シュバルツバースでシヴィライゼーション   作:ヘルシェイク三郎

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シュバルツバースで便意と遭遇

 扉を開き、絶句する。

 3号艦"エルブス"号の男子用便所に駆け込んでまず気がついたことは、ホルダーにも手近な据え置きにもトイレットペーパーを切らしていることであった。

 無機質なタイル壁も乳白色の便器に見られるわずかな黄ばみも、目に映るものすべてが憎らしい。

 ホルダーのフックに残され、無慈悲にからからと回るボール紙製の芯を見て、小生は慟哭する。

 

「何やってんの、資材班」

 濁る腹の音。波寄せる腹痛。

 滅びの地(シュバルツバース)調査隊による現地突入任務が発動されんという今この時に至り、小生の(ジャーニー)はここで潰えようとしていた。

 

 

 

 人類の暦法で言うところの21世紀初頭――。

 70億を越える飽和した人口は、地球を取り巻く多様な生命の連環を絶滅の危機に追いやりながらも、未だ身勝手な繁栄を謳歌し続けていた。

 繁栄の先にある自滅が先か、自分たち以外の破滅が先か――。

 そのようなことをしたり顔で嘯く彼らを裁かんとでもするように、突如として滅びの地(シュバルツバース)は南極点に現出する。

 光すらも寄せ付けぬ、高さ数千mのプラズマ雲に取り囲まれたこの不可解な空間現象は、まず南極大陸に常駐する各国の観測隊を文字通り分子レベルにまで分解せしめ、極点を中心にまるで野火のように燃え広がることで、ついには南極大陸全体を呑み込むまでに成長した。

 人類は恐怖する。このままこの漆黒の空間が拡大していけば、いずれは自分たちの生活領域にまで到達することだろう。それは即ち、人類文明の崩壊である。

 自らの"滅び"を肌で感じ取り、常日頃いがみ合っていた各国の首脳は向け合っていた矛先を納め、ひとまず一致団結を図ることにした。

 

 例えば、政治的にはシュバルツバース合同計画の発足。

 例えば、学術的にはドイツ人物理学者、ハンマーシュミット博士のかつて提唱した地球空間と人間文明の相関関係に関する研究再評価の加速。

 

 それらの全てが一月もしない期間の間に行われ、人々は生命の持つ原初的な生存本能に則り、ひたすらに滅亡の回避策を講じ始める。

 この闇夜で蜘蛛の糸を捜し求める必死の足掻きは、奇しくも無人探索機がもたらしたシュバルツバース内部の情報によって、ある種の画期を迎えることになった。

 シュバルツバース内部に生まれつつある現世とは法則を異にした空間。

 そこには人類が生き延びるためのヒントが隠されているのではないだろうか?

 

 合同計画の上層部は決断する。

「机上の空論では何も分からん。とりあえず、試しに人を内部に送り込んで調査してみれば良いんじゃね。あ、分子レベルに物質を分解するプラズマ雲? んなもん飛び越えてでも調査しに行け」と。

 かくしてシュバルツバース調査隊は発足され、小生はめでたく調査隊という名の決死隊へと組み込まれることになったのであった。

 

 全く、上層部ときたら何たる安直な発想をするのであろうか。妄言を吐く前にまず、国際人権規約を百回は暗証してもらいたいものだ。

 一体彼らという連中は、この南極大陸をあっと言う間に呑み込み、尚も無慈悲に拡大を続ける謎深き地に赴いて、"直接調査する"ということが、どれだけ過酷な(ジャーニー)になるかを全く理解していないのである。

 この現場無視の見通しの甘さは、小生の乗る次世代揚陸艦"エルブス"号の見舞われている現状が、ものの見事に証明しきっているのであった。

 

 高度4500m。プラズマ雲の丁度直上。

 陸上走行から飛行モードへと切り替えた"エルブス"号は、現在大震災かよと錯覚するほどにぐらぐらと揺れている真っ最中であった。

 整備不良や操縦ミスの類では断じてない。

 

『メーデー、メーデー! 当艦は何者かの攻撃を受けていますッ! 他艦との通信、取れません!』

 艦内アナウンスから察するに、シュバルツバースに備わる何らかの防衛機能が、小生らシュバルツバース調査隊の現地入りを阻んでいるようだ。

 自然現象に防衛機能とかどういうことだよと愚痴りつつ、小生はヤマダという自らの名前が彫られたドッグ・タグと共に、高校の同級生であったタダノ君から渡された試験管状のお守りを握りしめて、ひたすらに祈る。

 

 というか、紙は何処にあるの?

 何処かに紛れ込んだりしてない?

 

『艦の統制? そんなこと! 言われずとも私の言うとおり動きなさい!! ああっ、神様!』

 普段嫌みな艦長が混乱をきたし、マイク電源がオンになっていることにも気づかず、ヒステリックに叫んでいる様は心にスゥーッと穏やかなものを流し込む作用があった。が、実際問題それどころではない。

 再び艦が揺れる。

 目下のところ、アルプスの最高峰モンブランよりも高い位置を飛行中の我が艦だが、これ以上防衛機能とやらの攻撃を許せば、最悪墜落もあり得るだろう。

 そうすれば、小生も落下死……、または外縁部を取り囲むプラズマ雲に分解される……。いや、それも大事なのだが、やはり正直それどころではない。

 

 いざという時、尻を拭く紙がないのだ。こんな時に何を馬鹿なことをと他人は思うかもしれないが、小生とて混乱の極みにあった。

 "正常化バイアス"という言葉が、現在の心理状態をぴたりと言い表しているのではないかと、欠片ほどに残された理性が分析する。

 人は予期せぬ危険に晒された時、物事の優先順位を日常のそれに入れ替えてしまうらしいのだ。

 今の小生は、間近に迫った生命の危険と身近に感じられる小さな社会的危機が脳内でぐちゃぐちゃに混ざってしまっているのであろう。

 

 先刻、シュバルツバース突入任務の直前から急に腹痛を催した小生は、便所に駆け込むべく観測班のリーダー兼3号艦の艦長に、

「あの、ちょっと、おトイレに行きたいのですが……。突入を数分遅らせてもらうことは――」

 と提案して物凄い形相で叱責されたばかりであった。 

 あの時の艦長の小生を見る煮えた目は、ちょっと暫く忘れられそうにない。

 いくら小生が国連指名の外部派遣員だからって、「これだから外様は」などという言い草はないと思うんだ。大体調査隊の後方人員なんて、小生を含めて皆外様ばかりだし……。

 

 社会的危機のフラッシュバックに、小生の"正常化バイアス"は縦横無尽の働きを見せる。

 例えば、例えばの話だが。このまま任務失敗、全滅したならまだ良いとして、まかり間違ってシュバルツバースにたどり着いた場合、尻を拭かずに復帰した小生はウンコマン、ないしはナンカニオウマンというあだ名を背負うことになるのか。

 ……それだけは避けねばならない。

 にわかに被った汚名を返上するためにも早く小生は出なければならぬ、外へ出てさも仕事がある振りをせねばならぬ、が無理! 出られない。そもそもまだウンコも出ておらぬ。

 

『トリム角、安定しません!』

 ああ、また艦が大きく傾いた。

 腹痛時の公共交通機関ほど残酷で無慈悲なものはない。決壊、噴火。即社会的な死亡に繋がり、リスクを抱えたままにドンドンと腹を揺らすあの強いトルクは、世界の忌まわしいものランキングのトップ10に入るであろう。

 

 タダノ君に渡された棒状のお守りを握りしめる手に力を込めた。

 我に七難八苦を……、じゃねえや。我に安寧をもたらしたまえ……!

 すると、小生の願いが何処ぞに通じたのかは分からないが、突如便所内に心持ち清浄な気配が立ちこめ始めた。

 

「おや……? おやおや?」

 もしやこれは神頼みが通じたのでは……? と思ったのも束の間、

「ぬほぉっ!?」

 ズン、ズンと。

 お腹にもたらされる"外部"からの衝撃。

「何、これぇ!?」

 度肝を抜かれて、自らの腹部を凝視するが、何も目につくものはない。

 が、確実に衝撃はやってきていた。

 これ、あれだ。

 殴られてる。

 腹を、何かに。また殴られたわ。ちょっと。これは……。

 

 小生は、"見えざるナニカ"の殺意を肌で、というか腹で感じ取った。

 他人様の腹をサンドバッグか何かと間違えているのか、ひたすらトレーニングに勤しんでおられる。

 もしや、神は「出すもん出せば腹痛も収まるやろ(名推理)」とでも仰るつもりなのだろうか。ちょっと荒療治が過ぎると思う。

 最早、顔面土気色だ。

 

 神も紙も存在が確認できぬままに、再び艦が大きく揺れた。体がふわりと浮き上がった後、便所が真っ暗闇に包まれる。

 艦内電源が切れたのだろうか。

 

「何で、こんな時にこんな目に合うのさ」

 痛みが高じて遠のきつつある意識の中で、人生模様が走馬燈を思わせる勢いでくるくると移り変わっていく。

 

 ――タダノ君とバッテリーを組む、品行方正な野球少年時代。

 ――環境ボランティアサークルに所属し、長期休暇のたびにアジアのとある国にまで赴いて、虹色に変色した川の清掃活動に勤しむ学生時代。

 ――そして、内戦状態の激化した東ヨーロッパで粛々とバーベキューされながらインフラ整備に勤しんでいた一年前。

 

「君のアドバンテージをフラッグシップモデルに生かす、ウィンウィンな職場があるんだよ」

 あれ、何か小生の人生航路って変な道を進んでねえ? と疑問を抱いたところで示された新たな可能性こそが、約束された勝利の転職手形。シュバルツバース合同計画の客員技術士官であった。

 親方日の丸ならぬ国連丸様のご指名なら、食いっぱぐれもあるめいと二つ返事で頷いてはみたが、今思うと選択肢を思い切り間違えたのかもしれない。

 

『これより当艦はシュバルツバース内への不時着を試みます! 中で何があるかわかりません。総員、デモニカの起動をお願いしますッ!!』

 自由落下の不快感と、何かが飛び出る解放感が同居して、小生の意識は闇へと沈んでいく。

 寸前に用を足すため外していたデモニカスーツこと通称"バケツ頭"を無意識に取り寄せたことは、よくよく考えてみると超絶ファイン・プレーであったと言わざるを得ない。

 シュバルツバース内が人の住める環境であるとは限らないのである。

 けど現状、尻は隠せていないのだが大丈夫だろうか……? 大丈夫だと思うことにしよう――。ベルトを締める時間がない――。そもそも、スーツの中で漏らしとうない……。

 そして意識は底に沈み、落ちて、落ちて……。

 

 ……。

 ……。

 ……。

 

 再び意識が覚醒した時には、

 

「sj#c,$%kl%3iik&#,8jgm@0?」

 何か変なモザイクが、便所の壁にもたれかかった小生の目の前で佇んでいたのであった。

 

 

 

「……何じゃこりゃ?」

 便所を包み込む暗闇の中、赤外線センサーの自動起動したバケツ頭越しに見えるモザイクは、姿形を変えながら良く分からない音を発している。

 モニターに表示される各種情報は、全てが「UNKNOWN」を示すものばかりだ。

 モザイクは首を傾げる小生の様子を見て、きらきらと瞬く。何らかの反応のようにも見える。

 反応をしていると言うことは、調査隊員の誰かなのだろうか? もしやすると目の前のモザイク様はモニターの故障によるものなのかも知れぬ。

 小生は何か反応を返すべく、覚醒したばかりの脳をフル回転させる。

 

「入ってますよ」

「25g"j45%ty"uy5u#%#!!!」

 何故か、物凄い勢いで良く分からない音をまくし立てられた。

 まるで怒っているような。ああ、そうか。まさに叱られている時のまくし立て方だこれは。

 やがて、勢いの収まったモザイクは何かに気がついたように音階を上げる。

 

「hv$(%#bki5#&s2? ……ああ、はいはい。そう言えば、言葉通じてなかったのよね」

 人間様の、それも年若い女性の声色だった。

 銀のように澄んでいて心地が良いが、何処かに棘を感じさせる。

 女性らしきモザイクは、調査隊の内部で普及している英語ではなく、小生の母国語をネイティブに操っておられた。同郷だろうか?

 

「……とりあえず、デモニカのモニターが上手く働いていないようです。何処の班のどなたでしょうか? 小生の所属するインフラ班で聞き覚えのある声ではないのですが」

「あ、姿もなのね。光の反射に頼ったニンゲンの視覚って、ほんと不便だわ!」

 と言うが早いか、モザイクが七色の光を発して、小生にも理解できる姿形を為していく。

 光学迷彩の類かとも最初は思ったが、現れた姿に首を傾げる。

 人種はアジア人なのか白人なのか判然としない。調査隊の制服は着用しておらず、ひらひらとしたファッショナブルでエキセントリックな私服を着用している。見た目の大部分は華奢な十代の少女に概ね近く、その艶やかな長い髪は「おい、遺伝子仕事しろよ」と叫びたくなるほどに真っ青であった。染めているのか?

 口元に黒い小さな刺青があることを覗けば、とりあえず清楚で端正な顔をしているとは思う。いや、顔だけではなく、細く白い両手で拳を作り、腰に当てながら均整の取れた身体を斜に構えて佇む姿は、万人を見惚れさせる魅力に溢れていると言って差し支えない。

 恐らく、小生に向ける表情が不快に歪んでさえいなければ、ときめいていたとしても不思議ではなかろう。

 そんな万人を振り向かせる美貌の持ち主は疲れたようにため息をつき、髪をかきあげて再び口を開いた。

 

「もう、アンタも出すもん出したんだし、さっさとここをずらかるわよ」

「ちょっとどういうことなの……?」

 恐らくは先ほどのウンコ騒動を指しているのだとは思うが、何故彼女がそれを知っているのか。

 社会的危機の足音が聞こえてくる。

 

「用を足すの手伝ってあげたじゃない」

「さっきのパンチ、キミかよ!」

 そもそも、彼女も危険人物であった。どうやって成したかは分からないが、人が用を足す様を傍らで見たりパンチしたりしていたなんて、とんでもない性癖の持ち主だ! そういう才能はしかるべきところで発揮していただきたい!

 と大声を出して抗議をしようとしたところで、彼女が小生の口を慌てて手で塞ぐ。

 

「おバカ!」

「むぐっ!?」

 彼女はそのまま息を殺して便所の外へと注意を向ける。

 がさ、ごそと何かが這いずり回る物音が小生にも聞こえた。先ほどシュバルツバース内に不時着を試みたわけだから、恐らく隊員たちが原状の復旧にいそしんでいるのだろう。

 やべえ、手伝わなくちゃ。

 立ち上がろうとしたところを頭から押さえ込まれる。みしりと首が鳴った。

 この少女、外見の割りにえらい腕力があるんだけど……。

 少女は焦りを帯びた声色で、早口に言った。

 

「"悪魔"がうろついている中で、大声をあげないで!」

 ……"悪魔"?

 この少女は一体何を言っているのだろう?

 小生の理解が追いついていないことを察したのか、少女の歪んだ顔は、更に不満の色を強める。

 

「アンタ、悪しき魂じゃないけど。ほんとニンゲンって愚かよね……。まあ、許すわ」

 まるで自分がニンゲンではないような物言いに、小生は聞きそびれていた問いかけを思い出す。

 

「君……、誰です?」

「アタシ?」

 少女の機嫌が即座に直った。名を聞かれることを好いているような、そんな態度である。

 少女は便所の扉前に仁王立ちになり、ものすごいドヤ顔と大声でこうのたまった。

 

「アタシの名前は、トラソルテオトル。豊穣と不浄を司る女神。人の子よ、その限りある脳みそにアタシの御名を刻み付けておきなさい!」

「あ、大声出した――」

 と気づいた時にはもう遅く、

 

「23bhfat#$&&'OI'(SUGH%&%U'YI(ODXYU(A%&"q!$%$'')`pof(!!!!!!??????」

 便所の外から理解のできない大音量が途端に聞こえ出した。

「あ、やばっ」

 色を失ったトラソルなんたらであったが、息を殺して外の様子を伺うに従い、

「にゃ、にゃーん」

 猫のつもりかよ。

 胡散臭そうに小生が見ている中で、再び機嫌を下降させていく。

 

「どしたんで……?」

「どうもこうも、外の"悪魔"どもがウザイこと言ってんの! 『便所が臭い。女神で臭い。臭いものには蓋をしろ』って! 誰が臭いって!? あいつら、アタシが万全の状態だったらギッタンギッタンにしているところよっ!」

 とトラソルなんたらは口惜しげに地団太を踏む。何と言うか、不思議な基準で怒ったり喜んだりする少女であった。

 彼女は我慢がならないといった様子で小生に指を突きつけ、

 

「何時の日か復讐を成し遂げるためにも、ここは戦略的撤退かますわよ。ここを出るの!」

「アッハイ」

 ここを出ることに否やはないため、小生は素直に頷いた。

 そのまま便器を立ち上がってドアノブに手をかけたところで、ミシリと再び豪腕の押さえつけがやってくる。

 

「あいででっ!?」

「ちょっと、何で扉を開けようとするのよ!」

「扉を開けなきゃ、外に出られないじゃないですか!」

 小声で反論したところ、彼女はしばし考えるそぶりを見せて、

 

「……それもそうなのよね。アンタ、"悪魔"と戦う術とか持っていたりするの?」

「そもそも君のいう"悪魔"が何なのかさっぱり分からないんですが」

「じゃあ、退魔師の家系だったりしない? というか、アンタ"封魔管"持ってたんだからクズノハに連なる者でしょ」

「"封魔管"ってこれです?」

 タダノ君からもらった棒状のお守りを見せると、彼女はうんうんと頷いた。

 

「それ、一昔前の退魔師が"悪魔"を使役するために使っていた奴よ。そこに"悪魔"を閉じ込めておけるの」

 言われてみても、小生には全くピンと来ない。

 ただ、クズノハという言葉に思い当たることはあった。

 

「クズノハはタダノ君の親戚の苗字だったと思います」

「ああ、氷解した。アンタ無関係のパンピーなのね。道理で器も小さく弱っちいわけだ。まさか、"女神"たるこの私がLV1の分霊バージョンで顕現する羽目になるとは思ってもみなかったから驚いたけど、これで色々と納得もいった」

 まあ、また馬車馬扱いされなくて済むのは助かるけど……、小声で呟く彼女の表情は何処か解放的にすら思える。

 これはつかの間のバカンスを楽しむ時に人が見せる表情と酷似していた。

 そんな緩みきった口元を見せたくないのか、必要以上に表情を強ばらせて、彼女はピっと指を立てる。

 

「時間がないから、単刀直入に言うわよ。アンタの乗ってた機械の船は"悪魔"の力で撃ち落とされたの。今も船の中では"悪魔"による人狩りが行われているわ」

「は?」

 そんな馬鹿なと返そうとしたところで、隊員と思しき人間の叫び声が聞こえてきた。

 思わず真顔になる。

 "悪魔"云々はさておき、調査隊が何らかの危険に晒されているのは疑いようがないようだ。

 そんな危険に晒された同僚たちをできることなら助けに行きたいところだが、そもそも自分はインフラ班だ。プロフェッショナル以外が無駄な蛮勇を働かせて、チームを危険に晒すケースは東ヨーロッパで何度も見てきた。それに今は情報も不足している。

 

「捕まったら、良くて食料、悪くて戯れに解剖とかされちゃうかもね。アンタ、食料になりたかったり、解剖とかされたかったりするクチ?」

「ど、どちらも遠慮させていただきたいんですが……」

 彼女は我が意を得たりと口の端を持ち上げた。

 

「じゃあ、女神たる私に協力なさい。協力すれば、"悪魔"たちから守ってあげます。これ、実質一択だからね」

 一瞬、逡巡する。この少女の言っていることは俄かに信じがたい話であったし、何よりもぐいぐいと来る様が故郷の押し売り業者を連想させた。

 だが、現状に精通していることだけは疑いようがない。外から聞こえてくる物音が、彼女の妄言を肯定し続けている。

 故に小生は頷いた。目の前の、明らかに年下である彼女に「助けてくれ」と無様に乞うた。

 すると彼女は柔らかに笑い、

 

「人の子の願いを受け入れましょう」

 と諸手を広げる。その姿は明かりのない場所に光明が差したかのような神々しさを纏っていたが、そもそものシチュエーションが便所内であった。

 "正常化バイアス"も相まって、緊迫感がとにかく持続しない。

 小生は咳払いしつつ、今後の方針を問うた。

 

「それで……、これからどうするので? トラソル……、えっと」

「親しみを込めてトラちゃんで良いわよ。そうね、"隠れ場"から逃げましょう」

「"隠れ場"?」

 彼女は辺りをきょろきょろと見回した後、便器の中身に目を落とす。

 

「ちょっ――」

「まだ、流れていない。都合が良いわね」

 慌てて臭いものに蓋をしようとするも、彼女に腕力で遮られる。

 

「閉めないで!」

「何でさ!」

 便器の中身にモザイクをかけたい気分だった。彼女は小生を便器に向き合わせると、自身も同じように向いて有難そうに小さく拍手する。

 

「へ?」

「二礼二拍。アンタ見た感じジャパニーズでしょ。ほら、敬って。便器の中身を敬いなさい!」

 どんな羞恥プレイだ。

 仕方がなしに神社の作法で便器を詣でる。すると、彼女がそらを見て何やら話し出した。

 

「カワヤの神様。いるんでしょ? 人の子が不安がっているわよ。何とかしてあげないでどうするの」

『この流れで他力本願って、中米の女神はちょっとやることが理解できんのう……』

「うおっ」

 何やら便器の中からしわがれた老人の声が聞こえてきたものだから、小生も思わずのけぞってしまう。

 

『というか、さっさと落とし物を流してくれ。ワシゃ、カワヤが汚れているのが我慢ならんのじゃ』

「今すぐは無理よ。ここオール電化だったわ。ボタンをピッピッと押すタイプだったもの」

『時代の流れは世知辛いのう……』

 言われてみればと脇に設置された操作パネルに目をやり、自分の尻を拭いていないことに今更ながら気がついた。というか、尻丸出しであった。

 むずむずとしながら、尻を拭くものを探す。

 

「アタシたちがミンチになれば、カワヤを掃除するものがいなくなるわよ」

『それ"悪魔"の業界じゃと脅迫って言うんじゃがね』

「アタシは貴方の理性を信じます」

 懐にティッシュが入っていたことに気がつき、小生はこそこそと尻を拭く。このタイミングで便器内に拭いた紙を落とすのは流石にNGだろうか……?

 

『おい、ニンゲンよ』

「は、はい!?」

 いきなり話を振られて小生はキョドった。

 

『……別に取って食いはせんよ。お主は必ずここに戻って便器の掃除をすると誓うか?』

「は、はい。誓います!」

 そうでなくとも、この状況は未練なのだ。落し物が便器に残された状態と言うのは非常に外聞が悪い。

 小生の答えに、不本意そうだった老人の声が心持ち和らぐ。

 

『ならば、ワシの陰行によってお主らを船の外まで送ろう。……約束は必ず守れよ?』

「わ、分かりました!」

 こちらの上ずった反応に笑い声が上がった。

 そして、こちらの失態をフォローする暇もなく、

 

『この滅びの地でニンゲンに何ができるとも思えんが……。まあ、達者に生きろよ』

 辺りの景色が一変する。

 今、小生が立っているのは便所ではなくただの通路。いや、"ただ"のと言っては語弊があるだろう。

 壁や天井、そして床が、飴細工のようにぐねぐねと捻じ曲がっている通路が尋常のものとは到底思えないからだ。

 景色が変化する寸前、一瞬大きなモザイクが見えたが、あれがカワヤの神様とやらだったのだろうか?

 

「ほら、行くわよ」

「お、おう。なあ、さっきのってマジで神様だったんです?」

「そうよ、アンタたちの国ではヤオヨロズって言うんでしょ。その類」

 トラちゃんさんに急かされ、慌ててズボンのベルトを締めて歩き出す。前を行っているのか、地面に立っているのか、それとも横に寝転がっているのか分からない空間をひやひやしながら進んでいると、通路の床から、天井から、隊員たちの悲鳴がひっきりなしに聞こえてくるものだから、小生としても気が気でない。

 

「あ、あの。トラちゃんさん?」

「何よ」

「同僚たちを助けるわけにはいかんとですか?」

 小生の言葉にきょとんとするトラちゃんさん。

 やがて辺りを窺い始め、

 

「そう言えば、まだ手遅れじゃないのもいくらかいるわね。もうとっ捕まっちゃったり、グロくなっちゃって動かないのは除外していいんでしょ?」

「ちょっと何てこというの……。でも、はい。勿論こちらの安全第一で」

 グロいだの何だのと、知っている声の断末魔が聞こえる中で言うものだから二の足を踏んでしまうが、まかり間違って自分が隊員を見捨てたという事実が外部に漏れてしまうと外聞が悪い。

 

「てか何でアンタ、わざわざ他人を助けるの?」

 だから、トラちゃんさんのこの問いかけに対する答えにも、同僚を助けないという選択肢はなかった。

 

「うん、弱っちいけど。アンタは善き霊のようね。アタシの作る"新世界"の第一村人になる権利をあげるわ!」

 トラちゃんさんは満足げにそう言うと、捻じ曲がった通路の端に生じた隙間から上半身を潜り込ませ、何かを通路の中へと引っ張り上げようとする。その際、色々と見えてはいけないものが見えてしまったことは、見て見ぬ振りを決め込むことにした。

 

「な、ななな何だ!?」

「た、た助け……ッ」

 インフラ班の顔見知り、機動班の強面、資材班、観測班、男女を問わない少なからぬ人数の同僚が、トラちゃんさんによってこの"隠れ場"という空間へと引っ張り上げられる。

「あ、あれ? 見えない何かの襲撃……、は?」

「てか、ここ何処だよ。エッ、お前ヤマダか? ずっとトイレに篭ってたんじゃ……」

「ト、トリックですよ」

 そうして救出した人数が10の大台に乗ろうとした辺りで、

 

「あっ、やば。ちょっとアンタ!」

 通路側に残された下半身をばたばたとさせながら、トラちゃんさんがこちらに呼びかけてきた。

「どうしました?」

「ちょっと、強情なのがいて……。というか、落ちそう。アタシの足持って! 引っ張り上げて!」

「は、はい!」

 見れば、トラちゃんさんのおみ足が今にもずるずると"隠れ場"の外へとずり落ちそうになっておられる。慌てて小生は周辺の同僚に声をかけて、芋掘りの要領で彼女を引っ張り上げようとおみ足を掴んだ。

 

「なあ、ヤマダ。これセクハラにならね……?」

「さあ?」

「うるせえ、良く分からんがとにかく引っ張れ!」

 男たちの野太い掛け声がかかるたびに、トラちゃんさんのすらっとした下半身が、そして細い腰が、更に平坦な上半身がこちら側へと引き上げられる。

 そんな彼女が両手で抱きかかえていたのは、スラブ系の見目麗しい女性であった。

 恐怖のあまりに目元を赤く晴らしていたが、見間違えようのない、インフラ班の同僚連中から身体の曲線美を卑猥な目で見られていた科学調査士官ゼレーニン中尉だ。

 

「あ、あなた達……」

 無事な同僚の姿を認めたゼレーニン中尉は張り詰めた気が緩んだのか、その場に崩れ落ちてしまう。

「中尉!?」

 小生、慌てて抱き支えて呼びかけてみるも反応がない。どうやら、気を失ってしまったようだ。 

 思案する。正直、この曲線美を背負っていくのは役得であったが筋力的な問題で懸念があった。

 だから自分以外に委任することにする。その際機動班は選択肢から外した。この先、他の班員を守ってもらわなければならないからだ。

 故に、頼むならば普段色々と物資の持ち運びが多い資材班。その中でも大柄の人間をあてがうことにする。

「ちょっと、中尉頼みます」

「お、おう」

 幸い、まだ事情を呑み込めていない資材班の人間は納得しかねるという表情ながらも、その背中に彼女を受け入れてくれた。

 と、ここで救出された面々の何人かが、"バケツ頭"越しに渋い表情をしていることに気がつく。

 言いたいことは何となく分かる。多分、情報を欲しがっているのだ。

 

「なあ、ヤマダ。そろそろ事情を――」

「ごめん! アンタ。えっとヤマダって言うの? ちょっと」

 だが、彼らの問いかけはトラちゃんさんの切迫した声にかき消されることになる。

「ニンゲンたちを走らせて。このセクターの魔王に気づかれちゃった」

「ま、魔王?」

「そう、魔王」

 言葉を発する時間も惜しいとばかりに、彼女は早口で返してきた。

 

「もしかして、拙いんです……?」

「うん、すっごくやばい。だから、早く!」

 彼女に突き飛ばされるように背中を押され、小生をはじめとした調査隊の生き残りは一目散にその場を駆け出す。

 もう救助活動などしている暇はなかった。

 わき目も振らずに足を速めて、

「I"=$SQ"%HASD`L+Pp@!?????????」

 後方から何やら聞こえてくる物々しい音にただただ肝を冷やす。

 走らねばならない。逃げねばならぬ。走る。走れ!

 後方で轟く音は段々と大きくなり、直に小さなモザイクが小生らの背後にまで食らいついてきた。

 

「f!$%$'at#$&&'OI'(SUG(A%&"qH%&DYU!」

「bhOI'(S')`pof(%U'YI(OU!!」

「お、お、おおお追いつかれちまったぞ!?」

 爬虫類や両生類、あるいは猛獣の挙動で、大中小の様々なモザイクが右へ左へと跳ねている様に顔を青くした同僚が叫ぶ。

「サノバビッチッ。どけっ」

 機動班の強面が迫り来る一体を作業用ナイフで切り払い、もう一人の黒人隊員が観測班に襲い掛かろうとする中型のモザイクを蹴り飛ばした。

 そして、間合いの開いたモザイクたちに向けて3人目の機動班員が標準装備のマシンガンを向ける。

「食らえ」

 銃口が火を噴き、NATO規格の9mmパラベラム弾がばら撒かれた。

 火線がモザイクのいる辺りを横一列になぎ払い、大型、中型の動きをその場に縫い付ける。

「や、やった……!」

「馬鹿野郎、まだだ!」

 小型が拙い。元より形の安定しない小さな的だ。それをおぼつかない逃走中の反撃では、狙い撃つことも難しい。

 小生も抵抗すべく、手持ちのティッシュを投げつけるなどしてみたが、当然ながら容易に避けられてしまい、効果はなかった。

 

「ひ、ひやっ!?」

 資材班の男性の背中が、ついにモザイクの一匹に捕まってしまった。

 体格に似合わぬ膂力を持っているのか、資材班の身体は後ろへぐいと引き寄せられ、彼に群がらんと小型のモザイクが殺到する。

 

「か、神様――ッ」

「アタシがいるじゃない!」

 今にもその命運尽きようとする――、男性の命を力ずくで救ってみせたのは自称女神のトラちゃんさんであった。

 モザイクたちをむんずと掴み、物理的に引き剥がすという信じがたきファインプレーだ。

 その頼もしき活躍に、資材班の彼女を見る目はまさに女神を見るそれに変わっていった。

 

「ああ、もううざったい!」

 両手で髪をくしゃくしゃと掻き毟りながら、彼女が叫ぶ。

「ヤマダ! こいつら連れてさっさと先に行って!」

「と、トラちゃんさんは!?」

 彼女は腕まくりをしたかと思うと、

「こいつら蹴散らしてから行く!」

 鼻息を荒くして、そんなことを言う。

 

「無茶ですよ!」

「そうだ、俺たちと一緒に来い!」

「女神様!」

 恩人を見捨てまいと声を荒げる彼らに対して、彼女は手で振り払うような邪険な仕草を返した。

 

「うっさい。アタシは女神、トラソルテオトルなのよ。分霊化してるといったって、すぐにやられるようなタマじゃないの。とにかくさっさと離れなさい。良いわねっ!」

 言って、トラちゃんさんはぐるぐると可動域を広げるように回した腕をモザイク連中に向け、

 

「マハブフーラ!」

 通路の一部をモザイクもろとも一瞬で氷の世界へと変えてしまう。

 まさに一瞬の出来事であった。

 

「すっげえ……」

「何だあのハンドパワー」

 あっけに取られる調査隊員に対して、彼女は再び叱責した。

 

「早く先へ行って!」

 ここまで来れば彼女の言葉に歯向かう者は最早いなかった。彼女は、あの不思議な能力でモザイク、いや"悪魔"たちに対抗することができるのだろう。

 小生らは彼女を信じてひたすらに走る。鈍重な身体も、身軽な身体も、皆が息を切らせて必死にこの場を離れようとした。

 

 ――マハブフーラ!

 ――マハブフーラ!

 ――ちょっと敵多すぎなんですけど!?

 ――うっざい! 氷結耐性とかふざけんな! パンチしてやる!

 ――ああ、もう! アタシを怒らせたわねっ。ジャッジメント!!

 ――ぴぎゃっ。

 

 だが、嫌な予感がして小生だけが皆を先へと行かせてUターンする。

 良く分からないことだらけであったが、最後の声を聞いてさっさとこの場から逃げ去るというのは、何か無いなと思ったのだ。

 

 果たして、彼女は四散したり氷付けになった多くのモザイクの中で、黒焦げになってうずくまっていた。

「……しばらく使っていなかったから、ジャッジメントに自傷特性があることを失念していたわ。食い縛りが無ければ、即死だった」

 彼女に話す余裕があることにまずはほっと息を吐き、小生は彼女を担ぎ上げる。

 ゼレーニン中尉と比べて、軽いのが助かった。

 

「追ってくる"悪魔"はもういそうにないんです?」

「んー、とりあえず第一陣は。後は第二陣が来る前に、この場をずらかれば完璧ね。って、"悪魔"の存在信じるの? さっきまで信じていなかったでしょう?」

「流石にもう信じざるを得ませんよ」

「アタシの言うことを信じるなら、それでいいのよ」

 トラちゃんさんは満足げに鼻を高くした。どうにも彼女の機嫌が良くなるポイントが分からない。

 そうして、彼女を肩に担ぎながら調査隊の生き残りたちに合流を果たす。

 彼女は調査隊連中からの歓待ぶりに、やはり嬉しそうな顔を見せていた。

 隊の中から機動班の黒人が小生らの方へと一歩歩み出る。何時の間にやら暫定リーダーが決まっていたらしい。

 

「無事で良かった、二人とも。インフラ班のヤマダに、ええと……」

「トラソルテオトルよ」

「やっぱり。聞き間違いかと思ったが、俺の故郷の女神様じゃねえか!」

 ヒスパニックらしい資材班の一人がその場で「神よ」とひざまづく。最早彼女をただの人間と考える者はいなかった。

 気温、湿度、酸素濃度……。"バケツ頭"のモニターが示す周辺の環境値はおよそ人間が生存できる値を示していない。今、小生らが無事でいられるのは"バケツ頭"こと着脱拡張型・次期能力総合兵器、デモニカ・スーツの備える極地耐性の賜物なのだ。

 それだというのに彼女は平気な顔で柔肌を晒している。

 

 黒人兵士も彼女の尋常ならざるを悟り、胸元で十字を切って感謝を示す。

「軍人家系の軍人育ちだ。恩のある貴女に感謝こそしているが、正しい作法を俺は知らない。許してくれ」

「感謝に形なんか要らないわよ。それで?」

 何か話があるのだろう、と彼女は顎で先を促す。

 黒人はこくりと小さく頷き、行く先を指さして続けた。

 

「先行した機動班がこの先を行き止まりだと言っている。我々はここに籠城するより他に手はないのか? 事態を打開する情報が欲しい」

「ん? 行き止まり? そんなはずはないと思うけど……」

 怪訝そうな顔をしたトラちゃんさんは、よっこらしょっと小生の肩から降りると、その場をうろうろと見回り始める。たまにカニ歩きなどしている様は何というか、至極珍妙な光景だ。正気は確かであろうか。

 

「見つけた。ここ、空間を繋ぐゲートになっている」

「何の変哲もない壁に見えるんですが……」

 小生がそう言えば、へらりとトラちゃんさんの鼻が高くなる。

 

「そりゃあ、光学情報なんかに頼っているようじゃダメよ。やっぱ、女神パワーがなくちゃね。あー、女神ってすごいなー。尊敬されちゃう存在だなー!」

「……打開策があるんだな。ただ、素直に感服する。扉の開閉をお願いできないか?」

 この一瞬で彼女の取り扱い方を察した彼は人使いの才能があるのかもしれない。

「勿論、いいわよ」

 彼のおだてに乗ったトラちゃんさんは自信満々で両手を壁にかざした。

 

「開け!」

 が、何も起こらない。

 

「んー!」

 顔を赤くして力んでいるが、やはり何も起こらない。

 周囲の眼差しが期待から胡乱げなものへと変わっていく。

 その内、肩で荒い息をついた彼女はちょこちょこと反対側の壁へと近づいていき、

 

「開け!」

 壁に空間の割れ目を創出させた。

 にわかに沸き立つ隊員たち。だが、小生は聞き逃さなかった。彼女が「アタシの力に合う扉があって良かった」と呟いていたのを。

 

 かくして、"隠れ場"からの脱出を果たした小生らは、外界へ――、つまりシュバルツバースの内部へと足を踏み入れることに相成った。

 そこは小高い丘になっており、小生らは眼下に広がる度し難い景色を目の当たりにして言葉を失う。

 まるで静脈と動脈が張り巡らされているかのように、赤と青のどぎつい原色で塗りたくられた石造りの建物群がずらりと並ぶ中、その中心部には宮殿を思わせる巨大建造物が見えていた。

 空を飛ぶモザイク。奇怪な叫び声。

 

「おい、ここは南極のはずだろ……?」

「何処からどう見ても、年季の入った歓楽街か何かじゃないか」

 どう見ても人が作ったようにしか見えない風景だというのに、デモニカの観測する環境値は人の生存可能値をぶっちぎりで下回っている。

 人の住めない人工物の世界――。

 あまりのおぞましさに身震いすらする小生らの傍らで、トラちゃんさんが忌々しげに形の良い眉をひそめた。

 

「さながら、"遊びふける国"といったところね。汚らわしい……」

「この光景について何か知っているのですか?」

 小生は問う。致命的に足りていない情報を、今はかき集める必要があった。

 トラちゃんさんは忌々しげな表情で頷き、続ける。

 

「この滅びの地は、ニンゲンの抱く欲望の"反転世界"なのよ」

「それって、ハンマーシュミット博士の提唱する……」

 観測班の連想した仮説は、確か人間文明と異空間の相関関係に関する説のはずだ。

 つまり、目の前の景色には人間の文明が関わっている。

 トラちゃんさんは言った。

 

「そのハンマーなんたらってのは知らないけど、この光景はニンゲンが無制限に快楽を貪った結果、生まれたわけ。他にも色んな世界が生まれていると思うわよ」

「他にも反転が……。えっ、ちょっと待ってください」

 彼女の説明に観測班が目を見開く。

 

「シュバルツバースとは、単なる自然現象なのではなく、人間の精神活動が生み出した……。つまり、とんでもなく規模の大きな"公害"ということなのですか!?」

「有り体に言えば、そうなるわね」

 因果応報、という言葉が脳裏に浮かんだ。

 隊員たちが思い思いに呻き声をあげる。それも無理からぬ話であるだろう。

 この謎深き地にやってきた小生らは、上役であるシュバルツバース合同計画から「空間の破壊に繋がる情報を持ち帰ってこい」と命じられていた。

 だが、蓋を開けてみれば異空間の創出という前代未聞の現象であったとしても、その要因は単なる"公害"。

 "公害"ではダメだ。"公害"を解消するためには、既存の人間活動を縮小・制限させる必要がある。

 そんなことを、各国の寄り合い所帯である合同計画が決断できるはずがない。

 まず、某国と某国が制限内容を巡って対立を始めるであろう。結果として、戦争すら起こりかねない。

 人間側に問題があるということは即ち、我々に打てる手はないということなのだ。

 ずんと圧し掛かった絶望に皆が項垂れる中、トラちゃんさんは天を仰いで更に続けた。

 

「この地には"世界"を作り替える力がある。地球の自浄作用とでも呼ぶべき力が。今までに何度もあったことでね。自浄作用がニンゲン文明を一掃しようとしているのよ」

「……まるで、『創世記』の"大洪水"だな。いや、もしかするとあの神話も本当にあったことなのか――」

 黒人がやるせなさそうに言った。

 沈黙の帳が下りたところで、人の住まぬ歓楽街にぽうっと明かりが灯る。

 宮殿が移動式のスポットライトで照らし出され、周囲に囲むモザイクたちが踊り狂う。

 彼らの発する音声を、"バケツ頭"の聴覚センサーが傍受した。勿論、意味は理解できない。だが、まるで小生ら人間という存在を嘲笑っているかのように感じられた。

 

「ねえ、アンタ」

 どうしたものかと途方に暮れる小生に対し、トラちゃんさんは窺うように声をかけてくる。

 

「ヤマダだっけ。アンタ、アタシに協力してくれるって約束だったわよね?」

「へ、あ。はい」

「それ、ちゃんと守ってくれる?」

 何かを恐れる表情であった。

 正直、彼女が一体どんな感情を抱えているのか、人間たる身では想像もできない。

 だから、小生としては今までの人生訓に従って彼女に返答するしかないのである。

 

「そりゃあ、約束は守りますが」

「本当に?」

「はい、本当に」

「本当に? 本当に?」

「ちょっと疑り深過ぎやしませんか!?」

 小生が抗論すると、彼女はようやくほっとしたように満面の笑みを見せてくれた。

 

「良かった」

 そして彼女は決意を湛えた瞳を揺らし、小生へと手を差し伸べる。

 

「アタシの目的は、滅びの地に一面のトウモロコシ畑と草原を作ること」

「トウモロコシ畑を?」

 思わず聞き返してしまうが、納得もした。

 何せ、彼女は先ほど自身を豊穣の女神と称したのである。

 豊穣の女神が畑を作ろうというのだから、これほど道理にかなった発言はない。

 

「うん、そう。まだここは誰の者でもない土地がいっぱいあるからね。アタシにもワンチャンあると思う。そして、生き物もいっぱい住まわせるのよ」

 彼女は固めた握り拳を天へと向ける。

 天には巨大な月が浮かんでおり、不気味な光を大地へと降り注いでいた。

 彼女の拳は、まるで月を打ち砕かんとしているようにすら見える。

 

「ニンゲンがこの世界に今の文明を築き上げてからも、ここではない世界でも、アタシの居場所は無くなったから」

 唇を強く噛み締め、彼女は更に宣言する。

 

「今度こそはちゃんと豊穣の大地を作ってみたいのよ。誰にも縛られることのない、アタシだけの"箱庭"を」

 気づけば、調査隊の面々も静かに彼女を見つめていた。

 これは"神託"だ。

 同僚の安否、1号艦"レッドスプライト"号をはじめとする他艦の動向。そして艦の壊れた自分たち"エルブス"号の生き残りに、元いた場所へと帰る術はあるのかなど――。その他諸々の課題と共に、「恩人の願いを叶えねばならぬ」という新たなミッションが刻み付けられたことを自覚する。

 

「それで、その畑を作るために何をすればいいんです?」

 だからこそ、自然に協力を前提とする問いかけが口をついて出てきた。

「僕も協力しますよ! 恩返しをさせてください!」

 資材班が小生に続き、

「まずは、我々に課せられたミッションの遂行と生存が先だとは思うが……、そのついでで良いのならば協力関係も結べるだろう」

 黒人の機動班員もまた、この流れに同意する。

 その後も続く隊員たちの乗り気な反応に、トラちゃんさんが端正な顔をくしゃりと崩した。

 

「アンタたち……。アタシ、今信者に囲まれて最高に女神っぽくなっている気がするわ!」

 というよりはヒーローなのだよなあと思わないでもなかったが、地獄の中に生まれたこの微笑ましいやり取りを邪魔しようとも思えない。

 有頂天になったトラちゃんさんは、腰に手を当て斜に構えた体勢で髪を指でかきあげて、隊員たちにとミッションを命じる。

 いや、メインミッションを調査隊関連のミッションだとすると、これは差し詰めEXミッションであろうか?

 彼女は言った。

 

「そうね、とりあえず――」

 隊員たちがごくりと息を呑む。

 

「ええと――」

 EXミッションの発令をただ待ち続ける。

 

「ええと……。思いつかないから、とにかく生存重視で行きましょう? まず、"悪魔"たちとかちあわないよう、こそこそ拠点を作るのよ!」

「そりゃ、言われなくてもそうしますがな」

 隊員たちの肩から力が抜けた。

 この間の抜けた女神様は、どうやら自分たちでフォローしてやらなければならぬらしい。

 そんな奉仕の心が隊員たちの間に伝染していくのを小生は確かに感じた。

 




【メインミッション】
 "エルブス"号の奪還。悪魔に囚われた隊員の救出。他艦への救援要請。
【EXミッション】
 暫定拠点の構築。

【悪魔全書】
名前  トラソルテオトル(分霊)
種族 女神
属性 LIGHT―LAW
Lv 1
HP 70
MP 72
力 8
体 9
魔 9
速 4
運 2

耐性
氷結 耐
破魔 耐
呪殺 無

スキル
マハブフーラ ジャッジメント メディラマ リカーム 食いしばり 勝利のチャクラ

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