リリアナ・クラニチャールの頭脳は、彼らから齎された情報を処理するべく、忙しく働き回っていた。
ここはリリアナがダブリンでの任務の拠点とするために取っていたホテルの一室である。
一同―――リリアナ、神無月兄妹はここであらためて会していた。
フェニックス公園の騒動から目を覚ましたリリアナは、すぐに状況を理解すると、神無月宗一郎から詳しい事情を聴くべく自分のホテルに来てもらえないかと願い出た。
これには揉めるかもと思いきや、幸い大人しくついてきてくれた。とはいえ、宗一郎は戦装束を身に纏っている――おまけに血塗れだ――深夜といえども人の目があるので、彼には再度、隠形術をかけてもらった。
ホテルの一室に入ると、まるで図ったかのように神無月佐久耶が何もない虚空から現れた。公園で目にした霊魂投出の霊力だろう。降臨術者ほどではないにしても、欧州においてもかなりの希少能力である。
服装はワンピースから巫女装束に変わっていた。どうやら兄とは違い妹の方は周囲に配慮ができるらしい。
ホテルの一室に備え付けられたソファに神無月兄妹が腰かけて、その対面にリリアナが座った。それから多くのことを話し合った。神無月家のこと。ダブリンの来訪した目的などである。
このときには、すでにリリアナの高性能な頭脳は入力した情報を処理し終え、思考できる余裕が生まれていた。
つまるところ、神無月家とはリリアナたち西洋魔術師のいうところの、カルト思想に被れているらしい。人為的に神を招聘しようとする試みは、カルト教団の執り行う禁断の儀式魔術のひとつである。
ということは、神無月家とは邪術師集団なのだろう。本来なら秩序を奉じるリリアナとは相いれない敵同士である。にも拘らず、リリアナは神無月宗一郎の出自を聴かされてもまったく気にならなかった。
それも当然だ。一度『王』として君臨した以上、その臣下に過ぎない魔術師如きが絶対者の出自に口を挟むなど不遜極まりない。
『王』たる人物がまだ唯人であったときが、たとえ、孤児や筋肉好き、賭博師にコスプレ好き、剣術馬鹿に似非平和主義者、そして邪術師であったところで何の関係もないのである。カンピオーネとは等しく魔術師たちの『上』に君臨する存在なのだから。
それにリリアナはカンピオーネが何者であろうと信条を違えたくはなかった。
カンピオーネが魔王として振る舞い、世に悪意をばら撒くのならば、毅然と立ち上がり民の盾となる。
カンピオーネが荒ぶる神顕れるとき、果敢に勇者として立ち上がり、神に挑まんとするのならば、王の剣となる。
それこそがリリアナの信じる理想の騎士の在り方だった。……いまだ実践できた例はなかったが。
つまるところ、神無月宗一郎が何者であれ、彼が神と戦うのならば、それに助力することに否はない。
そこに騎士としての使命もある。が、宿敵たるエリカ・ブランデッリが出来たのなら自分にも可能だという対抗心も少なからずあった。だがそれも、神無月宗一郎が認めてくれればの話。
神々との戦いにおいて、無用な横やりが入るのを嫌う王は多い。
カンピオーネにとって、神との闘争は本能であり、愉悦だ。そこに無断で助勢に入ろうものなら、最悪怒りの矛先がこちらに向きかねない。もっとも、エリカが仕える王はその当たりを気にしない性格らしいが、神無月宗一郎もそうだという保証はない。
だからこそ、話し合わなければならないのだ。助勢を認めてくれるように話をもっていくのである。
とはいえ、生真面目で韜晦を嫌うリリアナは、自分有利に交渉を進めることが苦手である。……ここはやはり自分らしく正面から願い出よう、とリリアナは決断した。が、それよりも前にやるべきことがある。
「事情は諒解しました。また、新たなカンピオーネたる御身に拝謁の栄を賜り誠に感謝いたします。……そして、知らぬことだったとはいえ、王たる御身に刃を向けた罪、深く謝罪いたします」
そう、数時間前に自分がしてしまったことを冷静に、そして客観的に振り返ってみると、リリアナ・クラニチャールはカンピオーネその人に襲い掛かってしまったのである!
もちろん、理はリリアナにある。あの状況で、自分は騎士として当然の対応をしたのだと今でも騎士は確信している。
そうは言っても、カンピオーネたる人物に条理など問うたところで意味はあるまい。
「あのことならもう気にしていません。お互いに誤解があったようですし」
「……ご恩情感謝いたします」
……なのだが、あっさり許されてしまった。
物事の大小に拘らないのは、カンピオーネの特徴のひとつであるものの、神無月宗一郎もまたそれを受け継いでいるらしい。
そうは言うものの、それが王の度量、人間の器量の深さを示すものではないことをリリアナは理解していた。
神無月宗一郎が騎士を咎めないのは、リリアナに対して何一つ脅威に感じていないからに過ぎない。毒のない蜂に集られ鬱陶しいと感じる人間はいても、その感情を後々まで引き摺る人間はいまい。
それと同じで、神無月宗一郎にとってリリアナは毒針を持たない蜂に過ぎない。襲われたところで実害はないに等しいのだから、気にするだけ無駄というわけである。
だからこそ、カンピオーネの感情を逆撫でするのは恐ろしいことでもある。
拘りのないところでは、幾らでも鷹揚に振る舞えるが、関心事――主に闘争関連――に手を出そうものなら、どうなるか想像もつかない。竜の逆鱗に触れるようなものかもしれない。
ならば、やめるか――と弱気がリリアナの心に滑り込む。それが開こうとした口を押し留めた。
どうしたのだ、リリアナ・クラニチャール? まさか、自らの理想とする騎士道から目を背け、自己の安寧のみを欲するつもりか? お前の信じる騎士道とはその程度のものだったのか?
リリアナの心から留めなく弱気が溢れてくる。だが、それは必ずしも彼女の弱さを示しているのではない。
リリアナの躊躇は、事の本質を正確に理解しているためだ。神無月宗一郎に助勢を願い出る――そのことで、王の悋気に触れたとしたら?
それがあり得ないことだとは誰にも保証できまい。激情のあまり神すら屠るのがカンピオーネなのだ。彼らの精神構造を理解できる方がどうかしている。
だがその怒りがリリアナのみに向けられるのなら、それはそれで構わない。彼女が本当に恐れているのは、王の悋気がリリアナの首一つで治まらなかった場合である。
リリアナが所属する魔術結社≪青銅黒十字≫にまで類が及ぶことを、彼女は懸念していた。
敢えて危険を冒し、己の信じる騎士道に殉ずるか。賢く危険を回避し、組織に対する忠誠心を貫くか。リリアナは決断を迫られた。
「リリアナさま、何か仰りたいことがあるのなら、ご自由に発言して頂いて構いませんよ」
そこに、まるでリリアナの心の内を見通したかのように、神無月佐久耶が助け舟を出してくれた。
考えてみればさほど不思議なことでもない。霊魂放出の霊能力を有しているのなら、リリアナの心の在り様など手に取るように解っても不思議はない。
その言葉でリリアナは腹を決めた。最悪、佐久耶が間に入ってくれるだろう、と期待して、彼女は言葉を紡ぐ。
「恐れながら――王よ。不肖、このリリアナ・クラニチャール、申し上げたい儀がございます!」
「……なんでしょうか。それとリリアナさん。僕はあまり仰々しいのは好みません。普通に名前などで呼んでもらって構いませんよ」
「では、神無月宗一郎と呼ばせていただきます」
彼は一瞬困惑しながらも了解した合図だろう、頷いてくれた。が、リリアナは空いた間が気になって仕方がなかった。
(何かおかしかっただろうか……)
いや、単にまさかフルネームで呼ばれるとは思わなかっただけだが、それを彼女が知る機会はなかった。
それはさておき、宗一郎は視線で続きを促してきた。リリアナはそれで不安を一端、棚に置いて話を続ける。
「神無月宗一郎―――あなたは近い内にあの英雄神と再び戦われることでしょう。そのときに、願わくば、どうかこのわたしもその戦列に加えていただけないでしょうか!」
言った。ついに言ってしまった。こうなれば、もう後戻りはできない。
反応はどうか? 憤怒か、受諾か。
前者なら、死を覚悟しなくてはなるまい。後者なら、たいへん喜ばしい。まさに天国か地獄である。……神と戦う道を天国と断じていいのなら、正しい表現ではあった。
「それは……僕と協力して神を打倒したい、ということですか? だとすれば、お断りします。僕は神々とはひとりで戦いたい……でないと、証明できない。
僕こそが一族の“最後の者”にして“最強の者”であることが。僕を造り上げるために捧げられた多くの血にかけて証明し続けなければならないのです……」
「……」
リリアナには後半の独り言のような宗一郎の言葉の意味を汲み取ることは出来なかったが、それが冷たい拒絶の理由であることは肌で理解した。
と言っても、これからどうするべきか。これ以上の問答はいらぬ勘気を被るだけだろう。『王』と『神』の戦いに口を出す無礼を働きながら、この冷静な対応を望外の幸運とするべきであり、これ以上望みを抱くべきではない。
頭ではそうと解っているにも拘らず、本能が“行け”とせっついてくるのだ。この思いは何処から来るのか。騎士の意地? 魔女の霊感? どちらであれ、リリアナは突き動かしてくる情動の赴くまま、再度口を開こうと意を決する。
「―――よろしいではありませんか、兄さま。リリアナさまのご助勢、お受けなさいませ」
まさか、そこにリリアナを援護する声が上がるとは思いもよらず、二人はともに驚愕した。が、精神の反応は真逆であったろう。一方は、突然の援護に喝采を上げ、一方は、突然の身内の反旗に愕然とする。
「……どういうつもりですか、佐久耶」
すっと目を細めて、妹に問う宗一郎。
「兄さまこそどういうおつもりなのですか? リリアナさまほどのお方が合力して下さると仰ってくださっているのです。なぜ断る必要があるのです」
わたくしは何か間違っていますか、と言外の意味を込めて、兄を見返す佐久耶。
「……知っているでしょう。本来、僕はひとりで戦わなければならないのです。本当なら、お前もここの居るのにも反対なのですッ」
妹の言葉に何か思うところがあるのか、宗一郎は感情を激して、そう吐き捨てた。
「それはつまり――兄さまは私を必要としていないということですか? この地まで来られたのは誰のお蔭だとお思いで?」
そう。宗一郎がダブリンにいるのは、ひとえに佐久耶の力ゆえである。超長距離を移動する術を持たない彼では、これほど早くにダブリンの地を踏み込むことなど叶わなかっただろう。
いや、それ以前の問題だ。
現代文明と隔絶した生活を送ってきた宗一郎は、はっきり言ってかなりの世間知らずだった。それこそ、“深窓の~”とつくほどに。飛行機にも乗れない宗一郎では、アイルランドどころか隣国にも行けたかどうか。
それを知る佐久耶からすれば、今さら手助け不要などと言われたところで笑止千万な話であった。
「……お前の助けなどなくとも、僕は大丈夫です。ここにだって必ず来れた筈ですッ」
にも拘らず、根拠のない自信をのたまう宗一郎。とはいえ、その声が若干震えているのは自信のなさを自覚しているからか。
「……」
だが、その言葉を最後についに堪忍袋の緒が切れた者がいた。言うまでもなく神無月佐久耶である。
……彼女は兄をこの地に飛ばすために、それはそれは大変な労力を費やしたのである。
瞬間移動ほどの大魔術である。儀式には膨大かつ入念な下準備を要しなければならないのは道理であった。
それを文句のひとつもなく粛々と整えたのは、偏に兄のためである。神殺しという試練を果たさんとする兄の助けとなれば、というひた向きな献身であった。
その献身がよもや、当の兄の手によって汚されようとは思いもよらぬことであった!
まったくもって赦し難き暴言卑語。たとえそれが実の兄であろうとも、神殺しの王であろうとも―――否、だからこそ赦せぬのである!
そもそも、神殺しとは如何なる手段も選ばずに神を討滅する埒外の存在ではなかったか。
では翻って我が愚兄はどうか?
考えるまでもない。手段を――選びまくっている。
初の神殺しを成し遂げてからまだ三か月も経っていないと言うのに、もう驕り高ぶっているのだろう。まったくもって未熟極まりない。恥を知るがいい。
この国の隣国には、魔王歴十年以上にもなろうかという神殺しが根を下ろしているとか。愚兄は魔槍の英雄と再戦を果たす前に、先達たる方にお会いして、頭を垂れ、神殺しとは、なんであるかと教えを乞うべきだ。さすれば、盲は開けて愚兄は自分に感謝することだろう……
なんてことを考えていそうだ、とリリアナは神無月佐久耶を見てそう思った。
いや、リリアナに精神感応の霊力はない。なぜかそんな考えが唐突に滑り込んで来たのである。彼女が怒りのあまり能力を制御できずに本人の思考が入り込んだのだろうか。
実際のところ、神無月佐久耶が怒り心頭なのは間違いないだろう。
一見すると佐久耶は怒っているようには見えない。整った顔は笑みを浮かべて兄を見つめており、目もまるで面白い話を聞いたと言わんばかりに、にこやかさを湛えていた。
それだけなら何の問題もない。が、とにかく佐久耶の体から放出される雰囲気が尋常ではない。それも、おそらくは負の方面の。
「なんですか? 文句でも?」
ところがリリアナが慄く無形の圧力を感じていないのか、宗一郎はそう言って妹を睨む。
その言葉を皮切りに佐久耶の口が開こうとする気配を感じ取る、リリアナ。その一声は一刀の如く相手の心を薙ぎ払うだろう。が、兄の方とて黙ってやられはすまい。
つまりは兄妹喧嘩の勃発。そして、またもやリリアナが原因で始まろうとしているではないか。慌ててもう一度止めに入ろうとするリリアナ。
そこに―――
「いいねえ、こっちは賑やかでよ」
割って入ってくる男の声があった。
「!!」
聞き覚えのある声――その正体に慄然としながらも、魅入られたようにリリアナはその発生源に目を向ける。
「……犬……?」
部屋の扉の前に立っていたのは、体長二メートルほどの一匹の赤い犬であった。妖しく輝く虹色の瞳が素早く立ち上がった三人を睥睨する。
想定外の事態に混乱する。リリアナが想像したのは、一人の美丈夫の姿であって、断じて一匹の犬などではなかったからだ。だが、聴こえたてきた声は間違いなくあのクー・フリンのものに他ならない。
(さては、使い魔か―――!)
いや、それも只の使い魔などではあるまい。リリアナの魔女としての霊感が赤犬の正体を看破する。規模こそ小さいがアレは神獣の一角に座する存在だ。それも冥界に属する獣であろう。
戦争の神と冥界の獣。人間を死に導くという共通の役割から古来両者は相互に関係し合ってきた。
そして、クー・フリンの神話の来歴を知る者ならば、かの神と冥界の獣の関わりを不思議に思うものはいまい。リリアナも魔女の知識として当然理解していた。
そこまで深い知識がなくとも、クー・フリンと冥界の獣の繋がりを証明するのは容易である。なぜなら、“クー”はゲール語で“猛犬”を意味するからだ。古代ケルトでは、犬は死体を捜してその肉を貪り食うことから冥界に連なるものと信じられた。
故に、『クランの猛犬』の名を持つこの英雄神が、冥府の神としての側面を持ち得る可能性は容易く推測できる。それに今どき、この程度の知識を仕入れることなどインターネットを使えば一発である。
とはいえ、クー・フリンが現代の科学技術のことを、どの程度把握しているかは解らないものの、敢えて自らの手の内を晒すのは不可解ではある。
おそらく、あの黒犬はメッセンジャ-なのだろう。つまりは、今ここで公園の続きをする意図はないということである。その目的があるのなら、本人が直接くる筈だ。ココでドンパチを始められては叶わないリリアナとしては、ありがたい話ではあった。
だが、だとしたらさらに不可解である。
クー・フリンは公園での戦闘のおり、冥府の神としての神力を見せていない。ならば、当然、戦略として秘匿するのが道理である。
魔術の神の神格を有しているのだ。千里の距離を隔てようとも、己の情報を正しく伝達できる手段など無数にある筈である。
にも拘らず、ここで手の内を晒す。そこに何の意味があるのか? リリアナにはまったく見当もつかなかった。が、宗一郎はそうではなかったらしい。
「フン、それで何の用で参ったのですか? 今すぐ再戦というのなら承りましょう……」
見るのも不快だ、とばかりに顔を背けて、そう吐き捨てた。
「クク。そう猛るなよ、神殺し」
それを見た赤犬は、胸を張り犬歯を剥き出しにして笑う。ドドン、と自慢げに。尻尾さえ振って見せた。
その自分の力を誇示したがる様子にリリアナはさらに疑問が過る。なぜ今さら? もう十分に力を競い合っているのに、何のために力を誇示する必要があるのか。
そう思い至るとリリアナにぱっと閃くものがあった。その考えを脳裏で検証し、それが間違いないと解ると……彼女は呆れ果てた。
よくよく思い返してみれば、宗一郎も黒い犬を使役していたではないか。おそらく、属する神話こそ違えど、アレもまた冥界に連なる獣。
ならば、この状況にも得心がいく。
おそらく、クー・フリンはこう言いたいのだろう――貴様に出来ることはオレにも可能なのだと。
見るもの聞くものが、あきれ返るその稚気。負けず嫌いにも程がある。そんなことのために晒す必要のない手札を用いるとは。が、クー・フリンの意図をいち早く見抜いた宗一郎も明らかにおかしい。
しかも、通常ならリリアナのように、クー・フリンの無意味な行動を呆れ返るならともかく、悔しそうに顔を背けるその態度。彼もおそろしく負けず嫌いなのだろう。おおよそ、リリアナの感性で理解できるものではなかった。
「あなたがどこの氏の神かは存じませんが、あれほどの武量を誇りながら臆したと?」
クー・フリンのふざけた意思表示に戦意が猛ったのか、宗一郎は挑発する。
これに焦ったのはリリアナだ。ここは彼女が取った部屋ではあるが、それ以前に高層ホテルである。流石に客入りまで正確に把握しているわけではないが、客従業員含めて数千人規模になるのは間違いない。
建築技術の粋を凝らして造り上げられた頑丈な建築物なのだろうが、無論『まつろわぬ神』とカンピオーネの戦いに耐えられる筈がない。もし両者がここで争えば被害規模は想像を絶するものになるだろう。だが―――
「だから猛るなと言っているだろうが……ちとこっちも込み入っていてな。悪いが再戦の日取りと場所はオレが決めさせてもらった」
赤犬がそう言うや否や、リリアナの脳裏に見覚えのない光景が過った。
これはどこかの森……だろうか? 視点がおそろしく高く、気が付いたらリリアナは、まるでホテルの部屋から体が飛び出したかのように、遥か上空から地上を見下ろしていた。
よく見ればかなり広大な森である。生命力溢れる瑞々しい緑が辺り一面を覆い尽くしていた。リリアナはその森の一部にぽっかりと空き地が空いているのを見咎めた。
リリアナの視点が空き地に集中すると、視界が遊園地の絶叫マシーンの如く、猛スピードで降下していった。途端胃が浮き上がるような違和感。「き……」騎士は誇りにかけて悲鳴を我慢した。
永遠にも等しい一瞬の後、リリアナの視界は開けた場所を映し出していた。
おそらくは、彼女が見た森の空き地だと思われる。まるで自然そのものがここまで来た探検家に憩いの場を提供するかのように、この広場は思わず目を奪われるほど澄み切っていた。
近くの小山から地下水が湧き出しているのだろう、清水が滑らかな岩を流れていき、浅い小川を造っている。森の広場は手入れをされた芝生さながらの、ふかふかな背の低い草に覆われていた。
それらを見た瞬間、リリアナの視界は暗転する。
「……あ、あれは……?」
ようやく現実に立ち返りリリアナは、慌てて佐久耶の方に目を向ける。と巫女も驚いたように目を白黒させていた。
それを不思議そうに宗一郎がこちらを見やる。彼にはあの光景が見えなかったらしい。
「ちッ。やはり貴様には届かねえか。念のために娘どもにも送っておいて正解だったな」
「……何をしました」
硬い面持ちで厳しく問う宗一郎。今にも抜刀して斬りかかっていかんばかりだ。
「フフ。そう怒るな、坊主。決闘の場所を知らせてやっただけさ」
宗一郎の焦りがよほど面白かったのか、黒犬はゴロゴロと喉の奥を低く鳴らして嗤う。
あからさまな嘲り。それを無視して宗一郎は佐久耶を見やる。巫女も肯定するように首を縦に振った。
「とまあそういうわけだ、神殺し。その地を再戦の場としようか―――最もテメエがこのオレともう一度殺り合う勇気があるのなら、の話だがな」
「当然でしょう」
宗一郎は即答した。
「ク―――ならば覚悟するがいい、神殺しよ。貴様はこのオレを識らぬとほざいたな。我が武名、貴様の故郷の地にまで届いていないとは恥辱の極み。
ならば、我が威―――貴様に骨の髄まで叩き込んでくれる!」
双眸を炯々と輝かせ赤犬、否―――クー・フリンは吼える。
「いいでしょう。受けて立ちます――クー・フリン」
宗一郎は静かに、だが断固たる決意で挑戦を受諾する。
「いいぞ、その意気だ。娘どもに示した場所まで明朝に来るがいい。
待っているぞ―――神無月宗一郎」
その言葉を最後に、赤犬は紅の霞となって消え失せた。
クー・フリンの退場で場の緊張が緩む。同時にリリアナの体も弛緩する。赤犬の登場以来ずっと緊張の連続だったのだ。
何はともあれ、最悪の事態――人口密集地での戦い――は回避された。それを齎したのが『まつろわぬ神』だということは、驚きであるが喜ぶべき事態には違いなかった。だとしても、何もクー・フリンはダブリンの被害を懸念してくれたわけでもないだろうが。
あの送り付けられた決闘場とおぼしき場所……あそこで一騎打ちを演じるならば、なるほど、クー・フリンに相応しい戦場である。あの魔槍の英雄はこの現代で神話の再演を図るつもりらしい。
「そういうわけです、佐久耶。案内を頼みました」
リリアナが考えに耽っていると、さっきまでの諍いなど忘れたかのように、宗一郎が妹に言う。
「それは無理です」
と一言で斬って捨てる佐久耶。
「むぅ……もしやさっきのこと根に持っているのではないでしょうね」
「……ない訳ではありませんが、勿論、違います。指定された場所は確かに送り届けられてきました。けれども、それはここからかなり遠方のようです。そこに行くまでの効率的な移動手段がありません」
その言葉にリリアナは訝しんだ。佐久耶ほどの高位の魔女なら超高速で移動するあの術を修得している筈ではないのか? 疑問に思った彼女はそのことを口にしてみる。
「それは《飛翔術》のことですね……生憎とわたくしにはその心得がないのです」
佐久耶曰く、そもそも自分は《飛翔術》を修得する必要がなかったのだと。なぜなら、佐久耶は霊魂投出の霊力で、いつどこにでも瞬時に移動できるのである。他者を遠方に送るにしても、瞬間移動の術がある。故に、わざわざ会得する必要性がなかったのだ。
その瞬間移動の術にしても、数多の条件を満たした上で始めて行使できる術である。だがそれも、いまはその条件に合致していない。
神無月家にしても、神と魔王が合まみえれば、勝敗の如何を問わず一度で決着が付くものだと思い込んでいた。だがらこそ、余計な術など佐久耶に学ばせなかったのである。
今回のような事態は完全に想定の範囲外であったらしい。
「……では、どうするのですか」
宗一郎は憮然とした口調で問う。
「決まっているではないですか、兄さま」
そう言って佐久耶は、リリアナに目を向けた。
「え……」
戸惑うリリアナに、佐久耶は頓着することなく、にこりと微笑みながら問いかけた。
「《飛翔術》――勿論、リリアナさまはお使いになられますよね?」
――このようにして、リリアナ・クラニチャールの参戦が決定した。