カルデアに召喚されてから、一年。
この一年、セイバー……アルトリア・ペンドラゴンは、人理修復のために剣を振るってきた。
信頼に足る良きマスターと出会い、過去の傑物達と肩を並べることでようやく対抗出来る相手。そんな常軌を逸した相手を前に、誰一人諦めず、全ての特異点を修正することが出来たのはきっと、マスターのおかげだろう。
まだ二十にも満たない少年が生傷を体中に作り、人の業を見せつけられ、大切な人達を失い続け……それでも、立ち上がり続け。最終的に人理修復、グランドオーダーを成し遂げた。
その背中はいつか、彼女が愛した誰かとよく似ていて。
「……」
人理焼却時には見られなかった、眩しい夜明け。積雪が降り注ぐ日差しを反射させ、平和の訪れを感じさせる。
アルトリアは、カルデアがあるその山頂から一人、昇る太陽を見つめていた。
(長く……この空を見ていなかったような気がします)
特異点を修正して回る中で、夜明けなど幾らでも見てきた。だがあの光輪によって、不自然なほど眩しい青空を、アルトリアは好きになれなかった。
例え曇り空であったとしても、あの光輪がない空の方がいい……そうマスターが言っていたが、その通りだとアルトリアは思う。今頃寝ているだろうマスターは、どんな夢を見ているのだろうか、と考えて。
今はもう、元マスターだと気づいた。
「……まだこの空を見ていたかったのですが」
籠手の先から、徐々に溶けるように体の輪郭がほどけていく。鎧、聖剣が消え失せ、群青色の騎士服だけを身に纏っている。
……とても、良い一年だった。正しいことを、為すべきことを為せた。迷わなかったことが無かったわけではない。けれど、マスターが居たから。こうして戦場ではなく、夜明けの光に照らされて消えられる。
本来アルトリアは英霊の座に存在しない英霊だ。あとはアヴァロンに辿り着けば、二度と英霊として召喚されることはない。
寂しさが無いといえば嘘になる。それでも此度の生に後悔はない。後悔があったとするのなら、それは。
同じ夜明けの光を浴びた中。
想いを告げた彼と、同じ歩幅で歩けなかったことでーーーー。
「……」
彼はどうしているだろう。
アルトリアは彼より先に旅立ってしまい、その行く末を見届けることが出来なかった。
目を離せばすぐ駆け出して、誰かの前で体を張って。そうして死にそうになっても、それで良いのだと言える誰か。
彼女は剣で、彼は鞘だ。
だからこそ鞘である彼が、剣であるアルトリアを失ってしまったら、どうなってしまうのか。その余白を埋めるために行うだろう、あの自己犠牲の先に何が待つのか、考えなかったわけではない。
けれど。
「ええーーーーそれでも、あなたはその果てに至っても、苦しくても。後悔なんてしない」
結局、何も変わらない。
これは泡沫の夢が余りに楽しかったから、それが脳裏に焼き付いて、離れてないだけのこと。
あの輝かしい日々が夢であったとしても、何度夢から覚めたとしてもーー忘れることは決してないと、アルトリアは確信していた。
そしてそれは今回も同じ。
それだけ大事な、愛しい日々があった。
それでも、消えることに満足感すらある。
守り抜いた世界が、こんなにも美しいからだろうか?
それもあるが、理由は違う気がする。一体、どうしてだろうか。
と、そのときだった。
「お待ちください、王よ!」
山頂に響く、臣下の声。アルトリアが振り返ると、そこにはベディヴィエールが息を切らして立っていた。
まさに雪のような鎧と、銀髪の出で立ちをした彼は、厳密には彼女の知るベディヴィエールとは異なる。だが、彼はあの最期のときと変わらず、泣きそうな顔で、こちらを見ている。
正直に言えば、まいった。
そんな顔をされてしまったら、どんな顔をすれば良いのか、分からない。
「確かに人理修復を為され、我々サーヴァントがこの現世に留まる理由はありません。がしかし、何も一人で、人知れず消えずとも良いではないですか……」
生前、アルトリアを看取ったのはベディヴィエールだ。聖剣を返還させ、そうして眠りについたアルトリアを見送ったのが彼だった。
だが目の前のベディヴィエールは、王の最期を見送ることが出来なかった。そして1500年という年月、旅を続けた。
だから、こう言っているのだろう。
今度こそーー王を看取らせてほしい、と。
アルトリアは微笑む。ああ、それはまるでーー泣くのを必死に我慢した表情のまま、別離したあの彼と。本当によく似ていたから。
「早いか遅いかの違いですよ、ベディヴィエール。そして私は、それを選んだ。それだけです」
「ですが! 今あなたが消えれば……マスターが、悲しみます」
マスター……うん、確かにそうだ。マスターはよく笑うし、よく泣くし、よく悲しむ。自分が消えたらきっと、わんわん泣いて、悲しむのかもしれない。
でも、それが正しいのだ。
元よりこれは生の続きなどではない、夢の続き。夢には、どうしたって儚い終わりが来てしまう。
……一人で消えようしたのは、確かに拙速が過ぎたかもしれないが。しかし消えるのだから、仕方ない。
「サー・ベディヴィエール」
「……はっ」
アルトリアの一声で、それまで泣いていた臣下は、ぴたりと騎士に戻った。目の前で傅いた彼を見下ろし、
「貴公は第二の生において、剣を捧げるべき相手を見つけ、その銀腕を振るわんと誓った。違うか?」
「はい。……その通りです、王よ」
「ならばその忠節に従うがいい。ここに残り、その道程を側から見守ることこそ、貴公の忠道。
サー・ベディヴィエール、菫色の銀騎士よ。私は貴公に残酷な運命を押し付けた。それでもまだ、私を王と呼び、円卓の騎士としていてくれたこと。あなたには感謝しています、ベディヴィエール。昔も今も、あなたは誉れ高き騎士です」
「はいっ……ありがたきお言葉、感謝します、王よ……っ」
これからベディヴィエールは、マスターと共に歩んでいく。しかしその未来にも終わりが来る。けれどその終わりは避けられない。だからこそ、それまではこの騎士が、あのマスターを守り抜くに違いない。
不意に、アルトリアの視界が霞む。
いよいよ五感が崩れ始めた。足の感覚が一気に欠け、指先もふわりと雪のように落ちていく。
と、
「王よ、これを」
ベディヴィエールが何かを差し出す。
何かと思い、視界すらままならない状況で目を凝らし、はっとなる。
それは……赤い、マフラーにも似た、織物だった。
「そのような格好で旅をされては、体だけでなく、心も冷えてしまいます。だから、これを。王はこれから、長き旅に出るのですから」
「……これを、何処で?」
「先程エミヤ殿から。これを身に付ければ、旅路は安泰だと」
……あの弓兵は。今頃遠くからこちらを見ているだろう、不器用な彼に苦笑い。こういうところは変わらないのだから、ズルいなと思ってしまう。
と、アルトリアは気付いた。
「旅路? 彼がそう言っていたのですか?」
「? ええ。恐らく長い旅路の途中だろうから、これがあればと……私にもよく分かりませんが、エミヤ殿がそう言うのであれば正しいのかと思っていましたが、違うのですか?」
ベディヴィエールの問いに首を振る。
一体何のことだろう。旅路と言っても、このようなイレギュラーが二度も起こるハズがない。なら、あとはアヴァロンに辿り着くだけ。一本道だ、そこまで遠いわけでもない。
彼は、何が遠いとーー?
ーーそれは難しいな。そもそも君達の時間は、絶望的にズレている。
「……ああ」
思い出した。
思い出してしまった。
ーー普通にやったらまず出会えない。実現するには、まあなんていうか、二つの奇跡が必要だ。一方が待ち続けて、一方が追い続ける。
違った。違ったのだ。
自分はもう、辿り着いていた。
あの、アヴァロンに。
ーーそれもあり得ないと確信しながら、酷く長い時間耐え抜かないといけない。それはほら。言いにくいけど、望むべきではない夢物語だろう?
そこで、自分はとある人を待ち続けるハズだった。
それは叶わない願いだった。星に願いごとをして、その場でずっと祈り続けるだけのこと。
それでもいい。
その温かな、ささやかな望みさえあれば。
アーサー王という人物が、世界から人々から、幻想から、消え去るその日まで。未来永劫誰かの訪れを待ち、眠りについても良いと。
それを叶える力は誰にもない。
あるとしたら、正真正銘奇跡だけだった。
だが人理焼却によって、その僅かな可能性すら消え失せた。だから花の魔術師の手を借りて、アルトリアはカルデアの召喚に応じたのだ。
彼が生きていく世界を、いつか辿り着くと信じる彼の未来を、切り開くために。
ーーでも、それが本当にいい事なのかはまた別の話だ。
アルトリア。時代も人も変わっている。あの頃のままなのは君だけだ。
夢は夢のままの方が美しい。君はこのまま、死んだように眠っている方が楽でいい。
それでもーー。
そんな、かつて選定の剣の前で、滅びを口にしたように。魔術師はあくまで未来を見て告げたのだ。
それでも行くのかと。
それを成し遂げても、彼がここに来れず、徒労に終わる可能性だってあるのに、と。
……そして成し遂げ、契約は完了した。アルトリアが一人で消えるのは、当たり前のことだった。だってこれは、本当の意味で夢だったのだから。
「……だとしても、何も記憶を消さなくても良いでしょうに……」
「王、何か?」
「いいえ、何もありませんよベディヴィエール卿。あの魔術師はちっとも懲りてないなと、そう思っただけです」
ベディヴィエールから赤いマフラーを受け取り、首に巻く。丁寧に編まれたそれは、まるで最初からそこにあったように、アルトリアの心を満たしていく。
少女の髪が、ほどける。明星のような長い金髪は、光に溶け、アルトリアという少女の服装も騎士のモノではなく、既に別のモノに変わっていた。
白く質素な、年頃の少女が着るようなドレス。それに愚直なまでに赤いマフラーを身に付け、彼女は。
「マスターに伝えてください。契約は完了した、そしてあなた方に感謝を。これで私はまた彼を待つことが出来る……それは流れ星に願うような夢ですが、眠ればいつか見られる日が来ると、信じています」
ベディヴィエールも王の変化を察し、傅いたまま答える。
「……はい。では、よい夢を。次は、あなたの望む夢が訪れることを」
微かに笑い、アルトリアは消滅に身を任せる。
訪れる夢は決まっている。だって、
「ーーーー大丈夫ですよ、ベディヴィエール。今度の眠りは、少し、永くーーーー」
ゆっくりと眠るように。
瞳を閉じたと同時に、彼女は朝靄に消えていった。
「……」
騎士は何も言わなかった。
泣くことすらなかった。
ただ最期に見せた、王の安らかな表情だけが、その目には朝焼けと同じように染み入っていた。
騎士王がどんな夢を望んだのかは、ベディヴィエールには分からない。けれどきっと、その夢は王が笑ったまま、ありのままでいられる夢なのだと、知っている。
「ーーーー見ているのですか、アーサー王」
少女が消えた先に、少女と同じ雄大な空が広がっている。
この空が何処に繋がっていくのか、ベディヴィエールには計り知れない。
「夢の、続きをーーーー」
だから騎士は願うのだ。
どうか、かの王に安らぎを、と。
そして。
それを弓兵は、カルデア施設内の廊下から見ていた。
「……全く、相変わらずの石頭だな。言いたいことだけ言って帰るとは。一応マフラーとて、投影品ではなく自前なんだがね。礼も無しとは」
あとで彼女が居なくなったことに泣きじゃくるマスターを考え、嘆息する。あやす自分の身にもなってほしいとひとりごちてみたが、湧き上がる寂寥感はいつまでも消えてくれない。
何だか負けた気分になって、ふん、と鼻息を荒くして背を向ける。いつもより歩幅が大きいのは、多分アレだ。苛立ってるのだ。決して嬉しいとかではなく。
「待っている……ね」
セイバーの言葉を思い出して、またふん、と鼻を鳴らす。そして、
「追い付いてやるさ、すぐな」
剣士は去り、弓兵は残る。
道は今も違えたまま。
けれど、前を見れば待っている人が居る。
目標があるだけまだマシだな、と弓兵はニヒルに笑った。
赤い外灯を翻し、また歩き続ける。
その歩き続ける一秒が、いつか。
永遠を越えていくと信じて。
ベディがアヴァロンから出れたなら、アルトリアさんだって出れるじゃないというかなり強引なアレ。
ラスエピに至るまでこんなことあるんじゃないかなというSSでした。