短編というより、ショートショートか掌編といった長さです
表現の練習のつもりで書いた習作ですが、お読みいただけたら幸いです
1
――カランカラン
安っぽい音を立ててドアベルが揺れ、歴史を感じる重そうな扉がゆっくりと開かれていく……
「いらっしゃい」
マスターのいかにもといった低い声がかけられると、扉からまず顔を覗かせたのは一匹の黒猫だった。
「おや、君か。久しぶりじゃないか?にしても、うちは一応喫茶店なんだから動物は困るんだけどな……って今更か」
そんなマスターの言葉に黒猫はお構いなしに店内を進み、お気に入りの場所であるレジ横の出窓部分に軽々飛び乗ったと思ったら、そのままうずくまった。もっとも、その場所にちいさなクッションが置かれたままになっているあたり、マスターがどう考えているかわかろうものだ。
カウンターの中では、コンロに置かれたドリップポットがシュンシュンと音を立てており、頃合いを知らせていた。マスターは火を止めるとポットを手に取り、あらかじめセッティングしていたドリッパーにゆっくりと湯を注いでいく。湯気と同時に香りがあたりに広がっていき、静かな店内を満たしていった。
「おまたせ」
マスターはそれだけ言ってカウンターの上にコーヒーを置くと、すぐに別の作業に移った。
「ありがとう」
そのコーヒーを受け取ったのは、猫と一緒に店に入ってきた一人の少女だった。彼女もまた言葉少なにお礼を言うと、カップを手に取りふぅふぅと冷ましながらコーヒーをすする。
「
いくらか慣れたとは言え、思わず眉間にしわを寄せてしまう程度には、少女にとってブラックコーヒーは苦かった。
2
親、友人、学校、受験……今どきの学生には学生の、様々な悩みがあるらしいが、ある日ふとした瞬間に、それらすべてを放り投げて独りになりたいと思うのもまた、若者の通過儀礼と言えるだろう。
そんなよくいる若者の一人だった彼女は、一年ほど前のある休みの日、勉強の気分転換と称して財布だけを手にして街をふらついていた。
今まで優等生という周りのイメージに囚われてきた彼女が、中心街の喧噪を離れて入り込んだこの路地裏は、古い町並が残っていることもあって、さながらタイムスリップしたような感覚を彼女に感じさせた。
古臭い看板に驚き、袋小路に迷い込んだりしながらも、つかの間の自由を謳歌するかのように、少し上機嫌になって歩いていた時だった。
「なーぅ」
ブロック塀の上から黒猫が見下ろしていた。
「あら、かわいいわね。あなたも独りなの?」
そう言いながら近づいて手を伸ばす少女だったが、黒猫はそれを一瞥して飛び降りた。そんな触れ合いとも呼べないような些細な出来事でさえ、今の彼女にとっては新鮮であり、喜ばしいものだった。
「なーぅ」
黒猫は道路に降りて少し歩いたところで振り返り、少女に向かってひと鳴きしてまた歩き出した。
「あら、ついてこいってことかしら?なんて、そんなはずないか。でもこれも一興かもしれないわね」
そう独り言ちて、黒猫についていくことにした彼女は、ゆっくりと歩き出した。
歩き出して割と早い段階で彼女は、自分がどこを歩いてきたのか、どこへ向かっているのかわからなくなっていたが、不安以上にこの状況が楽しくなってきていた。
「ふふっ、猫に連れられて人通りのない裏道を歩くなんて、どこに連れていかれてしまうのかしら。これで鳥居なんてくぐった日には、マヨヒガ行き決定ね」
以前どこかで読んだ伝承の内容を思い浮かべながら歩き、黒猫に連れられてたどり着いたのは鳥居ではなく、一軒の喫茶店だった。
カリカリと扉をひっかく黒猫に促されるように扉を開けると、黒猫はわずかに開いた隙間からさっさと中に入ってしまう。そして彼女もまた、導かれるように店内へと足を踏み入れた。
3
「おや珍しい、学生さんか。いらっしゃい」
店に入った少女は古めかしい調度品と、カウンターに立つマスターに迎えられた。
テーブルに置かれたランプや、レジ横に置かれたやたらと大きなピンク色の電話、コーヒー豆らしきものが入った謎の機械などの今まで見たことのないものに気を引かれながら、おずおずとカウンター席に着いた。
そこで、そう言えばといった感じで店内を見回せば、例の黒猫はレジ横の出窓に上って丸まっていた。
「ああ、あいつか。なんか知らないけれど、あそこがお気に入りみたいでな。たまにお客さんと一緒に入ってきちゃうんだ。飲食店に動物はご法度なんだが……あいつが来る時は知ってる客の時だけだし、呼ばない限りこっちには来ないから、わかってんだろうな」
「はぁ、そうなんですか」
少女の目線に気づいてマスターが説明してくれたが、実際のところ彼女の耳にはあまり届いてなかった。真面目な彼女をして「素敵なおじさま」と思わせるような魅力に、呆けてし
まっていた。だが、すぐにそのことに恥ずかしくなって、慌てて注文をする。
「あ、あの、ホットコーヒーを」
「はい、かしこまりました」
ただコーヒーを淹れるという行為なのだが、洗練されたその動きに彼女は思わず目を奪われてしまう。
ほどなくして彼女の前に置かれたコーヒーからは、それまで彼女が出会ってきたものは何だったのかと思えるほど鮮烈で引き込まれるような香りが放たれていた。
そして彼女はカップを持ち上げ、ゆっくりと傾ける。
「
一瞬顔をしかめた彼女だったが、ゆっくりと味わってみればその苦みの中にわずかな酸味と深いコクが隠れていることがわかる。これが大人の味か……そんなことを考える彼女のことをマスターが優しい目で見ていたが、それに気づいた彼女は目線から隠れるようにうつむいてしまった。
少女がうつむいてしばらくすると、カウンターの中から「カチャカチャ」という音が聞こえてきた。マスターが先ほど使った道具を片付けていたのだが、少女は再び知らず知らずのうちにその姿を追ってしまっていた。
そしてそのまま穏やかな時間が流れる。店内にはコーヒーの香りと食器を洗う音、そして時折「くぁ」という黒猫の欠伸がアクセントとして聞こえるだけだった。
いつの間にかコーヒーを飲み終えてしまっていたが、少女はその空気に身をゆだね、落ち着いた心持でいることができた。今、この時だけは優等生でも何でもない、ただ一人の少女でいられる幸せを感じていた。
それからどれくらいの時間が経っただろうか。途中一言二言言葉を交わすことはあったが、それほど短くはない時間が過ぎたところで、それまで大人しくしていた黒猫がゆっくり体を伸ばしながら立ち上がったと思うと、軽やかに床へと飛び降りて扉の所まで行き、少女の方へ向かってにゃあと鳴いた。
「そろそろ帰ります。ごちそうさまでした……また……来てもいいですか?」
「ああ、こんな店でよかったら、いつでも来るといい」
少女はマスターのその言葉に無言でお辞儀をすると、会計を済ませ、来た時のように黒猫と共に扉を開けて店を出た。
日が傾き薄暗くなった路地を少女は、まばらに立てられた頼りない街灯を頼りに家路を急ぐ。いつの間にか黒猫はどこかへ行ってしまい、少し時間はかかったが何とか家に帰ってくると、母親からの小言を聞き流しながら夕食を済ませて、早々に部屋へと籠る。
せめて今日だけは、この穏やかな気持ちのままで眠りたかった。
4
それから少女は、特に予定がない休日になるとその店に通うようになった。彼女が店に行くと大概いつもの場所には黒猫が寝ていて、穏やかな空気が流れていた。
そんな雰囲気の中で時には参考書を開いたり、時々現れる常連客にからかわれたりしていたが、やはりマスターとの会話は一言二言で終わっていた。
そして帰りはいつも黒猫と一緒に帰るのだ。
それでも彼女は十分だったし、だからこそその少ない会話を楽しみに、大事にしていた。
そんな日々を過ごしていると、普段の少女の様子も変わってきていた。学校では優秀だがとっつきにくいと言われていた彼女の周りにも人が集まるようになってきた。もしかしたらそれは受験を控えて、彼女に勉強を教わりたいだけの一時的なものかもしれないが、それでも彼女の学校生活に笑顔が増えたことには変わりがなかった。
また、家でも最近少なくなってきていた母親との会話が増え、以前のように笑って話せるようになったのに加えて、ぎこちなかった父親との会話も少しづつ増えてきた。
そして季節は進んで受験も終わり、この春から大学に通うために一人暮らしを始めることになったある日、少女はあの店のことを母親に話した。
「お母さん、あの時の事覚えてる?ちょっと出かけて来るって言って、私の帰りが遅くなった日の事……」
いろいろなことに疲れて街をふらふらしていた事、路地裏で一匹の黒猫に出会った事、その猫についていったら古い喫茶店を見つけた事、それから気分転換と言って外に出たときはこっそりその店に通っていた事、おかげで勉強を頑張れた事……そこのマスターがちょっとかっこいいと思った事。
そんな少女のちいさな秘密を聞いて、何か思うところがあったのだろうか、母親も少女に秘密を打ち明けた。
「そう、やっぱり……親子は似るのかしらね?私もあなたと同じくらいの時、そのお店に通っていたの。だからなんとなくそうじゃないかって思っていたんだけど……いつの間にかコーヒー飲むようになってたし。私と一緒ね」
母親はそう言って笑うと、少女に近づいてそっと背中に手を添えて語りかけた。
「受験でしばらく行ってないんでしょ?まだ閉店まで時間があるから、行ってきなさい。行ってきちんと旅立つことを伝えて来なさい……ね?」
母親の言葉にしばらく俯き考えていた少女だったが、顔を上げて一つ頷くと家を飛び出していった。
そして、通いなれた裏道を小走りで店までやってきた少女の目に映ったのは、扉の前にたたずむあの黒猫だった。『待っていたよ』そう言うかのように一声上げると、いつかの様に扉をひっかき始めた。
そんな訳知り顔の黒猫に、彼女は苦笑いを向けて、ドアノブに手をかけた。
5
――カランカラン
安っぽい音を立ててドアベルが揺れ、歴史を感じる重そうな扉がゆっくりと開かれていく……
「いらっしゃい」
マスターのいかにもといった低い声がかけられると、扉からまず顔を覗かせたのは一匹の黒猫だった。
「おや、君か。久しぶりじゃないか?にしても、うちは一応喫茶店なんだから動物は困るんだけどな……って今更か」
そんなマスターの言葉に、黒猫がお構いなしなのも、いつだったか少女が持ってきたクッションに顔をうずめるのもいつもの通りで、その変わらない光景に彼女も笑顔をこぼす。
いつしか指定席の様になっていたカウンター席の一番端に彼女が座ると、マスターは何も言わずにコーヒーを淹れ始める。
「おまたせ」
マスターはそれだけ言ってカウンターの上にコーヒーを置くと、すぐに別の作業に移った。
「ありがとう」
少女はそれをを受け取って言葉少なにお礼を言うと、カップを手に取りふぅふぅと冷ましながらコーヒーをすする。
「
苦さに思わず眉間にしわが寄ってしまうが、そのまま半分ほど飲むとカップを置いて、ゆっくりと話し始めた。
「あのね、マスター。実は私今度引っ越すことになったの。大学行くのに、一人暮らし始めるんだ……」
そんな風に始まった少女の話を、マスターはそれまでの作業の手を止めて、頷きながら聞いていた。
最初にこの店に来た時の事から、通うようになって変わった自分の事。そして、受験で来られなかった時の事などを彼女は楽しそうに、表情豊かに話していく。
……けれど、そんな時間も終わりは来る。
黒猫が床に降りる……いつだってそれが合図だった。それを横目で見た少女は、最後の言葉を紡いでいく。
「……だからマスター、ありがとう」
「あぁ、どういたしまして……だ」
マスターから返ってきた一言に、こみ上げるものを悟られないように少女は席を立った。「安い合格祝いですまないな」とかけられた言葉に首を振ると、そのまま黒猫の待つ扉へと向かっていく。
店を出ようとドアノブに手を掛けたところで、少女は振り返りマスターに声をかけた。
「また……来てもいいですか?」
前にもあったようなやり取り。
「ああ、こんな店でよかったら、いつでも来るといい」
彼女が口にした言葉に、帰ってきた言葉もまた、その時と同じものだった。
「うん!」
マスターの言葉に、少女は満面の笑みで答えると、黒猫と一緒に店を出ていった。
実は別の連載の執筆中に思いついたネタを
勢いで書き上げた物だったりします
そのままほったらかすのももったいなかったので
投稿してみました
お読みいただきありがとうございました