ルール説明なんてものは一切聞かされていない。しかし、確実に前へ進んでいる感覚はある。最初こそは、ほぼほぼ一本道だったが、今は行き止まりにぶつかったら相当前にまで戻らなければならない。
全体の様子を窺おうとしても、あまりにも壁が高過ぎて上が見えない。突き当たった壁を越えることができれば、物事は簡単に進むだろう。しかし、登るのはどう考えても現実的ではないので、迂回路を探して活路を見出すしかないのであった。何度も壁にぶつかって方向を変える。
これでは、まるで――――。
「○○君、また書類にミスがあったよ。いい加減しっかりしてくれない?」
すみません、すみませんと頭を下げているのは中年のおじさん。上司と思わしき人物は、怒られている男性よりも年下のように見える。
男性が自分のデスクへ戻ると、今度は小声で自分の悪口が聞こえてくる。
「○○さん、また部長に叱られてたよ。今週何度目?」
「三回目。よっぽど物覚えが悪いんじゃないの?」
「もうボケ始めてるのかな?」
そして、辺りを気にすることなく聞こえてくる女性二人の笑い声。男性はこの環境に悪い意味で慣れてしまっているようで、せっせと自分が間違えた箇所を訂正している。
このように、見せられるものは気分が良い場面ばかりでもない。本当の意味で"日常"なのだ。
「○○ちゃん、どうだった?」
ベッドで横になっているおばさんが床に倒れている人へ話し掛ける。二人ともかなり年老いた女性だ。
「なあに、姉さん」
「この人生はどうだった?」
「つまらなかった。私たち以外に親戚は居ないし、知り合いも作らなかった。こうして朽ち果てるのがお似合いね」
「ごめんね。私の介護をしなければ、○○ちゃんはもっと楽しかったかもしれないのに」
「いいのよ。私にとって姉さんが一番大事だもの。それに、皆に嫌われてたからどうせすぐに壊れてたわよ」
「そっか……」
そこで会話は終わってしまった。長い長い沈黙が訪れる。そしてそれは、一生破られることはなかった。役者はピクリとも動かない。心臓の鼓動すらも止めて。
時には人の最期だって見せられる。
電車への飛び込む男性、マンションの踊り場から外へ身を乗り出す少女、首を縄で括る少年――。
気持ちが沈むとかそんなレベルの話ではない。
そういった意味でも、ちゃんと寿命を全うできた私は良い方なのだろう。
そして、漸く私はゴールを見つけた。それは煌々と輝き、白い光で視界が覆われる。しかし、その前に最後の日常として役者たちが現れる。
真っ黒な服を着た人々。曇らせているそれぞれの顔には、どこか見覚えがあった。独特な香りが煙となってこの空間に渦巻いている。低く抑揚の無い声が耳から入り込み、眠気を誘う。間抜けた固い木の叩かれる音と一定の間隔で鳴らされる鐘。黒服の人たちの視線の先には、一枚の写真が沢山の白百合と共に飾られていた。
――私の写真だ。
喪服を着た人々が、私の葬儀を執り行っている。私の家族や親戚などの姿も覗える。自分の葬式を端から見るというのは、何とも筆舌に尽くしがたい。ふわふわとした感覚。けれども、自分が死んだという事実も突き付けられる。
私の人生、振り返ってみれば何もないつまらないものであった。同時に、何事もなく平穏な日常であった。最期も普通に、病院で家族に看取られて逝った。それが本当の意味で"幸せ"であったと気付けるのは、こうして外野から見てみないと分からないものだ。
名残惜しく、顔見知りの人々へ別れを告げ、私は眩しいくらいの最終目的地へ辿り着いた。この迷路のゴールである。その白い光は徐々に私を包み込んでいく。不気味だけどとても温かいもの。得体の知れない光の先へ私は歩き続ける。目はもう開けられないくらいに周囲が輝いている。光なのか自分の肉体なのかもあやふやになってくる。それでも、私は足を止めることはない。一歩、また一歩。やがて、白と身体の線引きが取り払われた。
――それから私は、光に飲み込まれ――――そして、一つになった。
オギャア……オギャア…………。
眩しくて目が開けられない。さっきまでとは、また異なった空気が肌を撫でる。……さっき?それは一体いつのことだろうか。耳障りな鳴き声が、私のものだと気が付くまでにかなりの時間が掛かった。
不安に襲われながらもゆっくりと瞼を持ち上げる。視界に飛び込んできたのは、かなり色鮮やかな光景。私のものでない記憶とはかけ離れた景色だった。
そして、これは"新しい"ものなのだと本能ながらに理解する。そう――。
気が付くと私は迷路の入り口に居た――――。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
初めましての方は初めまして。
お久しぶりの方はお久しぶりでございます。
碓氷 修夜です。
かなり久々の短編でございます。ボリュームも4000字と少しなので、そう長くはありませんでしたが。さて、内容ですが今回はあまり多くを語らないことにします。ある程度、私の中ではきちんとした設定があるのですが、今作は幅広く捉えられるように書いたつもりです。
……それでも結末はかなり固定してしまったかもしれません。出来上がったものを友人に読んでもらったのですが、あまりにも抽象的過ぎたために物語として成り立っていなかったのです。今年の初めには大部分が完成していたのですが、どう物語として終結させるか悩み、寝かせてしまったため時間が掛かってしまいました。
気が付けばもう12月です。連載は勿論なのですが、書き掛けの短編たちも今年中にすっきりさせたいものです。可能であれば複数作。とはいえ、クオリティは下げたくないので満足のいく作品の完成次第投稿させていただきます。
願わくば今作が今年最後の投稿作品になりませぬよう……。
それでは改めまして、ここまでお読みいただきありがとうございました。