神殺しの刃   作:musa

4 / 25
三話  月下の戦い 上

 神無月宗一郎は現在の状況に大いに満足していた。

 それも当然。

 宗一郎はこうして『まつろわぬ神』と対峙するために、遥々日本から遠いこの異国(ダブリン)の地に足を踏み入れたのだから。

 宗一郎の妹である神無月佐久耶は、ある特殊な能力を有していた。

 神無月家は神祖の系譜に連なる一族で、その神無月家の女子として生を受けた佐久耶には、先祖返りともいうべき膨大な呪力と強力な霊感能力を持って生まれてきた。

 それは神無月家の秘術と合わさり、日本から遠く離れた異国の地であっても、神々の気配の感知が可能とするほどであった。

 このようにして、『まつろわぬ神』の現界を察知した宗一郎は、即座に行動を開始した。といっても、実際に動いたのは佐久耶だったが。

 攻性呪術専門の兄とは違い佐久耶は、呪術全般の造詣に通暁していた。人間を九千六百キロメートルもの距離を一瞬で移動させることができるほどに。

 『まつろわぬ神』の存在を感じ取った佐久耶は大急ぎで秘術の準備を執り行い、宗一郎をダブリンに瞬間移動させたのである。……この時、出力した莫大な呪力の波を日本の呪術組織である正史編纂委員会が観測し、騒然とさせたのだが、無論、それは神無月兄妹の知る由もないことであった。

 とはいえ、生まれながらに大いなる力を獲得した佐久耶であるが、当然というべきか代償があった。

 等価交換は世の習い。何かを得れば何かを失くすのだ。

 呪術の世界とてその原理は適用される。

 佐久耶の代償は、三十歳まで生きられないと医師に宣告されるほどの脆弱な肉体だった。

 詳しい理由は解っていないが、佐久耶の膨大な力が肉体に耐えられないのだろうと言われている。

 得た力と払った代償が本当に等価であるかは、佐久耶にしか解らない。

 だが、宗一郎が知る限り佐久耶が、己の運命を呪っていることを窺わせる態度を執ったことは一度もない。佐久耶は自分の運命を粛々と受け入れているように見えた。

 佐久耶は今年で十四になる。つまりは、人生の下りに差し掛かろうとしていると言うことだ。家の者たちはそれでも毅然と振舞う佐久耶を立派だと褒め称えているが、宗一郎は妹の人生を、そんな美談にするつもりはさらさらなかった。

 神々が有する権能は、人知を超えた奇跡である。

 その中には武運拙く命を落とした戦士を死の淵から蘇えらせる奇跡すらもある。

 ならば、死病に侵されている佐久耶を救える奇跡もあるに違いない、と宗一郎は信じていた。

 神無月宗一郎は神殺しである。

 神を倒して偉大な神力を簒奪せし魔王である。ならば、宗一郎の執るべき道は決まっている。

 神を滅ぼして必要なものを奪い取ればいい。もとより、躊躇う理由もない。

 神無月宗一郎とはそうなるべくして産み出されたモノなのだから。もっとも、眼前の神ではその目的を達成できそうにないな、と宗一郎は直感した。

 鍛えられ引き締まった肉体に、禍々しい呪力を放っている魔槍を持っているとくればまず武神、戦神の類であろう。だとすれば治癒の能力は期待できそうにない。

 その事実に宗一郎は落胆をしなかった。それより以前の方が酷かったからである。

 先月のことである。宗一郎は故郷の地にて、古き豊穣の女神と邂逅した。

 穀物の豊穣を表す大地の女神は、慈愛溢れる、などと言葉がつくような単純な神ではない。

 冬が来れば死を齎し、大地を荒廃させる非情な冥府の神でもある。

 穀物は春に芽吹き、夏と秋に実り、枯れ、冬には死を迎えるもの。古来より地母神と冥府神の役割は共有されてきた。

 死と再生のサイクル。それは死と生を司る女神であることを示していた。

 宗一郎が何よりも欲する権能を有しているかもしれない女神との邂逅は、優しき兄を歓喜させた。が、結果は無残なものだった。

 激闘の末、辛くも勝利したものの、女神から簒奪した権能は宗一郎が期待したものではなかった。

 あの時ほど、得られる力を自由に選べればいいものを、と本気で思ったことはない。もっとも、今でも思っているが。

 とはいえ、目当てのモノが手に入る確率が低いのなら、妹思いの心優しい兄の顔は必要ではないだろう。

 今必要なのは、ただ神を屠るだけの悪鬼の貌である。 

 精神は冷たく研ぎ澄まされ、逆に肉体は熱く滾っている。

 この状態こそが神殺しに成った証であると人は言う。本能が天敵の存在を嗅ぎ付けて、滅ぼすことを欲しているのだと。

 だが、宗一郎はその意見に、否と答える。

 自分は最初からこうであった。初めて『まつろわぬ神』と邂逅したあの時から、恐怖心や畏怖心よりも闘争心が先に立った。

 だが、それに何の不思議があろうか。神無月宗一郎は、神無月家に神を殺すための殺戮人形として鋳造されたのだから。

 刀が人を惨殺するように。

 斧が木を伐採するように。

 彼の使用用途はただひとつ―――神を弑逆せしめることのみである。

 そのための準備を神無月家は十全に整えてきた。

 何世代にも亘って続けられてきた血統操作の結晶たる最高の肉体に苛烈な戦闘訓練を科した。宗一郎は社会常識を含めた倫理観を教えられるより、剣の振り方、呪力の練り方を教わってきた。

 宗一郎は今までの人生に何の不満もない。

 そのような考えに至る不純物を神無月家が与えなかったこともあるが、長年に亘って厳しい修練で培ってきた自分の能力を充分に試せる機会を誰よりも待ち望んでいたからだ。

 数回の神々との対峙を経てもその思いに変わりはない。

 神とは恐るべきもの? 崇めるべき存在? 

 ―――否、否である。

 神とは戦うべき存在だ。抗うべき天敵だ。自分を満たしてくれる最高の獲物だ!

 そう思い宗一郎はふっと口元を綻ばせた。

 戦う準備は万全である。ならば、始めるとしよう、新たな神殺しの儀を―――

「クク。どうやら、そっちも頃合いは良しってところか。ならば、互いの名乗りを上げるってのも一興か。フ―――まるで古の戦場に舞い戻ってきたようだな! オレはクランの猛犬。太陽神ルーグの息子にしてアルスター最強の戦士、クー・フリン。さあ、オレは名乗ったぞ。次は貴様の番だ、神殺し……!」

 男――クー・フリンは自らの神名を告げた。

 背後から息を呑んだ気配は伝わってくる。おそらくは、あの女騎士のものだろう。彼女にはこの魔槍の英雄の正体に心当たりがあるらしい。

 宗一郎は神話の知識に疎く――そちらはもっぱら佐久耶が担当だった――生憎と堂々と名乗られても、彼がどれほどの神格の持ち主であるのか見当もつかない。が、彼女の反応から察すればかなりの大物だということは理解できた。

 宗一郎は知る由もなかったが、クー・フリンとは現在もアイルランドに語り継がれている大英雄の名である。影の国の女主人スカアハのもとで武術と魔術を学び修め、世に名高き魔槍ゲイボルグを伝授された半神半人の勇者。

 だが、敵の名を知るまいと、それだけで臆する若き神殺しではない。宗一郎もまた誰彼憚ることなく自らの名を口にする。

「僕の名前は神無月宗一郎。仰々しい二つ名など持ってはいませんが、ただあなたを殺す者と覚えていただければ結構です」

「―――ハ! よくぞ吼えたな神殺し……! ならばオマエの首級はこのクー・フリンが貰い受ける!」

 言下に告げるや、クー・フリンは唐突に宗一郎目掛けて突進してきた。

 宗一郎は目を見開く。それも当然だ。

 槍を含めた長柄の武器は、通常距離を離すものだ。長大な間合いを制し、一方的に攻撃できるからだ。それが、定石というものだ。

 だが、クー・フリンは容易く槍の定石を破ってみせた。まるで、そんなコトなど知らぬと言わんばかりに。

 跳ぶような勢いで十メートルの距離を一瞬で踏破し、射殺さんと繰り出されたクー・フリンの槍は、尋常ならざる速度で宗一郎に襲い来る。

「ッ―――」

 だが、いかに速かろうと常人ならいざ知らず、鍛え抜かれた神殺しの動体視力を以ってすれば走りながらの突きの初動を見切るのに難はない。

 これなら打ち払う必要もなく、身を捻るだけで事足りる。早速巡って来た、先制の一撃を加える好機であろう。

 クー・フリンの得物が槍ならば、突いた後は引いて戻さねばならぬのは道理である。

 それは槍がこの世に創造された時から持つ宿命だ。伝説の武器であろうとそれは変わらない。竿状武器の致命的な欠陥である。

 故に、神代の昔から槍兵と死合ってきた剣士は、常にそこを突いて勝利を収めてきた。

(ならば、僕も古の故事に習うとしましょうか……!)

 槍手でありながら不用意に突っ込んできた、その失策を見逃すつもりはない。

 宗一郎は身を捻って槍の一撃を回避する。虚しく空を切る真紅の槍。それを見ることもせずに宗一郎は、剣先を翻してクー・フリンの胴を躊躇なく薙ぎ払う。

 回避と反撃は、瞬く間に遅滞なく行われた。常人には残像すら映らぬ、閃光の如き交差迎撃。

 渾身の一撃は、勝利を確信するに足る会心の一振りだった。

「―――甘えよ」

 だからこそ、それを否定される現実を見咎めて、宗一郎は愕然とした。

 嘲弄の声と共に視界に飛び込んできたのは、紅い光だ。禍々しく輝くその正体は、迫り来る真紅の槍の放つ光に他ならない。

 驚嘆する槍捌きである。この魔槍の英雄には戻りの隙などないのか、光速で悪夢のような刺突を放ってくる。

 眉間に迫る槍の穂先。あれは刺すというより、砕きにくる一撃だ。

「むぅ……!」

 宗一郎は手首を返して宙を奔る刀の軌道変更。このままでは、クー・フリンの銅体を薙ぐより、自分の頭蓋が砕かれる方が早いと即断した。

 跳ね上がる刀と真っ直ぐに来る槍が激突する!

 空中で炸裂した火花と共に、重い衝撃が体を揺さぶる。が、屈してはいられない。

「ふっ―――」

 宗一郎は渾身の力を以ってクー・フリンの槍を弾き返す。長刀と赤槍は正反対の方向に弾け飛ぶ。

 そのまま、刀を構え直す―――のを止めて宗一郎は真横に跳ぶ。そこに間髪入れずに、クー・フリンは第三撃を放ってきた!

 今度こそ敵の身を食い破らんと猛然と迫る槍の穂先。それを予期していた宗一郎は、何とか躱して退ける。

 悠長に刀を構えていたなら、回避に間に合わなかっただろう。長刀で打ち払っていても押し切られたかもしれない。先の無茶な挙動の所為で、手首に違和感がある。常識外れの魔王の肉体とはいえ、回復には二、三秒を要するか。

 だがそれにしても、槍の戻りが、

(早すぎる―――!)

 宗一郎は胸中で盛大に舌打つ。

「クク。流石、チビなだけあって、なかなか素早いじゃないか」

 その侮辱の声は宗一郎の誇りを痛く傷つけ、憤怒の念を呼び起こす。

「僕はチビじゃない。ただ小柄なだけです!」

「それは同じ意味だろう、阿呆が。さあ―――まだまだ、こんなものじゃねえぞ。ちゃんと付いてこいよ、神殺し!」

 四撃、五撃、六撃―――宣言どおり、繰り出される槍は、回を重ねる毎に鋭さを増していく。

 間断なく、息もつかせぬ連撃は、喩えるなら、槍の豪雨そのものだ。

 さっきまでの攻撃が急所狙いの狙撃銃による点攻撃ならば、今は機関銃の飽和攻撃による面制圧。

 もはや、敵は急所狙いなどといったお綺麗な戦いをするつもりはないらしい。

 槍の一撃で急所を貫かれれば、即座に絶命し、死体は綺麗なまま残されよう。だが、宗一郎を千殺せんとする怒涛の波状攻撃は、一度曝されれば、五体は四散されるしか他にない。

 クー・フリンは本気だ。敵は死体すら残さぬ勢いで猛攻をかけてくる。

 これを凌ぐのは至難の業である。言うなれば、雨吹き荒れる嵐の最中、刀一本で己に降りかかる雨粒を、叩き落とせと言われるに等しい。

 そんなことは不可能である。一体何者がそんな試練を成し遂げられるというのか。だが、出来なければ死ぬしかないのだ。

 そんな生と死の境界線の最中であっても、宗一郎の心は沈静を保っていた。湖面のように小揺るぎもしない。まるで、恐怖という感情を忘れたかのように。

 もとより宗一郎は、世界中の魔術師たちから不可能だと言わしめた神殺しを成し遂げた人間である。

 不可能だ、などと言われたところで聴く耳もたぬ。今更それで臆するような、真っ当な神経など持ち合わせていない。

 人々が不可能だと言うのなら、その試練を果してこそ魔王。

 もとより、魔王とは試練が困難であればあるほどに、血潮が滾る生粋の愚か者。ならば、この試練も魔王らしく魂の猛りに身を任せて挑めばいい。

 覚悟と決意を胸に秘め、宗一郎は己を解き放つ。

 最早、考えることはない。―――否、ここからは、思考など邪魔でしかない。

 千本の矢と見紛うほどの槍の洪水が迫っているのだ。一々考えてから動くのでは遅すぎる。

 故に、思考して動くのではなく、思考する前に動くのだ。

 武芸諸流派において、これを無念夢想の理という。剣聖と謳われる真の達人のみが至れる剣術の奥義である。

 天才と称された武人が全生涯を修行に捧げても、辿り着けるかどうか解らない、武の秘極。この奥義を実現するには、血と肉と骨に、技を術を理を記憶させなければならない。

 その境地に達するには、才だけでは到底足りないのである。苦行と言うにも生ぬるい、武の修練が必要だ。

 そして、最後にはすべてを捨てるのだ。

 自分という意思を。人間と動物を隔てている最大の要素である知性を。己が自我を。人間であることさえも。

 これより、神無月宗一郎は人を辞める。ただ、剣を振るうだけの鬼と化す。

 故にこそ、宗一郎は無窮の剣士と化して槍の嵐を迎え撃つ!

 音速を超え、超音速すら超えて、もはや光速に迫らんとする槍の乱舞。視認どころか残像すら遥か彼方に置き去りにする、その神速の槍捌きを宗一郎は悉く受け流す!

「―――」

 それを為す宗一郎の貌には感情の色が消え失せていた。機械人形の如き異様な無表情。神無月家において武を極めるとは、人たらしめるあらゆる要素を削り取っていくことにあると観たのか。

 刀と槍の激突はいつ果てるともなく続く。

 乱れ咲く火花と響き渡る轟音。微塵に寸断される大気の悲鳴。

 数えて既に数十合、それを人外の勢威と速度で繰り広げられていた。宗一郎とクー・フリンは、互いの命を断たんと熾烈の争いを競っていた。

 守勢に入りながらも隙あらば、懐に潜り込もうとする宗一郎。そうはさせじと、攻勢を強めるクー・フリン。

 武装の長さの差故に、間合いの取り合いで最初から劣勢に立たざるを得ない宗一郎は、槍の猛攻を掻い潜り、長刀の最適な攻撃位置まで侵入し、必殺の一撃を叩き込むしか勝利の道はない。

 対して、クー・フリンは竿状の武器である宿命として、懐に入られると攻撃出来ずに守りに入らざるを得ない。故に、クー・フリンは、是非が非でもいまの間合いを保って、宗一郎を仕留めなければならない。

 両者の間にもはや言葉はなく、共に意思すら虚空に投げ捨て、二つの人型の嵐となって剣戟を響かせあう。

 さらに数十合。合わせて百合以上にも及ぶ剣戟の最中、宗一郎の刀がクー・フリンの槍を弾き飛ばした。

 ―――それは取り立てて珍しい光景ではなかった。

 既に数十回は繰り返されている。見慣れた光景だ。だがそれまでと違うのは、赤槍が今までになく大きく弾き飛ばされたことだ。ともすると、クー・フリンの手からすっぽ抜けるのではないか思われるほどに。

 思い返せば、先の一撃は、今までになく軽るくはなかったか。それにあの弾かれようでは、体勢を立て直すのにしばし時間が掛かるに違いない。

 ―――その隙に、斬り込める。待ちに待った勝機が到来した。クー・フリンの失策によって。

 だが、そんなことがあり得るのか。あの魔槍の英雄たる彼が槍捌きを誤るなどということが。

「……」

 突進しようとする本能に自制を促す宗一郎。今の若き神殺しを動かしているのは、思考や本能すら超えた、肉体と精神に刻み込まれた戦闘判断であり、魔王の研ぎ澄まされた第六感である。

 その戦闘判断が疑問を提示し、直感が答えを告げる。

 ―――不用意な前進は危険であると。

 あの魔槍の英雄の槍捌きに失策などあり得ない。もしあるとすれば、それはクー・フリンが仕掛けた罠に他ならない。

「―――」

 ―――だが、それを承知してなお宗一郎は前進を選んだ。もとより、刃の届かないこの距離で宗一郎に勝機はない。

 故に、前に進むしか活路はないのだ。宗一郎は敵を己の刃圏に捉えるべく突入した!

「掛かったな、間抜け―――!」

 それを見たクー・フリンは会心の笑みを浮かべる。それは罠を張って獲物を捕らえた猟師の笑みだ。

 大きく弾き返された赤槍はすっぽ抜けることなく、クー・フリンの頭上で止まった。そこから突き技は放てない。放とうとすれば技を繰り出す前に斬り捨てられるだけだ。

 故に、クー・フリンは突きなど放たなかった。

 赤槍を素早く手元に引き寄せ、くるり、と反転させ、綺麗な半円を描き、殺到してくる宗一郎の顎を石突きで砕きにかかる。すべては刹那の瞬間に行われた早業である。

(怖ろしい)

 恐怖も興奮も、他のありとあらゆる感情を、後ろに置き去りにした無念無想の境地に身を置きながら、宗一郎の精神には、はっきりと畏怖の念が浮かび上がる。

 それ程までに、クー・フリンの石突きによる打ち上げは、精妙を極めた。宗一郎の長刀の刃圏に入ったその瞬間を狙ってきたのである。

 攻撃を仕掛ける瞬間とは武術において、もっとも無防備な状態だ。

 如何なる達人とて攻撃を行う一瞬は、防御の意識が散漫になる。クー・フリンはその刹那を突いてきた。

 自分の間合いを掴んだ後、何も考えずにそのまま攻撃動作に移っていたならば、長刀を振るおうとした瞬間に顎を打ち砕かれ、肉体と精神が乖離したもっとも無防備な状態で、狙い済ました第二撃によって心臓を射抜かれて絶命していただろう。

 ―――だが、宗一郎は健在である。

 罠を警戒していた宗一郎は、クー・フリンを刃圏に捉えながら、攻撃動作を執らなかった。だからこそ、下方からの打ち上げにも対応できたのである。

 そしていま、寸の先で通りすぎていく槍の石突きが煽る風圧を、顔面で感じ取りながら、宗一郎は戦いの趨勢が自分に傾くのをはっきりと感じ取った。

 いま宗一郎が立つ位置は、敵の間合いではなく、己の距離である。

 ここからは、宗一郎のみが一方的に攻撃優先権を保持し得て、クー・フリンはただひたすら防戦に徹するしか術はない。

 クー・フリンの槍捌きに誤りはなかった。だが、戦術にこそ失策があったのだ。

 百撃にも及んだ攻勢を仕掛けながら、一向に揺らがない宗一郎の守りに、クー・フリンは焦れたのであろう。故に一気に勝負を決めようと術策を仕込んできたのだ。それこそが、最大の誤りだと気づかずに。

 取りも直さず、クー・フリンの罠は破った。今度は此方から攻勢に出る番だ。一気呵成に攻め立てようと、宗一郎は長刀を上段から振り下ろす。

 ―――だが、それをクー・フリンの斬撃によって阻まれた!

「なッ……!?」

 あまりの驚愕に無念無想が乱れる。今自分の眼前で行われている光景が理解できない。

 宗一郎の視界には、上から振り下ろされた槍の穂先と宗一郎の長刀が鍔競り合う光景が映っていた!

 だが、それは有り得ない不条理である。クー・フリンの槍は二メートルを優に越える。

 対して、宗一郎とクー・フリンの距離は一メートルほど。たとえ、敵が赤槍を上段で振り下ろしてきたとしても、槍の穂先と鍔迫り合うことなどあり得ない。

 こんな状況になるには、宗一郎とクー・フリン、双方どちらかが一メートルほど下がる必要がある筈だが、両者ともに立ち位置に変動はない。

 その間にも、クー・フリンは、槍の穂先をぐぐっと押さえつけてくる。いまだに宗一郎は状況に理解が追いついておらず、混乱でうまく力を込められない。

 それでも宗一郎は状況打破を図るため、なんとか平静を保って前に目を凝らした。

 すると、事態のからくりが見えてきた。注目するのは赤槍の長さではなく、クー・フリンの槍を持つ手の方だった。

 通常、槍は右手で根元を持ち、左手で槍の中ほどで添えるに留めるのが、基本的な構え方だ。

 だが、クー・フリンは赤槍を両の手で中ほどを持っている。長さは宗一郎の長刀とほぼ同じ。これなら、同等の間合いで刀と槍が斬り合いを演じるのも納得がいく。 

 ようやく理解が及んだ事実に、宗一郎の驚愕の念はさらに深まる。

 槍とは、刺突、薙ぎ払いによる打撃が基本動作である。上級者ならば、戦況に応じて石突きの打撃を利用するだろう。ここまでは、宗一郎も知る槍の操法とも合致する。

 だが、やはりどうほじくり返してみても、宗一郎の知識には、槍を白兵戦で斬り合いに用いる、という使用法はない。

 合戦では雑兵が槍衾の隙間から敵兵を斬りつけた、という逸話もあるが、あれは当時、雑兵の主武装が槍しかないための急場の利用法という側面が強いはず。

 おそらくは、槍の製作者が槍の取り扱い説明書を記したとしても、一騎打ちの場にて槍を剣の様に見立てて振り回すべし、とは載せたりはするまい。

 それは兎も角、クー・フリンが為したことは理解できた。だがこそ、所詮は急場凌ぎの奇策に過ぎないことも見切った。

 槍を短く持って剣に見立て運用したところで、槍は槍だ。刃渡りは短すぎて、斬りつけるには向いていない。柄は長すぎて、執りまわしに、難儀するのは明らかだ。

 これなら順当に守勢に回った方が、有効だった筈である。守りを堅固にして、巧手の攻め疲れを待って反撃に転じるのが、この戦況における定石だろう。

 クー・フリンはほとほと定石を嫌うらしい。だが、それは同時にクー・フリンの精神が混乱の極みにあるようだ、と宗一郎はそう見て取った。

 術を仕込んで失敗した挙句に、それを挽回するべく、己が技ではなく、更なる奇策を以って当たるなど、正気の槍使いのすることではない。

 ともあれ、クー・フリンの精神の自壊は、宗一郎にとって歓迎するべき事態である。当然、その隙を見逃す宗一郎ではない。

 渾身の力を込めて鍔迫り合いから脱出する。高い金属音を立てて弾かれ合う刀と槍。

「ふっ―――!」

 すかさず、裂帛の気合い以って、宗一郎は長刀を振り下ろす。敵もさることながら、見事に応じて見せた。

 先刻の焼き直しのように、再び鍔競り合う。が、勿論、同じであるはずがない。もはや、槍を剣の長さに持ち直しての斬撃は、宗一郎にとって未知ではなく、すでに既知のことである。

 槍本来の用途から外れたために生じざるを得ない取り扱いの難しさという弱点も看破している。

 ならば、驚愕も恐怖も感じる必要はない。後は、敵が崩れるまで一気に畳み掛けるのみ。その心気の起こりに、肉体も呼応した。

 迸る剣閃は、細い刀身とは裏腹に豪快で力強く勢威に載っている。それでいて、クー・フリンの槍捌きもかくやと言わんばかりに速い。なだれ打って攻め立てる連撃は、情け容赦なく、確実に敵の命を獲りにいく。

 その悉くをクー・フリンは、いまや即製の剣と化した槍で弾き返す!

 その手練は、断じて尋常なものではない。この魔槍の英雄は剣の心得もあるのだろう。それも相当な技量に違いない。やはり相手は武芸百般に通じた武神であったのだ。

「ちィ……!」

 だが、それでも無理がありすぎた。如何な武神とて剣ならぬ剣で、宗一郎の猛攻を防ぎきれる筈もなかったのである。

 相手が並みの剣士ならば、この槍の構えでも一撃で斬って捨てることも出来たであろう。

 だが、神殺しを成し遂げた宗一郎を並みの相手と見縊られるのは業腹というものだ。

 そして、十数合目。クー・フリンは宗一郎を侮ったツケを支払う時がきた。

「ぬ……ッ」

 ついに、宗一郎の長刀を捌ききれず、クー・フリンの体が後方に流される。右に捻るようにして体が後ろに傾いていく。

 間髪要れずに、宗一郎は切っ先を翻して横に一閃。腹を裂くどころか、胴ごと両断せんとする勢いだ。

 クー・フリンは動かない。体の流れが止まっているところを見ると、体勢を立て直そうとしているのだろう。が、もはや遅すぎる。渾身の一撃は遺憾なくその威力を発揮して、敵の胴を薙ぎ払うはず……

 そのとき、託宣のように降りてきた直感が、死ぬぞ、と告げた。

 そして、宗一郎は見た。クー・フリンが浮かべる凄絶な笑みを。それは先刻と同じ、獲物を見る猟師の貌だ。それも、先刻よりずっと深い。確信に満ちた貌。

(まさか、これも罠……!!)

 宗一郎の驚愕をよそに、クー・フリンは驚くべき行動に打って出た。

 クー・フリンはいつの間にか穂先近くを握っていた右手で、なんと赤槍を宗一郎に向けて投げ放ってきたではないか!

 これこそ、クー・フリンの張った真の罠。必勝のための一刺。

 クー・フリンの一連の術策は、すべてこの瞬間のためだった。

 敢えて、宗一郎を懐に入れたのは、槍の投擲で標的をより確実に仕留めるための手段。あの戯けた槍の操法は、槍の持ち手を投擲に適した位置に持っていくための偽装。

 そして、宗一郎の剣撃に押されて、体が後方へ流れたように見えたのは、必勝の槍を放つための予備動作だった。

 だが、誰に予想できようか。よもや白兵戦で投擲を行う槍使いがいようとは!

 だがしかし、クー・フリンの槍投げは順当の投擲術である助走をつけての上手投げではなく、体と手首の捻りだけで打ち出す下手投げだ。地球の重力を味方につけていない下手投げではたいした速度は出せない筈であった。

 ならば、白兵戦での槍の投擲という虚を突かれはしても、宗一郎なら刀で打ち払える筈……

 だが―――クー・フリンは恐るべき投擲の名手であった。赤槍は物理法則を引き千切りながら、紅い弾丸と化して宗一郎の腹を抉りに来る!

「はああああ!!」

 宗一郎は直感に身を委ねた。技を捨てて、横に全身を投げ出す。

 繰り出した技を中断して、回避行動に移るべく身を翻す……言葉にしただけでも法螺話にしか聞こえない挙動を、鍛え抜かれたカンピオーネの出鱈目な肉体は可能にした。

 人体力学を無視した動きに、肉体は抗議するように軋みを上げ、闇夜の虚空に血飛沫が舞い散る。胴を狙った一刺を避けきれず、左脇を浅く抉ったのだ。

 苦痛を無視し、地面を転がりつつ、宗一郎は即座に立ち上がる。先の一撃が投擲ならば、クー・フリンは最早無手のはず。ならば今が好機……

 だが、敵の姿を視界に納めた宗一郎は失望の吐息を漏らした。クー・フリンの槍は健在である。未だ主の手の中で禍々しく輝いている。

 クー・フリンは赤槍が右手からすっぽ抜ける寸前で根元を掴んで留めていたのだ。

 奇策に思えた白兵戦での槍の投擲は、クー・フリンにとっては順当な槍術の一つであったらしい。

 兎にも角にも、結果はどうであれ危機は脱した―――そのはずである。にも拘らず、なぜクー・フリンは嗤っているのか?

 

 

「―――受けたな、魔槍の一撃を。ならば、後悔するがいい。我が槍は突けば三十の棘となって破裂する。魔棘よ、食い破れ―――!!」

 

 

 世界を呪う呪言が謡われる。

 その瞬間、宗一郎の全身から血が噴出した。なぜか脳裏に体内から棘が飛び出たようなイメージが湧く。冷たく暗い色の死の棘だ。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。