――ぼくには、好きな女の子がいた。
実際にそんなことがあるなんて信じていなかったけれど、一目惚れだったのだと思う。
中学生の時、偶然通りかかった音楽室から聞こえてきたピアノの音色に惹かれて、音楽室を覗き込んだのが始まりだった。
そこには、ピアノを弾いている水色の髪の少女がいた。
彼女は楽しそうにピアノを弾いていて、ぼくはその姿に見惚れた。
今思えばこの時すでに、ぼくは惚れていたんだ。
やがて曲を弾き終わり、彼女がぼくに気づく。
「……誰?」
武谷「覗いちゃってごめん。でも、今のピアノすごく良かったよ」
「え……ありがとう……」
それが彼女、
それからぼくは、犬吠埼さんと仲良くなるために全力を注いだ。
努力の結果、友達、にはなれたのだと思う。
ぼくは犬吠埼さんの弾くピアノが好きで、それを録音してぼくにくれないかと頼んだところ、「いいよ……」と彼女は言ってくれた。
いつも暇さえあれば、ぼくは犬吠埼さんの弾いたピアノ曲をスマホで聴いていた。
そうやって、しばらくは穏やかな時間が過ぎていたんだ。
けれど、そんな中、犬吠埼さんに悩みがあることを知った。
彼女は表情を陰らせることが多かったからだ。
なんとか、踏み込んで理由を聞くと、彼女は話してくれた。
犬吠埼さんはピアノのプロを目指していて、同じくピアノのプロの父親に認められたいそうだ。
でも、どれだけ練習しても、上手くなっても、父親は認めてくれないらしい。
犬吠埼さんにとってピアノは生き甲斐で、目標は父親に認められること。
とにかく父親に認められたくて彼女は必死だった。
そのことばかりに必死で、ぼくが犬吠埼さんを認めても救われてくれなくて、必死に暗い中を進んでいた。
ぼくは何とかしてあげたくて、けれど友達にはなれても見ていることしかできなくて。
ぼくがいくら元気づけても、ピアノの腕を褒めても、「ぼくは犬吠埼さんのピアノ好きだよ」と言っても、彼女が認めてほしかったのは父親なんだ。
だからぼくには応援することしかできなかった。それでも犬吠埼さんが上手くなるわけじゃない。ぼくからしたらプロとどう違うかなんてわからないくらいなのに、なにが駄目なんだろうと何度も思った。
どうして彼女の父親は認めてあげないんだろう、と。
それでもなんとかしたくて、ぼくは頑張った。考えた。奔走した。
そして、正面切って犬吠埼さんの父親と話してみた。
そうすると、意外と簡単なことが分かった。
彼女の父親は、犬吠埼さんのことを真に思っていたのだ。
不安定な音楽の道ではなく、安定したもっと良い道に行ってほしいと考えていたのだ。
だから犬吠埼さんのピアノが幾ら上手くなろうと認めなかった、どれだけ上手くなろうとも、プロとして一生やっていける保証はどこにもないからだ。それを彼は身をもって知っていた。
娘には幸せになってほしいと、彼女の父親は心の底から言っていた。
なんだよそれ、と思った。
父親なら子供の夢くらい応援してやれよと思った。
あなたは今プロやってんだろ、だったら犬吠埼さんがプロとしてやっていける可能性なんて幾らでもあるだろ、と。
でも、これを伝えれば犬吠埼さんは救われる。彼女の父親はとっくに君のピアノの腕を認めてたんだって。
――そんな時だ、バーテックスの襲撃が起きたのは。
ぼくはその時、自宅にいた。
ぼくの家は富豪と言えるほど金持ちだったから、無駄に広い大豪邸だ。
外が騒がしいような気がすると考えていた時、父さんが突然ノックもせずにぼくの部屋に入ってきた。
そのことに抗議しようとすると、お構いなしに父さんは言う。
父「武谷、これをお前に託す。お前がみんなを守るんだ」
急にそんなことを告げて、父さんはぼくに一台のスマホ――スマホによく似たPDAを渡した。
どういうことか分からず混乱していると、父さんは説明してくれた。
曰く、日本とは別で、外国では北欧神話の神の研究、信仰があった。父親は日本人でありながら北欧神話に並々ならぬ興味を持ち、北欧の人と共に、北欧の勇者システムを研究していた。かなりの金銭も支援しているみたいだった。
これはぼくも知っている。昔から父さんには神様を敬う気持ちを、特に北欧神様を敬う心を教えられてきたから。
その研究の成果が、先程ぼくに渡したスマホによく似たPDA――スマホでいいや――なのだという。
そして、ぼくには北欧の勇者適性があるらしい。
今、バーテックスという神の尖兵が人類を攻撃して来ているから、戦って欲しいみたいだ。
ぼくは呆けていた。いきなりそんなこと言われても、どうすればいいか分からなかったからだ。
武谷「母さんは……?」
口から漏れたのは、今ここにいない家族の心配だった。
父「母さんは……もう」
もう。
もうって、なんだよ。
と。
ぼくの後ろの窓の方を見て、父さんが叫んだ。
父「武谷!」
ぼくは父さんに突き飛ばされた。
建物が壊れる大きな音と共に、ガラスが割れる音が聞こえた。
体を起こし、周囲を確認すると、窓や壁は破壊されていて、血だまりがあるのを見つける。
肉塊が転がっていた。
今さっきまでぼくの近くにいた人は、父さんしかいない。
つまりその血だまりと肉塊は、そういうことだ。
ぼくを庇って父さんは死んだ。
あとで知ったけど――北欧の勇者システムについて知っている人間はこの時点でもう存在しない。日本以外に人類はもういなくて、日本の父さん以外の研究者も全て殺されたらしいから。
だから唯一の北欧勇者関係の人というだけで、大社は丁重にぼくを扱っていた。ぼくも大社も北欧関係のことはほとんど何も知らないけれど。
突然の事態と肉親の死に、悲しみさえうまく受け止め切れずに、ぼくは固まっていた。
白い化け物、バーテックスが血で汚れた口をぼくへ向けて現れた。
ぼくは、ここで始めてグングニルを使った。北欧の主神オーディン様の力の一部、グングニル。一部だけでも主神ゆえその力は絶大。
こんな状況で、最初に思い浮かんだのは犬吠埼さんの顔だ。
今あの子はどうしている。
彼女だけは、助けたい。
誰かの為に命を掛けろなんて言われてもどうしていいか分からないけど、大切な人は守りたい。
ぼくはひた走った。
走って走って、我武者羅に進んだ先。
犬吠埼さんがいる場所を
ぼくたちが通う学校の正門前に、犬吠埼さんはいた。
学校に逃げ込む途中のように見えた。
武谷「犬吠埼さん!」
ぼくは呼んで走り寄った。
水「武谷くん……!」
犬吠埼さんが振り返ってぼくを見た。
綺麗な水色の髪がふわりと翻って――
ばくん。
――君のスカートの中が見たいんだ。
辛そうにピアノを弾く彼女を止めたくて言った言葉。無視され意味のなかった言葉。そのことを思い出す。
犬吠埼さんは、ぼくの目の前で喰われた。
喰われて、真っ二つに引き千切られた。
ぼくの眼前に、彼女の下半身が落ちてきたんだ。
その時の拍子にスカートがめくれて終ぞ見ること叶わなかった彼女のスカートの中が見えてぼくはおかしくって笑えて笑えて笑えてまったく笑ってなくて狂った
彼女は何も知ることなく、救われることなく死んでしまった。
犬吠埼さんは最後まで、笑ってはくれなかった。
それからは、よく覚えていない。
命からがら北欧勇者の力で生き残った。大切な人を誰も護れずに。見知らぬ人だけは助けられて。途中、若葉さんたちと合流したと思う。ぼくひとりだけではゲージが溜まる待ち時間の内に殺されていただろう。
ぼくは何も守れなかった。護れなかった。目の前で死んだ。
だから。
だから、最初は、犬吠埼さんに似ている千景さんを助けたいと思った。何かしたいと思った。
今は、あの子の代わりなんかではないけれど。
――――そして。
それらの記憶は、すべて消えた。
ミョルニール。新しい力を得た代償の一つ。
辛いことも、大切だったあの子との思い出も。
消滅して、永遠に戻らない。
意識が覚醒する。ぼくは目を開けた。
最初に視界に入ったのは、千景さん。
杏さん、タマさん、友奈さん、若葉さん、ひなたさん、みんないる。杏さんとタマさんは体に包帯を巻いていた。タマさんの方が包帯の量が多い。
白い天井に壁、今いるここは病室だった。ぼくはベッドに寝ている。
千景「あ……! 聖陵院くん、起きた……」
友奈「よかった~」
皆安堵の表情を見せた。
武谷「……ここは?」
ひなた「病院です。武谷さんが倒れた戦いから丸一日経ってますよ」
次の日になっていた。
確かに昨日樹海化したのが夕方だったのに今窓の外が明るい。
千景「それで、身体のどこかに異常はないの……?」
千景さんは心配そうな顔をしている。
武谷「ないよ」
ぼくは嘘を吐いた。
ぼくは、何かを忘れたのだから。
ひなた「確かに大社が調べた結果身体に異常はないようでしたが」
ひなたさんは懸念がありそうな様子だった。
武谷「どこも痛くないし、身体も普通に動かせるし、大丈夫だよ」
ぼくはさも平気と言ったように笑った。
杏「でも、倒れるほどの代償だったんですよね……?」
武谷「あの時は緊張が振り切れてたからね。実際動けるんだし問題ないよ」
武谷「それよりまた切り札を使ったみんなは異常とかないの? 杏さんとタマさんは包帯してるけど」
球子「骨は折れたけどタマはピンピンしてるぞっ!」
杏「左腕を毒針が掠りましたけど、毒の浸食も止まってますし、ちゃんと治療が施されましたので大丈夫です」
球子「少なくともタマたちは武谷みたいに気絶はしてないしな」
若葉「私と千景と友奈は、検査は昨日したが、かなり疲れていたこと以外は特に何もなかった」
武谷「そうか、良かった……」
千景「本当に、問題はないのね……?」
武谷「うん」
断言するように間投詞のみで頷いた。
千景「……そう」
球子「なら、今回の戦いはみんな無事で乗り切れたってわけだなっ!」
しめるように元気よく、タマさん。
杏「これで、みんなでお花見ができますね」
満面の笑顔で、杏さんはそう言った。
後日。
ぼくが自室に作った祭壇には、グングニルに見立てた槍の飾りと、ミョルニールに見立てたハンマーの飾りが並んでいた。
武谷「北欧神様、感謝を」
ぼくは奇跡を賜ってくださったオーディン様とトール様に感謝していた。
北欧神様が力を貸してくれたからこそ、ぼくはみんなを守れたのだから。
ぼくは、いつまでも祈り、感謝する。信仰を奉納し続ける。
数日後。
視界一面に、桜舞う。
ぼくたちは丸亀城付近に咲く桜群の只中にいた。
球子「花見だー!」
友奈「綺麗だねー!」
ひなた「お花見日和ですね」
若葉「ああ、いい天気だ」
杏「…………」
千景「…………」
杏さんは感極まったように、千景さんはただ無言で桜を見上げていた。
シートを敷いて、弁当を皆広げた。
若葉「ひなたの料理は、やっぱりうまいな」
ひなた「うふふ」
球子「あんずの卵焼きうまいなー」
杏「ふふ」
千景「聖陵院くん、高嶋さん、食べてみて……」
千景さんが弁当をぼくと友奈さんに差し出す。
千景さんの手には絆創膏がいくつか貼られていた。
ぼくは千景さんの料理の腕を知らない。けど、その絆創膏を見るからに、元々上手くないのに頑張って作ってくれたということだろうか。
友奈「わー! ぐんちゃんの料理なんて初めて食べるよー」
ぼくと友奈さんはその弁当に箸を向かわせた。
武谷「うまい」
友奈「おいしー!」
千景「よかったわ……」
千景さんは安堵したように微笑んだ。
談笑しながら、桜を眺め、食事をする。
花見の醍醐味だ。
ぼくは桜の木を、舞い散る花びらを目を細めながら眺めた。
白鳥さんとも、お花見したかったな。
でも、ぼくにはみんなと一緒に戦い守るのが精一杯だった。
それでも足りなかった。何もかも足りなかったから、大事なものを差し出すしかなかった。けれど、護れる力を得たことで心は充実していた。
ぼくは幸福だ。普通の人なら、どれだけ望んでも、犠牲を払っても、特別な力を手に入れることはない。
けれどぼくは代償を負うだけで手に入っているのだから、幸運だ。みんなを守ることができるのだから。
それで。
ぼくがみんなを守りたいと思っている最初の理由は何だっけ……?
思い出せない。
代償で消えた記憶にあるのだろう。
でも、なぜか、守りたいと思うその考えだけは、感情だけは以前と変わらない。
記憶が消えても、感情までは消えないようだ。
実際、ぼくは千景さんたちのことは忘れていないし、好きだ。
変わるわけがない。
この先、もっと記憶が消えたとしても。
ならば、問題ない。問題ないと、思うことにした。
誰か、大切だった人を忘れたような気がするのは気のせいだろうか。
ぼくの心は充実し、今までの厭世的な心からは解放された。
でも、それだけはしこりのように残っていた。
ぼくは、誰を忘れたのだろう。
感情が残っているから記憶がなくてもそう思えるのだろうけど、ぼくにそれほど大切だと思える人が千景さんたち以外に、本当にいたのだろうか。
千景「聖陵院くん……?」
千景さんが気遣わしげにぼくを見ていた。
武谷「なに?」
千景「何で……泣いてるの?」
武谷「え……」
目元に手を当てた、指先が濡れた。
何も、悲しいことなど無いはずなのに。
ぼくは守る力を手に入れて、幸福だ。
本当は、矮小な一人間であるぼくでは叶わなかったことを叶えてくれたんだ。絶望で終わる普通を、普通じゃない結果にしてくれた。身に余る奇跡を与えて下さった北欧神様に感謝しなければ罰が当たってしまう。
涙を腕で乱暴に拭った。
武谷「……なんでもないよ。ただ嬉しかっただけさ」
千景「……そんなにお花見がしたかったの?」
武谷「うん、したかった」
千景「そう……」
千景「何か、あったわけじゃないのね……?」
武谷「うん、ないよ」
ぼくは完璧に朗らかに笑った。
花見も終わりかけの頃。
若葉さんがぼくの所へ来た。
若葉「武谷、礼を言わせてもらう」
武谷「え? なんで礼?」
若葉「お前の必死な姿を見ていて、わかったよ。バーテックス共に報いを受けさせるのではなく、守るために戦うべきだな」
しみじみとそう口に出すと、若葉さんは去っていった。
武谷「……なんだったんだ?」
球子「武谷」
武谷「うわ、タマさん」
球子「うわとはなんだうわとは、タマだって傷つくんだぞ」
武谷「ごめん、いきなり視界外から話しかけられたものだから」
若葉さんが離れて一瞬静かになった隙に突然声をかけられたんだ。少し驚く。
球子「それより、ありがとな」
武谷「……なんでタマさんまで礼を」
球子「タマまで?」
武谷「いや、こっちの話」
球子「タマはあの時、武谷がいなかったら杏を守れなかった……。だから、ありがとう」
その笑顔にぼくの心音が高鳴った。
武谷「なに弱気なこと言ってるんだよ。守りたいなら、守ってやってよ」
球子「うん、そうだな……当然守る。タマはあんずを守りたい」
そして、ぼくはそんなみんなを守る。
桜を間近で見上げていると、杏さんが静々と隣に並んだ。
杏「武谷さん……」
服の袖が、杏さんになぜか掴まれた。
杏「正直、あの時、もうお花見はできないんじゃないかって思いました。このまま死んじゃうんだって、諦めかけました……でも、今、お花見できています」
杏「みんな頑張って、タマっち先輩が守ってくれて、武谷さんが助けてくれたからです」
杏「助けてくれて、ありがとうございます」
杏さんは華やかな笑顔をぼくに向けた。