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あの夜から暫くの時が過ぎ去った。
相変わらずに屍兵は地を蠢いているし、ルキナ達は人々を襲うそれらを討伐しながら戦場から戦場へと渡り歩いていて。
そんな中で、ロビンは以前と変わらない様に、その傍でルキナを支え続けてくれている。
だけど、ほんの少しだけ以前とは違う所があった。
ロビンがルキナを見詰めるその目に、何時もの優しさや穏やかな暖かさ以外にも、時折ではあるが、何処か……酷く何かを渇望する様な輝きが浮かぶ様になり。
そしてそんな色が目に宿った直後には、ロビンはそれを振り払おうとしているのか、何処か必死そうな顔でその目を覆って、そして再び目を開けた時には、また何時もの穏やかさを湛えた眼差しをルキナに向けるのだ。
よく観察していないと分からない程に、ロビンの様子がおかしくなるのはほんの一瞬だけだ。
でも、彼の半身であると誓ったあの日から、ルキナはずっとロビンを真っ直ぐに見詰めてきたから……。
その変化も、直ぐに気付いてしまった。
ロビンを支えると誓ったあの日の想いは、今も何一つ変わらずにルキナの胸にある。
だからルキナは、そんな何かを思い詰めて苦しんでいる様なロビンの力に、なりたかった。
だけど、そうルキナが言う度に。
ロビンは静かに首を横に振って、そして、何処か弱々しく優しい微笑みを浮かべるのだ。
「有難うございます、ルキナさん……。
だけれども、僕を心配してくれるそのお気持ちだけで十分なんですよ?
これ以上は、……きっと僕は貴女を求め過ぎてしまう……」
ポツリとそう呟かれた言葉に、ルキナは。
「それでも良いんです。
それでロビンさんの助けになるのなら……」
と、そう答えるのだけれども。
ロビンはその言葉に益々少し苦しそうに笑って、首を横に振るのだ。
それは、優しさに溢れてはいるけれども、ハッキリとした拒絶の意志であった。
その拒絶の壁を越えてロビンの心に触れる事は、叶わなかった。
ルキナは今までロビンに何をしてあげられたのだろう……。
そして、何をしてあげられるのだろうか……。
助けを求める事すら躊躇わせてしまうなんて、ルキナの不徳の致す所だ。
支えると、誓ったのに。
そしてロビンはその誓いを違う事無く、変わらずルキナを支え続けてくれているのに……。
ままならぬ自分が、その力不足が、……ルキナにとっては何よりも辛かった。
半身の様に大切なロビンが、そしてきっと、それよりも、もっともっと『特別』な彼が。
悩み苦しみ、そしてきっと無意識にでも助けを求めているのに……。
なのに、ルキナは……。
それに気付いているのにも関わらず、ロビンに何もしてあげられないのだ。
どうにかして、ルキナはロビンの力になりたいのに。
だけれども、ルキナが差し伸べようとしたその手を、ロビンは決して掴もうとはしない。
それ処か……。
ルキナが手を差し伸べようとする行為自体が、ロビンを苦しめてしまっている様にも見えてしまう。
どうすれば、良いのだろう……。
考えても答えは出ず、良い方法など思い付かず、ただただもどかしさばかりがルキナの胸を焦がす。
何故そんなに悩み苦しんでいるのか、ロビンは決してルキナに明かそうとはしてくれない。
もし、その理由を話してくれるのなら。
例え、ルキナではどうしようも無い悩みなのだとしても、ルキナもロビンと共に抱えて悩みたいのだ。
どんなに苦しい時でも、独り悩み続けるよりは、例えその手が頼り無いものであったとしても、共に悩み歩んでくれる人が居てくれる方が良い。
孤独は人を追い詰め、何れはその心を磨り潰すようにして歪ませてしまう……。
ルキナは、それを良く分かっていた。
他でも無い、ロビンに出逢うまでのかつての自分がそうであったのだから。
あの日孤独に絶望の中を彷徨い続けていたルキナの手を掴んでくれたロビンが今、独り何かに苦悩し思い詰めている。
誰の手も取ろうとはせずに、独り孤独へと沈み行こうとするロビンを、どうやったら助けられるのだろう……。
大切な人の力になれない己の無力さが、ルキナには何よりも辛いのであった……。
◇◇◇◇◇
ロビンと共に屍兵を討伐する戦いを続けて如何程の時が経ったのだろうか。
ある時から数で圧倒する屍兵に押され続けていた戦線を、僅かばかりだが押し返す事が出来る様になっていた。
それにはロビンの策が大いに貢献していたのだが何にせよ。
戦い続きで疲弊した兵達の為にも、ルキナ達は一旦王都に戻って僅かばかりの休息を取る事になったのだった。
生まれ育ったイーリス王城であるが、ルキナがここに帰ってくるのは実に久方振りの事である。
一年以上は各地を転々としながら戦い続けていたのだから、懐かしいなどと感慨に耽る前に、最早そこが自分の居場所では無いかの様な何処か落ち着かなさを感じてしまう程だ。
王都が直接屍兵の被害を受けた事はナーガの加護もあってなのか今の所は無いのだが、こんな御時世だ。
城の整備も細かい所までは行き届かず、それ故にか何処か荒れている様な印象すらも受けてしまう。
父も亡く母も亡く……、そして主だった臣下達も最早既に居ない城は、何処か空虚な場所の様にも感じてしまって。
そして、何よりも。
この城には、『幸せ』だった頃の記憶が多過ぎる。
父に剣の稽古を付けていて貰った時にうっかり壊してしまったまま直されていない壁の穴。
母とかくれんぼをしていた時に、しょっちゅう隠れる先にしていた大きな衣装箪笥。
幼い頃に従兄弟のウードと一緒に登って、二人して降りられなくなってしまった事があった庭の大きな木。
父の忠実な臣下であったフレデリクにせがんで、彼の愛馬の背に乗せて貰った時に見た衛兵の訓練所の庭。
そして──。
幼いあの日々に事ある毎に忍び込んでは、その部屋の主に構って貰っていた、『彼』に与えられた執務室……。
もう戻って来ない『あの日々』の欠片が、『幸せ』だった頃の思い出達が、この城のあちらこちらに散りばめられている。
それを、ハッキリと意識してしまうのが……辛くて。
だから、何時の間にか、ルキナは王城を避ける様にして戦場を渡る様になってしまっていた。
それが逃げであると言う事は、誰に言われるでもなく、自分自身がよく分かっているのだけれども。
ルキナは、そんな感傷に浸る心を、誰にも聞こえないような小さな一つ溜め息を吐いて切り換えた。
そして、何処かに居る筈のロビンの姿を探してうろうろと城内を歩き始める。
王都に帰った所で帰る家も寄る辺も無いロビンの為に、ルキナは王城にある部屋を仮の住まいとして提供した。
どうせ部屋の数など腐る程余っているのだ。
掃除もろくに行き届かせられていない今、使われる事の無い数多の部屋たちには埃ばかりが降り積もっている。
それを有効活用した処で誰に咎められると言う事も無い。
最初こそロビンはそれを遠慮して辞退しようとしていたが、ルキナが一歩も引く気が無いと見ると素直にそれを受け入れていたのだが……。
王城に着いて暫くすると、ロビンの姿が何処かに消えていたのだ。
案内した貴賓室にはロビンの数少ない私物が荷解きもせずに置かれていたので、ここに来て遠慮してしまったロビンが何処か別の場所で寝泊まりしようとして逃げ出したのでは無いと思うのだけれども……。
しかし、ならば一体何処へ行ったのだろうか、と。
ルキナは彼を探し始めるのであった。
◇◇◇◇◇
方々を探し回ったルキナは、もしかして、と。
ロビンが行く可能性がある場所として、最後に残ったその場所へと向かうと、探し人の姿は正しくその場所に在った。
埃まみれの部屋に独り佇むロビンの表情は、彼が部屋の扉の方向に背を向けている事もあって、何も分からない。
「あの、ロビンさん?
こんな所で、どうかしましたか?」
ルキナがそう声を掛けると、ロビンは弾かれた様な勢いでルキナに振り返る。
「…………ム?」
囁く様にロビンは何かを言うが、ルキナには彼が何を言ったのかは聞き取れなかった。
だが、ルキナを見たロビンは、一度驚いた様に目を見開き、そして悲しみと後悔をそこに映して、俯く。
だが、それもほんの僅かな間の事で。
直ぐ様ロビンはゆっくりと顔を上げて、ルキナも見慣れた穏やかな眼差しで、ルキナを見つめ返してくる。
「あっ……すみません。
何だか、お貸しして貰った部屋が僕には豪華過ぎて、ちょっと落ち着かなくて……。
本当は良くないと分かっていたのですが、ちょっとお城の中をウロウロとしていたんです。
それで、偶々この部屋の扉が少し開いていて……。
つい、入ってしまいました……。
ごめんなさい、ルキナさん」
そう言って頭を下げてくるロビンに、ルキナは慌てて「良いんです」と答える。
「この部屋は使われなくなって随分と経つ部屋ですから……。
機密とかそんなモノはもう、ここには残されていませんし、そんなに気にしないで下さい」
掃除もロクに行われず放置されたその部屋は至る所に埃を被っていて。
在りし日に部屋の主が二度と帰らぬ戦いに赴いた時のままの姿で遺されていた。
恐らくきっと、偶に掃除を行う女中が、扉を閉め忘れてしまっていたのだろう。
それを偶々、ロビンが見付けてしまっただけなのだ。
「この、部屋は……」
ポツリと、ロビンが呟いた。
そして部屋を見渡し、本棚どころか床にまで積み上げられている戦術書の数々に目を留める。
ルキナにはよく分らぬが、同じ軍師であるからなのか、何か感じるものがあるのかもしれない。
「父の軍師であった、ルフレさんの執務室でした……。
ですが、二人とも今は、もう……」
ふと、ルキナは床に些か乱雑に積み上げられた戦術書の中に、そこには不釣り合いな……子供に読み聞かせる為の様なお伽噺を集めた本を見付けて、胸を締め付けられる様な感覚を覚える。
『彼』の膝の上に乗せて貰いながら本の読み聞かせを強請った遠い幼い日々の想い出が、哀しい程に鮮やかに蘇る。
……もう、『彼』はこの世の何処にも居ない……。
あの日、父を喪ってから、ルキナがこの部屋にちゃんと入ったのは初めてであった。
……それは、『彼』を思い出してしまうのが、辛かったから。
『彼』を思い出させる縁となるモノを遠ざけていたのだ。
もう帰っては来ない人を、想うのが辛かった。
もしかしたら、大好きだった『彼』が、大好きな父の仇であるのかもしれないと言う可能性が、恐ろしかった。
だからもう、辛いのならばいっそ忘れてしまえば良いと、『彼』の事を、忘却の彼方に押しやってしまっていて……。
でも結局の所、『彼』の縁となるモノの何もかも全てを本当に忘れる事なんて、出来る筈が無いのだ。
何故なら、今のルキナを形作るモノの中には確かに、『彼』との思い出が、あんなにも『幸せ』だった時間が、沢山沢山消そうとしても消しきれない程に含まれているのだから。
声はもう思い出せない。
顔も、もう朧気で分からない。
ルキナの頭を撫でてくれたその手の温かさすら、もう覚えていない。
だけれども。
『彼』と過ごした時間は、『彼』がルキナに向けてくれた無償の愛は、そこに在った『幸せ』は。
どんなにそれを思い出すのが辛いのだとしても、決して忘れられる筈なんて無かった。
ルキナは、『彼』の事が好きだった。
本当に……大好きだったのだ。
執務室に遊びに行くと、何時も本を読み聞かせてくれたり、時には勉強を教えてくれたり、ルキナが知らない沢山の事を、『彼』は教えてくれた。
父と母が外交の為に城を離れていた時には、寝付けなくなったルキナの為に子守唄を歌ってくれたり、眠れるまでその手を繋いでいてくれたりもした。
ルキナを何時も優しく見守ってくれていた。
何時も優しい微笑みを向けてくれていた。
ルキナが仕掛けた悪戯に困った様に笑っていた。
ルキナを抱き締めてくれるその温かさが大好きだった。
ルキナを呼ぶその声やその優しい響きが、とても大好きだった……。
きっと、ルキナの初恋だったのだ。
……あんなにも、大好きだったのに。
あんなにも、大切にされていたのに。
ルキナは、もう『彼』の顔も声も思い出せず、そして。
『彼』の事をまるで最初から存在すらしていなかったかの様に、記憶から何もかもを消したままにしていた。
もう『彼』は、記憶の中にしか居られないのに……。
『彼』を直接知っている人は、もうルキナ位しか残っていないのに。
何て、酷い事をしてしまったのだろうか……。
ルキナは思わず自分を責めた。
そして、あんなにも大好きだった『ルフレおじさま』の事を忘れてしまっていた事が、哀しかった……。
「ルフレ……」
ロビンの口から溢れ落ちたその名前に、ルキナの意識は引き戻される。
ロビンは、まるで何かに引き込まれているかの様に部屋を見回していた。
ルフレの名前も、無意識の内に思わず零れたものなのかもしれない。
「ロビンさんも、知っていらっしゃいますか?」
ルフレは、稀代の名軍師として世界中にその名を轟かせていたのだ。
当時はまだ子供であったであろうロビンも、軍師を志す者として何処かでその名を聞いていたのかもしれない。
そう思えば、伝説の様に語られる軍師の部屋に居るのだ。
ロビンには、同じ軍師として思う所があるのかもしれない。
「知って、います……。
僕が軍師としてここに居るのも、『ルフレ』の存在があったから、ですから……」
そう答えたロビンは、何故か痛みを堪える様に瞼をギュッと瞑る。
そして、ロビンはポツリと、呟く様にしてルキナに訊ねた。
「ルキナさんは……『ルフレ』の事を、どう思っていますか?」
そう問われ、どう説明するべきなのか、ルキナは少し言葉に詰まった。
大切な人であった、大好きな人であった。
だけれども、それと同時に、もしかしたら父の仇であるのかもしれなくて。
今のルキナが『彼』に抱える想いは複雑であった。
でも、これだけは確かに言えるのだと、ルキナは心に決めた想いを正直に答える。
「ルフレさんは、……とても大切な人でした。
私に沢山素敵な『思い出』を、『幸せ』をくれた……、とても大切な……」
『彼』がもう居ない事が、とても哀しい。
やっと素直に、ルキナは今ならそう思えた。
幼かったあの日に流せなかった涙は、いつの間にか枯れてしまって、もう流れる事は無いけれど。
苦く切なくこの胸に静かに波紋の様に広がる哀しみを、やっと自分の感情だと認めてあげられる。
『彼』と過ごした時間が『幸せ』であったからこそ、そしてその『幸せ』な想い出が抱えきれない程に沢山あるからこそ。
数年の年月を掛けて追い付いたその哀しみは、深く深く響く様に心に満ちた。
それでも、どんなに哀しくても。
『ルフレおじさん』の事を思い出してあげられた事が、嬉しいのだ。
大好きだった人、大切だった人、……もうこの世の何処にも居なくても、思い出の中で見守ってくれている人。
……何時か。
この世界の絶望を討ち祓ったその時には。
彼の墓へと花を手向けに行こう。
そして、沢山伝えたいのだ。
忘れてしまってごめんなさい、と。
でも本当に大切な人だったのだ、と。
答えてくれる『彼』はそこに居ないのだとしても。
それでも、伝えなくてはならなかった。
ルキナの答えに、ロビンは一度目を僅かに見開き、そして。
悲しみと喜びが綯い交ぜになった様な、複雑な感情が表れた様な儚い微笑みを浮かべた。
「そう、ですか……。
ルキナさんにそう思って貰えて、きっと『ルフレ』も。
……幸せ、だったのでしょうね……」
そして、込み上げる想いを抑える様に胸の辺りをギュッと強く掴んで、ロビンは静かに目を閉じた。
「有難うございます、ルキナさん……」
何故か、ロビンは感謝を伝えてきて。
そして、緩やかに目を開けて再びルキナを見詰めるその眼差しには……。
優しさと同時に、何かの強い決意の輝きが抱かれていたのだった。
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