神殺しの刃   作:musa

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七話 王と騎士

 草薙護堂は目を覚ますと、まだ寝起きでぼんやりとしながらもゆっくりと上体を起こす。

 ここはどうやらベッドの上らしい。よほどクリーニングが行き届いているのだろう。芳香剤の爽やかな香りが護堂の鼻腔をくすぐる。

 周りを見渡せば、室内には必要以上に華美にならず、さりとて貧相では決してない瀟洒な調度品の数々が備え付けられていた。

 ベッドの傍らには見覚えのある少女もいた。妖精にも似た銀髪の女騎士、ではない。

 だが同じほど美しく、周りの高価な調度品にも劣らない、いやそれ以上の美貌と気品を併せ持つ、赤みがかった金髪の美少女だった。

「――ってエリカじゃないか、何でここにいるんだ?」

 その驚愕と疑問が寝ぼけて霞がかった護堂の思考を鮮明にしてくれた。

 たしか自分はアテナによって強引にサルデーニャ島から連れ出され、遠路はるばる古都ナポリまで辿り着く羽目になってしまったはずである。

 そのため、この夏休みを南欧でともに過ごしていた同行者たちとは、サルデーニャ島で離ればなれになってしまったままだと考えていたのだが。

 だと言うなのに、どうしてこの女騎士はここが自分の定位置だとばかりに、当然の如く護堂の傍らに侍っているのか?

 あるいは、そもそも護堂の記憶が間違っており、実際ここはナポリなどではなくサルデーニャ島だったりするのだろうか?

 もしそうであるなら、あの忌々しい記憶の数々は、

「――そうか、あれは全部夢だったんだな!」

 心底嬉しげに顔を綻ばせ、ほっと安堵の吐息をつく護堂。

 そうだ。いくら非常識な世界に足を踏み入れて数か月経つとはいえ、『まつろわぬ神』三柱とカンピオーネ二人が一堂に会するなんて展開が、あり得るはずもなかったのだ。

 それにしても、何とおっかない夢を見てしまったことか! 只でさえ、厄介事はリアルだけで充分に持て余していると言うのに、どんな罪があって夢の中の平穏までかき乱されねばならないのか。

 本当に勘弁してほしいと嘆く護堂に、エリカは呆れたとばかりに胸元で両腕を組み、溜息をつく。

「護堂、貴方ってば、まだ寝惚けているのかしら? ――いいえ、本当は解っているんでしょう? ここはサルデーニャ島ではなく、ナポリだってことにね」

「……」

 護堂は沈黙した。

 そうする他なかった。まったくエリカの言う通りであったからだ。

 たしかに護堂は理解していた。あの夜の出来事が決して夢などではなかったことに。

 ただ夢なら良かったなあ、と心の底から願っていただけである。結局、叶わぬ夢であったが。

 躁状態から一転して、鬱状態へと切り替わった護堂は、げんなりとしながら、赤い騎士を見詰める。

「……それで結局、エリカはどうしてナポリにいるんだよ? まだその質問に答えてもらっていないぞ」

「それなら、リリィのお蔭ね」

「リリアナさんの?」

 不思議そうに訊ねる護堂に、エリカは頷く。

「そうよ。あの子が昨夜、貴方がアテナに連れ出されてサルデーニャ島からナポリまで移動したことを、わざわざ教えてくれたのよ。それで私たちも朝一番の航空便で駆けつけられたわけね」

「昨夜だって!? それに私たちってことは、他の皆も来てるのか?」

 驚愕する護堂を余所に、エリカは何処か気遣うような眼差しを向ける。

「ええ、当然でしょう。それに護堂、今は正午よ。……どうやら今回はずいぶんと寝坊したみたいね」

 正午と言うことは、ほぼ半日眠っていた計算になる。

 たしかに解せない話である。明らかにいつもより目覚めるのが遅すぎる。何やら夢らしきものを観ていた記憶があるので、あるいはそのせいかもしれない。

 まあ、それはいい。いや、実際はそこまで良くはないのだが、そこは深く考えても仕方のないことだと、護堂はすでに諦めていた。

「エリカ、他の皆はどこにいるんだ?」

 きょろきょろと視線を四方へと走らせ、護堂は話の続きを促す。

 周りにはこの女騎士の姿しか見えないのである。他の彼女たちはどこに行ったのだろうか? 

 とはいえ、ナポリに来てくれたのは、護堂の同級生である万里谷裕理とエリカ付きのメイドであるアンナの二人だけだろう。

 護堂たちをイタリアへ招いた張本人ルクレチア・ゾラは、今頃は護堂の窮状など知らぬげにサルデーニャ島の自宅でだらしのない姿を晒して悠々と眠りこけているに違いない。

 そう考えると、憤懣やる方ない想いで胸を詰まされる護堂であった。

「あの二人――もちろん、裕理とアンナのことよ――は、いま買い出しに出かけているわ。この場所は私たち《赤銅黒十字》のナポリにおけるセーフハウスの一つなのよ。

 そのせいで日常品、とくに食料は保存が利くものしか置いてなかったの。でもそれだと淋しいでしょう? だからあの二人に足りない分を買出しに行ってもらったのよ」

 なるほどエリカの説明は、たいへん解りやすかったものの、護堂はどうしても訊いておかねばならないことがあった。

「じゃあ、なんでエリカはここに一人でいるんだよ? 二人を手伝ってやれよ!」

 そう言って護堂は、半眼でねめつける。

 日常品、それも食料だけに限定しても四人分とあっては、かなりの重量に及ぶのは明らかだ。女の子二人だけでは、持ち運ぶのにもさぞや苦労するだろう。

 ただし、そこにエリカが伴っているなら、そんな心配は無用である。何しろ、この女騎士ときたら本気を出せば護堂以上のパワフルさを発揮するのだから。彼女たちの助っ人としては、文字通り百人力である。

 だが、雌獅子の心臓と鋼鉄の胆を持つエリカには、そんな護堂の常識的な非難など通用しない。

「――いやよ。ねえ、護堂。どうしてこのエリカ・ブランデッリとあろう者が荷物持ちなんて事をやらなくてはならないのかしら?」

 エリカは両腕を組んだまま昂然と胸を張り、そう嘯いた。

「だから、お前は何でそう偉そうなんだよ!」

 護堂のツッコミにもエリカはどこ吹く風だ。その居住まいに変化はまったく見られない。

 それを見た護堂は、がっくりと肩を落とし諦めたように溜息をついた。

「はあ、もういい。エリカが行かないなら、俺が行く!」

 がばっと布団を跳ね上げ、ベッドの下に置かれてあった靴を履くと、護堂は一目散に部屋を飛び出した。

「ちょっと護堂!?」

 そんな護堂の唐突な行動にエリカは、慌てて制止の声を投げかけるも、しかし護堂は彼女の言葉を無視してそのままドアの奥へと消えていった。そして、バタン、と叩きつけるような勢いでドアが盛大な音を立てて閉まる。

「……」

 エリカは呆然と佇みながら、そのドアは凝視するしかなかった。どうやら本当に行ってしまったらしい。

 エリカとしては、あんな馬鹿げた言い争いなどではなく、いずれ来たるべき『まつろわぬ神』と戦う上での戦略を、護堂とともに詰めておきたかったのだ。――が、重要極まるはずのその案件を、まるで忘れ去りでもしたかのように何の躊躇もなく、他の愛人の許へと走っていってしまうとは、さすがに思いもよらぬことであった。

 二人の荷物を持つことが、そんなにも護堂にとって重要なことだったのだろうか? 『まつろわぬ神』と戦うよりも?

 四か月の付き合いで護堂の精神構造については、かなりの理解を深めてきたつもりだったが、まだまだ甘かったと言わざるを得ないようだ。

 さすがはカンピオーネというべきか。自他共に才女と誉れ高いエリカを以ってしても、なお護堂の行動予測を立てることは困難らしい。

 もっとも戦略を詰めるといったところで、護堂の所有する権能の都合上、敵対する神々の出自を突き止めねばならない以上、神話学について一般教養程度の知識量しか持たない護堂では、どのみちあまり役には立たなかっただろうが。

 むしろ今買い出しに出かけている万里谷裕理の方が、欧州でも希少な霊視能力を備えているためエリカの相談相手として実に有益な人材なのだ。

 そういう意味では、護堂が裕理たちの手伝いに赴いたことは、現在の状況を冷静に鑑みれば、まったくの無益というわけではない。とはいえ、とうの護堂自身そんな思惑を秘めて行動しているわけでもないだろうが。

 ともあれ、護堂がこの場にいない以上、今後の戦略をエリカ独りで思案したところで意味はない。

 ならば、いま考えねばならないのは、むしろ今より更なる未来を見据えたより大局的思索、即ち――「大戦略(グランド・デザイン)」の方だろう。

 どうやらエリカの旧友であるリリアナ・クラニチャールは、八人目のカンピオーネの陣営に正式に加わったと見て間違いないようだ。

 これは護堂陣営にとって、かなり由々しき事態である。なぜなら、エリカは護堂と八人目――神無月宗一郎は、いずれ本格的な武力闘争に至る(、、、、、、、、、、、、、、)ものと予測を立てているからだ。

 それも先月のようなバトルロイヤル形式ではなく、他の同族を交えることのない極東のカンピオーネ同士による一騎打ちの死闘になるものと見越していた。

 もしその予測が実現しようものなら、必然、両陣営に属している者たちとて無関係でいられようはずもない。

 ――否、ひとたび騎士として草薙護堂を主として忠誠を誓った以上、その誇りに賭けてむざむざと主君独りで戦場へ行かせはしない。それは相手側の騎士もまた同様だろう。

 こうなると護堂と神無月宗一郎の戦いは、対立する陣営同士の総力戦の様相を呈することにならざるを得ない。

 その場合まず間違いなくエリカたち護堂陣営は、極めて不利な戦いになるだろう。

 その理由は、一も二もなく護堂陣営における「駒」不足に尽きると、エリカは冷徹に判断していた。

 それは両陣営における戦力を比較検討すれば一目瞭然である。現時点で判明している神無月陣営の主要戦闘員は、リリアナ・クラニチャールと神無月佐久耶の二人。

 まずリリアナであるが、彼女については今さら詳細な分析など必要あるまい。

 昔からあの生真面目な女騎士のことは誰よりも理解している。とりわけその戦闘能力は、ここ欧州の同世代の中では、このエリカ・ブランデッリと張り合える唯一の使い手である。

 そして、神無月佐久耶――彼女については、分析を試みようにも情報が少なすぎる。

 日本の呪術組織である正史編纂委員会から情報を取り寄せようとしても、どうやら神無月家という一族は、日本の呪術組織にとって長らく“触れるべからず(アンチャッタブル)”であったらしく、有益な情報を何も持ち合わせていなかったのである。

 唯一エリカが神無月佐久耶について参考にできる戦闘能力は、先月、直接目の当たりにした神獣を使役していると思しき術法だけである。

 ……異邦の術理ゆえに単純に比べることは難しいものの、欧州最高の騎士クラスのみ行使可能な最高秘儀が対神獣用術式であることを考慮に入れると、最悪、エリカの叔父である聖騎士パオロに匹敵するかもしれない。少なくともエリカ以下の戦闘力ということは絶対にあり得ないだろう。

 対してこちらの陣営は、護堂を除けば戦えるのは、実質エリカ独りなのだ。万里谷裕理は希少な霊能力者ではあるが、戦闘能力に関しては一般人と大差ない有様である。

 そして、ことが日本のカンピオーネ同士の決闘とあらば、正史編纂委員会の協力は期待するだけ無駄だろう。

 これでは、いかにその胸に強気と自信を溢れるほど抱え込んでいるエリカといえど、いざ神無月陣営といま真っ向からぶつかり合えば、勝利をイメージできる道理がなかった。

 だからこそ、必要なのだ。護堂陣営の戦力となり得る「駒」を。それもエリカに匹敵するか、あるいはそれ以上の“使い手”が。

 だが、それがどれほどの難事であるかは、エリカが一番了解していた。そんな逸材がそうそう簡単に見つかるはずがないし、もし仮にこれはと思う人材がいたとしても、既に属している組織において重要なポジションに就いている可能性が高い。

 実際、よほど強力な繋がり(コネクション)でもない限り、引き抜きは不可能だろう。エリカが唯一持っていたコネ(、、)は、他ならぬリリアナ・クラニチャールだったのだが、あいにく彼女は敵に奪い取られてしまった。

 つまるところ、エリカにはこうした状況を打開する手段がないことを意味した。

 その事実を改めて認識して、エリカは深い嘆息をついた。が、俯いてばかりいるのは、自分らしくないと赤い騎士は決然と顔を上向けて、胸のうちに闘志を滾らせた。

 コネはない、手段もない。それでもこの窮地を堂々と切り抜けてみせてこそ、草薙護堂の第一の騎士として誰憚ることなく胸を張れようというものだろう。

 だがしかし――そんなエリカの決意とは裏腹に、赤い騎士の悩みの種は約一か月後、エリカも巻き込まれる羽目になる一大騒動(原作五巻)とともにごく自然に解消されることになる。

 だがそれは、図らずもエリカの予測通り、その顛末は極東のカンピオーネ同士の死闘へと展開していく序章となるのだが、それはまだ誰も知らない「遠未来」の話である。

 

 

 これにて草薙護堂とその愛人たちの物語は一端終幕する。

 だが、それだけでは、いささか画竜点睛に欠くこと甚だしい故に、護堂一行の「近未来」――このすぐ後に始まることになる対ペルセウス戦の顛末を軽くだが述べておこう。

 と言っても、それは既にアレ(原作四巻)コレ(アニメ十話)にて綴られているため、敢えてこれ以上付け加えて語る必要はまったくない。事実、護堂側の陣容が多少変化しただけで、それ以上特筆するような大きな変化はないのだから。

 故に、世に悪が蔓延った例はない、の格言通りに草薙護堂(ヒーロー)が勝利を手中に収めた、とだけ今は言っておこう。

 ただし、カンピオーネがヒーローと讃えるに値する存在であるかどうかは、ヒトによって意見が分かれるテーマだろうが。

 

 

               †          ☯

 

 

 草薙護堂が覚醒を果たした同刻、神無月宗一郎もまた目を覚まし、上体を起こしていた。

 どうやら何処かの寝台の上で眠っていたらしい。見知った場所ではない。宗一郎にはまったく馴染みのない西欧風の寝室だった。

 しかもかなり狭い。これでは鍛錬で剣を振り回すのに、相当難儀しそうである。いや、それはそれで新たな鍛錬になるやもしれない、などと物騒なことを考えていた宗一郎であったが、無論、寝台の傍に控えている少女の存在に気づいていた。

 艶やかな漆黒の髪をした美しい娘、ではない。だが同じほど美しい、妖精にも似た銀髪の女騎士だった。

「リリアナさんですか。僕はどれくらい眠っていましたか?」

「は、はい。約一二時間、もうすぐ正午になる頃です。後ここは、ディアナ・ミリート――ナポリに住む仲間の住まいです。客間のベッドを借りて、あなたのお世話をしておりました」

 六刻。どうやらあの地母神にまんまとしてやられてから、すでに半日も経過しているらしい。

 宗一郎の第二の超権。豊穣神デメテルより簒奪した『復活』の権能は、文字通り死に瀕した神無月宗一郎を冥府の底より蘇えらせる驚異の力を持つ。

 ただし、完全蘇生に至るまでには、数時間ほどの時を要するのだが、今回は明らかにいつもよりその時間が長い。

 何かあったのだろうか? しばし悩んだ宗一郎であったが、すぐにその思考を放棄した。

 自分自身が死傷した後のことなど考えるだけで不愉快になるからだ。なぜなら、それはまたもや自分が敗北を喫した結果に他ならないが故に。――が、次は必ず勝つ。

 宗一郎の胸のうちにふつふつと闘志が湧き上がる。それは決して虚勢などではない。若き神殺しの脳裏には、たしかな勝利への算段が閃いていた。

 そのための『準備』を整える必要がある。神無月家が編み出した秘奥を完成させるために。

「佐久耶、居るのでしょう? 今すぐ出てきなさい」

 宗一郎は何もない虚空に向かって語りかける。

 するとその声に応えるように白い人影が、リリアナの傍らに躍り出てくる。宗一郎の妹、神無月佐久耶である。

「はい、兄さま。何かご用でしょうか?」

 妙なる霊力を持つ白き巫女は、そう口を開いてから穏やかに微笑む。

 それを横目に見たリリアナは、表情を青褪めさせて身を固くする。彼女には巫女の微笑みがトラウマになっているのだろう。

 それを知らない宗一郎は、そんな青い騎士を不思議そうに眺めるも、すぐに妹へと視線を転じる。

「何かご用でしょうか――ではありません。決まっているでしょう、アレをやります。佐久耶、無論支度は整っているのでしょう?」

 宗一郎の語るところのアレとは、若き神殺しの――否、神無月家が永き研鑽の果てに編み上げた窮極奥義<神殺しの刃>に他ならない。

 『まつろわぬ神』討滅に絶大なる力を発揮するこの大呪術は、だが発動に際して幾つかの準備が必要だった。

 そして、宗一郎が佐久耶に問うているのは、<刃>鋳造のために不可欠たる三つの工程――その内の一つたる敵対する神についての“知識”を得ることであった。

 にも拘らず――

「いいえ、兄さま。わたくし、何の準備もしておりません」

 にっこりと微笑みながら、そうのたまうのだった。

「はい?」

 最初言葉の意味が解らず途方に暮れる宗一郎だったものの、理解が及ぶにつれて表情を険しくさせて、怒気を爆発させた。

「佐久耶、お前は何を言っているのですか!? 神無月家の家訓を蔑ろにするというのなら、たとえ血を分けた妹と言えど許しませんよ!」

 だが兄の怒りなぞどこ吹く風の彼女は、落ち着き払ったまま平然と嘯く。

「何を仰るっているのですか、兄さま? わたくしたち神無月家の家訓を蔑ろにしているのは、むしろ兄さまの方ではありませんか」

「な……お前は、何を言っているのですか!?」

 宗一郎は驚愕のあまり言葉を失う。彼には妹の言わんとすることがまるで理解できなかった。

 そんな兄の様子を見咎めた佐久耶は、さも呆れたとばかりに溜息をつく。

「本当にお気づきになられていないようですね。兄さま、かの女神についての完全な“知識”を得られたいのなら、わたくしより適任の方がそこに居られますでしょう――そうですよね、リリアナさま?」

 そう言って佐久耶は、意味深な視線を青い騎士に送った。

 いきなり始まった兄妹喧嘩をはらはらしながら見守っていたリリアナは、唐突に会話の矛先を向けられて狼狽した。

「え? わ、わたしに何の関係が!?」

「もちろん、大いに関係していますとも! 何しろ女神ヘラは、リリアナさまの故郷である、この国と深い関わりのある『まつろわぬ神』ではないですか」

 満面の笑みを浮かべて、佐久耶は言い放った。

「ぬ……そうなのですか、リリアナさん?」

 その言葉に、宗一郎は驚いたように訊ねてくる。

「は、はい。確かに女神ヘラはここイタリアと縁の深い『まつろわぬ神』ではありますが……」

 正確にはヘラの発祥の地は、イタリアではなくギリシアなのだが……しかし神無月佐久耶は一体何を言いたいのだろうか?

 訝しげな眼差しで彼女を見ていたリリアナは、ふいにある考えに思い至り、愕然とし、次いでみるみる内に羞恥のあまり頬を朱に染めた。そんなリリアナに気づいた佐久耶は、満足した風にますます笑みを深める。

「ま、まさか、神無月佐久耶! あなたはまたアレをわたしにやれと言うつもりか……!?」

「流石はリリアナさま。察しが早くて助かります」

 すると宗一郎もまた、ようやく妹の真意を理解したのか、驚きの表情に包まれる。

「佐久耶、お前はまたリリアナさんに<教授>の術を使わせるつもりですか!?」

 <教授>の魔術とは、伝えたい知識をわずかな時間で脳内に記憶させる術のことだ。

 神々の知識が著しく不足している宗一郎にとって、自身の切り札を使用するためには必要不可欠な魔術である。

 だが一つ問題があった。それはカンピオーネには絶大な対魔力が備わっており、通常の手段では<教授>の術は効果を発揮できないのだ。

 とはいえ、何事にも例外はあるもので、そのためこれまで宗一郎は、佐久耶が術を吹き込んだ呪石を口内に摂取することで代用してきた。体内に直接作用する魔術の類はレジストされにくいからだ。……もっともここ最近、彼女はその役割を放棄しているようだが。

結果的には(、、、、、)そうなるかもしれません。ですが、不完全なわたくしの知識と完全なリリアナさまの知識で鍛えられた<刃>――どちらがより威力を発揮するかは明らかでありましょう」

 可憐な巫女は、二人に向かって滔々と「正論」を投げかける。

「むぅ……」

 顎に手を添えて納得しかけている若き神殺しとは裏腹に、青い騎士は微塵も騙されなかった。

 神話学と一口に言っても、その範囲は広大無辺である。故にすべてをカバーすることは、たしかに不可能ではあるだろう。

 実際リリアナの知識とて、故郷イタリアを中心とした西洋に重点を置いたものになっている。だから、日本人である神無月佐久耶の知識が、東洋を中心に占められており、結果、西洋関連の神話の知識が疎くなっていたところで何の不思議もない。

 一見すると、この巫女が自身の仕事を放棄する正当な理由になっているかのように映る。だが――リリアナは気づいていた。彼女の主張など所詮は嘘八百に過ぎないことに!

 まつろわぬヘラは、アテナにも劣らぬビッグネームな女神である。

 ならば、神無月家の究極の秘術たる<神殺しの刃>を最大限に活用するため、リリアナよりも一層深く神話学を修めている神無月佐久耶がヘラの神話の来歴を知らないはずがない。

 ましてや、かの女神の神話は、専門家の頭を悩ませるほど難解でもない。よって霊視の啓示を賜わる必要もなく、既に学者たちの手によって解き明かされていた。

 故にヘラの神話に関する佐久耶とリリアナの知識量は、まず間違いなく同等のものであると確信する。

 なのに神無月佐久耶がリリアナに<教授>の魔術を彼女の兄に対して使用させようと図っているのは、この可憐な少女の皮を被った女狐が、またもや良からぬこと――きっとアレのことだ!――を企んでいるからに違いない。

 そんな手には乗るものかと、気炎を吐くリリアナは全力で反論を試みる。

「神無月佐久耶、あなたが呪石を作製しないというのなら、わたしがその任を請け負おう!」

「おお、その手がありましたか! 流石はリリアナさんです!」

 宗一郎は心底感心したらしく目を輝かせた。その称賛の声に、リリアナも満更ではないのか、どうだと言わんばかりに自信満々の笑顔を覗かせた。

「――いいえ、それは難しいでしょうね」

 だが、佐久耶はあっさりとその提案を否定する。

「そ、そんな……なぜですか!?」

 目を剥いて断固抗議するリリアナに、「まったくです」と妹に非難の眼差しを向ける宗一郎。

「お忘れですか、リリアナさま? 呪石の作製は時間が掛かるものなのですよ。しかもそれまでに、まつろわぬヘラが待ってくれるという保証は何処にもないでしょう。そうではありませんか、兄さま?」

 理路整然とした佐久耶の主張に、まったく反論の余地を見出せず沈黙する宗一郎とリリアナ。そこに、さらに畳みかけるようにして巫女は言い募る。

「それに呪石とて、決して完全というわけではないのです」

「どういうことです?」

 宗一郎は眉を顰めた。

 以前何の問題もなく呪石を使用できた経験があるからだろう。どうやら彼は佐久耶の言葉に異議があるらしい。

「兄さま、それは極めて当然の話なのです。所詮呪石は一工程を余計に挟んだ、とても無駄の多い呪術儀式なのです。そのためどうしても失敗してしまう可能性が一定数あるのです」

 妹の言い分を信じられないのか、宗一郎は問うようにリリアナに視線を転じた。

「……それは……はい、彼女の言う通りその可能性は常にあります」

 真実であるが故にそう答えるしかなかった。

「まさか、呪石にそんな欠点があるとは……」

 自身が頼みにしていたため、やはりショックを隠せないようだ。宗一郎は溜息をついて、かぶりを振った。

「では佐久耶、今後呪石を頼れないとするなら、どうやって“知識”を得ればいいのです?」

「神無月宗一郎! それは――」

 言いさしたリリアナを遮るように、佐久耶が待っていましたとばかりに意気高らかに言葉を紡ぐ。

「兄さま、それはもう分かっておいででしょう。もちろん、リリアナさまにご助力願うのです!」

「……つまりそれは……リリアナさんと……今後もアレをするということですか?」

 宗一郎が言いにくそうに言葉を濁す。

「その通りです――接吻です、キスです!」

 だが兄と打って変わって、佐久耶は嬉々として遠慮も羞恥もなく言い放つ。

「接吻……!」

「キス……!」

 その言葉自体に、まるで物理的な衝撃でも備わっているかのように慄く宗一郎とリリアナ。それで互いを意識してしまったのか、二人は顔を見合わせて、慌てて視線を逸らす。

 心なしか二人の頬が赤く染まっているように見えたものの、はっと我に返った宗一郎とリリアナは怒りの声を放つ。

「佐久耶……! お前は何と破廉恥な言葉を口にするのですか!? 恥を知りなさい!」

「まったくです、神無月佐久耶……! あなたはもう少し慎みというものを覚えるべきです!」

「はぁ、破廉恥……慎み……ですか」

 この程度のことで何を大袈裟な――と言外に呟きつつ、佐久耶は冷ややかな視線で二人を見据える。とはいえ、なかなかの意気の合いようである。どうやら「相性」の方は、上々であるらしいと内心でほくそ笑む。

 そんな胸中などおくびにも出さず、佐久耶は淡々と先を続ける。

「兄さま、リリアナさま、これもまた『まつろわぬ神』に勝利するために必要なことなのです。ですから、いい加減に納得してください。もっとも、お二人が神無月家の者として、あるいは騎士としての義務を放棄するというのなら話は別ですが……」

「ぬ」

「う」

 佐久耶の言葉に宗一郎とリリアナは、何も答えられなかった。

 そうやってしばらく物思いに沈んでいた二人だったものの、いち早く決断したのは宗一郎の方だった。

 上体を起こした寝起きの姿勢から一転、ベッドから起き上がり、フローリングの上に何の躊躇もなく膝をつき、正座に組み替える。顔つきも何処か覚悟を決めたかのように厳しくも凛々しい顔立ちに変わっている。

 そんな男らしい仕草に思わず胸を高鳴らせつつも、リリアナは宗一郎の突然の行動に戸惑っていると、若き神殺しはさらに驚くべき挙に出た。

 なんと宗一郎は、正座の姿勢のまま深々と頭を下げたのである。

「――リリアナさん、折り入ってお願いしたいことがあります」

「神無月宗一郎!?」

 よりにもよってカンピオーネに最上級の礼――ただし日本式――を受けるとは思わず、そのためにどう対応していいか判断できず、半ばパニックになったリリアナが選んだ結論が、飛び跳ねるようにして宗一郎の差し向かいに正座して座ることだった。

「な、なななんでしょうか……!」

 パニックになりつつも頭の良い彼女は、すでにこの後の展開を予想して、頬をますます赤く染め上げた。

「僕は神殺しです。だからこそ、僕は神々に勝ちたい。あの女神を倒したい。何よりもう二度と同じ相手に負けたくありません。

……ですが、これがリリアナさんには何の関係もない、僕個人の勝手な願いであることも理解しています。それを踏まえた上で恥を忍んでお願いします。僕に貴女の御力をお貸しください。僕に勝利を授けて下さい」

 若き神殺しは、深々と頭を下げたまま青い騎士に助力を希う。

 だが――

「神無月宗一郎、頭を上げてください」

 その声に応じて静かに(おもて)を上げながら、宗一郎は突如、険しくなったリリアナの声色に言い知れぬ不安を感じた。

 やはりさっきの“願い”は、彼女にしてみれば迷惑この上ない行為だったのだろうか?

 実際のところ、リリアナ・クラニチャールは、静かに激しく怒っていた。

『――これがリリアナさんには何の関係もない、僕個人の勝手な願いであることも理解しています――』

 ついさっきリリアナの前で言い放った、若き神殺しの言葉。

 あまりにカンピオーネらしからぬ、社会常識を弁えた謙虚な応対である。とはいえ、神無月宗一郎からすれば、彼独自の礼節さから口にした、ごく自然な言葉だったに違いない。

 これが普段であったなら、リリアナが宗一郎に対して好感を懐いていたところである。――が、今のリリアナのとってその台詞は、侮辱に等しい言葉でしかなかった。

 なぜなら、宗一郎の戦いは既にリリアナにとって何の関係もない事柄ではなくなっていたからだ。そうでなければ、どうして彼の言葉にこうまで失望と憤りを感じるのか。

 そうだ。リリアナ自身自覚していなくとも、騎士の魂はとうに定まっていたのだ。八人目のカンピオーネに忠誠を捧げることを。

「あの……リリアナさん?」

 リリアナの指示に従って顔を上げたものの、それから一向に返しの言葉がかからず困惑と不安に苛まれていた宗一郎は、おそるおそる声をかける。

 そんなカンピオーネの仕草に、彼にもまだ普通の少年としての部分が残っているのだな、とリリアナはあらためて思った。

 そして、ふいに自分たちは、まだお互いのことをほとんど知らないことを思い返す。まぁ、それは構うまい。これから知り合っていけばいいのだから。

 それに重要なことなら、もう知っている。

 不甲斐ないせいで窮地に陥った己を、我が身を犠牲にして守ってくれた、彼。

 そんなリリアナを一言も責めようとしなかった、彼。

 かつての縁だけを頼りに縋った依頼にも拘らず、快く引き受けてくれた、彼。

 そして、目の前でこちらを不安げに見つめてくるごく普通の少年らしい、彼。

 そう、こんなにも“主”のことを知っている。ならば、それだけで十分すぎる。

 リリアナは決然とした面持ちできっぱりと告げた。

「神無月宗一郎――《青銅黒十字》の騎士リリアナ・クラニチャール、これより御身こそを我が剣の主とし、非才たる身と忠誠を捧げたく思います。

 この誓い、お受けいただけますでしょうか?」

 青い騎士の宣誓に、驚きに目を見開く宗一郎だったものの、たちまちに喜びの表情が花開く。

「ええ、喜んでお受けします。これからもよろしくお願いします、リリアナさん」

「はい、我が主よ」

 ともに笑みを交し合う宗一郎とリリアナ。そうして絆を結んだ『王』と『騎士』は、ごく自然な仕草で互いの顔を近づけた。いつの間にか神無月佐久耶の姿は消えていた。

 

 

 この数時間後、若き神殺しの滞在先であるディアナ家の門前に、牝牛の意匠を象ったメダリオンを首にかけた孔雀が舞い降りた。――牝牛と孔雀は女神ヘラのシンボルである。

 かくして逆縁は再度結び合わさり、物語は終幕へと向かって一気に加速する。

 


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