神殺しの刃   作:musa

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七話  魔女たちの戦い

 クー・フリンが指定した決闘場から南側に位置する森の外れ、そこで待機していたリリアナ・クラニチャールは、背筋に泡立つ悪寒を感じて、背後にある生気が漲りすぎて怖いほどに生い茂った森に深青の瞳を向けた。

 それを見て不審に思ったのか、隣にいた神無月佐久耶が問う。

「どうかされましたか、リリアナさま。……何かをお感じに?」

「いえ、それほど大したものでは……ただ、神無月宗一郎、貴方の兄君は大丈夫なのだろうかと。何といっても相手はあのクー・フリン。強敵です……」

 実際は、その言葉でもまだ控えめの発言だろう。

 何しろ相手はアルスター神話最強の戦士との呼び声高い、ビッグネームの中のビッグネームだ。

 幾柱もの神々を滅ぼした旧世代のカンピオーネたちですら苦戦は免れ得まい。いわんや、神無月宗一郎は現在最も若い神殺しである。保有する権能の数も多くて二つあればいい方だろう。

 間違いなく苦戦どころか死戦になるに違いない。それを誰よりも解っている筈の巫女に動揺の色はない。神無月宗一郎を完全に信じている証だろう。

「兄は時より粗忽な事をやらかしますが、やるときはやる人です」

 騎士の視線の意味に気づいたのか、佐久耶は苦笑しながら答えた。

 リリアナはそれ以上の問答を避けた。納得したわけではない。ただ無意味さを悟ったのである。

 家族にしか解らない信頼関係を、会って一日も経っていない彼女に理解できる筈がなかったからである。

 また、そんな暇はリリアナには許されていなかった。《青銅黒十字》において最年少で大騎士の叙勲を授けられる栄誉を賜ったリリアナ・クラニチャールを以ってしても、困難を極める任務が待っていたからだ。

 クー・フリン来訪後、三者の役割分担は昨夜の内に決められた。即ち、宗一郎が指定された決闘場へ。リリアナと佐久耶は、必ず来るであろう謎の『まつろわぬ神』の足止めである。

 つまりそれは、神と戦うということに他ならない。

 人の世に顕れる最大の災厄。狂える流浪の神。聖なる王権の所有者。

 ついに自分も彼らと対峙する時が来た。いつかは遭遇するかもしれないと覚悟していたが……

 昨日までの自分では、想像もしていなかった事態である。

 仮に何者かが「やあ、リリアナ・クラニチャール。その日の夜更けに君は、神と魔王の戦いに巻き込まれるだろう。気を付けるんだよ」などと忠告されたとしても、自分は信じなかったろう。しかも、その魔王がまだ存在も知られていない八人目であるのなら、なおのことである。

 だが、いまはそうではない。リリアナ・クラニチャールはすべてを理解した上でここにいる。故に、神々と対峙する覚悟はすでに出来ている。

 幸いリリアナはひとりではない。決意を込めた眼差しで、隣にいる仲間たち(、、)を見た。

「はい、リリアナさま。その意気です。わたくしとこの仔もついております」

 そう言って佐久耶は、横に視線をやる。

 ソレはちょうど巫女をリリアナと挟む位置に居座っていた。巨大な黒い犬である。全長十メートル近い規模からみて、神無月宗一郎の使役していた神獣だろう。驚いたことにアレは権能によるものではなく、魔術によって制御されているらしい。

 間違いなく、東洋魔術における最高位の魔術であろう。欧州でこれに相当するのが、いまだ青き騎士には取得を許さていない聖絶の言霊にあたるだろうか。

 つまりは、神獣・神霊すら屠る、唯人に許された数少ない彼らへの対抗手段である。

 その使役権を惜しげもなく佐久耶にあっさり譲渡するのだから、なんとも剛毅な話である。あの若き神殺しは、よほど妹が大事なのだろう。

 リリアナは恐々とその巨大な黒犬を見上げた。地上から数メートルほどの高さに鎮座している頭部、その眼窩に収められた二対の赤眼が彼女らを冷やかに睥睨していた。どう楽観的に解釈しても、黒犬が現在の境遇に満足していないことは一目で察せられる。

 それも当然か。魔術によって鎖で縛りつけられ、己の意に沿わぬ従属関係を強制させられているのだから。

 だからこそ、ひとたびその鎖が緩まろうものなら、相対している敵より使役者の方を襲うに違いない。が、そんなことは神無月宗一郎がもっとも解っている筈である。にも拘らず、あっさりと妹に貸し与えたと言うことは、佐久耶の魔術の腕前を信用しているのだろう。

 カンピオーネが太鼓判を押したも同然の佐久耶の力量を疑うわけではないが、やはりあの黒犬を全面的に信用するわけにはいかない。

 戦闘の最中であっても、注意しておかなければ、と決意した―――その直後、森の方面から赤い柱が天に挑むかのように隆起し始めた。  

 恐ろしく巨大なシロモノである。高さに限界が見えない。薄い雲を突き破ってどこまでも果てしなく突き伸びている。

「な、なんだ、あれは……」

 リリアナは唖然と呟きつつ、答えは解り切っていた。

 あんな出鱈目なコトが出来るのは、いまこの付近には二人しかいない。そう、神無月宗一郎かクー・フリンの他にあり得まい。そのどちらかまでは定かではないが。

「……神代の魔術文字……浅瀬の一騎打ち……屈強にして雄弁なる戦の神……」

 佐久耶の口調は、茫洋として酔ったように、たどたどしかった。

 それを見てリリアナは察した。佐久耶はいま幽世と繋がっているのだ。どうやら霊視を得たらしい。その意味するところを、騎士はただちに理解した。

「そうか、あれが『分かれた枝の浅瀬(アトゴウラ)』……一騎打ちの誓約か―――!」

 コナハト女王メイブの軍勢を幾日もの間、足止めにしたと言う大結界。まさかかの逸話の再現をこの目で見られるとは、と場違いな感動に身を震わすリリアナ。

「兄さま。また早まった真似を……」

 対して、佐久耶は呆れたように頭を振る。その言葉にリリアナは不思議そうに首を傾けた。

「どういういうことですか? あの大結界が伝説の通りなら、むしろ我々にとって有利に働く筈では?」

 伝説曰く、ひとたび決闘場が形成されるや否や、完全な勝敗が決するまで何人の介入も退場することも許されない。

 それが事実なら、リリアナたちの負担軽減は計り知れないだろう。

 いま彼女らが待機している場所――森と平原の境界線――を防衛線と定めたものの、たとえ、ここを抜かれたとしても、森の奥まで後退しつつ、あの結界を上手く活用して立ち回ることも出来るのだ。

 また、戦闘継続能力を著しく損なわれたとしても、過剰なまでに無理をする必要もなく、容易に戦線離脱を図ることも出来る筈である。

 むしろ、神無月宗一郎は後者の事情を考慮したのではあるまいか。伝説によれば、あの大結界を発動させるには、決闘者双方が一騎打ちの誓約を交わさなくてはならない筈なのだから。

 どう考えてもリリアナたちが不利になるような要素は見当たらなかった。彼女は視線で佐久耶に問いかけた。

「わたくしにも確かなことは解りません。ただ、あの結界を視ると、なぜか嫌な予感がするのです……」

 不安げに言葉を紡ぐと、佐久耶はふいに顔を強張らせ、眼差しを平原の方に向けた。それにつられてリリアナも視線をやる。

 そこには、さっきまで眺めていた光景と何も変わったようには見えない。

 地平線まで続く平原は、背の低い草に覆われた起伏のなだらかな土地である。民家どころか文明世界がまったく浸食した形跡のない、超常の戦いを行う上では、最適な環境であった。空を見上げれば、太陽が東の空からゆっくりと登り始めたばかりである。

 ……やはり、何も変わったところは見られない。少なくとも目にする限りは。

「リリアナさま、お気を付けください。どうやら参られたようです」

 それが何かなどとはリリアナは、問わなかった。事ここに至って、遅まきながら彼女の霊感にも反応があった。

 ―――来るのである、『まつろわぬ神』が。

 リリアナは『まつろわぬ神』の正体についておおよその見当をつけていた。

 女神であること、クー・フリンを敵視している事実を踏まえて推測を立てるのなら、幾つかの候補が思い浮かぶ。

 莫大な富を求めてクー・フリンの故郷の地に攻め入った女王メイブ、クー・フリンに求愛を断られ、激怒し復讐を誓った戦女神モリガン、などなどメジャーな女神たちが真っ先に思い浮かぶものの、これから来るであろう『まつろわぬ神』の正体は、おそらく彼女たちではあるまい。

 リリアナは直接目にすることこそ、叶わなかったものの、神無月宗一郎の証言によれば、魔女の神格を有している可能性を示唆していた。

 その根拠は、魔女さながらの長衣を着込み、宙を自在に翔けていたからだろう。その判断にリリアナも異論はない。とはいえ、宙を翔ける能力は、何も魔女たちの専売特許というわけではない。

 事実、クー・フリンも天駆ける能を会得している。だが、民草に崇め奉られる神が、自らの容貌を隠匿するような服装を好んで着用しているだけでその出自の特定に役立つ。

 クー・フリンに対する強い憎悪。魔女風の長衣を着込み、宙を飛ぶ能力の持ち主。これらの条件のもと、アルスター神話に該当する神々は、リリアナの知る限り一柱のみ。それは……

 思考の海に没入していたリリアナの霊感が、ここにきて最大の警鐘を鳴らす。故にそれ以上考えるのは止めて、彼女はじっと空を見上げた。

 夜が明けたばかりのまだ薄暗い朝の空。その南側の方角にぽつんと一個の黒い点が浮かんでいた。ソレは途方もない速度で移動しているらしく、たちどころに黒い点は、人影へと容を変えていく。

 魔術で強化されたリリアナの視力でも容貌までは判別できなかった。全身をすっぽりと紫色の長衣で覆っていたからだ。だが、もはやあえて確認するまでもないだろう。伝説通り、醜い老婆のような姿をしているに違いない。

 リリアナはあらためて『まつろわぬ神』を目にすることで、かの女神の正体について自分の推測が正しかったことを知った。

「ヅイニ、追イ詰メタゾ、グー・ブリンンンンンンン…………!」

 耳障りなしゃがれた奇声がアイルランドの朝の空に響き渡る。距離にして既に三百メートルを切っている。

「あれが復讐の魔女―――カラティンの妖女か…………!!」

 リリアナはかの女神の神名を呟く。

 神話の時代において、クー・フリンに実父クラン・カラティンを殺害され、その憎悪ゆえに実父の仇を討ち果たすと誓い、暗黒の妖都バビロンの地にて妖術の奥義を修めた復讐の魔女。

 神話によれば、己が悲願を叶えるべく妖術と謀略を駆使し、ついにクー・フリンを死の間際まで追い込んだという恐るべき妖女である。

 そんな逸話を持ちながら、カラティンの魔女は決してメジャーな神ではなかった。メイブやモリガンは知っていても、カラティンの名を聴いたことがある人間は少ないだろう。言ってしまえば、三流の神なのである。

 だからと言って、断じて侮って良い相手ではない。それが出来るのはカンピオーネたちくらいである。リリアナが同じ心境で戦うことなど許されない。

 本来、聖騎士の位階にすら達していないリリアナでは足止めの役目すら荷が重いのだ。もしこれが、彼女が単身で挑まねばならない任務であったなら、逃げはせずとも、今頃あまりの悲壮感に震えていたかもしれない。

 だが、リリアナはひとりではない。

 隣を見れば、佐久耶は既に手を打っていた。黒犬に命じて、不可視化の能力を発動させていた。とうにあの黒い巨体は跡形もなく消え失せていた。

 直接魔女神にぶつけるのではなく、不可視化のよる奇襲戦法に望みを託すつもりなのだろう。佐久耶本人は、何らかの大がかりの術を使うつもりなのか、瞳を閉じて、精神を集中させている。

 リリアナも覚悟を決めて、

「ダヴィデの哀悼を聴け、民よ! ああ勇士らは倒れたる哉、戦いの器は砕かれたる哉!」

 朗々たる詠唱を謳い上げる。

「ギルボアの山々よ、願わくは汝等の上に露も雨も降らざれ! 贄を求めし野の上もあらざれ! 其は彼処に勇士の楯、棄てらるればなり! サウルの楯、油を注がずして彼処に棄てらるればなり!」

 リリアナが謳うのは、『ダヴィデの言霊』。

 悔いある亡霊たちの悲嘆。疲れた武人たちの詠嘆である。

 リリアナは躊躇なく切り札を切る。神々をも傷つける絶望の特権を行使する。

「殺めし者の血を呑まずして、ヨナタンの弓は退かず! 勇士の油を喰わずして、サウルの剣は虚しく還らず! ああ勇士らは戦いのなかに倒れたる哉!」

 青い騎士の左手に青き光が集う。―――次の瞬間、顕れたのは彼女の背丈と変わらない長大な弓であった。同時に右手には青く輝く四本の矢。

「ヨナタンの弓よ、鷲よりも速く獅子よりも強き勇士の器よ。 疾く駆け汝の敵を撃て!」

 この世ならざる青い長弓に装填された四本の矢が、百メートルを切った地表すれすれの位置で飛翔しながら迫ってくる、カラティンの妖女目掛けて放たれる。

 青光が四筋のほうき星と化して紫の人影へと殺到する。回避は不可能だ。必中の魔弾は自動追尾の魔力で何処までも獲物を追い回す。

 ―――それを知ってか知らいでか、カラティンの妖女は進行方向を曲げもせず、ただ愚直に直進してくる。

 ならば当然、青光は猛然と迫りくるカラティンの妖女を滅多打ちにする! 全弾命中。

 小さな体がまるで衝突事故にでも巻き込まれたかのように弾け飛ぶ。

 そもそも外しようのない射撃である。敵はただ真っ直ぐに飛んで来るだけなのだから、止まっている的を射るのと大差ない。弓騎士としては、いまのを腕の見せどころとするのに、困る相手であった。人間風情の攻撃など警戒するに値しないということだろう。

 故に、魔女の体がむくりと起き上がるのも、また必然であった。だからリリアナはさして驚かなかった。

 カラティンの妖女は「ギギッ」と奇声を発しながら、リリアナたちを見るや、さも不思議そうに小首を傾げてみせた。どうしてこんな小石に蹴躓いたのか解らないと言うように。

 リリアナの見る限り、目立った傷を負っているようには見えない。頑丈さをウリに出しているタイプには見えないから、矢が直撃する寸前に障壁を展開したのだろう。

 やはり魔術を司る神を相手に、魔術戦を仕掛けるのは無謀すぎたということだ。だがそれでも構わない。リリアナの目的は敵を倒すことではなく、足を止めることだったのだから。

 そして、青い騎士はその任務を完璧に果たし終えた。故に次に続くのは、

「―――神無月佐久耶、今ですッ」

 巫女は騎士の声に応えるように、目を見開き、両手をカラティンの妖女に向けて掲げる。

「天の岩戸を引き立てて、神は跡なく入りたまえば、常闇の世と、早なりぬ」

 佐久耶の口から呪文が紡がれる。と同時に、カラティンの妖女の周囲から一気に岩石が隆起するや否や、瞬く間に茫然と佇む小さな体を半球状に包み込む!

 これは天照大御神が須佐之男命の乱行に憤怒し、天岩戸に引き篭もることによって、太陽神の神威を消失させしめた故事を、極小規模で再現した御霊封じの結界である。

 リリアナは「おお」と感嘆の声を上げる。神獣を使役する秘術といい、東洋魔術は対神霊・神獣への対抗手段として西洋とは異なるアプローチを模索し、完成に至ったらしい。

 即ち、神々を傷つけ、殺める方法ではなく、神々を封印、使役する手段を磨き上げてきたのだ。

 魔女として多くの術理に通暁するリリアナとて初めて目にする秘術。

「オマエダチ、何故ワダヂノ、邪魔ヲズルノダァッッ!!」

 ―――だが、それを以ってしても『まつろわぬ神』を封じるのは不可能であった!

 不気味な叫び声と共に、毒々しい紫色の濃霧が、岩の膜から噴出する。すると、半球状の岩壁は瞬時に溶け崩れ散っていく。フェニックス公園で使用した毒の霧だ。

 結界を溶かしただけでは、満足できないのかリリアナたちにまで毒手を伸ばしてくる。御霊封じの結界があの様では、リリアナが対抗呪文を講じたところで意味はあるまい。

 結界ごと溶け崩れるに決まっている。 ―――ならば、回避に徹するのみ。

「魔女の翼よ、我が飛翔を助けよ!」

 リリアナは飛び上がると同時に呪文を唱えるや、宙を蹴って大空を駆け上がっていく。

 幸い毒霧の進行速度はそれほど速くはない。余裕をもって回避できた。リリアナは地上から十メートルほどの虚空に立って、眼下の様子を眺める。

すると、さっきまでリリアナがいた過去位置には、もうもうと紫の濃霧が立ち込めていた。

 リリアナは凛々しい眉を顰める。近くに佐久耶の姿はないが、彼女はそれには注意を払わなかった。あの巫女が幽魂投出の霊能力を有している以上、あれくらいの攻撃で逃げ遅れるなど考えられない。

 故に、リリアナが警戒しているのは別のことであった。

(まずい、道が空いてしまったッ)

 そう、リリアナたちが退いた以上、いまやカラティンの妖女と森の中で赤く輝く結界との間を隔てる障碍が消えてしまったのだ。

 後僅かに残すばかりとなった平地やその先にある樹々の群れなど、魔女神にとっては小石ほどの障碍にもなり得まい。

 実際、リリアナの懸念が示すとおりに、カラティンの妖女の小さな体が動く。自分が創り出した毒の霧を吹き払うかのように、猛スピードで再度飛翔する。

「くッ」

 これ以上侵入させてなるものか、とリリアナは青弓を立て、召喚した光矢を番えて、解き放つ。次々と射放たれる青い光弾。

 だが、カラティンの妖女に直撃する寸前、青い矢はあらぬ方向へとねじ曲がり四散していく。

「―――ッ!? 矢払いの加護か!」

 早速対応してくる魔女神。これでは如何なる飛び道具を以ってしても、カラティンの妖女の長衣の裾すら触れることは叶うまい。

 そうと知りつつ、リリアナは青弓から光弾を吐き出し続ける。彼女は手持ちの対神霊用術式を遠距離戦闘用のみしか修得していない。聖絶の言霊はもとより近接戦闘の言霊の知識にすら触れることを許さる立場ではなかった。

 故に、リリアナは無意味と解っていても、弓矢を放ち続けるしか術がない。

「グー・ブーリンンンンンッ!!」

 歓喜の声を上げて、突き進むカラティンの妖女。

 もはや魔女神を阻むものなど何もない。断続的に飛来してくる矢は、身を穿つ前に四散する。ましてや、とっくに払い除けたリリアナなど意識の端にも上らない。

 カラティンの妖女にとって、青い騎士は払い除けただけで事足りる小石に過ぎない。一々手間暇をかけて粉砕しようなどとは露とも思わない。

 ―――それこそがリリアナの付け入ることの出来る唯一の隙である。

 リリアナが何をしてもカラティンの妖女の関心を引くことがないということは、反撃の心配をする必要がないということでもある。この機会を有効に使えるかどうかが勝負の分かれ目になる、とリリアナはそう判断した。

(どうする? 弓矢を捨て、大地の霊に請い、壁を創り出す事でカラティンの妖女の進行を阻むか?)

 対神霊用の秘術でもない限り、ただの魔術では神々の呪術抵抗力により無効化されるのは周知の事実である。だがそれは神を直接の対象とした場合に限っての話である。

 対象を特定しない間接的な魔術であるならば、神々とて無効化できずに影響を受けるのを免れ得ないのである。

 とはいえ、何重もの壁を隆起させたところで、稼げる時間など五秒にも満たないであろう。それだけで、リリアナの呪力が枯渇しかねない。

 だがこのまま弓矢を射続けたところで、カラティンの妖女の足を一秒とて止めることが叶わないのは明白だ。ならば……

 リリアナが決断しようとしたそのときには、カラティンの妖女はさっきまで彼女たちが待機していた地点まで差し掛かっていた。そこから森まで十メートルと離れていない。

 これ以上の猶予は許されない。

 リリアナは青い弓を捨て、大地に意識を伸ばそうとしたそのとき、

「かかりましたね!」

 弾んだ声と同時に神無月家の巫女はリリアナの隣に出現した。

 眼下に眼差しを向けて、そこにカラティンの妖女の小さな体を視界に収めるや、佐久耶は呪文を唱える。

「東海の神、名は阿明! 西海の神、名は祝良! 南海の神、名は巨乗! 北海の神、名は愚強! 四海の大神、百鬼を避け、凶災を蕩う! 急々如律令!」

 カラティンの妖女を中心に据えて、大地に白く輝く五芒星(セーマン)が刻まれる。本来は鬼神の侵入を防ぐのが目的の百鬼夜行を避ける呪文、対神霊結界だ。それがいま用途を逆にして、カラティンの妖女の脱出を防ぐ檻として展開される!

「ギギギィィッ!」

 苦悶の声を漏らす魔女神。それを見て、リリアナは驚愕する。

 如何に秘術クラスの魔術とはいえ、よもや『まつろわぬ神』が人間の術を喰らって悲鳴を上げようとは!

 だが、それにしても恐ろしく強大な結界術である。

 先の結界も凄まじかったが、白く輝く障壁は、明らかにそれすら凌駕しているに違いない。カラティンの妖女が今なお結界を破壊出来ずに、捕らわれ続けていることがそれを証明している。

 だがいつまで持つのだろうか。あるいは、永遠に封殺できるのかもしれない。そう思わせるほどに霊的障壁の霊圧は、カラティンの妖女を完全に緊縛していた。

「―――流石にそこまでは持ちません。これは特別性の結界石を五行に見立てて配置し、術を極限まで増幅しているのです。ですから本来はここまでの威力はないのです」 

 佐久耶は苦笑しながら、術理の説明をしてくれた。

「特別性……?」

「はい。禍祓いの巫女の血液を凝固させて、その能力を保持した結界石のことです。五行連環と禍祓いの力によって、御霊封じの結界を二重に増幅しているのです」

 それはただ力技で神を封じている訳ではない、ということであろう。

 先の結界と同じく、白い障壁もまた捕えた『まつろわぬ神』の神力を削ぎ落とし、弱体化させているのである。たださっきと違いカラティンの妖女が結界を破壊出来ないのは、展開した術式事態が高度であるばかりでなく、そこから更に二重に増幅され、極限まで効力が高められているからだ。

 まさに凄絶の言霊に匹敵するか、それ以上の脅威の術と言えよう。

 だが、それにしても禍祓いとは。またしても希少な霊能力の名を聴くとは思わなかった。まさか、神無月佐久耶は幽魂投出に加えて禍祓いの能力まで有しているのか? リリアナは慄きながら神無月家の巫女を見やる。

「わたくしに禍祓いの能力はありません。ですが、神無月家の先祖に禍祓いの能力者がおり、その方が存命中に呪石をお創りになられたと聴いております」

 佐久耶はそう言いながら、あらためて眼下に目を向けた。

 依然、白い障壁はカラティンの妖女の小さい体を収納していた。

 その漆黒の眼差しは、自身が成し遂げた偉大な成功に酔うような熱っぽい光は微塵もない。あるのは、戦況を冷徹に見極めようとする、観察者の冷たい光だ。

 一時間。それが結界の限界時間だと佐久耶は計算した。それで充分だ。それだけあれば、円柱闘技場で行われている決闘にも決着が付いているだろう。

 佐久耶は自らが展開した結界が想定通りに機能し続けることを確信していた。一級の神々ですら脱出が困難なのだ。ならば、三級の神相手に想定外などあり得ない。

 ―――だが、佐久耶は知らなかった。『まつろわぬ神』が強大たらしめているのは、神話において強大な神と謳われたからではない。知名度、信者の数に比例する訳でもない。

 彼らの力の源は、己の欲するところを何を犠牲にしてもでも完遂せんとする意志。即ち、狂気こそが神の強さなのだ。

 そして、こと狂気に関するならば、カラティンの妖女は如何なる一級の狂神にも劣るまい。ましてや、クー・フリンに復讐する意思の強さたるや地球上すべての神々を足してもなお凌駕していよう。

 なぜならば、かの魔女神こそが、その執着心のみで、この物質界にクー・フリンを顕現させしめた張本人なのだから。

 そのカラティンの妖女がクー・フリンを目前にして足踏みするなど、天地が引っくり返ってもあり得ない!

「グー・ブーリンンンンンッッ!!」

 愛にも似た怨嗟の声と同時に、カラティンの妖女から爆発的な呪力が生じる。

 その呪力量たるや常の二倍以上。その呪力が瞬時に衝撃波へと変化し、白き障壁を粉微塵に粉砕する!

「な!?」

 驚愕する神無月家の巫女。

 それは佐久耶にとってあり得ない悪夢のような現実だった。まさかこれ程の力を隠し持っていたとは! 完全に想定外である。三級神などとはとんでもない話である。カラティンの妖女の力は、一級神にも比肩する。

 だがこの期に及んでなお、カラティンの妖女は不遜にも上空で己を見下ろしている不埒者どもには目もくれない。魔女神の目に映るのは、ただひとえにクー・フリンのみである。

 だがそれが佐久耶たちに幸いした。彼女が如何に神を封じる手段を持とうとも、『まつろわぬ神』に本気で襲い掛かられては、ひとたまりもないのである。

 それに佐久耶にはまだ策があった。最後の手段が。

「―――今です。行きなさい、貧狼!」

 その言葉と同時にカラティンの妖女の体が唐突に吹き飛ぶ。

「ギッ!?」

 十メートルほど後方へと弾け飛ばされ、即座に立ち上がりながら困惑気に周りを見るカラティンの妖女。

 魔女神には見えてないのだ。佐久耶の命に応えて、カラティンの妖女に体当たりを敢行した、黒い巨犬の姿を。

「―――追撃を!」

 無論仮初とはいえ主従の絆を結んでいる佐久耶の目には視えている。主命により絶好の機会に備えて待機させられていた黒い巨犬は、主に命じられた通りにカラティンの妖女目掛けて飛び掛かる。

 今度は体当たりではなく、あの細い首を噛み千切るために。佐久耶は虫も殺さぬような可憐な風貌でありながら、躊躇なく残酷極まる命を出す。

 だが、それより早くカラティンの妖女が動く。

「ダガラ邪魔ヲズルナド、言ッデイルダロウッ!」

 叫びに呼応して、全身から毒の霧が噴出する。が、カラティンの妖女には迫りくる黒い巨犬の姿は見えていない。―――だが、そんなコトは自身の前の空間すべてを毒の海に変えてしまえば何の関係をないと言わんばかりに大量の毒の奔流を吐き出す。

 それは先に佐久耶たちを追い散らした毒手とは、速さ、規模ともに比較にならない。凄まじい紫の激流だった。

 黒犬は躱す間もなくあっさりと飲み込まれる。そもそも隠形に特化した黒犬に防ぐ術などない。まして機動力でも上回れたのなら、どうしもようもなかった。結界術の達人たる佐久耶とて、あの規模の術を防ぐ術などありはしない。

 故に佐久耶は歯噛みしてそれを見ることしか出来なかった。毒の激流は黒犬を飲み込んだだけでは飽き足らず、なおも止まらず、森の中にまで雪崩れ込む。たちまちに樹々は腐り果て、赤い大結界にまで到達しぶち当たる。

 だが、結界はビクともしない。それにほっと安堵する佐久耶。想像以上に頑丈らしい。

 黒犬はまだ消滅していない。霊的な経路を通して、苦悶の声が伝わる。それも時間の問題だ。後数秒で完全に消えるだろう。助ける手段はない。だから、佐久耶は躊躇うことなく、経路を切った。

 瞬間、黒い巨犬は息絶える寸前で幽界へと送還された。黒犬はまだ兄に必要なものだ。自分が使い潰す訳にはいかない。

「神無月佐久耶! 一体何が……あの黒犬はどうなりました!」

 リリアナには既に黒犬のことを説明してある。眼下で行われた、黒犬とカラティンの妖女との目に見えない奇怪な攻防も、この聡明な騎士ならば、ある程度把握していても不思議ない。

「あの仔は無事です。ですが重症を負っています。この戦いではもう使えないでしょう」

「……そうですか」

 青い騎士は硬い口調で頷いた。今後の戦いの厳しさを想像しているのだろう。

 改めて話すまでもなく、魔女の直感でリリアナは察しているらしい。佐久耶にはもうカラティンの妖女と有効に戦う手段がないことを。

 そう、佐久耶は使える手はすべて使い切ってしまった。最後の頼みの綱だった黒犬も幽界に還してしまった以上、作戦を根本から変える必要に迫られた。

 だが幸いにして、彼女は次の手を考え付いていた。それは皮肉にも、もうひとりの敵が用意したあるモノを上手く利用することであった。

 佐久耶はリリアナに視線をやると、赤い結界の方へと首を向ける。騎士も眼差しを佐久耶と同じ方角に向けた。

 リリアナは赤い輝きを目に入れた瞬間、深青色の瞳に理解の光が灯り、佐久耶に無言で頷いた。

 やはりリリアナは聡明である。佐久耶は頭のいい人間が好きだ。彼らはわざわざ口に出さなくとも、こちらの伝えたい意図を瞬時に察してくれる。

 だがそれとは逆に、世の中にはどんなに口に出して訴えようとも、全く理解を示してくれない人間もいる。そして、その数のなんと多いことか! 

 その最たるものが宗一郎だ。彼女は兄ほど愚かな人間を見たことがない。アレと同等の馬鹿があと七人もいるのだ。絶対に会いたくないものである。関わるのはひとりで充分だ。

 赤い光を見るだけで背筋が凍りつく不気味な結界。佐久耶はあの赤い結界の形成に、宗一郎が何らかの形で関与していることを確信していた。正直腹立たしくあるが、今はそれを利用させてもらう。

 如何にカラティンの妖女とて、あの大結界を一瞬で解呪することなど叶うまい。必ず足を止めて、結界の解除に集中する筈である。

 故に、そこを狙う。一撃離脱戦法を敢行して、解呪を邪魔し続けることで少しでも時間を稼ぐ。神を倒す力もなく、封印する力も失ったリリアナと佐久耶には、それ以外に術がない。

「今行グゾ、待ッデイロ! グー・ブーリンッ!」

 毒をまき散らし、結界周辺の森を丸裸にすることで、ようやく見えない敵対者が消滅したことを理解したのか、カラティンの妖女がついに行動を開始する。

「く……」

 呻くリリアナ。それを止める術のない佐久耶とて、悔しさを噛み締めながら見ることしかできない。

 佐久耶は今後の戦術行動を脳裏で何パターンもシミュレートしながら、必要な呪術を選択していく。これからはひとつのミスとて許されない。

 緊張して慄く佐久耶とリリアナ。そのとき、不意に佐久耶はどこか遠くの地から謳われる禍き詩の旋律を聴いた気がした。

 

 

 ―――その瞬間、莫大な呪力がカラティンの妖女を覆い尽くす。

 

 

「――!?」

 唖然と佐久耶とリリアナは眼下を見下ろす。そこには、なんと魔女神の小さな体が大地にずぶずぶと沈んでいっていく奇怪な光景を目に映るではないか!

「ギギギ! 何ダゴレバァァッッッ!!」

 驚愕し、憤怒の咆哮を上げるカラティンの妖女。だが、その間にも魔女神の足元の大地が、突如底なし沼と化したかのように、彼女の矮躯を吸い込んでいく。

「巫山戯ナ、ゴンナモノ――!」

 沈みゆくカラティンの妖女の体から膨大な呪力が立ち昇る。呪力を高めて妖しい力に対抗するつもりなのだろう。その呪力量、佐久耶の秘術を破ったときにも匹敵する。

 だが、所詮儚い抵抗に過ぎなかった。それは僅か一瞬大地に堕ちる速度を緩めただけで、カラティンの妖女はもはや声を上げることも出来ず、頭を最後に大地に沈んでいった。

「……」

 唐突な出来事に理解が追い付かず茫然とするしかないリリアナ。だが、佐久耶の霊感は、青い騎士に先だって事態を把握していた。

「大地の神の強壮な神力を感じます……。リリアナさま、何かご存知でしょうか?」

 佐久耶の言葉に、リリアナは驚いたようにはっと顔を上げる。

「大地に神力? ま、まさか、これはプリンセス・アリスのレポートに記載されていた黒王子の第三の権能! では、この近くにアレクサンドルさまが……!?」

 やはり、と佐久耶は得心がいったように頷いた。直感的に『まつろわぬ神』ではないとは考えていた。となれば、消去法でひとつしかない。兄の同胞である。

 ダブリンで神無月宗一郎とまつろわぬクー・フリンとの戦いから有に六時間以上経過している。

 その間、現地の魔術結社から接触が皆無だったのは、裏でタブリンの魔術結社に影響を与えるほどの強大な勢力の意向が反映しているのだろう、と考えていたのだが、どうやら正解だったらしい。

 兄は知るまいが、佐久耶はこの地の隣国に羅刹の君の根城があることを知っていた。そのことが常に頭から離れなかったものの、フェニックス公園での戦いで英国の魔王の不介入で相手の腹の内はある程度読めた。が、ここに来て決定的になった。

 噂通り英国の魔王は、徹底した合理主義者らしい。ここで佐久耶とリリアナを救ったのは、決して善意からではあるまい。

 フェニックス公園の時のように、宗一郎とクー・フリンとの一騎打ちをカラティンの妖女に介入されて、戦局を泥沼化されるのを嫌ったのだろう。

 だからといって、最初から各個撃破を狙っていたにしては、タイミングが良すぎる。あれは明らかに佐久耶たちが万策尽きたと判断した上で、介入したとしか思えない。

 だとすれば、ひねくれ者の評判が真実なら、自陣に取り込んだカラティンの妖女を自身の手で倒さずに、戦局次第で解き放ちかねない。

 赤い結界でどのような戦いが行われているにせよ、出てくるのはひとりのみであろう。

 宗一郎が出てきたならば――そうであると信じているが――その瞬間カラティンの妖女を解き放つ。魔女神は獲物を奪われた復讐に走るか、目的を失い流浪の神に立ち戻り、永遠の旅に出るかもしれない。

 クー・フリンが出てきたならば――そうでないことを祈っているが――推測は容易だ。魔女神は問答無用でクー・フリンに襲い掛かるだろう。

 どちらが出てくるにしても、後は生き残った手負いの敵と戦えばいい。

 論理的思考のもとで構築された現状で最適の戦略である。

 英国の魔王は羅刹の君によく見られる、勇猛果敢に猪突して敵を討滅する猛将ではなく、神算鬼謀を駆使して敵を捕殺する智将なのだろう。変わり種の魔王と言われるのは道理である。

 だが、いまはその英国の魔王の気質が佐久耶たちに有利に働く。

 自分で制御不能な混沌を嫌い、戦況に応じて臨機応変に戦術を切り替えていくということは、宗一郎とクー・フリンの一騎打ちに決着が付くまでカラティンの妖女を捕えたまま、動かないということである。

 それこそが、終始一貫して佐久耶とリリアナが望んでことである。今までの戦いはそのためにあったのだから。

「リリアナさま、わたくしたちはあの結界―――兄さまの元に参りましょう」

 いち早く決断した佐久耶と違って、いまだ驚愕の念が冷めやらないのか、リリアナの反応は鈍い。

「え……は、はい。ですがここはよろしいのですか……?」

 そう言ってリリアナは不安そうの眼下を見やる。

 そのあまりの状況判断の鈍さに苛立ちが募るが、佐久耶は何とか押し留める。いまは揉めている暇はない。

 それに仕方がないのだ。リリアナはこのような超常の戦いの経験が少ないのだろう。西洋でも有数の実力者たる大騎士といえど、常ならぬこの状況で、普段通りの冷静さを保てというのが土台無理な話である。

「……リリアナさま。ここは英国の羅刹の君にお任せいたしましょう。わたくしたちの戦場は別にあります」

 佐久耶の言葉はリリアナの曇っていた理性に再び輝きを灯したらしい。

「――!? そういう事でしたかッ……神無月佐久耶、申し訳ありませんでした。挽回は必ずや戦場で!」

 そう言うと、リリアナは虚空を蹴って赤い結界へと駆けていく。

「……」

 佐久耶は去っていく青い騎士の背を見詰めながら、改めて彼女は善良な人間なのだということに思い至る。

 おそらくリリアナは、英国の魔王が純粋に自分たちに助力してくれたものと考えているのだろう。

 無論、事実は違う。彼は己に有利になり得る戦場を創り上げるためだけに、佐久耶たちに助勢したに過ぎない。戦況次第では英国の魔王こそがもっとも危険な敵と化す。

 そう言っても、聡明なリリアナが魔王の策略を察せられないのは無理もない。そうであるには、青い騎士は高潔であり、純粋であり過ぎた。そう、自分などとは違って、佐久耶は唇を歪めて自嘲した。

 とはいえ、佐久耶は自分の今の有り様に後悔があるわけではない。ただこれまでの人生で必然的に棄ててきたモノをまだ持ち続ける彼女を少し羨ましく思っただけだ。

 佐久耶は己の身に余る大望を叶えるべく、そう成る必要があったのだ。

 兄は途方もない勘違いをしているようだが、神無月家の悲願とは、すべての神々を滅ぼすこと―――などではない。

 当然である。そんな奇想天外かつど阿呆な家訓を掲げる家が何処にあるというのか。

 神無月家とはその歴史を紐解けば、“血筋の系譜”の起源は神祖にまで遡るが、“家系の系譜”の始祖は羅刹の君を戴く家門である。

 そして、現在の神無月家の家風を決定づけたのも始祖たる神殺しであった。

 始祖は神殺しらしい波乱に満ちたその生涯を、寝台ではなく、戦場で散らせた。『まつろわぬ神』に敗北を喫した末の戦死であったようだ。

 だが、あるいは始祖にとっては寝台を友として死ぬよりも、戦場の上で果てた方が満足だったのかもしれない。

 熾烈な闘争の果ての死である。無論、敗北の口惜しさはあっただろう。さぞや無念であったに違いない。それでも、おそらく最期は朗らかに笑いながら逝ったのではあるまいか。

 己の信条に最後まで忠実に従った者のみが許される勇壮な死であった筈である。始祖と同族である神殺しを兄に戴く佐久耶はどうしてかそう思うのである。

 ところが、始祖の死を受け入れることが出来なかった者たちがいた。それが始祖の直系たる神無月家である。

 彼らは始祖を弑し奉った、忌むべき怨敵たる『魔王殺しの神』に復讐を果たすべく、人為的に羅刹の君を鋳造する決定を下した。それから、神無月家は人の歴史の闇の底に潜みつつ、研鑽の歴史を歩んでいった。

 技という技、術という術を磨き上げ、《鬼神使役法》《御霊封じの結界》すら上回る強大な秘術すら組み上げてみせた。加えて、それらを行使する神無月家の術者を強化するために血統操作にまで手を出し始めた。

 その神無月家の技術開発の“最先端”を往くのが神無月宗一郎であり、神無月佐久耶なのである。

 故に、兄が神殺しを成し遂げなければ、佐久耶は次代の“最先端”を鋳造する製造機械としての運命を甘受するしか他になかったであろう。

 只さえ短い生命を無為に消費しなけれならなかったであろう。

 だがしかし、そうはならなかったのである。

 いまや佐久耶は儚く短い己の生涯に大いなる意味を持たせることが出来るのだ。

 一体何人の呪術師が神殺しの戦士の傍らで、その秘術の限りを尽くして仕えることが許されるだろうか。その人類史上最大の偉業を直に目にすることが叶うだろうか。

 神無月佐久耶はそれを許されたのである。

 この新たな運命を授けてくれた兄が望むならば、あのど阿呆な目的に付き合っても構わないし、今なおその来歴が明らかになっていない、神無月家の始祖を弑し奉った魔王殺しの神――このために宗一郎は神話の中に眠っている神々を、すべて叩き起こすことで神無月家の悲願を叶えるという暴論に達したようだ――を探求する冒険の旅にも繰り出すことに否はない。

 そのためならば、この身を超常の戦いに耐え抜くために研磨し精錬し、また独りの無垢なる少女を超常の戦いに引きずり込むこととて厭いはしない。

 故に、リリアナ・クラニチャールはそれでいい。優秀かつ善良で、それでいながら余計な知恵が回り過ぎないからこそ、佐久耶はあの騎士を引き入れたのだから。

 佐久耶はリリアナを深夜の公園で一目見た瞬間、彼女がこの戦いに必要な人物であることが解った。神無月家の巫女には、智慧の神のようなすべてを見通す全知の能力はない。ただ直感的に兄に必要な存在であると感じ取っただけ。

 それがこの戦いだけなのか、これからに亘っての長期的な関係なのかまでは判然としない。

だが、この戦いにおいて、彼女こそが勝利の「鍵」となる人物であることは間違いなかった。それでも、リリアナがどのような役割を果たすのかまでは、解らなかった。

 そう―――今までは。いまや佐久耶は、はっきりとリリアナ・クラニチャールの使い道(、、、)を、見出していた。

 あの大結界の中で兄は絶体絶命の危機に陥っていることを、佐久耶は確信していた。結界の赤い輝きを目視するだけで背に悪寒が過ることがその証明だ。

 ならば、兄を救うにはあの大結界の中に入ることが唯一の道である。リリアナは勿論、佐久耶とてあの大結界を解呪することなど叶わない。が、禍祓いの力を内包した呪石をすべてつぎ込めば、綻びぐらいは造り出せるだろう。人ひとり通り抜けられる穴程度なら、確実だ。

 そこから、ひとりの騎士を王の下へと援軍として派遣する。そうすれば、リリアナは必ずや兄を救ってくれるに違いない。

 そう、リリアナ・クラニチャールに齎される「死」によって、兄は救われるのだ。

 佐久耶は可憐な美貌に薄い笑みを浮かべ、去っていく青い騎士の背をじっと見つめ続けた。

 


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