気が付けば草原にいた。
空は青く、白い雲が流れ、太陽の光が降り注いでいる。
肌を撫で髪をさらう風は穏やかで、踏みしめた大地を覆う草花は瑞々しく健康的だ。
私はその場でしゃがみこむと、そっと地面に手をついた。象牙のように白く繊細な指の先、真珠のような色艶の爪。その先で土をえぐり、匂いを嗅ぐ。
匂いがある。嗅覚が機能している。そのことに驚いて、私は声を出した。
「ああ、これはもしかして本当の土の匂いかしら?」
自身の口からこぼれ出た声に、またも驚く。聞きなれた自分の声ではなかったからだ。
そこで、ようやく私は自分の身体を見渡した。
メイド服と呼ばれる格好。スカートは長く装飾は質素。
頭に手をやれば、豊かに巻いた薄い金色の髪の上にホワイトブリムがのっていた。
「ビヨンデッタ……?」
私のこぼした名前は、『
遊ぶ側=プレイヤーとして演じていたわけではない。仕事として、NPCにプログラム外の行動をさせるために入り込んでいたのだ。
指で顔をなぞる。
自分の本来の肉体では、絶対にありえないような素晴らしい手触り。物語の中などで、上質な絹のよう、あるいは濃厚なミルクのよう、などと例えられる肌とは、このようなものではないだろうか。
視覚・聴覚による情報は、バーチャル空間で比較的容易に手に入る。しかし、触覚や嗅覚(味覚)はなかなかそうもいかない。
さして裕福でもない私が、今までに触れたこともない感触。それに気をよくして、顔を、手足を、服の下に納まった柔らかな肢体を撫でまわす。
今の私の姿を他人が見たならば、一体どう思うことだろう。そんな心配すらも気にならなかった。
現実の私など、連日の長時間残業でチューブ食ばかりの食生活。身だしなみに気を遣っている余裕などなく、最低限なんとか清潔感だけは維持しなくては……といったレベルのありさまだったのだから。
――出来ることなら、今すぐ鏡を見てみたい。
そうやってあちらこちらに触れていて気付いたのだが、どうやらこのビヨンデッタには表情がある。それも私の考えたとおり、思った通りの表情が浮かぶようだ。
ユグドラシルにはなかった仕様である。先ほど土の匂いが感じられたことと合わせて考えると、どうもおかしなことになっているとしか思えない。
「戻れない?」
どんな操作をしようとしても、ゲーム運営の他の誰かに連絡しようとしても、何の反応もない。
「夢……?」
いくつか浮かび上がった可能性の中から、私は自身の現在の状況をそう判断した。
過労かなにかで職務中に倒れ、今は夢でも見ているのだろうと。それなら、この不可解な状態もありえる。
「楽しい」
スキップするだけで、景色が飛ぶように後ろへ流れてゆく。今の私は風よりも速い。
夢の中で、「これは夢」と理解する体験は初めてだが、これはなかなか素晴らしいものだ。
現実の私ではあり得ない能力、あり得ない速さ。土に足を付けず、草を踏みつけず、空気を蹴って草原を駆け抜ける。
駆けるといっても、ゼエゼエ、ハアハアと息が乱れるようなこともない。軽やかにスカートをひるがえし、優雅に髪をたなびかせて、そんなイメージだ。
他人から見た自分が今どんな風なのか分からないが、ユグドラシルで見て知っていたビヨンデッタの外見ならば、何をしていたってさまになるはず。
向かい風とは別に、横合いから風が吹いてきた。飛ばされないように、と私は頭上のホワイトブリムを手でおさえる。
そういえば、このNPCのビヨンデッタとしての姿のデザインは、ホワイトブリムというプレイヤーからの寄贈によるものだったはず。漫画家だと聞いたけれど、こんな夢を見せてくれたことに感謝を込めて、一度くらいは読んでみようか。
「楽しい。嬉しい! ……なにかしら?」
遠くに黒く立ち上る煙が見え、嗅ぎなれない臭いが鼻を刺激する。
ビヨンデッタは鼻が良いらしい。設定を考えればありえることだけれど、ゲームの中ではそんな描写は全くなかった。嗅覚のないゲームなのだから当然だけれど。
何があるのだろう。私はその煙に向かって歩き始めた。
風に乗ってたどり着いた煙の下では、何軒もの家が燃えて黒い残骸になっていて、人の死体がいくつも転がっていた。おいしそうな匂い。
不思議なことに、怖いという気持ちはなかった。気持ち悪いとも思わなかった。なぜか知らないけれど。
「イベントかしら? それともギルドの戦争?」
これは夢だというのに、ついついゲームの中のことに当てはめてしまう。遊ぶ側ではなかったけれど、それでも人生の半分は付き合って来たゲームなのだ、思い入れはある。
夢の中ぐらい、もっとキラキラと輝いていてくれてもと思いもするが――。
「空が青いだけで十分」
現実と比べれば、なんてことはない。ここはとても美しい。地面の上が汚れていても、空はまだまだ綺麗だ。
しばらく空を見た後、また土の上に視線を落とす。人の死体がいくつも転がっていた。おいしそうな匂い。
「葬儀ってやったことないけれど、たしかこれで自然なはず。そういうお葬式もあるって聞いたことがあるのよね」
ちょっとした言い訳をして、私は転がる彼ら彼女らを綺麗にすることにした。
いいでしょう。夢の中なのだから。
<さばえなすかみ>
スカートの裾をつまんでゆるりと一回転。食いしん坊な子供たちが、どこからともなく湧き出てくる。
ゲームの中では、堅い前衛職にはなかなか歯が立たない彼らだけれど、ここの掃除くらいはしてくれるでしょう。羽音をたてて喜ぶ彼らにそっと一言。
「おねがいね」
村――で良かったのだろうか。焼け落ちた小さな家々の間から、そこに暮らしていた人々の肉も骨も消えてなくなった。
確認はしていないけれど、きっと飛び散っていた血の一滴までも綺麗にしてくれたことだろう。
ビヨンデッタは綺麗好きなのだ。私はそこまででもないけれど。
「これからどうしようね?」
掃除を終えた彼らにそうたずねてみたけれど、思わしい返事はない。数はあまたの食いしん坊たちだけれど、頭はあまり良くないらしい。
役に立ちそうにないので、彼らはそのまま何処にでも行きなさいと遠くに追い払った。一匹でもブンブンとちょっとうるさいのに、それが数え切れないほどになるとたまったものではない。
ユグドラシルの設定では、通常のモンスターとして出現する彼らはビヨンデッタが生み出しては放している者たちとなっていたはずだからこれでいい。
しかし――夢から覚める気配が一向にない。
「どうしよう」
ここが夢の中だから時間を長く感じているのか、それとも現実でもどっぷりと眠りこけているのか。
前者ならいいけれど、後者だった場合が怖い。
何と言っても、私がこの夢の中に来る前で覚えている最後の場面は、『
最終日にログインして、お別れのイベントに来てくれたプレイヤーさん達と一緒に、カウントダウンして「10、9、8、7、6、5、みなさんありがとー!」叫んだところまで。
起きました。次の仕事はなんですか? 寝ぼけやがって、片付けもしねー起きもしねー、お前の仕事なんぞもうねーから。なんてこともあるかもしれない。
「痛くない」
古典的だが、ほおをつねってみた。
痛くない。やはり夢らしい。
念のために、落ちていた包丁らしきものをつねってみた。
千切れた。やはり夢らしい。
これが夢であることを再確認した私は、とりあえず歩くことにした。ただただ立っていても仕方がない。
幸いなことに、今の私はビヨンデッタ。魔王のいくつかある姿のひとつ。
何があってもたぶん平気。そう思えば、少しは気が楽になる。どうせ夢だけれど。
「あ……もしかして」
他の姿にもなれるのだろうか。猫に犬に、カエルにラクダ、豹にハエにクモ、巨人にライオン、エトセトラ。
ああ、変われそう――変われた。
でも――。
「やっぱり、ビヨンデッタが一番みたい」
私の精神の安定のためには、人間の形が一番いい。可愛いと美人の中間、どちらも兼ね備えた15歳ほどの少女の姿。
夢から覚める前に、鏡が欲しい。ゲームの仕様上無表情だったから、たまのイベントで中に入ってもいつも変わらなかった。けれど、今なら、この夢の中でなら自分の顔として笑顔を作ることができそうなのに。
四本脚で駆けたり、子供たちのように翅で飛んだりすれば、もっとずっと速いのだろうけれどもっとずっと、今はそれほど急いでいない。
夢から覚める方法も分からないし、夢の中で向かうところもない。
「また、煙」
焼き討ち皆殺しプレイが流行っているのか、なんなのか。なんとなく進んだ先で、また燃えている村を見つけた。
ただ、今度は燃えさしだったさっきと違って、炎まで見える。悲鳴も聞こえる。おいしそうな死の匂い。
私の脚は、知らぬ間に豹のそれに変わっていた。
私の中の食欲が、大きく、大きく。胃の中で無数の蛇がのたうち回っていた。
たどり着いた村の中は、人の感覚で言えば惨状だったのだろう。私にとってはごちそうの山でしかないけれど。
「なん、だ……?」村の中に足を踏み入れると、金属製の鎧を着た前衛職らしき男が声をかけてきた。
この夢の中で生きた人間(たぶん人間種)に会うのは初めてだけれど、やはりちゃんと表情があるようだ。
「お前、この村の娘か?」
そう言いながら、にじり寄って来る男の手に剣はない。武器は鞘に仕舞ったまま、私を捕まえようとでもしているのか手を左右に広げている。
「いいえ、通りすがりのただの労働者です。煙が見えたので、なにかあったのではないかと思いまして」
「そうか、そいつは運がない……。いや、運がいい。俺のな」
男は私の両肩を掴んで押さえると、そのまま物陰に引きずり込もうとしてくる。
声を上げない私を見て、「楽しまなきゃ、もったいねえ」と舌を舐める顔は、色欲でギラついていた。
「あっ、ああっ……、ああ!」
ああいった行為は違反なので、キャラクターを削除。強要などもってのほかだけれど、合意であってもユグドラシル内では禁止です。
ここは私の夢の中だけれど。なんとなく後ろめたいのか、ちょっと理由を付けてしまった。
ライオンの舌が伸び、口の周りについた血潮を舐めとる。ビヨンデッタの姿のままだとちょっと時間がかかってしまうから、ここは大きな口の姿の出番。
大きなネコ科の耳をピクピクとさせると、村の真ん中の方からたくさんの声が聞こえてくる。お腹の中の男は、仲間はずれで1人端っこの方を歩き回っていたらしい。
私は再び精神衛生の為、ビヨンデッタの姿に戻る。やはり人間らしい恰好をするというのは大事なことだ。
ロクに身体も洗えない会社に泊まり込みとか冗談じゃない。今日は0時のサービス終了までお仕事。そこから片付けの残業。次の日の仕事は定時でゴー! やってられるか!!
村の中央へと向かうビヨンデッタな私の綺麗な顔には、それに似つかわしくない憤怒が浮かんでいたかもしれない。
「化け物」
「悪魔……なのか?」
村人らしき人々を取り囲み、順に殺していたと思われる鎧の男たちが、私に向かってそう言った。
とっても失礼。そっちのやってることも、ロクなことには見えやしない。
ちょっと怒ってしまってけれど、今はビヨンデッタの姿のままだ。基本的に――。
ただちょっと、右の肩から黒い猫、左の肩から黒蛙、スカートの中がクモの脚になっているだけ。
人間種には見えないだろうけど、異形種の中に混じれば人間の顔と上半身があるだけで美人な部類のはず。
「ぬぁーーーーーー」と肩の上の猫が長く鳴いた。
みんな、死んだ。
この村の周辺に生きている者はいない。私以外は誰も。
喧嘩両成敗。争うことは悪いこと。悪いことをする人は殺してもいい。争い合う人たちに死を。
今の私は人間じゃないので関係ないけれど。人間って大変だ。
巻き込まれた植物や動物や虫は可哀そうだったけれど、あの猫の声は、それが届く範囲に無差別で即死効果なのでどうしようもなかったとあきらめて欲しい。
肩の上のカエルが満足そうに「げぇ」と鳴いた。
村の中は綺麗になっていた。長い舌って便利だと思う。
空腹感が紛れたので、私は村を出て歩き出す。
行く先のあてはない。目が覚める気配もない。
「あれ……?」
星明りの下、目的もなくあちらへこちらへと進んでいると、ある方向から呼ばれたような気がした。
意識を紐でくすぐられたような、おかしな気持ち。
なんとなく、GMとしての仕事でコールされた時のことを思いだした。
夢の中でまで仕事、仕事とイヤになる。でも、行くあてのない迷子状態であることを考えれば、どこに行っても同じと言えば同じこと。
私はそのなんとなくの感覚に従い、風に乗って飛び上がった。
空間を跳躍する。
2
<
藁人形に着弾した火球が爆裂し、目標を完全に粉砕した。
モモンガはそれに「完璧だ」と満足感のこもったつぶやきをこぼす。
自身の力が、魔法が、ユグドラシルで身に着け磨いた能力が確かにこの手にあると実感していたのだ。
藁人形をもっと用意するべきかと聞いてくるアウラに断りを入れ、モモンガは次の実験に取り掛かった。
<
連絡する相手は、まずはGM。自身の精神から糸のようなものが伸び、目標とする相手がいるのかどうかを探す奇妙な感覚が続く。
――ダメか。
しばらく続くそのなんとも言い難い感覚が、そろそろ終わりそうだ。そんな予感があった。
失望がモモンガの心に落ちる。
次にかつての仲間たち。半ば、いや9割9分繋がらないだろうと思いながらの<
徒労感、喪失感、虚無感。何とも言い難い、よく慣れた、慣れてしまった感情がモモンガの心によせては返し、消えて行った。
その次はセバス。異常事態に際し、危険な探索任務を与えたNPCに<
苦も無く繋がった。GMにも、仲間にもつながらなかった魔法が。
『モモンガ様!』
「どうした?」
『少々お待ちを――地表部にビヨンデッタを名乗る方が訪ねていらっしゃいましたが、いかがいたしましょう?』
「ビヨンデッタ……? ん? ビヨンデッタ!?」
ビヨンデッタとは、とあるプレイヤーの寄贈により美少女メイド外装を与えられたNPCの名前である。それによって、彼女は急激に人気者となった。
その正体は、どこぞの凶悪な魔王なのだが……。プレイヤーたちは見た目だけで判断した。ゲームなのだから、と。
モモンガもまた、見た目がどうこうとは別の理由でそれなりに知っているNPCでもあったのだ。
『どうかなさいましたか? あちらは、ご自身の役職をゲームマスターと仰っていますが……』
「な! 通じた……ということか?」
どうする。マズイか? いや、しかし……。
モモンガの中で、様々な思考が渦巻く。
ビヨンデッタの正体は、『暴食』の魔王。
ユグドラシルの能力がそのまま通用すると分かっている今、あんなものの前に出るのは危険すぎる。ワールドアイテムも通用しない相手だ。
しかし、GMということなら接触したい。
そこで、モモンガはハッとなった。
ビヨンデッタには、感知範囲内での戦闘行動に反応してアクティブになる性質があったはず――。
「セバス、絶対にそいつに手を出すなよ。周辺での戦闘も厳禁だ。絶対の絶対だぞ!」
『モモンガ様、それは〝フリ〟というものでございますか?』
主が言葉にしない意を汲んで動く。それも執事たるものの務め。
セバスがそう考えている可能性はある。
「違う! 余計な気を回すな!」
深夜テンション
単体でナザリック全軍を相手にできそうなキャラクターとなると、ワールドエネミー辺りかなって