『彼』は苛立っていた。理由は自覚している。ただその原因を思い返すと苛立ちが一層積もった。
それは、『彼』が戦士として矜持に反した行動を取ったためだ。『彼』は敵から逃げた。敵に背を向けて無様に逃走を図ったのだ。
神話の時代から如何なる強敵であれ、果敢に挑み打ち倒してきた無敵の英雄であるはずの『彼』が、である。
だからと言って、それは敵を恐れたからなどでは断じてない。
『彼』には幾つかの信条があった。
それは『彼』の誇りそのもの。何物にも代え難い神聖な誓いである。体を構成する一部ですらあるといえた。
それ故に、その信条を一度でも違えれば、生命の、魂魄の一部を切り取られるに等しい苦痛を伴う。―――否。痛みなど問題ではない。
信条を守ることは戦士として当然の義務なのだ。それを違える事こそ戦士として不名誉の極み。 『彼』ほどの英雄ならば、尚のこと何を賭しても守り抜かなければならない。
たとえ、それが戦士として不名誉な敵前逃亡を図ることになったとしても。
そうまでして守った誓い。それは―――女を殺さぬこと、であった。
“聖誓”とするほど大仰なものではなく、直接言葉にしたことも僅かな、己に科しただけの信条。
だからといって、その誓いの重さまで変わるわけではない。とはいえ、この誓いのために『彼』が女戦士との戦いを忌避していると思われるのは心外というものだ。
『彼』の輝かしい戦歴の中、女戦士は過去幾人も存在した。いずれも『彼』に勝るとも劣らない豪傑揃い。そして絶世の美貌の持ち主たちであった。
『彼』はその尽くを打ち負かしてきた。その全ての勝利は『彼』の誉れであった。
故に、女戦士との戦いは血潮を滾らせこそすれ、それを厭う理由など有りはしない。
だが、あの敵ばかりは勝手が違った。
女であるのは間違いないのだが、『彼』からすればとうてい戦士とは認められない輩であ
った。男であれば槍の一振りで方もつこうが、女であればそう簡単にもいかない。ならば、殺さずに打ち負かせばすむ話であるが、そうするにも憚られる相手であった。
少なくとも、あのような輩に本気になれば、過去において『彼』が戦った偉大な女戦士たちに対して侮辱となるであろう。
そのような者と戦って、一体何の武勲になるというのか。
殺すことも出来ず、さりとて戦うことも出来ぬとあらば、『彼』には逃げの一手を講じるしか術がなかった。
鋼を携えて大地を征するは、『彼』の本質であったが、他の同属にあまり見られない特権も有していた。『彼』は己が脚捌きだけで空すら踏破することが出来るのだ。艱難辛苦の果てに会得した奥義であった。
たちまち、『彼』は空中のヒトとなった。が、敵もさることながら、空を飛翔する技法を用いてすぐに追撃を仕掛けてきた。だが、どんな名馬にも負けぬ『彼』の俊足は、空の上でも遺憾なく発揮された。みるみるうちに両者の距離は離れて行き、ついには完全に引き離した。
―――そして、『彼』は現在、月光を背にして上古の時代では到底考えられない、カラクリ仕掛けの巨大都市の上空に悠然と立っていた。
その都市の名前がダブリンだと『彼』が知る由もない。『彼』は興味深げに市街を眺めた。
「ルフトの弟子の末裔共が組み上げた都か……」
建築の神の名を呟くと、これだから人界は面白い。と『彼』は愉しげに笑った。
そうしながらも、全身全霊で敵の気配を探っていた。女のことではない。もはや『彼』の意中からあの敵の姿は消え失せていた。ただ屈辱感だけを残して……
故に、『彼』は焦がれていた。逃走の恥を雪ぐに相応しい強敵との闘争を。己が臆病者などではなく、真の英雄であることを証明する戦場を。
たとえ探し出すことが叶わぬとも、直接喚べばいいのだ、とほくそ笑みすらした。
それがどれだけ人界に破滅的な影響を及ぼすかなど考慮しない。人が山野を歩くだけでその下にいる小さな命に配慮しないように、『彼』もまた一々人間の都合など斟酌しない。
その傲慢さ、横柄さ、それこそが、『彼ら』という存在なのだ。―――そのとき、『彼』の術はあまりに意外な存在を感知した。
「コイツは・・・・・・」
術が返してきた反応は、同属のものではなかった。かと言って、まったく見当はずれでもない。 『彼』とは似て非なる存在にして天敵たるモノ。神話の時代から続く仇敵の気配に間違いないのだから。
全身がぶるッと震える。それは畏怖か歓喜か。『彼』にも判断が付かない。どちらにしろ、それは闘争の愉悦に他ならない。
その衝動に突き動かされるまま『彼』は身を躍らせた。戦場という名の目的地へと向って。
× ×
「う……」
小さく息を吐いてリリアナ・クラニチャールは目を覚ました。
意識の覚醒と同時に五感の活動が再開するのを感じる。肌感覚から伝わってくるのは、柔らかな草と土の感触。それがとても心地よく。もっと味合おうと力を抜いて大地に身を委ねようとして……それが異常なことだと、彼女はようやく気付いた。
そうすると記憶が蘇えってくる。その記憶が確かならば自分は、優しい草を土の上ではなく冷たいコンクリートの上に倒れていたはず……
がばっと慌てて身を跳ね上げた。眼に映ったのは、闇夜でも手入れが行き届いていると解る一面の芝生模様と遠方に見える巨大な石細工のモニュメント。すぐ傍らには、一本のトルネコの木が生えており、リリアナはその木陰の下で横たわっていたらしい。
(……ここは公園か? 時間もあれからそう経過していないようだな)
近辺の状況と星辰の位置関係からリリアナはそう推測した。そして、はたと思い至ると、リリアナは驚愕に目を見開いた。
あの記憶が存在している! あの少年を覚えている。つまり記憶は消されていない?
「いったい何が……」
訳が解らない、とリリアナは呆然と一人呟いた。
「よかった。気が付かれたようですね」
まさか、それに応える声があるとは思わずリリアナは背筋が凍りついた。
それもそのはず、周囲に人の気配などなかったはずなのだ。指呼の距離の気配を見逃すリリアナではない。
にも拘らず、すぐ隣で人の声が聞こえると言うことは、リリアナの感知能力を超えた陰行の業の使い手か、超高速で移動する能の使い手だろう。
真っ先に脳裏に過ぎるのはあの少年の姿だ。が、すぐに否定する。声は明らかに女性のものだった。だが、状況から察するに関係者である可能性は多いにあり得た。
ここまで瞬時に推測しながらも、臨戦態勢すら執らなかったのは、その声には敵意が含まれておらず、ただリリアナを案じる色だけがあったからだろう。
意を決して、リリアナは声の持ち主へと目を向けた。
「……」
そこには美しい少女がいた。黒曜石の如く滑らかな長い黒髪に、凛とした清楚な雰囲気を併せ持つ娘である。年のころはリリアナと変わらないか、少し下ぐらいだろう。
薄紅色のワンピースが汚れても構わないのか、地面に跪いて膝を揃えて畳んで座る――所謂正座――をしながリリアナと向かい合っていた。
「どうかされましたか。まだお加減でも?」
心配げに少女が問いかけてくる。その声は真摯にリリアナの身を案じているようだ。
「あ、いや、体はなんともない。大丈夫だ……ところであなたは誰だろうか」
リリアナはいきなり現れた少女に動揺しながらも相手の名前を聞いてみる。
「これは無作法を。申し送れました。わたくしの名前は神無月佐久耶と申します」
鈴のような軽やかな声で神無月佐久耶と名乗った少女は自らの名を口にした。
「……」
暗澹たる溜息を一つ。ある程度予想していたことであったが。
神無月―――その名が示す通り、やはりあの少年の関係者に間違いないだろう。苗字と年齢を加味して推測すれば、あるいは彼の妹なのかもしれない。
どうであれ、あの少年が言っていた身内とはこの神無月佐久耶のことに違いない。
となれば当然―――
「佐久耶、あまり彼女に近付きすぎるのは感心しませんね」
リリアナから死角になっているトネリコの木の裏側から一人の少年が進み出てきた。
改めて名乗られるまでもない神無月宗一郎。リリアナを気絶させてここに運んだのも彼だろう。
「言った筈でしょう、佐久耶。彼女は大変危険な人物なのですよ」
「な……!」
あんまりな宗一郎の評価にリリアナは、目を剥いた。危険人物はそっちの方だろう、と抗議しようとして……
(記憶が……やはりわたしは記憶を失ってはいない)
状況が解らずに動揺するリリアナに佐久耶は、やんわりと声をかけた。
「リリアナさまは兄さまの術に抵抗するあまり、危うく精神崩壊を起こしかけたのです」
こちらの名前を知られているということは、神無月宗一郎が伝えたのだろう。
“彼ら”に名前を記憶されているとは意外であった。イタリアの盟主の顔がちらりとリリアナの脳裏によぎる。
佐久耶は事情を説明してくれた。
もともと宗一郎はリリアナを過剰に害するつもりはなかったため、リリアナが危険な状態であると解ると直ちに記憶消去の術を切ったのである。その後、気絶したリリアナを担いでこの公園まで運び、そこで合流した佐久耶がリリアナに癒しの術をかけて治療したのだと説明を受けた。
「……事情はわかりました。どうやらわたしは、あなたに助けられたのですね。感謝します」
傷をつけられた加害者の身内に頭を下げるのも変な話だと思いつつ、リリアナは礼儀上感謝の念を伝えた。
「その様なこと気になさる必要はありません。謝罪しなければならないのはこちらのほうなのですから」
そう言うや否や、佐久耶は両手を地面に付けて、深く頭を下げた。曰く土下座である。日本の最上級の謝罪を向けられてリリアナの方が戸惑った。
そこまでされる理由が思い浮かばなかったからである。寧ろ謝るべきは自分の方だと思っていた。どうも彼らは邪術師とは考え難い。それどころか神無月宗一郎の正体がリリアナの推測通りなら、膝をつくとすれば自分の方であろう。
そう、リリアナが困惑していると、佐久耶はすっと顔を上げて兄である宗一郎を睨んだ。
「何を案山子のように立っているのですか。兄さまも誠心誠意の真心を尽くしてリリアナさまに謝罪するのです」
今まで彫像のようにぴくりともしなかった少年は、ここで始めて整った柳眉を不快げに動かした。
「ですから佐久耶。なぜ僕が謝罪しなければいけないのです? 話した通り彼女の方から襲ってきたというのに……」
「うっ」と短く呻くリリアナ。宗一郎の言葉が事実であると知るために。
確かに彼女は宗一郎に斬りかかった。凶器を携帯した不審人物相手に当然の対応だと今でも確信しているが、彼からすれば一方的に襲い掛かられたと思われても不思議ない。
実際リリアナが一方的に攻撃を加え続けたのも事実。結局、掠り傷一つつける事も叶わなかったが。
「まあ、図々しい。兄さま、どうやら、わたくしが屋敷で申し上げたことをもうお忘れのようですね」
とはいえ、リリアナの思いを後にして、兄妹喧嘩は続く。
「わたくしは申し上げたはずです。真っ直ぐにこの公園を目指すようにと。その間、どこにも寄り道など、なさらないで下さいねと」
妹の舌鋒が鋭く兄へと突き刺さる。覚えがあるのか今度は宗一郎が「うっ」と呻いた。
「リリアナさまが兄さまを警戒なさったのは当然です。戦装束を纏い刀まで帯びていては不審者と間違えられるのは当たり前です。だと言うのに、リリアナさまに手向かいした挙句に女性に手傷まで負わせるなど言語道断。それでも神無月家の男子ですかッ!」
「し、しかし、応戦しなければ、僕が斬られていたんですよ」
妹の勢威にたじたじとなる宗一郎だったが、なんとか抗弁してみる。
「斬られるのがなんだというのです。兄さまなら何の問題もありませんでしょう」
佐久耶は素気無く一蹴した。それはあんまりだ、と兄は妹の発言に憤りを見せ、兄妹喧嘩がさらに白熱しそうなのを察して、リリアナは慌てて沈静化に図る。
「ま、待って下さい、二人とも。謝罪は結構ですから落ち着いて下さい」
その言葉に佐久耶は「なんと慈悲深い方なのでしょう」と尊敬の声を、宗一郎は「当然です」と一言述べるのみ。
それを見た妹はきっと兄を睨み据えて、再度の舌鋒の切っ先が閃く前に、リリアナは素早く言葉を重ねた。
「ふ、二人はどのような用件でこのダブリンに参られたのです?」
リリアナの問いかけに兄妹は、はっと顔を見合わせた。
それは見るからにどう答えていいのか解らない、如何にも隠し事がありますよ、と言った風情だった。
重い空気が一同を包み込んだ。が、それを真っ先に振り払ったのは兄の方だった。宗一郎は佐久耶と目配せすると、少女も了解したように頷いた。そして、リリアナに顔を向けて口を開こうとした瞬間、
「―――よお、両手に花とは随分羽振りがいいじゃねえか。どうだ、一輪余っているってなら、オレに譲っちゃあくれないか?」
唐突に聴こえてきた第三者の声によって遮られた。
「!?」
リリアナは剣呑な気配を感じ取り、素早く立ち上がると、サーベルを召喚した。頼もしい愛剣の質感にリリアナはほっと安堵する。
実のところ、宗一郎に拘束されていた時にイル・マエストロを封印――召喚妨害措置――を講じられているのではと不安だったがどうやら杞憂だったようだ。……実際は、イル・マエストロを、リリアナを抱えながら持ち運ぶのを宗一郎が面倒がって路地裏に放置していただけなのだが、まあ知らぬが仏である。
それはともかく、リリアナは油断なく剣を構えて声の主を見た。そこに居たのは、見たこともない美丈夫であった。
堂々たる長身の体躯に真紅のチュニックで身を包み、純白のマントを右肩で見事な細工の純金のブローチで留めている。剥き出しの腕と腿は痩身ながら鋼の如く鍛え抜かれているだろうことが見て取れる。輝かんばかりの美貌に、見る角度によっては目の色彩が七色に変わる宝石のような虹色の瞳。燃えるように逆立つ黒髪に金色と赤色が混ざり合い、男をより一層華美に飾り立てている。
現代社会では神無月宗一郎以上にあり得ない派手で奇抜な格好である。男がおそろしく目立ちだがりな性格だということが窺わせる。明らかに普通の人間ではない。
「……まつろわぬ神……」
リリアナは愕然と美青年の正体を呟いた。魔女の資質を持つ彼女が見間違うはずがない。追い求めていた存在が騎士の眼前に顕現していた。
その瞬間、痺れるような疑問がリリアナの脳髄を貫いた。
この遭遇は偶然なのか? あの『まつろわぬ神』は己の宿敵の前に姿を顕したのではないのか? ならば、その宿敵とはやはり……
「いかにも、オレはまつろわぬ存在だ。真の英雄である」
次々と湧き出る疑問に半ば混乱したリリアナの胸中など知らぬげに、男は堂々と言い放った。
「いや、しかしなんだ、なかなかの上玉がそろっているじゃないか」
そう言いながら男は、ジロジロとリリアナと佐久耶の肢体を無遠慮に眺めた。
普段なら男の下品な視線など不快でしかなのに、この美丈夫相手だと勝手が違った。頬が熱くなり、自分を見つめる神秘的な瞳に引き込まれそうになる。
魅了の魔術に掛かっていないはずなのに、こうまで惹きつけられるのは、あの美貌の英雄が放つ高貴さ故か。並みの女性ならひと目で彼の虜になっていたであろう。
だが、リリアナはその並の女性の範疇に括られる存在ではない。瞬時に、女性の熱い情動を押さえ込み、戦士の冷たい本能を呼び覚ます。
忘れてはならない。目の前に立っている美青年は、どれだけ魅力的に映ろうとも、一夜にして都市を壊滅させられる災害の具現者であり、一瞬にしてリリアナを肉塊に変えることが出来る悪鬼羅刹なのだ。
(敵に見惚れている場合ではないぞ、リリアナ・クラニチャール! それでも≪青銅黒十字≫の大騎士かッ!)
己に活を入れて正気を取り戻す。サーベルの切っ先を敵に向けて、ギリッと睨み据える。
「いいねえ、気の強い女は好みだぜ。なんといっても、征服する悦びがあるからな!」
それを見た男は、そう言ってニヤリと笑った。
勝手にほざいていろ、と胸中で吐き捨て、リリアナは前進するために両足に力を込める。
この時リリアナは多分に冷静さを欠いていた。それも無理はなかった。
今夜、『まつろわぬ神』の急報を聞き、ダブリンの市街に身を晒すと、怪しい少年に遭遇、
図らずも戦闘となり―――敗北した。
次に目が覚めるとその少年の妹を名乗る少女が自分を介抱してくれていた。ひと段落して、不思議な兄妹から事情を聞こうとしたら、探し求めていた当の『まつろわぬ神』がリリアナの前に出現した。
多くの怪異に対処してきた経験のあるリリアナでも、この数時間で体験した出来事は異常すぎた。 何より決定的だったのは、神とはいえ相手のその雰囲気に飲まれ、その存在に魅了され、騎士としての己を一瞬とはいえ忘れたことであった。
それがリリアナの正気を揺るがした。
神を討伐するのは、民衆を守護する騎士の義務を遂行するため。神を討伐するのは、傷つけられた騎士の矜持を取り戻すため。
二つの論理が、リリアナに無謀な行為へと駆り立てようとしていた。
神に挑めば死しか待ち受けていないと知りながら前へ進もうとして―――そこでリリアナの視界は白い衣に遮られた。
「え……」
神無月宗一郎である。まるでリリアナを庇うように、宗一郎は前へ進み出た。
驚いたことに宗一郎が背負った、一メートル半を超えるだろう長大な太刀は、すでに右手で抜き放たれ、鋭利な刃が月光を受けて銀色に輝いている。
リリアナとの戦いですら最後の最後まで抜きもしなかったというのに、すでに戦闘態勢を整えている。これは白い戦装束を纏った少年が突然現れた男の正体を正確に看破していることを示している。
だと言うのに、宗一郎から焦りもなければ、恐怖もない。冷静そのもの。いや、リリアナの感覚が正しいのなら……信じ難いことに闘争心のようなものがゆらりと感じ取れるではないか!
(闘争心? 神との戦いになるかもしれないのに?)
リリアナは先程までの戦意もどこえやら、呆然と宗一郎の背を見つめるしか出来なかった。だが、宗一郎の行動に興味を持った者がいた。
「へえ、女を庇う、つうからには、坊主―――オレと殺り合うってコトでいいのか?」
獰猛に犬歯を剥き出しながら男は嗤う。
そして、右手を一閃するや、手には忽然と現れた二メートルもの真紅の長槍が握られていた。それに伴って男から獣臭じみた殺気が放たれる。
「それも止むを得ないでしょう。あなたが花に譬えた女性の一人は僕の身内です。あなたの様な方に差し出すつもりは毛頭ありません。もう一輪の花は知り合って間もない方ですが、あなたに弄られるのを見るのは忍びありません。僕の祖国では女性を守るのは男子の務めだと言います。ならば―――抗わせてもらいましょう」
男から放たれる圧倒的な殺意はリリアナを以ってしても声も出せず、足を竦ませる。だというのに、神無月宗一郎は毛筋ほどの動揺もなく、涼やかな微笑すら浮かべて、悠然と歩を進めた。
「それでこそ、神無月家の男子です、兄さま」
いつ近付いたのか、リリアナのすぐ脇で兄を応援する佐久耶の声が聞えた。
この緊迫した雰囲気の中、平然としている辺りこの少女もいろいろと普通ではない。さすが、あの兄にしてこの妹と言うべきか。
「さあ、リリアナさま。ここは危険です。今すぐ離れましょう」
「し、しかし、あの男はどう考えても……」
『まつろわぬ神』と、リリアナは続けようとしたのだが、
「兄さまなら大丈夫です」
きっぱりと遮られた。それは相手に全幅の信頼を置いていなければ出せない声色だった。
「……やはり、彼はそうなのか?」
それはかねてより疑問を懐いていたこと。それを今ぶつける。
「はい。我が兄は、日本で言う、荒ぶる鬼神の顕現。忌むべき羅刹王の化身と呼ばれる存在。欧州では―――」
「カンピオーネ! やはり、神無月宗一郎は八人目の神殺し―――!!」
佐久耶の言葉にリリアナは慄然とし戦くのだった。