幼き日の思い出。
今も尚色褪せる事なくシャルの中には残っている。瞼を閉じると……ほら、すぐに見えてくる。
『ハオ~~。ねぇねぇ お願い聞いてぇ! シャルのお願いっ☆』
『OK! ハ~オ・チョップ~! おりゃっ』
『いたぁっ!』
見えてきたかつての映像。鮮明に浮かぶその光景を身体全体で感じながら、シャルは思い返していた。
小さな頃は、充実してなかったと子供ながら感じていた。
それはハオやペルシアと会うより更に前の頃だ。
その頃は シャルがどれだけワガママを言っても、誰も叱ろうとしなかった。身内でさえ 溺愛していたせいか、褒めて伸ばすを貫く、と言えば聞こえが良いかもしれないが、そういった良い具合ではなく、本当に何も叱らなかった。 それが本当に嫌だった。誰も誰もシャル自身を見てくれてない様に感じていたから。
だからこそ、シャルにとって 初めて出会ったハオは本当に特別な存在だった。
たくさん教えてくれた。そして たくさん叱ってくれた。同じ目線で話をしてくれた。毎日が楽しかった。
でも、痛いのは嫌だ。当然嫌。 ぽかっ! と叩かれたら当然痛い。
『もうっ! いきなり何するのよぉ!』
まだ願い事を言ってもないのに、つまりワガママが始まる前にまさかのチョップで止められたから、シャルだろうが誰であろうが、きっと怒ったっていいだろう。傍から見ればとっても理不尽だから。
むっ、と表情をひきつらせたシャルは、精いっぱいの怒りの表情を作る。
因みに、シャルは理不尽な一撃を受けても、素で怒っているわけではなく、頑張って怒った表情を作っているのだ。
ハオの事が愛しくて、いつも傍にいて欲しくて、いつもいつもくっついて欲しくてたまらなかったから。嫌いになんかなれそうになかったから。
そんな気持ちにさせてくれた初めての相手に《怒》の感情を向けるのはなかなか難しいのだ。
『はははっ!』
そんなシャルを余所にハオは笑う。
その笑みの意味が解らないシャルは、首を傾げた。
そして数秒後に笑った意味が、そしてチョップをくれた意味が判った。
それも、教えてくれた。
判ったからこそ、教えてもらえたからこそ――シャルは
場面は早朝、黒犬の寮 ハオの部屋。
朝日と共に目を覚まし、窓を全開に。
「ふぁぁぁ………!」
これが一日の始まりであり、云わばハオのルーティン。と難しっぽくいってみたが、ただ朝日を浴びながら大きく欠伸するだけだが。犬だろうが猫だろうがいつもしている。つまりいつもの光景。
だけど、今日はいつもとは少し違う。非常に珍しい出来事が起きた。
「いやはや、気持ちのいい朝に窓からおはようとは ほんと珍しいな」
窓の外を、朝日を眺めようとしたら、影が割って入ってきた。逆さまに覗く影。それは伸びた木の枝があるからこそ出来る芸当。まるで猫のように 枝を伝ってここまでやってきたみたいだ。
「……ざーんねん。今回のはイケると思ったんだけど、やっぱりハオにはサプライズっていうの効かないわよねぇー」
「うんや。これでも結構ビックリしてる。窓の外に逆さまに覗く顔って、お化けみたいじゃん? 朝なのに。あー ビックリで目ぇ覚めたっと。なー シャル。ん? あ、けっこう久しぶりにシャルの両目見たな~。ってなわけで おはよっ」
「おはよぉ。んー 私はこーんなに近くでハオ見たの久しぶりかもねぇ。………じぃぃ」
ハオの部屋に訪問してきたのは(窓から) シャルだった。
少しばかり珍しい光景ともいえる。これまで シャルと一緒にいる時間は長いと言えるが、それは白猫側での場合だ。黒犬の方にまで乗り込んでくるのは極めて稀だった。
だから、ハオがビックリした、と言うのは強ちウソでもないのだ。顔に出てないようだが。
「どーした?
「……………」
「そーんなにオレの事恋しかったのかなぁ? あっはは~っ ペルシアが嫉妬しちまうぞ~? 確かペルシアと相部屋だったろ??」
「……………………」
「………いや、シャル。マジでどーしたんだ?」
シャルは、最初こそ笑っていたのに、今は笑っているのか、笑っていないのか正直判らない顔をしていた。
「ねぇハオ」
「うん? どした?」
「………聞いてくれる?」
「おう。聞いてるぞ」
シャルは瞼をぎゅっ……と数秒閉じる。
いつも陽気なハオもそんなシャルのいつもとは何処か違った様子に勿論気付いていた。だから、その後は何も口を挟まず、落ち着き話そうとするまで待った。
シャルは、ゆっくりと目を開き、そして言った。
「……
「!」
その日のダリア学園。
いつも破天荒でやりたいほーだい! な所もある学園なんだけど、随分と違った光景があった。
「んん? どーしたんだ、この人だかり」
ハオは、仮
戻ってきてみれば、黒犬だけでなく白犬も含めた異様な人だかりが出来ていた。
取っ組み合いの争いをしている事が常である二つの寮生たち。だが、そんな様子もなく入り混じって集まってたのに疑問が湧いて出たハオ。
丁度 蓮季がいたので聞こうとした所。
「あっ は、ハオ! 大変なんだい 犬塚が……!」
「? あー」
蓮季の青ざめた視線の先には、確かに犬塚がいた。それも四つん這いで這って動く犬塚など非常に珍しく……。
「おー、アレか! 四足歩行に目覚めた?? 寮の名も自分の名も犬だけに」
「違うゾ! フザケナイでくれ! あいつ、あいつを何とかしてくれ!!」
「んん?? ……あー、シャルか」
四つん這いになった犬塚の上に、シャルが座っていたのだ。
周囲の目を明らかに気にしている犬塚は、のろのろ~ と非常にゆっくりと進む。……んだけど、シャルが犬塚の目の前に何か出したら、超スピードで消えてしまった。
「アレはいったい何なんだ!! 今日の犬塚はおかしい! シャルに弱みでも握られてしまったのか!?」
「おー しっかし シャルよく落ちないな? 犬塚の四足歩行。アレ、結構なスピード出てると思うぞ?」
「こっち向けぇぇぇ!」
「ぐええええっ!!」
蓮季はのんびりとしているハオを見て、苛立ちがピークに達したのだろう、襟首掴んで超ゆすられた。ガクガクと前後、左右にぶんぶんと。
「なんだ! あれは!! シャルはお前の嫁だろ!? 嫁なら嫁らしく、空気嫁! くらい言ってこいよぉぉぉぉぉぉ!!」
「あぶぶぶぶぶぶぶぶ、や、やめやめやめやめ――! き、きもぢわるいぃぃぃ!」
ペルシアとはまた違った威力のある揺さぶりは、ハオの脳を盛大にシェイクしてしまい、周囲の風景が歪みに歪んだ。
「まぁ、蓮季の言う分はよーくわかるがよぉ、ハオ。ありゃ何だ? 犬塚の野郎、裏切ってんのか?」
「マジで見損なったぜ……。胸なんかにつられてよぉ(確かに巨乳だが……確かに確かに大きく揺れそうだが) いてぇ!!」
余計な事を考えてそうな黒犬の学生には デコピンっをプレゼントするハオ。
「んん~ いつものシャルの遊び? じゃないか。スコットから犬塚にシフトチェンジ! んでも、らしくないよなぁ、犬塚なら絶対抵抗しそうなんだけど、ああも 懐柔されるなんてな。―――弱味握られちゃったとか? あっ、この間白猫寮登ってた時、まさかじゃないが、シャルの着替え覗いたとか!? ………よし、殴る。オレ、殴ってくるかな」
ゴキリッ! と拳を握りこんで笑顔のハオを見て……、周囲が違う意味で緊迫感に包まれてしまった。何処となく怒っている感じがするから。 ハオはまだ結婚はしていないが、それでもシャルの婚約者だという事は有名な事であり、寮生全員が知っている。勿論黒犬も白猫も分け隔てなく。
ハオの特別性に加えて、どちらかに組している訳でなく、どっちにも馴染んでるハオだから、別段気にしてなかった。
でも、ハオが怒っている姿は 極めて稀だった。
「(そりゃ、自分の嫁さんが他の男と――なんて、なぁ?)」
「(鈍感っぽそーで、お気楽なハオでも怒ったって無理ないか)」
「(犬塚ヤバくね? 前石像振り回してた時以上に ボコボコやられそう……。いい気味だとは思うが)」
「ま、待て! 落ち着けハオっ! 弱味握られてる~ と言うのは同感だが」
周囲でひそひそ話。蓮季だけが 慌てて弁護をしていた。
とりあえず、ハオは 空気を大きく吸い込むと。
「おらーーー! お前らー! 授業始まんだから、とっとと戻れーーー! 仮
一気に吐き出して、全生徒たちを散らした。
蓮季を除いて……。
「ハオ。シャルは ハオが好き。そんなの黒犬の私でもわかる事だゾ。だから……」
何だか蓮季、今度はシャルの弁護をしようとしてた。
それを聞いたハオは、思わずぷっ! と吹き出して 蓮季の両頬を摘まんだ。
「ふみゅ!?」
「はっはっはー おー、柔らかいな。頬っぺたモチモチ」
「な、にゅわにするんひゃ!」
「蓮季もとりあえず戻れって。だーいじょーぶ。いつもの遊びだろ? シャルの気紛れ。ほれ、あーでもせんと みんな戻りそうになかったから、ちょいと、な?」
ハオは、にかっ! と笑って蓮季にウインクした。
偽りの怒気を見せて、シャルと犬塚の空気をハオの怒りで上書きさせて、戻らせたのだ、と蓮季は思ったが、あまり信用はしなかった。他の男に、それもいつもの白猫のメンバーでなく黒犬の、それも犬塚だった。
本当に何も気にしてないのか? と。 ただ、ハオの笑顔は本当にいつも通りの笑顔。この時程読みにくいものは無い、と蓮季は 軽くため息を吐く。
「でもまー、リーダーがアレじゃ黒犬はしばらく荒れそうだなー、面倒な事に。それとなくフォローしといてくれよ」
「……説得力ないゾ。面倒な事=楽しみ!! とか考えてくる癖に」
「ははっ! バレたか。ほーれ、蓮季も行け。内申点下げられるの嫌だろ? しっかりしろよ? ゆーとーせい」
その後、蓮季は戻っていった。
何処かまだ納得しかねる様子だったが、黒犬一の優等生である事は事実だし、それより犬塚を庇わなければならない、と感じたからだ。
ハオが言っていた『黒犬は荒れる』と言う言葉が何よりも響いたから。
ハオは最後の一人である蓮季を見送った後、そっと視線を戻した。
犬塚とシャルが去っていった方に。 楽しそう、だけではなく 何処か少し呆れ気味な所もある顔だった。
「とりあえず こんなもん、かなー。まったく、ほんと今日は一段と世話の掛かるシャルだ。(………どっか懐かしい気もするけどなぁ)」